|呪|滅|の|言|霊|

第五話 光る姫の甘い


「いざ、私のもとへ……」

     ■□■

「なあ、にーちゃん。ふたつの目より、よっつの目。ふたつの耳より、よっつの耳、だぜ?」
 古びた椅子の上へ勢いよくズダ袋を降ろした青年に、ロップ少年が飛び跳ねていたベッドの上から身を乗り出してそう言ったのは、ホラッドタウンに到着した夜のことだった。
 青年は凍てついた蒼い瞳を伏せたまま、何も言葉を発そうとはしない。
 しかし、少年はかまわず続けた。
「にーちゃんの旅の目的は、捜し物なんだろ? だったら、このロップ様を使えよ。そりゃオレは、マイロタウンから外に出たのは初めてだけど、あの史上最悪な街で生まれ育ったんだ。ちょっとやそっとのことには動じないし、ヘマもしない。前にも言ったけど、オレ、ホントに役に立つんだぜ?」
 まるで役者にでもなったかのように拳を握りしめて力説した少年だったが、相変わらず青年の反応は皆無だった。
「にーちゃん!」
 少年の叫びに、ようやく青年が顔を上げた――と思ったのだが、彼の瞳は少年を映さず、壁に掛かっていた時計に向かった。
 そして。
「……ガキは寝る時間だ」
「なっ、何だとお!!」
 パイナップル頭を必要以上に逆立てて、少年はベッドから飛び降りた。
 彼の短い生涯の中で、これほどまでに虚仮にされたことはない。
「にーちゃん! オレがここまで言ってやってんのに!」
 その時、突如、視界が暗転した。
 青年が少年の顔に枕を押しつけたのだ。
 そのままベッドに押し戻され、情けなくも少年は再びベッドの上の人となった。
「オレは下のバーに居る。オレが戻るまでに寝てなかったら――」
 戸口に立った青年は、問答無用で部屋の明かりを消した。
「おまえの布団は砂漠の砂だぞ」


