The story of Cipherail ― 第四章 波間に揺れる想い


     8

 夕食の席に、エンクィストの姿はなかった。
「あの、エンクィストさんは……?」
 セフィアーナが尋ねると、ドーレスが肉を切っていた小刀を宿の玄関の方へ向けた。
「副長なら、しばらく波止場にいると出て行かれた」
「波止場……」
「おぬしらに会えば、アスフィール様のことが多少なりとわかると思っておいでだったのだ」
 そう付け足したのは、バファロイである。セフィアーナはしばらく考えて、足先を玄関へ向けた。
「姉さん?」
「ちょっと、行ってくるわ」
「でも――」
「ちょっと確かめたいことがあるの。大丈夫よ。見回して、いらっしゃらなかったらすぐ戻るわ」
 そう言って表に出たセフィアーナは、細い通りを抜け、波止場へ行ってみた。すると、昼間、アリオスが腰を下ろした場所に、エンクィストの姿があった。バファロイの言を思い出すと、その背に哀愁が漂っているように見えた。
 セフィアーナが遠慮がちに声をかけると、振り返ったエンクィストの眉根がわずかに寄った。
「まだ詳細を聞いていないが、きみも追われている立場なのだろう? こんな時間に護衛を付けてまで出歩くのはいかがなものかな」
「護衛?」
 驚いたセフィアーナが背後を見ると、離れた商店の陰にジリストンの姿が見えた。
「昼間、言ったはずだ。テイランまで責任をもって連れて行く、と。私もむやみに部下の命を危険に晒したくはないので、理解してもらえるとありがたいのだが」
 エンクィストの淡々とした、しかし確かに皮肉の隠った言葉に、セフィアーナは頭を抱えた。また、またしても、やってしまった。クレスティナの時といい、サラクード・エダルの時といい、何度同じ轍を踏めば気が済むのか、彼女は自分の無鉄砲さを呪った。
「すみません……」
 彼女の過去の失敗を知る由もないエンクィストは、大仰にも顔を覆う少女にとまどって、硬かった口調を改めた。
「……それで? 何の用かな」
「何の用」と問われて言いにくいことこの上ない内容に、セフィアーナはますます身体を縮めた。
「あの……先に休ませていただこうと思って……」
「……それが賢明だな。旅疲れはしていないか?」
 エンクィストの気遣いに、セフィアーナは聖都を経ってからのことを思い、苦笑した。まさに『流転』という言葉が相応しいこの頃の人生だった。
「疲れている暇がなくて……。それで、あの、テイランへは、あと何日くらいで着きますか?」
「我々はここまで十日で来たが……。きみたち次第だな。手持ちの馬に問題はないか?」
「馬より私たちの腕の方が問題です……」
 歯切れの悪い少女に、エンクィストが目を瞬かせる。
「そのわりには、キースからなかなかの日数でやって来たではないか」
 セフィアーナには、もはや沈黙するしか道は残されていなかった。日数の調整どころか、荒野で進む方角さえ、イスフェルに頼っていたのだ。
 沈黙ついでに、セフィアーナはあることについて尋ねるべきか否か、考えた。最後の最後まで迷って、結局、彼女は賭けに出た。
「……あの、テイランへ行ったら、アイオール様にすぐお会いできるでしょうか?」
 すると、エンクィストの瞳がすっと細められた。
「……何故?」
「私、イスフェルからアイオール様へのお手紙を預かっていて――」
「なにっ!?」
 疾風のごとく立ち上がったエンクィストが、彼女に詰め寄ってくる。
「何故それを先に言わなかった! 手紙はどこだ! 見せろっ!」
 雷鳴のような剣幕に身を震わせながらも、セフィアーナは自分が賭けに勝ったことを確信した。
「そっそれはできませんっ」
「何だと!?」
 エンクィストの手が、セフィアーナの細腕を掴み上げる。
「い、痛い……。は、放して下さい……」
 少女の蚊の鳴くような声に、ようやくエンクィストは我に返った。騎士たる者が感情に任せて女性相手に力を振るうなど、恥ずべきことである。
