The story of Cipherail ― 第五章 双頭の鷹


     6

「父上からの書状では、王太子殿下は着実に快方へ向かわれているとのことだ。延期になっていた即位の儀も、新年祭に執り行うことに決まったらしい。ひと月もあれば、王太子殿下の体調もご病臥以前に戻られるだろう」
 アイオールの報告を聞いて、筵の上に座していたイスフェルは深く息を吐き出した。それが白くならないのは、暖流が回遊しているベイハール海沿岸の気候ならではだった。さすがに石造りの部屋は夜ともなると冷え始めたが、それでも長袖一枚で十分だった。
「良かった……。本当に、良かった……」
「とりあえずはひと安心というところですね」
 アイオールに同行してきたシールズも、同様に胸を撫で下ろした。
「ああ……いや、だが、ミール様を退けようと企んでいた輩どもは?」
 イスフェルの視線を受けて、腕を組んで鉄格子に寄りかかっていたアイオールは、そのまま軽く首を竦めた。
「王太子殿下が目覚めた今、否やを唱えられる者など誰もいやしない。――もっとも、父上は、引き際が良すぎてかえって不気味だと」
「……どちらにしろ、油断はできぬということか。国王となられた後も、ずっと」
 亡きイージェント王も、若い頃には再三、王位争いにその身を翻弄されたという。そのつらい宿命は、息子であるコートミールにも受け継がれてしまったようだ。
「そうです。そのためにも――幼い陛下をお守りするためにも、イスフェル殿には一日も早く王都へ戻っていただき、そして冤罪を晴らしていただきたい」
 亡き国王からイスフェル追捕隊の長を任されたシールズの決意は、仲間の仇討ちと、そして恩人たる不明の上将軍ゼオラのために、並々ならぬものがある。ツァーレンでやっと対面したイスフェルを、襲撃者のためにあと一歩のところで逸した。だが、イスフェルの新たなる護送先となったテイランへは、その到着にあまり日を置かず駆けつけた。途中、王都へ向かう領主と出くわさなければ、すぐにでもイスフェルを王都へ連れて行きたかった彼である。
「シールズ殿。何度も申し上げていますが、冤罪を晴らしたとて、アスフィールが王弟殿下に剣を向けた事実は変わりませんよ」
「わかっています。デルケイス様がイスフェル殿をここへお残しになった理由も。ですから私は、亡き陛下からお預かりした追捕隊の長としての権限を行使しないのですよ。しかし、このまま手を拱いていては……」
 シールズほど焦ってはいなかったが、イスフェルもまた、いつ自分の審議を始めてもらえるかと内心で気を揉んでいた。だが、それは少なくともひと月以上先のことになるだろう。新国王が即位し、落ち着いた頃合いを見て、伯父デルケイスは会議の議題にイスフェルのことを挙げるはずだ。その時を、辛抱強く待つしかない。
「お、やっぱりここにいやがった」
 明るい声がして三人が顔を上げると、留置房の廊下の先にアリオスとラスティンが姿を現した。彼らより先にやって来た狼たちが、廊下にいるアイオールとシールズの匂いを嗅ぎ回る。
「何の用だ」
 アイオールはあからさまに眉根を寄せたが、アリオスは気にも止めぬ様子で口を開いた。
「毎度毎度すみませんが、城を出る許可をいただきたいんですがね」
「毎度毎度そんなどこに出かけるというんだ」
 すると、アリオスはニヤニヤと笑みを浮かべた。
「あれー。あんたの町はそんなにつまんねぇとこだったっけか? だいたい今日はれっきとした仕事だぜ」
「仕事だと?」
 胡散臭げなアイオールの前で、アリオスは大仰に胸を張った。
「あんたの奥方とセフィが孤児院に行くんだ。オレたちはその護衛ってわけさ」
 途端、目を剥いたアイオールである。
「おまえたちが護衛だと!? ライヤを殺す気か!!」
 愛妻家で知られる彼の狼狽振りは、見事なものだった。それもそのはず、天真爛漫な彼女のことを、アイオールは苦労して苦労してやっと手に入れたのだ。まだ結婚して一年も経っていないというのに、どこの馬の骨とも知れぬ輩に護衛など任せておけるはずもない。