 青年たちが一夜の宿に定めたのは、ホラッドタウンの外れにある、一階が酒場兼食堂、二階と三階が客室という、ごくありふれた宿だった。
 青年が酒場に下りると、夜もかなり更けていることもあって、数人の客がいるだけだった。
 マスターの好みなのか、途切れることなくピアノの音が流れている。
 黒で統一されたインテリアは、場末の酒場にしては落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
 青年はカウンター席に着くと、バーテンにイグリウスを注文した。
「久しぶりにイグリウスのご注文をいただきましたよ」
 優男風のバーテンはにこりと微笑むと、棚の奥から黒い瓶を取り出した。
 イグリウスは大陸の南の地方で生まれた酒で、一般的にはチョイパーと呼ばれる親指大の高さのグラスに入れて呑むのだが、現地の男たちはジョッキで一気呑みが当たり前だった。
 トウモロコシを原料とし、かなり度数が高いうえにクセがあることから敬遠する酒豪も多い。
「どうぞ」
 滑らされたチョイパーの中の酒は、美しい琥珀色をしていた。
 ガラスのようにスライスされた氷が縁に突き立っているのも、舌を冷やしてから呑むイグリウスならではだった。
 青年は氷を口に放り込むと、間を空けず、チョイパーを呷った。
 喉が焼け付くような感覚が心地良い。
 青年の飲みっぷりに微笑を浮かべたバーテンが二杯目を注ぎ入れようとした時、突然、騒々しい音とともに酒場の扉が開かれた。
「大丈夫だって言っているでしょう!? 私のことは放っておいて!」
 背後に向かって声を抑えつつも怒りを隠さない剣幕を発しているのは、漆黒の艶やかな髪を腰まで伸ばした若い女だった。
 正面を向いた顔は思わず息を呑むほど美しく、実際にその場にいた男たちの視線はすべてそこに集中していた。
 彼女はつかつかとカウンターの方へ歩を進めると、席はたくさん空いているにもかかわらず、青年のすぐ隣の席へ腰を下ろした。
 彼女が身に纏っている香水が微かではあるが鼻先を掠め、青年は不快げに眉根を寄せた。
 その時、再び扉が開く。
「だっだけど……」
 そう言っておずおずと入ってきたのは、前者の連れとはとても思えない巨漢だった。
 身の丈は優に二メートルを越え、肩幅は扉のそれよりも広い。
 胸板はドラム缶並にあり、どの筋肉も必要以上に盛り上がっていた。
 外見だけならどんな輩も退けそうな男の瞳は、しかし、常に何かに怯える兎のようにおどおどとした光をたたえていた。
 そんな彼に、再び女が言葉を叩きつける。
「私はもう籠の鳥はまっぴらなの! なぜ私ばかり! そんなにあの人の機嫌を害したくないなら、私がここに居ることを告げ口するがいいわ!」
 女の憎しみのこもった視線をまともに受け止めた大男は、今にも泣き出しそうな表情を浮かべると、背を丸め、大人しく酒場から出て行った。
 静まり返った酒場の中に、女の溜息だけが響き渡る。
「……いらっしゃいませ。何になさいますか?」
 遠慮がちにかけられたバーテンの声に、女ははっとしたように顔を上げた。
「あ、えっと……」
 困惑したように彷徨っていた彼女の視線が、ふいに青年のチョイパーに留まった。
「それ……美味しいですか?」
 突然の問いかけに青年は内心で目を見開いたが、表向きにはポーカーフェイスを装った。
「……オレは好きだ」
 途端、バーテンが困ったように首を傾げる。
 イグリウスは、それと知らずに呑む酒ではない。
 見るからに酒に関して無知な女に対して、青年の回答はあまりにも不親切だと思ったのだ。
 しばらくチョイパーの琥珀色を凝視していた女は、思い切ったように口を開いた。
「じゃあ……すいません、これと同じものを」
「かなりきついお酒になりますが……」
「かまいません。今日は思い切り酔いたい気分なんです」
 せっかくのバーテンの忠告を断ると、女は再び溜息をついた。
 青年はそれに再び眉根を寄せると、酒杯を呷り、席を立った。
 隣で立て続けに溜息をつかれるほど鬱陶しいものはない。
「旨かった」
 チョイパーの中へ紙幣を丸め入れた青年に、彼の内心を察したかのようにバーテンが頷きを返す。
 自分がやってきてすぐに席を立った青年に、隣の女は何か言いたげに彼を見上げたが、口に出しては何も言わなかった。
 バーテンが前に置いてくれたチョイパーに手を伸ばす。
「――あ、この辺りに斡旋所はあるか……」
 扉に向かっていた青年がふと足を止めて振り返った時、突然、女が悲鳴を上げた。
「ちょっ……かはッ。ごほっごほっ。な、何なの……このお酒……ごほっごほっ」
 途端、居合わせた客たちが失笑する。
 青年は呆れ返った表情でもとの椅子の方へ歩いていくと、まだ半分以上も残っていた彼女の酒を飲み干した。
「この人の忠告を無視したのは、おまえだろうが」
 チョイパーをカウンターに叩きつけるように置くと、青年は女を睨み付けた。
 酒場にはそれぞれの酒場の雰囲気や礼儀というものがある。
 扉をくぐった時点でそれが読めないような輩に、その場所へ居続ける権利はない。
「だって……ごほっ……私とあまり年齢の違わないあなたが呑んでいたから、私も呑めるかと、ごほっ……」
「おまえ、馬鹿か」
 その声には明らかに蔑む響きがあり、女は容易に目くじらを立てた。
「な、何ですって!? 初対面の女性に向かって『バカ』はないんじゃないかしら!!」
「男だろうと女だろうと、馬鹿は馬鹿だ」
 青年に一言のもとに切り伏せられ、女は思わず言葉に詰まった。
 その間に、青年は何事もなかったかのように、バーテンへ顔を向ける。
「この辺りに仕事の斡旋所はあるか?」
「え、ええ。この先の角を曲がったところに。さすがにもう閉まってますが、明日の朝七時には開店ですよ。まあ、朝はすごく込みますけど」
 青年は頷いて礼を言うと、再び踵を返した。
 その背に女の声が追いすがる。
「ちょ、ちょっと、待ちなさいよ……!」
 立ち上がり、出口へ行きかけた女の背に、今度はバーテンの声が追いすがった。
「お、お客様! 申し訳ありませんが、お代の方を……」
「えっ、あっ、っと――」
 慌てたように鞄の中を探っていた女は、はっとして青年の消えた戸口を睨み付けた。
「私のお酒を勝手に呑んで! あなたがお代払いなさいよ!」
 しかし、無論、青年が戻ってくることはなかった。