「す、すまない……」
 彼女を解放すると、彼らのもとへ駆け寄ろうとしていたジリストンが、安堵して元の位置へ戻るのが視界の端に見えた。
「いえ……」
 セフィアーナは腕をさすりながら、再び座り込んでしまったエンクィストの背中に目を落とした。
「……手紙はアイオール様に宛てられたものです。こんな状況ですから、きっとイスフェルの想いがたくさんたくさん詰まっていると思います。イスフェルは自分が大変な時なのに、それをおくびにも出さず私を助けてくれました。ですから、私は彼の手紙をちゃんとアイオール様に届けたいんです。私にできることはそれくらいしか……。決してエンクィストさんや他のみなさんを信頼していないというわけではありません。私には、イスフェルに対して義理と責任と、――そして、彼のために繋げたい想いがあるんです」
 すると、しばらくの沈黙の後、エンクィストがぽつりと呟いた。
「……アスフィールが何故きみに親切・・にしたか、わかるような気がするな……」
「え……?」
 漆黒の海から視線を外したエンクィストは、今一度、少女の正面に立った。その表情は、ひどく真摯だった。
「……きみたちに、ひとつ謝らなければならないことがある」
 しかし、セフィアーナは首を振って、それを制した。
「その必要はありません」
 セフィアーナはエンクィストの横に立つと、波止場の岸壁に打ち寄せる小さな波を見つめて言った。
「あなた様が、イスフェルの従兄のアイオール様なんですよね……?」
 瞬間、エンクィストが息を呑んだ。
「どうしてそれを――」
「他のみなさんは、イスフェルのことを『アスフィール』と。それに何より、あなた様があんまりアスフィール・・・・・・のことを心配していらっしゃったから……」
 左頬の傷痕のことがなくても、『エンクィスト』は『アイオール』だった。また、王都の軍団で将兵の上下関係を身近に見たセフィアーナには、アイオール以外の者たちの『エンクィスト』への態度に、幾分ぎこちなさを感じたのも事実だった。
 微笑んでいる少女の前で、エンクィスト――アイオールは天を仰いだ。
「これだから女――女性は……」
「はい?」
 セフィアーナが目を瞬かせていると、アイオールは照れくさそうに鼻先を数度こすった。
「こうなったら白状しよう。私が名を偽ったのは、きみが女性だったからだ」
「え……」
「女は野心を抱くと魔性になる。きみにこんなことを言うのは何だが、アスフィールには今まで浮いた話がひとつもなくてな。女性のきみがどういう経緯であいつの友人になったのかと、少し警戒したのだ」
「そうだったんですか……」
 予想外な原因にセフィアーナが戸惑っていると、アイオールが声の調子を改めて言った。
「アスフィールの手紙を、見せてくれるか?」
 セフィアーナは、こくりと頷いた。
「もちろんです。でも、その前に申し上げておきたいことが――」
 それは当然、イスフェルのことだった。彼の手紙は、もともと彼が自首したことが知れ渡った後、テイランで・・・・・アイオールに渡される予定だった。イスフェルもそのつもりで書いているだろうから、アイオールが混乱してはいけないと思ったのだ。イスフェルは既に役所へ行ったのだから、たとえ今、真相を彼女が話しても、アイオールがイスフェルに手を出すことは不可能なはずだ。しかし、その重大な告白は、なぜかジリストンとともにやって来たバファロイによって遮られてしまった。
「副長、東門を張っていたマラナスが戻りました。重大な報告がある、と」
「重大?」
 セフィアーナは息を呑んだ。この期に及んで「重大な報告」がイスフェル以外のこととは考えにくい。
「こっちも取り込み中なのだがな……。――あ、『副長』はもういい。バレたから」
 すると、テイラン警備隊の二人は、わずかに瞠目してセフィアーナを見た。が、バファロイはすぐにアイオールに視線を戻した。