「孤児院に兵隊ぞろぞろ連れていくわけにいかねぇだろうが」
「そもそも何で孤児院になど!」
 凄まじい勢いで責められたアリオスは、仰け反りながらイスフェルに助けを求めた。それに苦笑すると、イスフェルは彼に代わってアイオールに説明してやった。だが、アイオールの怒りはさらに燃え上がっただけだった。
「あの娘は何を考えているんだ! 自分が生命を狙われているのを本当にわかっているのか!? 今すぐやめさせろ! いや、私が直接行く!」
 駆け去ろうとするアイオールを、イスフェルは慌てて呼び止めた。
「セフィは今、テイランに慣れようと必死なんだ。大目に見てやってくれ」
「馬鹿言え! そのせいで大切な兵士たちが死んだらどうするんだっ」
「それだ。スプラ師はまだ現役か?」
 急な話題の転換にアイオールは目を瞬かせ、そして嫌そうに顔を歪めた。
「馬鹿を言うな。あの爺さんが引退する時は、すなわちこの世を引退する時ということだ」
「……つまり、現役なんだな」
 馬鹿を言えと言ったり言うなと言ったり、アイオールの動揺振りはイスフェルの目にも珍しいものだった。
「イスフェル、スプラ師って誰?」
 ここへ来てようやくラスティンの声を聞いたと思ったのは、イスフェルの気のせいではないはずだった。
「オレたちの剣の師匠だ。どうだ、二人とも。テイランに着いてからは剣の稽古をしていないのだろう? せっかく良い筋をしているのだし、彼のもとへ通っては?」
「じょ、冗談だろっ」
 努力というものは自分には似合わないと信じて疑わないアリオスが、ぎょっとして身を引く。その横でアリオス同様に後ずさったのは、取って返してきたアイオールだった。
「そうとも、アスフィール。こやつらがあの鬼師匠の鍛練に付いていけるとはとても思えん」
 それに目くじらを立てるアリオスを笑いながら、イスフェルは沈黙しているラスティンを見た。
「ラスティンはどう思う?」
「え? うーん……イスフェルが言ってくれてるってことは、それが最善だからなんだろうけど、オレ、これでも鍛練は続けてるよ? 時々ここの兵士たちに稽古つけてもらってるんだ」
「そうだったのか」
 すると、アイオールが迷惑そうに眉間にしわを寄せた。
「城内の兵を勝手に使われては困るな。彼らは大抵、勤務中だ」
「ちっ、ケチくせぇの」
 アリオスの舌打ちに、今度はアイオールが目を吊り上げる。最初の出会い方が悪かったのか、言葉尻を捉えては角を突き合わせている二人だった。イスフェルは呆れたように小さく吐息すると、再びラスティンに目を遣った。
「ここの兵士なら腕っぷしの強さは確かだから、それでもかまわないが、スプラ師のところには、ラスティンと同じくらいの年齢技倆の者たちが集うんだ。彼らと友だちになれば、このテイランの楽しみ方も倍になると思ってな」
 アイオールはイスフェルの考えを相変わらずだと呆れたが、それだけイスフェルの内での友とは重き存在なのだろう。
「友だちかぁ……。気の合うヤツ、いるかな。オレは勿論、アグラスとも仲良くなれなきゃダメなんだよ?」
 故郷の山では、アリオス以外の誰も、ラスティンの存在を認めてくれなかった。だが、その狭い世界を飛び出して以来、数々の出会いが少年の心をうち解かし、生来の前向きな性格も手伝って、今ではすっかり友だちというものに臆面がなくなっていた。
「そこまでは保証できないが」
 困ったように笑うイスフェルを前に、ラスティンは軽く顎をつまんだ。
「ん……まぁでも、行ってみてもいいかな」
 途端、イスフェルの顔色が明るくなる。
「そうか。で、アリオスはどうする?」
 だが、銀髪の青年はあっさりと頭を振った。
「勘弁。ラスティンくらいのガキばっかりなんだろ? お守りなんかしてられっかよ」
 それを聞いて、アイオールが意地悪げに笑う。
「それでラスティンの腕が上がったら、お守りをしてもらうのはおまえの方というわけだ」
「……何だと?」
 二人の不毛な睨み合いに、残りの三人は顔を見合わせると、盛大に溜め息を吐いた。


