|呪|滅|の|言|霊|

第一話 浪の青年


 ゴーラン砂漠最西のオアシス『煉獄の果てメダラジカ』は、夜になって再び生命を吹き返した。
 満月が夜空にかかる頃、人々は酒場に集まり、酒杯を酌み交わした。
 表で踊りや珍しい芸をする者もいる。
 あまりの暑さに昼は控えていた商売を再開する者もいる。
『煉獄の果て』は交易路の途上にあった。


「よっ、そこの兄ちゃん、ちょっと見てってよ。イイ物そろってるよ」
 しかし、露天商人に声をかけられた青年は、それに一瞥もくれず、前を通り過ぎた。
 商人の罵声が彼の背にぶつけられる。
 昔は足を止めることもあったが、いつ頃からかそんなこともしなくなっていた。
 青年が一軒の宿屋に入ろうとした時、ふいに横合いから腕を掴まれた。
 振り向くと、派手な服を着た若い女が彼に微笑みかけてきた。
「そこは満室よ。アタシの宿に来なよ。美味しいお酒もあるしさ」
 他の宿の前で客引きをするのはルール違反のはずだが、女の態度は堂々としている。
 既に常習になっているようだった。
 特に泊まるところにこだわりがあったわけではない。
 青年は小さく吐息すると、女に導かれるまま、踵を返した。
「アタシはカナンよ。おにいさんは?」
 その問いを、青年は先程の露天商人同様、無視した。
 一娼婦に名乗る名など、持ち合わせていなかった。
「なあに、教えてくれてもいいじゃない。それとも、ワケあり?」
 しつこい彼女に、青年は凍てついた蒼い瞳を向けた。
「娼婦が客のことを根ほり葉ほり訊いてもいいのか?」
 その言葉にカナンは目を瞬かせ、そして笑った。
「あら、言ってくれるじゃない」
 ひっぱたかれるかと思ったのに、彼女は気を悪くした様子など微塵もなく、それどころか『煉獄の果て』の面白い話を次々と語ってみせた。
「さーて、着いたわよ」
 煉瓦造りの一軒家の前で、カナンはようやく立ち止まった。
 その先に、もはや建物は見当たらない。
「ゴーラン砂漠最西のオアシスは『煉獄の果てメダラジカ』じゃなくてウチよ」
 自慢げに言う彼女に、青年は眉を顰めた。
「……ここは、宿か?」
「そうよ?」
「普通の民家にしか見えんが」
 窓に蝋燭のか細い明かりが見えるだけで表に照明はなく、看板も出ていない。
 他の女たちや客の声もせず、辺りは静まりかえっていた。
「だって、民家だもの。娼婦がひとりしかいないんだから、部屋が五つも六つもあったって仕方がないでしょ」
 カナンはそう言うと、鍵を開けて家の中に入った。
「すぐに食事の支度をするわ。あなたは裏の湖で水浴びでもしてて」
 普通の妓館ならひとりの客に二、三人の女がついて至れり尽くせりなのだが、ひとりしかいないのでそうはいかない。
 青年は荷を入れたズダ袋を長椅子の上に置くと、今度は裏口から外に出た。
 と、青年は僅かに目を見張った。
 目の前に広がった『煉獄の果て』の湖ファラメスが、月の光を受けて宝石のように輝いていたのだ。
 カナンの家が隣家と離れているうえ、食事時ということもあって、人影はほとんどなかった。
 遠くに子連れの女が水辺を散歩しているぐらいである。
 青年は木立に囲まれた岩場で服を脱ぐと、水に足を踏み入れた。
 体温にほど近い水温が、汗と砂にまみれた身体に心地いい。
 胸の辺りまで水が来たところで、青年は湖の中へ身を沈めた。
 薄暗い水底で膝を抱えると、聞こえるのは自分の心臓の音だけだった。
(早く、止めなければ……)
 突然、脳裏で紅い血が撥ねる。
 人間の頭や腕や胴体や足が、音を立てて地面に落ち、そして消えていく。
(一刻も早く……)
 息が続かなくなって再び水面に顔を出した時、背後で砂を踏む音がした。
 振り返ると、波打ち際にトレーを持ったカナンが立っていた。
「食前酒を持ってきたわ」
 青年が岩場に戻ると、彼女はグラスに赤い液体をそそいだ。
「何の酒だ?」
 都合よく窪んだ岩に腰かけると、差し出されたグラスを取りながら、青年はカナンに尋ねた。
 葡萄酒よりも色が紫がかっている。
「柘榴酒よ」
「ザクロ?」
「知らない? ゲンコツくらいの大きさの木の実よ。割ったら中にルビーみたいな粒がいっぱい詰まってるの」
「知らん。……ちょっと甘いな」
「あら、思ったより大人ね」
 青年が顔をしかめると、カナンはくすくすと笑い、立ち上がった。
「食事の支度ができたわ。気が済んだら戻ってきて」
 しばらくの間、青年は家に戻っていく彼女の背を見ていたが、すぐに柘榴酒を飲み干すと、水から上がった。