「マラナスは泡を食っております。早くお戻りを」
「わかった」
「あのっ――」
 セフィアーナは、行きかけるアイオールを慌てて呼び止めた。しかし、彼の足は止まらなかった。
「セフィアーナ。すまないが、手紙を私の部屋まで持って来てくれ」
 その後、しばらく呆然としていたセフィアーナだが、思い立つとすぐに宿屋へ戻った。イスフェルの動向を秘密にしていたことを責められるのはもはや仕方がない。とにかく、イスフェルの手紙を届けることが重要だった。
 自分の部屋に飛び込んだ少女を、中にいた狼族の二人が目を丸めて見遣った。
「姉さん、遅かったね」
「おい、セフィ。あいつと何話してたんだ? あいつ、まだ仲間がいやがったぞ」
 セフィアーナは手紙を探す手を止めぬまま言った。
「アリオス。『あいつ』じゃないわ。アイオール様よ」
「は?」
「あの方が――エンクィストさんが、アイオール様だったの」
「はあっ!?」
「――あ、あった……!」
 目を点にしている男たちの前に、セフィアーナは一通の書状をかざした。それが何かを察したラスティンが、すぐに表情を曇らせる。
「姉さん、それ……」
「ええ、イスフェルの手紙よ」
「もう渡すの?」
 本来、テイランの地で日の目を見るはずだった書状である。ラスティンが慎重になるのも仕方がなかった。
「例のマラナスって人……多分、イスフェルのことを報告しに来たんだと思うわ。どっちにしても、明日にはきっと耳に入ってしまうでしょ」
「……そうだね。じゃあ、オレたちも一緒に行くよ」
「ええ、お願い」
 そしてアイオールの部屋を訪ねた三人に向けられたのは、氷のように冷たいテイラン側の視線だった。


「……やはり、女は魔性だ」
 アイオールの部屋は二人用の客室だった。その入口側の空間に置かれた円卓で、イスフェルの従兄たるアイオールは、敵意も剥き出しにセフィアーナたちを睨み付けてきたのである。
「アスフィールが、このツァーレンの役所に自首した。きみの話というのはこのことか」
「……はい」
 セフィアーナは素直に頷いたが、そんなことでアイオールの怒りが収まるはずもなかった。
「きみは最も許されざる嘘を吐いたな、この私に」
 アイオールからイスフェルの行方を訊かれた時、セフィアーナはそれをきっぱりと否定した。そのことを言っているのだ。
「……私は嘘を吐いたつもりはありません。イスフェルとの約束を守っただけです」
「何という詭弁……!」
「私は!」
 セフィアーナは、思わず叫んでいた。
「……私は亡くなられた宰相閣下も、アイオール様の叔母上でいらっしゃるルシエン様も、イスフェルの妹のエンリル様も存じ上げております。お屋敷にお招き頂いて……。イスフェルは、あの大切な方々を守るために自首すると言いました。だから私は、それに協力しただけです」
 アイオールの顔が奇妙に歪んだ。なぜ、ただの町娘のようにしか見えない彼女が、天下の宰相家の者たちと近しいと断言しているのか、彼には到底理解できなかった。
「きみは、いったい……」
 その困惑の呟きに、セフィアーナは左手首を覆っていた布を取り去った。そこで銀色に光る物を、テイランの使者たちの前に晒す。
「申し遅れました。私は今年の《太陽神の巫女》――これがその証です」
「な、に……」
 今年の《太陽神の巫女》といえば、その名声は、聖都から遠い、王都からはさらに遠いテイランまでも、しっかりと届いていた。
「《太陽神の巫女》たる方は、この時分には聖都にいらっしゃるはずだ……」
 ドーレスの声が断言しきれていないのは、証の腕輪に年数が彫られているのを確認したからだ。だが、バファロイは動揺などしていない体で、セフィアーナを詰問した。
「事実、巫女殿が奉仕活動に積極的に取り組まれているということを、聖都の者から聞いているが」
「偽者さ」
 吐き捨てるように言ったのは、アリオスだった。
「偽者?」