 翌日の朝、ラスティンは早速、スプラ師の道場へと向かった。無論、アグラスも一緒である。そしてなぜか、散々逃げ腰を見せたアリオスも一緒だった。アイオールの最後の一言が効いたのかもしれぬ。
 テイランは、二人が今まで旅してきた町のどこよりも活気に溢れた場所だった。まだ日の昇らぬうちから船の往来が始まり、朝市が開かれる頃にはみな一汗かいて、中には早々に酒を飲む者もいる。町の門が開かれる時刻には門の内と外とに荷馬車が列を成し、先着順を争って諍いが起きることもしばしばだった。中心街に立ち並ぶ商館にはたいてい玄関がふたつあり、ひとつは馬車で運ばれてきた荷を、もうひとつは町中に張り巡らされた水路を使ってやってきた海からの荷を受け入れていた。夜ともなれば、その喧噪はまるで祭りのようになる。人々は一日の疲れを酒場は勿論、道端や舟の上でまで取ろうとし、テイラン警備隊の日誌には酔客の救助や溺死について書かれない日はないほどだという。
「おっかしいな。この辺のはずなんだけど……」
 住宅が密集する場所で、アイオールが描いてくれた地図を見ながらラスティンが首を巡らせた時、ふいにそばの木戸が開いた。中から出てきたのは、彼と同じ年頃の少女で、手には箒を持っていた。
「あ、ちょっと訊いてもいいかな」
 突然、獣連れの見知らぬ二人組に声をかけられた少女は、少し警戒した面持ちを浮かべた。
「なに?」
 はっきりとした二重の瞼に大きな黒い瞳をした、可愛らしい顔立ちの少女だったが、持っている雰囲気はどこか凛として、少々こちらを緊張させる。
「あの、この辺にスプラ先生の道場があるって聞いてきたんだけど……」
「それならウチだけど」
「えっ、ここ!?」
 二人は驚いて高い生け垣を見上げた。
「わっかりにくい場所だなぁ」
 迷惑げに呟くアリオスを、それこそ少女は迷惑げに見やった。
「……ここ、裏口だもの」
「は、裏口?」
 アリオスの白い視線を受けて、ラスティンはそそくさと地図を懐に突っ込んだ。
「なに、道場を訪ねてきたってことは、弟子入りしたいの?」
「あ、うん。これ、紹介状」
 少女はラスティンが地図と入れ替わりに差し出した書状を一瞥すると、二人に付いて来るよう言って身を翻した。
 テイランの騎士の家庭に生まれ育ったスプラは、青年時代は王都で国軍に所属していた。が、戦で負った足の怪我が原因で、郷里に戻ることを余儀なくされたという。一度は人生に挫折した彼だが、生活のために開いた道場が評判を呼び、今やテイラン警備隊への入隊を目指す若者が引きも切らず訪れるようになっていた。
 二十年前、門弟の増加を受けて移転した屋敷は、ある貴族から譲り受けたもので、その敷地はかなり広い。裏庭と中庭の間には母屋を挟んで離れがふたつ建ち並び、厩舎の前には馬場が、庭の片端には的場まで整備されていた。聞けば、今では城から補助金が出ているという。
 長らく歩いて狼族二人が通されたのは、表門横の中庭に面した離れだった。案内してくれた少女が去ってしばらくすると、ひとりの老人が姿を現した。背はラスティンと同じくらいだが、もはや腰が曲がり、頭の髪は側頭しか生えていない。だが、その双眸だけは若人に負けぬ生気と不敵な光を放っていた。
「……ほほぅ、あやつの紹介か。噂には聞いておったが、本当にテイランへ来ておったのだな」
 ラスティンから受け取ったイスフェルの紹介状に目を落とした後、老スプラはそうひとりごち、伸びきった白い髭を撫でた。イスフェルがこのテイランで過ごした八歳からの三年間、その成長を見守った老人だった。
「あの、通わせてもらえますか?」
 ラスティンがおずおずと尋ねると、スプラは相変わらず髭を撫でながら二人を見やった。
「教えてやるに吝かではないが、わしのやり方はちと厳しいことで有名でな」
「はぁ」
「やるかやらんかは見学してからにしたらどうじゃ?」
 ラスティンとアリオスは顔を見合わせて目配せすると、再び老人を見た。
「わかりました」
 最初から威勢のいいことを言って、後で断る理由を探すことになっても面倒なので、二人は意気地のない返答をした。それから老人の後に従い、弟子たちのいる庭へと向かう。
