The story of Cipherail ― 第四章 波間に揺れる想い


     9

 突如、独房の壁が眩いほどの橙色に輝いた。ツァーレンが面するサイラス内海に、日が没しているのだろう。光の差し込む穴は天井間際に空いており、イスフェルは床のむしろの上でその様子を思い浮かべるしかなかった。そして、陽光とくれば、自然と少女のことが思い出される。
「セフィたちは、どの辺りまで進んだだろう……」
 予想に反して監獄に連行されただけの前日とは異なり、この日は朝から取り調べが行われ、つい先ほどまで、この独房前の廊下には、代官や刑務官たちが大挙して押し寄せていた。通常なら別室で行われる取り調べだが、逃亡の可能性を考慮したのだろう――前科者なので文句の言えた義理ではないが。昨晩はさすがに今後の取り調べのことで頭がいっぱいだったので、ゆえに彼女たちのことに想いを馳せるのは、実に別れた日以来のことだった。
「――ああ、しまった。最後にセフィの歌を――せめて竪琴を聴かせてもらえばよかったな」
 一度そう思うと、逃がした魚は彼の脳裏でますます大きくなり、イスフェルは嘆息した。
 旅の道中では誰に聞きつけられるとも限らず、少女は歌も弾琴も封印していた。それでも、別れ際に口ずさむくらい、爪弾くくらいはしてもらえただろう。《尊陽祭》の聖儀といい、王子のお披露目の儀式といい、セフィアーナの才能の鑑賞に関してまったく時運のない彼だった。「最後に」というのは、さすがに今後、少女と巡り会える可能性を懐疑するからだ。
 その時、階下から軍靴の音が響いてきた。時折、喚き声が聞こえてくる二階には数人の囚人が入っているようだが、最上階の三階にはイスフェル以外いない。二階からさらに階段を上がって来ているということは、彼に用があるということか。
 イスフェルが身を固くして待っていると、案の定、靴音は彼の独房の前で立ち止まった。扉の鉄格子の窓へ慎重に視線を遣ると、そこには意外な人物が立っていた。
「おまえは……」
 寄りかかっていた壁から身を起こす青年に、訪問者の男――イスフェル護送隊の一員で、唯一、チストンの惨禍を免れたシールズは、どういうわけか和やかな笑みを向けてきた。
「『今は捕まるわけにはいかない』――こういうことだったのですね、イスフェル殿」
「え……」
「貴方は犯人ではない。私の仲間を殺した仇では、ない」
 ツァーレンの代官たち――いや、サイファエール中の誰もが目下、刑務官惨殺の犯人と疑わない青年に向かって、シールズはいきなり断言した。当のイスフェルは、自分の無実を支持してくれる喜びよりも、出会い頭の和解の驚きの方が勝り、ただ呆気に取られていた。そんな青年を見て、シールズはひと息ついた。
「昨日から貴方への面会を申し入れていたのですが、代官が相当、慎重になっていましてね。おかげで、ここの鍵も貸してもらえませんでしたので、しばらくこのままで話をさせてください」
「そ、れは、かまわないが……」
 鉄格子の窓は扉の上方に付けられているため、床に座っていられるイスフェルとは違い、ずっと立っていなければならないシールズの方が気の毒だった。いや、そもそも彼に何の話があるというのだろうか。
「私がチストンの犯人でないというなら、なぜおまえがここに……?」
 仲間を殺された恨み一心で追いかけてきたというのなら話はわかる。だが、シールズは先にそうでないことを明言している。
「国王陛下から、貴方の追捕隊の責任者を仰せつかったのです」
 シールズの答えは、イスフェルにはいっそう解せなかった。国王が彼に追捕隊を差し向けたことは、この際、仕方のないことである。その隊長に現場の生き残りが任命されたのも理解できる。だが、その責任重大なはずのシールズが、なぜイスフェルの無実を確信しているのかは、まったく理解できなかった。
「おまえは私をどうするつもりだ……?」
 混乱している元宰相補佐官に、シールズは、チストンから王都へ、そして再び野へ下った経緯を語った。イスフェルの無実を信じたゼオラの想い、イスフェルに追捕隊を派遣した国王の想いを。
「……私はずっと貴方が残した言葉について考えていました。貴方の足取りがあまりに掴めぬ時は、王弟殿下に親衛隊をお付けになった陛下の判断は正しかったのかと、……やはり貴方は私の仇だったのかと悩みました。けれど、すべては間違っていた。貴方の自首に、誰もが救われたのです」
「――違う。それは違うぞ、シールズ」
 感慨深げなシールズに、イスフェルは険しい表情で首を振った。