「噂に聞いてない? 《光道騎士団》がエルミシュワに現れたって。姉さんはその件で、《光道騎士団》から追われる身になっちゃったのさ」
 とんでもないことを軽く言う少年を、テイランの人間たちはもはや声も出せずに見つめていた。
「今、私のことは……。それより、アイオール様」
 セフィアーナは、胸の前に抱えていた書状をアイオールに向かって差し出した。
「これが、イスフェルから預かっていた手紙です。どうぞ、お受け取り下さい」
(この娘が、《太陽神の巫女》……)
 窮地のイスフェルが、なぜわざわざテイランにまで助けを求めてきたか、ようやく納得したアイオールだった。彼は煮え立つような脳内をなんとか抑えると、ゆっくりとセフィアーナからイスフェルの手紙を受け取った。その筆跡は、まぎれもなく最愛の従弟のものだった。
「……確かに」
 その後、ひと呼吸置いて、手紙を開く。しかし、読み進めるうちに、再び彼の脳が煮えたぎってきた。イスフェルの決断に、疑問符しか浮かばない。なぜだ、なぜ、なぜ、なぜ、と……。
「……ひとつ、教えてくれ。本当は、アスフィールとどこで別れたのだ?」
 ようやく顔を上げたアイオールは、目が少し赤いように思われた。セフィアーナたち三人は顔を見合わせると、観念して白状した。
「イスフェルは、あなた方が来られる直前まで、私の部屋にいました」
 それを聞いたアイオールはぎゅっと目を瞑ると、深く、それは深く、息を吐き出した。
「少し、ひとりにしてくれないか」
「アイオール様――」
 セフィアーナは食い下がろうとしたが、バファロイに間に入られ、自分の部屋に戻るしかなかった。
「すごい気落ちしてたね、アイオール――さん」
 最後は肘置きから肘がずり落ちるような、ラスティンの物言いだった。王国の身分階級に囚われない狼族の人間としては、相手が領主の息子というだけで、最上級の敬称で呼ぶのは誇りが許さない。しかし、姉の手前、そして十以上は年上であろう相手の手前、少年の内では苦悩の選択だった。それを察しながら、セフィアーナは吐息した。
「イスフェルのこと、あんなに心配していらっしゃったんだもの……」
 しかし、自分がしたことに対する後悔はない。それはラスティンも同じ意見だったようだ。
「でも、イスフェルが自首したことは、別にいけないことじゃないよね? ――ん? 『いけない』っていうか……『正しくないこと』っていうか……何て言ったらいいかわかんないけど」
 弟の混乱ぶりに、セフィアーナは小さく笑った。
「言いたいことはわかるわ」
「よかった。――でも、もし昼間、二人が鉢合わせてたら、アイオールさんはイスフェルをどうしたかな」
 それこそが問題だった。
「政治的なことはよくわからないわ……」
 実際に、イスフェルから詳しいことは何も聞いていなかった。
 言葉を濁すと、セフィアーナは窓辺に立った。曇っているのか、夜空に星は見えなかった。
「あれ? 何か静かだと思ったら、アリオスは?」
「え? あ――」
 セフィアーナが振り返った時、ちょうどアリオスが憤慨した様子で部屋に入ってきた。
「ったく、あのマラナスってヤツ、ムカつくぜ」
「どうかしたの?」
 すると、アリオスはセフィアーナの寝台にどかっと腰を下ろした。
「あいつ、ずっとオレたちの入ってきた東門を張ってたらしいんだ。なのにイスフェルを見付けられなかったから責任感じてるみたいで、そのトバッチリがこっちに来たのさ」
「目立たないようにって隊商に紛れて入ったの、イスフェルの策じゃん。まあ、おまえはありえないほど一体化してたけど」
「おかげでうまくいったろ」
 茶々を入れ合う二人の前で、セフィアーナは首を傾げた。
「マラナスさんは、どうしてイスフェルのことを知ったのかしら。アリオス、何か聞いた?」
 すると、アリオスは相手を罵ったわりに、色々と情報を仕入れてきていた。