 老スプラの初心者組の稽古は、とにかく基本を極めた。二ディルクの稽古のうち、八割近くの時間が基本的な動作の反復で、実際に相手と対峙して模擬剣を打ち交わすのは、最後のわずかな時間だけだった。中には「眼を鍛えるため」と目隠しして模擬剣を振る稽古もあり、「目を鍛えるのに目を閉じてどうするんだ」と二人で笑い合って弟子たちに白い目を向けられたりもした。
「あのケチ野郎に『鬼師匠』と言わしめるだけのことはあるぜ……」
 アリオスがげんなりして言うのも無理のない内容に、ラスティンも『友だちづくり』などという当初の浮かれた目的は既に脳裏から消えていた。
「最善過ぎて笑えないよ、イスフェル……」
 頬をひきつらせながら観戦した上級組の一対一の手合わせは、だが、その迫力で二人を魅了した。カイルやイスフェルの荒野での戦闘が、まざまざと二人の脳裏に蘇る。彼らがあれほどまでに強くなったのは、眼前のような鍛練の賜なのだろう……。
 その時、剣士によって薙ぎ払われた相手の模擬剣が、二人の足元まで回転しながら飛んできた。
「すっげ……」
 感心しながらそれを拾おうとしたラスティンに、アリオスがおののきの声をかけた。
「おい、ラスティン。感心してる場合じゃねぇぞ。ありゃ、さっきの女だ」
「えっ?」
 ラスティンが驚いて身体を起こすと、その隣りで老スプラが陽気に言ったものである。
「わしの孫娘のトゥリンクスじゃ。今年十四になる。なかなかの腕前じゃろう」
「………」
 確かに模擬剣を持ってこちらを見ているのは、先ほどは箒を持っていたはずの少女だった。肩までの淡い茶色の巻き髪を今は無理矢理ひとつに結んでおり、また他の弟子たちは全員男ということもあって、まったく気付かなかった。
「……おまえ、どうするんだよ」
 稽古を見終え、離れに戻る途中、ラスティンはアリオスを見上げた。ラスティンと違って渋々やって来たアリオスだが、案の定、返ってきた答えはラスティンと同じ意見だった。
「どうするもこうするも、あんなの見せられて逃げるわけにはいかないだろ」
「……だよね」
 二人は自分たちの腕前を過信していたわけではないが、それでも女のトゥリンクスの剣技は衝撃的だった。
「それに、この先どうなるかわからねぇし、いざという時に自分を守れなきゃ何にもならねぇだろ。昨日みたくケチ野郎にわざわざ護衛付けられるのも癪だし、それこそセフィ守れなきゃカイルにブッ殺されるし」
「……だよね」
 予想に反して申し入れを撤回する理由を失ってしまった二人は、部屋に入ってきた老人に深々と頭を下げたのだった。
「あっ、あなたたち!」
 城へ帰ろうと離れを出た二人が狼たちを探していると、的場の方から声がかかった。見ればスプラの孫娘トゥリンクスが、模擬剣の次には干し肉を振り回していた。その周囲をうろうろとしているのは、言わずと知れたエルジャスの狼たちである。
 トゥリンクスは干し肉を狼たちの前に落としてやると、二人の方へやって来た。
「あなたたち、お城から来たって本当?」
「ああ……うん」
「そう! で、結局どうするの? ウチに通うの?」
「明日から世話になることになった」
「それはよかったわ」
 なぜか二人を歓迎している風な少女を、ラスティンとアリオスは不思議に思って顔を見合わせた。だが、その歓迎の気色もラスティンの口が開くまでだった。
「えっと、トゥリンクス、だっけ。おまえ、女のくせにすごいな」
 少年の発言に、見る間にトゥリンクスの表情が険しくなっていったのである。
「……『女のくせに』って何よ」
 急に低くなった少女の声音に不穏な気配を察し、アリオスはラスティンを小突いた。
「おい、ラスティン。こういう時はな、せめて『女なのに』って言うんだよ」
「え、あ、そう?」
 しかし、アリオスの発言は火に油を注いだだけだった。
「何よ、あんたたち。女、女ってうるさいわね。女が強かったらいけないわけ!?」
 久しぶりに浴びた女の怒声に、狼族の二人は容易にたじろいだ。帰りかけていた他の弟子たちが、何事かと足を止めて彼らに注目する。