     ■□■

 宿の外に出た青年は、ぽつぽつと立ち並ぶガス灯の下に沿って歩みを進めた。
 時折、明かりのついた酒場から派手な笑声が聞こえてくる以外、辺りは静まり返っていた。
 周りを肥沃な大地に囲まれているせいか、ホラッドタウンの住人たちはその人柄が誠実なことで知られている。
 大半が周辺の畑で農業を営んでおり、したがってこの時間、騒いでいるのは、十中八九、流れ者だった。
「ここか……」
 青年は角地に建っている一件の店の前までやって来ると、ショーウィンドウに無秩序に貼られたビラに目を通した。
 それには、短期の仕事の募集の内容と賃金が書かれてある。
 世に流れる者が多いせいか、こういった仕事の斡旋所は、町に大抵ひとつは存在し、彼らの良い小銭稼ぎの場となっていた。
 運が良ければ、仕事によって一攫千金も夢ではない。
 が、今は運が悪かったらしい。
 青年の凍てついた蒼い瞳が、不機嫌そうに細められる。
 そこに貼られたビラには、人捜しや物探し、収穫の人夫や届け物といった、時間がかかる割にはあまり儲からないものしかなかった。
「どうせなら、マイロタウンで探すべきだったな……」
 そう独りごちた時、彼の背後で人の気配がした。
 振り向くと、石畳の上に黒い人影がある。
 先ほどの酒場にいた馬鹿女だった。
「やっと見付けたわよ!」
 女は美しい顔をしかめると、青年に詰め寄った。
「あんなお酒を女性に勧めた上にバカ呼ばわりまでして! 酒代よこしなさい!」
 青年はわずかに天を仰いだ。
(つくづくの馬鹿だな……)
 しかし、口に出しては何も言わない。
 これ以上、馬鹿に関わるほど、青年も酔狂ではない。
 女を無視して、再び夜道を歩き始めた。
 そんな彼を、女はしつこく追いかけてくる。
「何で無視するのよ! 待ちなさいよ!」
「………」
「ちょっと、待てって言ってるじゃない!」
 いい加減、うんざりした青年が振り返ろうとした瞬間、通りに女の派手な悲鳴が響き渡った。
 そして、振り返った青年の瞳に映ったのは、地面に思い切り倒れ込んだ女の姿だった。
「いったあーい……」
 足から履いていたサンダルが外れている。
 どうやら石畳の隙間に細いヒールが挟まったらしい。
「……救いようのない馬鹿だな」
 唾棄するように言う青年を、女は負けじと下から睨み付けた。
「バカバカうるさいわね。だいたいあなたが無視するから――痛っ……!!」
 ふいに女の顔が激痛に歪む。
 ただ転んだだけでなく、足首を痛めたらしい。
「オレはおまえのことを知らないし、知りたいとも思わない。早いとこあの大男に迎えに来てもらえ。平和な町にもチンピラぐらいはいる」
 言うなり立ち去ろうとする青年を、女は呆然と見つめた。
 女の――それもかなりの美人として通っている――自分に怪我をさせて放置していく人間など、今までにひとりとしていなかった。
「ちょっと、あなた……!!」
 その時だった。
「おいおい、にーちゃん。女相手にひでえことするじゃねえか」
 しゃっくりとともにそう言い放ったのは、近くの酒場で呑んでいたらしい男たちだった。
 どうやら女の悲鳴を聞きつけて、店から出て来たらしい。
 五、六人の男たちが青年の前に立ちはだかる。
「かわいそうに、べっぴんさん、怪我してるじゃねえか」
「知ったことか」
「じゃあ、オレたちがもらって行っても文句はねえな?」
「好きにすればいいだろう」
 面倒くさそうに言うと、青年は再び歩き出した。
「というわけで、ねえちゃん、オレたちが手当てしてやるからよ」
 男のひとりが下卑た笑みを浮かべるのを見て、女は震え上がった。
 咄嗟に手元にあったサンダルを掴む。
 が、それが投げつけられたのは酔っぱらいたちではなく、去りゆく青年の後頭部だった。
「この人でなし!!」
 衝撃を受けた部分を押さえようともせず、青年はゆっくりと振り返った。
 凍てついた蒼い瞳が酔っぱらいに向かう。
 それが紅く変わることはなかったが、彼を包む空気が紅くなるのを、男たちの脳は酒に浸かりながらも理解した。
「オ、オオオ、オレたちじゃねえぞ!」
「わかってる。だから、失せろ」
 それに気圧されて、誰かが足を一歩引いた。
 それが連鎖反応を招き、酔っぱらいたちはあっさりと酒場に逃げ戻っていった。
 残された青年と女の間を冷たい風が吹き抜ける。
「……なぜオレに付きまとう?」
 すると、女は黒い瞳で青年を睨み付けた。
「付きまとう!? 勘違いしないでよ! 私はお金を返してもらいに来ただけよ! バカ呼ばわりした挙げ句、人のお酒を勝手に呑むなんて!」
 それを聞いて、青年はしばらくの間、女を見つめていたが、ふと不審げな表情を浮かべると、夜気に耳を澄ませた。
「な、何なのよ……」
 女が訝しげに青年を見ると、彼は再び彼女に視線を戻した。
「おまえ……」
「え?」
「――いや、何でもない」
 青年はそばに落ちていた女のサンダルを拾うと、紐の部分に紙幣を絡め、彼女に向かって放り投げた。
「これで用はないだろ」
 しかし、女は再び青年を呼び止めた。
「か、帰り道が……帰り道がわからない!」
 青年は今度こそ天を仰いだ。
「天然記念物並の馬鹿だな」