「東門を早馬が通ったらしいぞ。門番たちの様子がおかしかったから、役所へ探りに行ったらしいんだ。そしたら、上へ下への大騒ぎだったらしい。イスフェルのやつ、堂々と名乗ったみたいで、たまたま居合わせた奴らがそこいらでしゃべりまくってるらしいぞ」
 それを聞いて、ラスティンがげんなりと床に沈んだ。
「何でこの宿では誰もしゃべりまくってないわけ?」
「知るか」
「それじゃあ、アリオスは、アイオールさんはどうすると思う?」
 ラスティンから意見を尋ねられるという珍事に目を丸くしながらも、アリオスはそのことについては何も言わなかった。
「どうするもこうするも、イスフェルはもう牢屋に入っちまったんだから、外のアイオールにはどうしようもないだろ。いくらあいつがズシュール領主の息子でも、ここはツァーレンなんだからな」
「だよね……」
 しかし、セフィアーナには、アイオールがこのまますごすごとテイランへ戻るとは思えなかった。嫌な予感がした。


 翌朝、セフィアーナ、ラスティン、アリオスの三人が一階の食堂へ降りて行くと、まだ早い時間にもかかわらず、ひとり朝食を摂っていたジリストンの皿は空になり、彼は落ち着いた様子で湯気の立った飲み物を口にしていた。
「ジリストンさん、おはようございます。あの、他の方たちは……?」
 尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「隊長は、アスフィール様の件で、ひと足先に対岸へ戻られました」
 丁寧な言葉遣いは、セフィアーナが《太陽神の巫女》と知れたからだろう。その類い稀な歌唱力は勿論、相手が武官の場合、マラホーマ戦の勝利の誘導を評価されることも多かった――恐ろしいことに、実際は何もしていないのだが。
「対岸?」
「マクバの役所があります。聖クパロ河を渡れば、ズシュール領なのです」
「そうですか……」
 領主の息子でありながら、警備隊の隊長も務めているアイオールは、彼女たちをテイランへ責任をもって連れて行くと豪語したが、そのわりにはいきなりの肩透かしだった。事態が事態なので仕方ないのかもしれないが。
 昨夜、このツァーレンを出発した早馬は、宿場で繋ぎつながれ、まさに今頃、最終馬が王都の城門をくぐっている頃だろう。再びサイファエール全土が騒乱の予感に震撼するのだ。イスフェルの悲痛な決心が、王都の者たちの良心を揺り動かさんことを、セフィアーナは願わずにはいられなかった。
「貴女方の準備が整い次第、出発します」
 淡々と話を続けるジリストンに、突然、アリオスが噛みついた。
「おい、オレたちと一緒に行くのはあんただけか?」
 不満げな彼を、ジリストンは無表情のまま見遣った。
「もうひとり、ダイアスという者がいる」
「初めて聞く名前じゃねえか。あんたら、いったい何人いるんだ?」
「これで全員だ。ダイアスは、マラナスとは反対の西門にいたのだ」
「……そりゃご苦労なこった」
「アリオス」
 青年の苛立ちを感じ取り、セフィアーナは困ったように首を竦めた。楽天的な彼ではあるが、今まで自由に振る舞って来たので、この状況が少し息苦しいのだろう。カイルもイスフェルもいなくなった今、自分がしっかりしなければという自負もあるのかもしれない。だが、テイランで世話になると決めた以上、相手には従わなければならないのだ――それ相応の礼節をもって。
「そんなことより、早く食事にしようよ。お腹ペコペコだよ」
 ラスティンはさっさとジリストンの隣の卓へ腰を下ろすと、目線で姉を促した。少年もテイラン側の勝手な行動を、少々不満に思っているようだった。
「――そうね。さあ、アリオスも座って」
 気を取り直して宿が用意してくれた朝食を摂ると、三人は荷物をまとめて表に出た。すると、そこには初顔合わせとなるダイアスが、三人の馬の手綱を持って立っていた。その顔を見て、再びアリオスの眉根が寄る。
「ああ? おまえの顔、どっかで見たぞ……」