「な、何だよ。そんなつっかからなくてもいいだろ。せっかく褒めてやってんのに」
「な……! 何で新参者のあんたに上から物言われなきゃいけないのよ!?」
 何を言っても後が面倒そうだと、早々に野次馬を決め込んだアリオスに対し、流す術を持ち合わせないラスティンは、真っ向から少女に対峙した。
「はぁ……? 何だよ、かわいくないの」
 次の瞬間、アリオスはトゥリンクスの堪忍袋の緒が切れた音をはっきりと聞いた。
「上等じゃない! あんた、私と勝負しなさい!」
「はぁ……!?」
 二人の足下を、枯れ葉を乗せたつむじ風が通り抜けた。


「――で、負けてのこのこ帰ってきたわけか」
 腕組みしたアイオールの呆れたような視線を受けて、イスフェルの留置房前の廊下を苛々と往復していたラスティンは、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「やっかましい!!」
 頭に血が上っているので、年上に対する分別も、客人として迎えてもらっている恩義も、もはや空の彼方まで吹き飛んでしまっている。
「最初はいいセンいってたんだけどなー。剣筋読まれてからはもう……」
 まるで他人事なアリオスの物言いに、イスフェルは牢の中で困ったように眉根を寄せた。
「アリオスはその娘とは手合わせしなかったのか?」
 イスフェルがスプラ師のもとへ通っていた頃、トゥリンクスもそこに住んでいたはずだが、彼の記憶には残っていなかった。
「オレは負ける戦いはしない主義だ。そもそも、あれは手合わせじゃなくて喧嘩だぜ」
 すると、ラスティンは今度はイスフェルを睨み付けた。
「もう、何が『友だち』だよ! あのお転婆のせいで目茶苦茶だ!」
 多く残っていた弟子たちの前で赤っ恥をかかされて、ラスティンの怒りは頂点に達していた。
「じゃあ、明日はもう行かないんだな?」
「行くよ! 行くに決まってンだろっ! このまま負けっ放しでいられるか!」
 笑いを噛み殺しているアイオールに噛みつくと、ラスティンは激しくアリオスを振り返った。
「アリオス、特訓だ特訓! 行くぞ!」
「はぁ!? マジかよ……」
「うるさい! ごちゃごちゃ言ってると、おまえからブッ飛ばすぞ!」
 喚きながら去っていく狼族の背を見送って、アイオールはにやにやと笑いながらイスフェルを見た。
「――ま、何はともかく良い刺激にはなったようだな」
 これにはイスフェルも首を竦めるしかなかった。


 ラスティンとアリオスが本格的に道場へ通い始めたのを機に、セフィアーナもまたテイランの孤児院へ通うようになっていた。孤児院の場所が道場への途中ということもあって、ラスティンたちはセフィアーナを孤児院に送り届けた後、鍛錬に精を出し、そして帰り際に再び迎えに来るという習慣ができつつあった。無論、セフィアーナが孤児院で独りになるということはなく、必ず一人は護衛兵が付いている。今のところ、その役はもっぱらテイラン警備隊のマラナス、ダイアス兄弟が務めていた。
 テイランに着いた当初は、城の生活に慣れるのが精一杯だったセフィアーナも、しばらくすると生活に余裕が出てきた。そして、思い出したのが、イスフェルがテイランへ向かう船の上で言ってくれた言葉だった。
『テイランにも神殿はある。きみが育った孤児院のような場所も。きっときみの力が必要な場所だ』
 そこでセフィアーナは、そのことについて、アイオールの妻ライヤに相談してみた。彼女は、セフィアーナたちの世話役を領主デルケイスから任されていたのだ。すると、病床にある姑の代わりに城内のことを取り仕切っているライヤは、新年祭の準備などでさらに忙しいにもかかわらず、快く孤児院への橋渡し役を請け負ってくれた。
「本来なら私がしなければならない仕事だから」
 そう申し訳なさそうに言った彼女は、初めて孤児院を訪れた日、セフィアーナと一緒になって掃除に汗を流してくれた。大領主の嫁でありながら気さくなライヤのことが、セフィアーナはとても好きだった。