     ■□■

「さーあ、召し上がれ」
 カナンが用意した食事は、実に豪勢だった。
 湖で獲れたばかりの魚の包み焼き、干し葡萄の薄焼きパン、肉団子の入った野菜スープ、生野菜と海老のサラダには唐辛子の入ったタレがかけてあった。
 他に鶏肉の煮込み、じゃがいもととうもろこしの重ね煮などもある。
 テーブルの端には、食後のためにフルーツの盛られた皿が控えていた。
煉獄の果てメダラジカ』は砂漠の中にあるが、隣のマイロタウンとはサンドバイクでも一日半の距離しか離れておらず、比較的新鮮な食糧が手に入るのだった。
「……旨い」
「でしょう!」
 青年の素直な感想に、カナンは満面の笑みで声を上げた。
「料理の腕にはちょっと自信があるのよ」
 言いながら、空いた皿にまた料理を取り分ける彼女を、青年はじっと見つめた。
 それに気付いて、カナンが首を傾げる。
「なあに?」
「――いや、あんたさ……」
 その時、凄まじい音がして入口の扉が開いた。
 あまりの勢いに、風圧で玄関横の飾り棚の物が床に落ちたほどである。
 その戸口には、ひとりの男が肩を怒らせて立っていた。
 カナンには見知った男だったようで、僅かに眉を顰めた。
「なんなの、いったい……」
「カナン、てめえ!」
 男は二人のところへやって来るなり料理の並ぶ食卓を拳で叩いた。
「またウチの客を横取りしやがったな!」
 カナンが軽く首を竦めるのを見て、男はいっそう声を張り上げた。
「親父が何も言わないからってイイ気になりやがって! 今度やりやがったら、『煉獄の果て』に居られなくしてやるぞ!」
「……いいじゃない、ひとりくらい。あんたンとこ、繁盛してんだからさあ」
「黙れ、この売女が!」
 青年に娼婦と言われても笑い飛ばしたカナンである。
 男のわめきにも平然としていたが、次の言葉に表情が凍りついた。
「イーロンは死んでよかったよなあ。最愛の女が男を取っ替え引っ替えしてるのを見なくてすんだんだから。せっかく生きて帰ってきても、これじゃあなあ。――ああ、案外、おまえのやってること知って、他の場所に行っちまったのかもなあ」
 突如、男の顔で肉団子が炸裂し、スープの飛沫が辺りに飛び散った。
「あつっ!!」
 男は顔を手で押さえると、もだえながらカナンを睨み付けた。
「カナン、てめえ!!」
「あの人はまだ死んだって決まってない! 今に帰って来るんだからあ!!」
 女に向かって振り上げられた手は、しかし、振り下ろされることはなかった。
 席に座っていたはずの青年がいつの間にか男の背後に回り込み、その手首を掴んだのだ。
「てめえ、邪魔する気か!」
「……それはこっちのセリフだ」
 砂漠の長旅で、久しぶりにまともな食卓にありつけたというのに、青年の胃に収まるはずの料理は、今や卓上や床に散乱している有様だった。
「オレはオレの意志でこっちに来たんだ。それをあんたにとやかく言われる筋合いはない」
「なっ何だと!? この野郎、離せ!!」
 取り戻した手首が赤くなっているのを見て、男は一瞬、憤怒の表情を浮かべたが、すぐに口元に下卑た笑みを浮かべた。
「へっ、兄ちゃん。こんな年増相手にしなくても、この『煉獄の果て』にはもっと若くてイイ女がいるぜ? なんなら紹介してやろうか……」
 と、男は眉根を寄せた。
 青年の凍てついた蒼い瞳が一瞬、紅く光ったように見えたのだ。
 その青年が、ふっと笑う。
「……あんた、どうやったらこの場から消えてくれる?」
「なに?」
「あんたの大切な店が火事にでもなったら、か?」
「はあ?」
 男が訝しげな表情で青年を見返した時、表で叫び声が上がった。
「火事だあ!!」
 三人の間に、妙な沈黙が走る。
 しかし、再び危急を告げる声が上がり、青年以外の二人は表に飛び出した。
 すると、彼方の男の店から夜空に黒い煙が立ち上り、客たちが悲鳴を上げながら表に飛び出して来るのが見えた。
「う、嘘だろ。親父……!」
 その後、男は意味を成さない言葉を発しながら、店の方へと飛んでいった。
 が、煙の量は多かったものの、火事はそれほど大したものではなかったらしい。