     ■□■

 翌日、ロップ少年が目を覚ますと、隣のベッドはもぬけの殻だった。
 それ以前に、使った跡も見られない。
「にーちゃん……?」
 眠い目をこすりながら、少年は洗面所に向かったが、そこにもシャワー室にも青年の姿はなかった。
「兄ちゃ……にーちゃん!?」
 一瞬で自分の危機的状況を悟ると、少年は裸足のまま、部屋から飛び出した。
「オレ……オレ、置いて行かれた!?」
 しかし、次の瞬間、少年の足は急停止した。
 階段の下で、青年が気怠そうに首を回しているのが見えたのだ。
「な、なんだ……。そうだよな、オレ、ちゃんと寝たもんな。よかった……」
 朝から脱力した少年が踵を返そうとした時、ふと青年の横に若い女がいることに気付いた。
「誰だろ……」
 少年は小首を傾げると、そのまま青年のもとへ向かった。
「にーちゃん、おはよー」
 しかし、青年は呆れたように表情を歪めた。
「おまえ……なんだ、その頭」
「えー? 立ってるのはいつものことだろ」
 少年が逆立った髪の毛に手をやると、青年の横にいた女が表情を輝かせて少年の顔を覗き込んできた。
「この子、あなたの弟!? あんまり……というか、全然似てないわね」
「当たり前だ。オレに弟なんかいない」
 青年は鬱陶しげに言うと、再び少年を見下ろした。
「ロップ、そのフザけた頭をどうにかしてこい」
 寝ている間に天辺を枕にでも押しつけていたものか、少年のパイナップル頭は右半分だけが逆立ち、左半分は水平に項垂れているという有様だった。
「ふふふ、おもしろい髪をしてるわね」
「……ねーちゃん、だれ?」
 少年の問いを受けて、女は一瞬の沈黙の後、突然、青年の腕に自分の腕をからめた。
「さあ、誰でしょう?」
「売女?」
 即座に返された答えが、あどけない少年の口から発せられてもよい言葉ではなかったので、女は瞬きした。
「……今、何て?」
「だからぁ――」
 その時、突然、青年が小さく噴き出した。
 少年は青年が噴き出したことに驚いたが、女はまたしても不当な扱いを受けたことに遅まきながら気付いて憤慨した。
「あなたたち、いったい私をなんだと思っているのよ! 昨日から、まったく不愉快この上ないわ!!」
「ご、ごめん、ごめん。冗談だよ」
 本当は笑った青年の顔を見たかったのだが、女に胸ぐらを掴まれたので、少年は慌てて視線を戻した。
「じゃあ……恋人?」
 自分で言った言葉に、少年は「あっ!」と手を打った。
「にーちゃんの探し物って、もしかしてこの人だったの!?」
 少年が青年を見上げると、青年は女の腕を振り払い、階段を昇り始めた。
「そんなわけあるか」
「……じゃあ、この人、だれなのさ?」
 それに答えたのは、女本人だった。
「名前はアイラ。昨日の夜、そこのバーで会って、彼に失礼されたの」
「失礼? どんな?」
 その時、頭上から青年の声が降ってきた。
「ロップ、エンジンはもうかかっているからな」
「ええっ!?」
 少年は飛び上がると、女の答えを待たず、階段を駆け上った。
 青年が荷物を持ってサンドバイクに跨るまでに、少年は身繕いと荷造りをしなければならないのだ。
 しかし、その途中でふと後頭部に視線を感じ、少年は困ったように足を止めて振り返った。
「ねーちゃん、にーちゃんの失礼、オレから謝るよ。じゃあね!」
 そして今度こそ、部屋の扉に突進した。


「《光る姫アイラ》……」
 横合いからかけられた弱々しい声に、女は不機嫌そうに眉根を寄せた。
「遅いわよ、リリィ=ドーン。どこに行っていたの?」
「ア、アイラこそ、昨日の夜はどこに泊まったんだい? オレ、すごく捜したんだ……」
 不安げな巨漢を一瞥すると、女は溜息をついた。
「馬鹿女をやっていたのよ。茶番劇に付き合わせて悪かったわ」
 女は寄りかかっていた階段の手すりから身を起こすと、宿の入口に向かった。
「さあ、あの人のところへ案内して。今、どこにいるの?」
 女のほっそりした影と大男の見かけだけは大きな影は、開かれた扉から朝靄の中へ静かに消えていった。

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