 この日も孤児院を訪れていたセフィアーナは、天井などに張られた蜘蛛の巣を箒で巻き取った後、部屋の反対側に視線を転じた。そこでは、子どもたちに混じってひとりの若い女性が雑巾を持ってせっせと窓硝子を拭いている。久しぶりにセフィアーナに同行したライヤだった。
「あの、ライヤ様。お城の方、本当に大丈夫なんですか……?」
 セフィアーナがおずおずと声をかけると、振り返ったライヤは屈託のない笑顔で応じたものだ。
「あら、大丈夫よ。心配しないで。あの人が万っ事上手くやっているはずだから」
「そ、そうですか……?」
 デルケイスが不在の今、領内の政は若夫婦の双肩にかかっている。テイラン警備隊長を務めているアイオールだが、今はもっぱら城に詰めており、その補佐役たるライヤは城を離れている場合ではなかったが、この日の朝、つまらぬことで口論となり、気分転換という名の嫌がらせに城を出てきた彼女だった。日々、城を仕切っているのはむしろ補佐役のライヤであり、今頃アイオールは悲鳴を上げているに違いない。
「それにしても、セラーヌ・・・・は本当にアスフィール殿と似ているわね」
 セラーヌという呼び名は、神殿関係者にセフィアーナの素性を知られない為の、城外での偽名だった。何にするかと問われ、咄嗟に亡き母の名を告げたセフィアーナだった。
 セフィアーナは意外に思ってライヤを見た。
「え、ラスティンではなくて……?」
「ラスティンとは父違いとはいえ姉弟なのだから、似ているのは当然でしょう。そうではなくて、アスフィール殿。あなたたち、持っている雰囲気が似ているとは思っていたのだけど、貴女が孤児院のことを言ってきた時、確信したの。ほら、アスフィール殿もお小さい頃、テイランのために色々となさったでしょう?」
「そんな、私はただ、受けた恩をお返ししたいだけ。イスフェルのとは次元が違います」
「いいえ、そんなことないわ。その奉仕の心が一番大切で難しいのよ」
 子どもたちの輪から離れてセフィアーナのもとへやって来たライヤは、護衛のダイアスが離れた位置にいるのを横目で確認すると、セフィアーナの耳元に口を寄せた。
「セフィはアスフィール殿のことが好きなの?」
「えっ!?」
 思わず身を引いたセフィアーナだった。
「あら、隠さなくてもいいのよ」
 なぜか嬉しそうに笑うライヤの袖を、セフィアーナは慌てて掴んだ。
「ライヤ様、そんな――」
 その時、ダイアスがセフィアーナを呼んだ。
「セラーヌ殿、貴女宛に荷物だそうですよ」
「えっ、えっ、えっ!?」
 右に去っていくライヤの背、左にダイアスの手招きと、混乱したセフィアーナの足はしばらくその場へ縫いつけられてしまった。だが、ライヤが再び子どもたちと掃除を始めてしまったので、セフィアーナは仕方なくダイアスの方へ歩いていった。
「私に荷物って……?」
 すると、玄関の扉のところに、非常に魅惑的な姿態の女が立っていた。年の頃は二十代半ばだろうか、鼻筋の通った美人で、黒く長い巻き髪が露出の多い褐色の肌を覆っていた。彼女の足下には、大きめの木箱が置かれてある。
「あんたがセフィアーナ?」
「はい……」
 見知らぬ女性に本名を呼ばれて、セフィアーナはダイアスを顧みた。すると、ダイアスは心配ないというように頷き、セフィアーナはゆっくりと彼女に近付いていった。
「あたしはジーナ。グレインからあんたへの荷物を届けに来た」
「グレインさんから……?」
 驚いたセフィアーナが木箱を覗くと、その中には孤児院で使えそうな用具や衣類がたくさん詰まっていた。
「わあ、すごい……。え、でも、どうして?」
 テイランへ着いて以来、セフィアーナは港へ行っていないので、グレインには会っていない。その彼が、どうしてセフィアーナが孤児院の手伝いをしていることを知っているのか。
「狼を連れたうるさいのが、時々うちのアジトに来てるのさ。ところで――」
 ふいに目を細めたジーナは、先ほどのライヤのようにセフィアーナの耳元で囁いた。
「あんた、うちのグレインが好きなのかい?」
「えっ……」
 驚いて目を丸くしているセフィアーナを、ジーナは不敵な笑みで見遣った。