 湖が近いこともあって火はすぐに消し止められ、厨房の一部を失っただけで大事にならずにすんだようだった。
 しばらくの間、呆然と騒ぎを見つめていたカナンだが、ふいに振り返って戸口にもたれかかっている青年を見た。
 その表情はとても厳しく、出会ってからの陽気な雰囲気は欠片もなかった。
「おにいさん、あなた、まさか……」
「腹が減った」
 彼女の問いを避けるように家の中に入ってしまった青年を、カナンは急いで追った。
 戸口から数歩入ったところで、彼の腕を捕らえ、再び尋ねる。
「あなた、言霊師、なの……?」
 しかし、青年はカナンを一瞥しただけで、それに答えようとはしなかった。
 その代わり、ひとつ溜息をつくと、腰を屈めた。
「……なんで最初に否定しなかったんだ?」
「え……?」
 青年が再び起き上がった時、彼の手の中にはガラスに亀裂の入った写真立てが握られていた。
「娼婦なんかじゃないって」
 飾られた写真の中で、カナンとひとりの男が幸せそうに笑っている。
 それを見て、カナンも溜息をついた。
「……やってることは、娼婦と同じだもの」
 受け取った写真立てを元の飾り棚の上へ戻した途端、彼女は喉の奥でくつくつと笑い出した。
「アタシも相当マヌケね。恋人の見てる前で男を引っ張り込むなんて……」
 涙に滲んだ声が、静まりかえった室内に響く。
「イーロンとアタシね、結婚の約束をしたの。でも、誰も祝福してくれなくて、この町に逃げてきた」
 カナンの指が、写真の中のイーロンをなどる。
「でも、ここもアタシたちを歓迎してはくれなかったわ。すぐに食べるのに困るようになって……ある日、イーロンがチラシを持って帰って来たの。バイロフが傭兵を募集してるって……」
「バイロフ……」
 青年の呟きに、カナンは小さく笑った。
「バカなひと。銃だって握ったこともないのに……」
「なんで行かせた?」
 無惨な食卓から葡萄酒のグラスだけを取って、青年は長椅子に座った。
 彼の問いにカナンは首を振った。
「……わからないわ。というより、彼は帰ってくるって、疑いもしなかった。……バカなのはアタシね」
 それから青年のもとにやって来ると、その前に両膝を着いた。
「ねえ、今度はあなたが答える番よ。おにいさん、言霊師なんでしょ?」
 青年はじっと彼女を見つめた後、凍てついた蒼い瞳を伏せた。
「だったら何だ」
 カナンはそれを肯定の言葉と解し、顔をほころばせた。
「言霊師が言った言葉は、真実になるんだよね? じゃあさ、言ってくれない? あの人は生きてるって。必ずここに帰ってくるって」
 しかし。
「それは無理だ」
 あっさりと否定されて、女はいきり立った。
「な……なんで!? あなたまで彼はもう死んでるって言うつもりなの!?」
「違う。そうじゃない」
「じゃあ……!」
 縋りついてくる女を、青年は鬱陶しそうに押し戻した。
「……オレは、闇の言霊師だ」
「え、闇……?」
 首を傾げるカナンの耳を、青年の抑揚のない声が打つ。
「オレの言葉は、ひとの生命を奪うだけだ。光を与えることは無い」
「そ、そんな……」
 最後の希望の糸を断ち切られ、カナンはどこまでも沈んでいくような溜息をつくと、ゆっくりと立ち上がった。
 再び食卓に座ると、突然手づかみで料理を食べ始めた。
 その肩が震えているのを見て取って、青年も彼女の向かいに座ると、同じように手を使って食べ始めた。
「やっぱり旨い」
「フフ……ありがと」
 カナンが涙と食べ物で汚れた顔で、嬉しそうに微笑む。
「……ねえ、なんでアタシのこと娼婦じゃないって思ったの?」
 おもむろに放たれた質問に、青年は首を軽く竦めた。
「娼婦が手料理なんか用意して男漁りになんか出かけない」
 言いながら、手布で手を拭い、空いたグラスに葡萄酒を注ぐ。
「あんたは一緒に夕食を食べてくれる人を捜してただけだ。その相手と寝るのは、イーロンを待つために生きるためだ。こんな町で女がひとり生きていくには、それしか方法がない」
 途端、カナンの顔から笑みが消えた。
「そんなこと、言ってもらったの初めてよ……」
 涙がこぼれそうになるのを堪えると、カナンは再び青年の前に立った。
「ねえ、アタシを抱いて」