「いきなり失敬だな。おまえがアリオスとかいう奴だな」
「何だと!?」
 二人の言い争いを呆然と見ていた姉弟にジリストンが言うには、マラナスとダイアスは兄弟だという。イスフェルを見逃したと自己嫌悪に陥っているマラナスの方がひとつ年上で、二十一らしい。
「さあ、出発しましょう」
 そうジリストンの合図で一行が宿を発った頃。マクバの役所にいるはずのアイオールは、ツァーレンの宿――それもセフィアーナたちの向かいの宿の一室にいた。
 アイオールは、イスフェルを取り戻す気だった。セフィアーナの勘が当たったというわけである。なかなか融通の利かない彼女たちに計画を邪魔されるのを嫌って、昨夜のうちに密かに宿を変えたのだった。一種の意趣返しである。
「男たる者、やられっぱなしではいかん」
 ドーレスとマラナスが顔を見合わせるようなことを言って窓辺を離れると、アイオールは机上に広げた紙面に目を落とした。それは、ツァーレンの監獄の見取り図だった。それも昨夜のうちにバファロイたちに調べさせたのだ。
 見取り図が一夜のうち――それも短時間で完成したのは、運の良し悪しはともかく、イスフェルのもともとの護送先がアンザ島だったためである。通常の虜囚なら役所内の牢に入れられるが、相手はアンザ島送りになった天下の反逆者――それも一度は逃亡した――である。王都からの沙汰があるまで絶対に逃げられてはならないと、ツァーレンの代官は、イスフェルをアンザ島の監獄に負けず劣らず堅固なツァーレンの監獄へ収監した。だが、ツァーレンの監獄は、堅固ではあっても構造自体は単純で、聖クパロ河岸にあることから、小舟で近付けば、明かり取りの窓、あるいは換気口などから内部の様子は比較的簡単にわかるのだった。
「アスフィール様は三階にいらっしゃるようです」
「高さとしてはギリギリだな……。せめて四階がなくて良かったと考えるか」
 机を指でこつこつと叩くアイオールに、マラナスがそろそろと声をかけた。
「隊長、あの……」
「何だ? わからないことだったら、今、確認しておいてくれよ」
「いえ、そうではなくて……」
 部下のすこぶる歯切れの悪い様子に、アイオールは内心で苛々しながら顔を上げた。
「……何だ」
 すると、マラナスは見事に上司の苛立ちをぶちまけるようなことを言った。
「本気、なんですよね、この作戦……」
「でなければ、バファロイに土下座などするかっ」
「どっ、土下座――……」
 言葉を失うマラナスだった。彼の失態が上司に無様なことをさせることになったのかと思うと、胃が縮み上がった。しかし、当の本人は溜め息を吐きながらも、意外と平気な顔色をしていた。
「誰にも言うなよ。土下座でもしなければ、あのカタブツが動いてくれるものか」
 その時、
「堅物で悪うございましたな」
「バ、バファロイ……」
 今度はアイオールが縮み上がる番だった。バファロイはじろりと冷たい視線をアイオールに向けたが、それ以上は何も言わなかった。彼の内にある情報が、一刻の猶予も許さなかったのだ。
「隊長、やはり今夜決行がよろしいようです」
「何かわかったのか?」
 話が逸れて安堵したのも束の間、バファロイから発されたのは耳を塞ぎたくなるような内容だった。
「最悪の時機で、アスフィール様の王都からの追捕隊が到着しました。ツァーレンの近くにいたらしく、道中で聞き及んだようです」
「くそっ。面倒な邪魔が入ったな……。指揮官は誰だ?」
「追捕隊の隊長は王都の刑務官で、シールズという名前だそうです」
「聞いたことはないな。何にしても、もたもたすればアスフィールを持って行かれることは明白だ。往路の二の舞には決してさせぬ」
 再び窓辺に立ったアイオールは、意を決して部下たちを振り返った。
「よし。今宵、日没とともに行動開始だ」

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