「グレインが好きなのかって訊いてるのさ」
「わ、私は神官見習いですもの。グレインさんどころか、好きな男の人なんて……」
 ライヤの時に返せなかった言葉を、セフィアーナはようやく口にした。だが。
「あんた、神官っていう動物じゃないだろ? 神官である前に、ひとりの人間、ひとりの女じゃないのかい。女が強い男を好きになるのは当然のことさ。その男に既に別の女がいたとしてもね。だけど――」
 ジーナの黒い瞳に剣呑な光が灯る。
「その『別の女』が男を奪られるがままにしないのも、女の道理ってものさ。もしあたしがそれだったら、相手の息の根を止めるまで戦うね」
「『息の根』って……」
「それくらい、あたしはグレインのことを愛してるのさ」
 なぜジーナが自分にそんな話をするのか、セフィアーナは皆目見当が付かなかった。しかし、ジーナのグレインに対する想いはひしひしと伝わってきた。
「何て言うか……素敵、ですね。グレインさんは、ジーナさんにこんなに想われて幸せ者ですね」
 途端、ジーナが怪訝そうな顔色を浮かべたが、セフィアーナはそれには気付かず話を続けた。
「私、ずっと神官になりたいって思ってきたせいか、そういうことにはどうも疎くて……。でも、人の助けになる神官になりたいっていう気持ちだけは、誰にも負けません」
 しかし、セフィアーナの決意表明に応じたのは、ジーナの溜め息だった。
「ジーナさん?」
「いや……どうもあたしの勘違いみたいだね」
「はい?」
 アイオール一行をテイランへ送り届けて以来、恋人グレインの口からセフィアーナという少女の名をよく聞かされるようになった。そしてこの日、グレインがセフィアーナへ贈り物をするのだと騒いでいたため、ジーナは運び役の者を脅し、代わりに運び役となってセフィアーナという女を見に来たのだ。
「セラーヌ、荷物って何だったの?」
 その時、部屋の方からライヤの声がかかった。
「じゃあ、あたしはこれで」
 身を翻そうとするジーナを、セフィアーナは慌てて呼び止めた。
「あ、あの、グレインさんにお礼を言っておいてください。また改めてお礼に伺いますって」
「わかった」
 そうして行きかけたジーナだったが、何を思ったか、もう一度セフィアーナの方を振り返った。
セラーヌ・・・・
「はい?」
「ついでだから言わせてもらうけど、人を愛したことがない人間の言うことなんて薄っぺらで、あたしは信用できないけどね」
 不意の言葉に顔を強張らせたセフィアーナをひとり残し、ジーナは颯爽と玄関を出て行った。


 人が人を愛するということは、長い人間の営みを見ても当然のことである。しかし、その中にあって、清貧を求めるテイルハーサの神官は、恋愛も婚姻も許されない存在だった。神官を目指す、神官見習いたるセフィアーナに、ライヤやジーナの言う「好き」や「愛」という言葉は、禁忌の想いなのである。それなのに、ライヤは隠さないでもいいと言い放ち、ジーナは人を愛したことのない人間は信用できないと言う。彼女たちの意見がすべてではないのだろうが、セフィアーナにはその言葉たちが指に刺さった小さな棘のように気になった。
『セフィはアスフィール殿のことが好きなの?』
 再びライヤの言葉がセフィアーナの脳裏に蘇る。確かにセフィアーナはイスフェルのことが好きだった。穏やかな為人も、夢に対する想いも、何事にも屈せぬ強い精神も。彼が辛い目に遭っているのには耐えられないし、彼の夢のためなら自分も何かしてやりたいとも思う。しかし、それはひとりの人間として好きなのであって、ひとりの男として愛しているという意味ではない。――少なくとも、自分ではそう感じている。
(何を惑うことがあるの、セフィアーナ? 神官は万人を分け隔て無く慈しみ、神の愛を伝える存在。たったひとりへの愛に振り回されてはならないのよ)
 ところが、それを真っ向から否定するもうひとりの自分がいる。
(神官とは人々の迷いを消し、正しき方向へ導かなければならない存在。けれど、他人を心から愛してはならない存在でもある。……でも、本当の愛を知らなくて、愛を説ける?)