「私は刑務官たちを、おまえの同僚を殺してはいない。そのことは、これから命を賭けて訴えていくことだ。まだ、誰も救われてはいない。何も始まってはいないのだ」
「しかし、少なくともこれで、弟君はサイエス監獄から出られます」
「だが、その命を下す陛下は……」
 イスフェルは石の床を拳で叩いた。石の冷たさが、心をもぶるりと震わせる。
 シールズの説明によると、国王の昏倒はイスフェル自身が原因だった。彼の逃亡が、病がちだった国王にさらなる負担を強いてしまったのだ。
「……一方は、上将軍の座に親衛隊の獲得か。なぜこんなことになってしまったのだろうな……」
 恩赦したにもかかわらず逃亡したイスフェルを、王弟トランスは決して許さないだろう。そんな彼が、重篤の国王に代わって弟シェラードの出獄を許可するはずがない。また、シェラード自身のことを思うと、心がねじ切れそうに痛んだ。予想し得る措置ではあったが、弟は、当のイスフェルよりも長きに渡って石部屋の冷たさを味わっていたのだ。
「イスフェル殿、何をおっしゃいます。陛下はまだ王宮にいらっしゃいます。病と闘っておいでです。貴方が自首されたのをお聞きになれば、もしや明日にも御回復となるかもしれませんよ。さすれば、弟君もすぐに出られます」
「シールズ……」
 それは楽観に過ぎるというものだが、シールズの必死さは、イスフェルにもひしひしと伝わってきた。しかし、シールズがそうなったのには、別にまたしても重大な案件があったからだった。
「イスフェル殿。先ほど貴方は私に、ご自分をどうするつもりかとおっしゃった。私は追捕隊の長として、貴方に王都へ戻っていただきたいと考えています」
 処遇の可能性のひとつとしてそうなり得ることは、イスフェルも想定していた。ただ、それが現実味を帯びてくると、違う感慨も湧いてくる。
「王都へ……」
 彼が失ったものの多くが残る、あの都へ、戻る。今生、二度とは見られぬと覚悟した、あの白亜の宮を、再び目にすることができるというのか。
「――そして、チストンでのことだけでなく、そもそも剣舞祭で宰相閣下を弑した人間を見つけ出し、すべての罪を無に帰していただきたい」
 だが、シールズの熱弁が、イスフェルを淡い夢を打ち消した。
「シールズ……?」
 男の表情が今までになく強張っていることに気付いて、イスフェルは立ち上がった。すると、シールズは廊下を見回し、「こちらへ」と小声で青年を呼び寄せた。そして、声音低く告げたのである。
「閣下が……ゼオラ殿下が、行方不明になられた模様です」
 いったい何を耳にしたのかと、イスフェルは弾かれたように顔を上げた。
「な……何だと!?」
「宿駅の者の話では、聖都へ着く直前のことだとか……」
「何を馬鹿な! と、共の者――近衛は!?」
 扉がなければ掴みかかってきていただろう青年の焦燥ぶりに、シールズは苦渋の表情を浮かべた。
「……近衛の精鋭もろとも、です」
「………!!」
 言葉が、見付からなかった。荒野を駆ける馬のように、心臓が早鐘を打つ。ゼオラが、あの豪傑が、天下無敵と謳われた上将軍が、最もあり得ない手段で姿を消したというのか。いったい、この国で、何が起こっているというのか。
 イスフェルはよろよろと後ろに下がると、次には囚われの獅子のように狭い独房の中をうろつき始めた。
(――見失うな。一番大切なことは何か、今度こそ、見失うな)
 そして、はたと立ち止まる。
「――ということは、今、王都は……」
「表に立たれておられるのは、幼い王太子殿下と、そして王弟殿下のみ――」
 その時、まさに獅子のような唸り声が青年の口から漏れ出、既に薄暗くなった室内に響き渡った。その、きつくきつく握りしめられた両の拳から、血が滴る。
 王子たちに背後から忍び寄る影の正体が、彼にははっきりと見えていた。憎かった。何より、己の未熟さが。不甲斐なさが。愚かさが。
「……おまえに従おう、シールズ」
「イスフェル殿」
「おまえは陛下から直に追捕隊の長を言い渡された身。それなら、代官の意にかまうことはない。私を、王都へ連れて帰ってくれ」
 青年が戻ったところで、王子たちの盾になれないことは百も承知のことだ。それどころか、すぐにまた死の宣告を受けることになるかもしれない。しかし、こんな遠く離れた場所にいるよりはましだった。一ピクトでも、いや、せめて一モワルでも近くにいれば、何かの役に立つかもしれない。そして、家族は勿論、王子たちの保身の為にも、必ずや自身の無実を晴らす!