     ■□■

 青年がぼんやりと剥がれかけた天井を見つめていると、隣でカナンが寝返りを打った。
 白い背中が剥き出しになり、それに毛布をかけてやる。
「ん……寝ないの?」
 気怠げにこちらを見上げる女の髪に、青年は指を埋めた。
「寝るさ……」
 しかし、一向に綴じる気配のない彼の瞳に、カナンは自分が映るよう半身を起こした。
「ねえ、お願いがあるの」
 青年が彼女を見上げると、カナンはなぜか困ったように笑った。
「もう一度、アタシを抱いて」
 おそらく彼が眉を顰めるのを予期していたのだろう。
「これが最後よ。アタシが果てたら、あなたの言霊をちょうだい」
「……なに?」
 いっそう表情を険しくする青年に、カナンは小さく首を振ってみせた。
「本当はわかってるのよ。彼はもう生きてないって」
 抱えた膝に顔を埋める。
「……言霊師じゃなくても、言葉に力を与えることがあるんだぞ?」
 しかし、青年の言葉は嘲笑をもって返された。
「もうないわよ! 七年……七年よ!? もう、ないわよ……」
 青年は溜息をつくと、カナンの白い肩を掴み、枕の上に押し倒した。
「わかった。いいだろう。人間はいつかは死ぬ。それが今夜でも同じことだ」
 それを聞いて、カナンが笑う。
「あなたは不思議な人ね。アタシを励ましてくれたかと思ったら、生命を奪うことを拒もうともしない」
「あんたこそ。恋人を、生きてると言ったり死んだと言ったり」
「フフ、そうね。……ねえ、もうひとつ、お願いがあったわ」
「この宿は、客をコキ使うのか?」
 カナンはげんなりとする青年の頬を宥めるように撫でた。
「あら、あなたは得したのよ? 美しい湖での水浴びに、美味しい料理、美しい女。この上お代が要らないんだから」
 青年は笑った。
 女も笑った。
 ひとしきり笑い合った後、今夜何度目かの口づけを交わす。
「……アタシが死んだら、あなたの名前を教えて」
「わかった」
 青年の凍てついた蒼い瞳が紅く光る。
「永遠に、幸せな夢を」
 そして、青年は彼女の豊かな胸に顔を埋めた。


「オレの名は、カグラ。父殺しの罪を背負う、闇の言霊師だ」
 暁の頃、青年の歪んだ声を、カナンは幸せそうに聴いていた。

inserted by FC2 system