 考えれば考えるほど底のない大きな問題に直面してしまったようだ。セフィアーナは頭が痛くなってきて、こめかみを押さえた。それを見逃さなかったのは、鉄格子の向こうの青年だった。
「セフィ、どうかしたのか? 何だか元気がないみたいだな」
 イスフェルの声に、セフィアーナははっとして顔を上げた。彼女の隣で、ラスティンが眉をひそめる。
 昼食を食べ終え、手持ち無沙汰になって、イスフェルのところへ足を運んだ姉弟だった。セフィアーナとしては、イスフェルのところへ行くのはためらわれたのだが、ラスティンに無理矢理連れてこられてしまったのだ。
「孤児院の帰りからこうなんだよ」
「向こうで何かあったのか?」
「別に、何でもないのよ。そんなことより――」
 セフィアーナは、昼寝を始めたアグラスの背中をごまかすように撫でた。
「アイオール様とライヤ様、仲直りなさったかしら」
「さあ……。そもそも何がきっかけなんだ? アイオールの奴、朝ここで散々喚いていったが、いまひとつ原因がわからなかったんだ」
 イスフェルのいる場所は罪人の留置房のはずだが、目下、城の人間が愚痴をこぼす場所になってしまっていた。
「色々当たってみたけど、誰も知らなかったよ。どうせアイオールさんがまた無神経なこと言ったんじゃないの?」
「無神経って、アイオールはライヤ殿のことを大切にしているぞ。ラスティンもこの間見ただろう?」
 それは勿論、孤児院への護衛の件である。
「アリオスが言うには、愛と束縛は違うってさ」
「束縛……」
 年下のラスティンの口から出た言葉にイスフェルが憮然とする中、セフィアーナは再び耳にした「愛」という言葉に反応してしまった。
「愛、なんて……」
 心の中で呟いたはずの言葉は、我知らず唇を動かしており、イスフェルとラスティンが驚いたように彼女を見た。
「姉さん、本当にどうしちゃったの?」
「大丈夫か? セフィ」
 男二人がおろおろする中、セフィアーナは深く吐息すると、ゆらりと立ち上がった。
「ごめんなさい。私、礼拝堂へ行ってくるわ……」
 惑いを消すためには、神と向き合うのが一番だと思った。
 まるで幽霊のように静かに去っていく姉の後ろ姿を見て、ラスティンはイスフェルを軽く睨んだ。
「イスフェル、姉さんに何かしたの!?」
「なっ、何を……」
 あらぬ疑いをかけられて、イスフェルはただただ困惑するばかりだった。
 その日の夜、ついに若夫婦の喧嘩の原因が知れた。イスフェルに仲裁役を求めてきた料理長が言うには、新年祭で出す祝い料理の献立について揉めているというのだ。ライヤが毎年、実家で食べていた祝い料理を一品加えたいと言い、その代わりに似ている料理を削ることにした。しかし、それがアイオールの大好物だったことから、喧嘩になってしまったという。
「仲裁役など、私は罪人であって神官ではないぞ……」
 あまりにもくだらない原因にイスフェルはげんなりと溜め息を吐き、そしてふとセフィアーナのことを思い出した。
『愛、なんて……』
 神官を志す彼女の口から漏れ出た言葉が、イスフェルの心をざわめかせていた。
(罪を負い、明日をも知れぬ身のオレに、彼女のことを愛する資格などあるはずもないのに……)
 イスフェルはいま一度吐息すると、困ったように立ちつくしている料理長を見上げた。
「アイオールに伝えてくれ。ユーセットなら、ライヤ殿の好きなようにさせてやっていたと思うぞ、と」
 イスフェルは、亡き友がおそらく最後に愛しただろう女性の肩を持つことにした。

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