 要人たちの意を汲み取り続けているシールズは、この時も深く頷いた。彼がイスフェルに発破をかけたのは、仲間の敵討ちのためにお膳立てしてくれたゼオラに報いるためだった。
「それでは、代官と話を付けて参ります。出立は早い方がよろしいでしょう?」
 頷くイスフェルに、シールズはいっそう真摯な面持ちで言った。
「王都へ、今度こそ必ず無事にお連れします」
「……よろしく頼む」
 しかし、二人が護送する者される者として再び相まみえることはなかった。シールズが帰った直後、監獄から火の手が上がったのである。


 階下から朦々と吹き上げてくる煙に、イスフェルはぼろぼろになった囚人服の袖で口元を覆うと、河側の壁にその背を付けた。白い煙が、先ほど《光道》ともなった穴から外へ勢いよく出ていく。
「くそっ。今度はいったい何だっ」
 おそらく火元は一階階段横の倉庫だろう。入獄の際、囚人用の藁布団が積まれているのを見た。問題は、火種がどこからやって来たか、である。
「まさか……」
 良からぬ予感に身を竦ませた時、廊下をこちらへ走ってくる音がした。
「イスフェル殿、ご無事ですか!?」
 声の主は監獄の刑務官たちだった。その数、二名。
「私は大丈夫だ。何があった!?」
「わかりません! 急に倉庫から火が出て……下はもう火の海です!」
「二階の囚人は!?」
「手分けして出しています。さあ、お急ぎ下さい!」
 扉の鍵を開けるその短い間にも、煙は黒みを増してますますひどくなり、三人は咳込んだ。
「下が火の海なら、どうやってここから出る!?」
 王都の現状を知った今、こんなところで死ぬわけにはいかない。必死の形相のイスフェルに、刑務官たちは頼もしく応じた。
「大丈夫です! こちらへ!」
 彼らは独房を出たイスフェルに縄をかけるようなことはしなかった。それどころか、前後を守るように立ち、イスフェルを誘導する。イスフェルを大過なく次の部署へ引き渡したいという代官の意が徹底されているらしい。
 イスフェルが刑務官たちに従って廊下の突き当たりへ進むと、階段の脇に、錠の掛かった扉があった。
「この先は露台のようになっているんです!」
 熱風さえ吹きすさぶ中、三人は煙とともに外へ転がり出た。直後、新鮮な空気を見い出した炎が、そこから竜のように立ち昇る。
「イスフェル殿、お怪我は!?」
「大事ない。おまえたちの首が飛ぶようなことはしないから安心しろ」
「さ、さようで――」
 その時だった。聞き慣れた金属音がして、辺りに立ち込める黒煙の中で何かが妖しく煌めいた。
「危ない!」
 イスフェルは刑務官の腰に下がっていた剣を掴むと、鞘ごと宙にかざした。瞬間、落ちてきた長剣に鞘が割れ飛び、中の刀身が露わになる。
 流れゆく煙の中から現れたのは、漆黒の衣装を纏った男だった。顔さえ、紗のような薄布で覆っている。
「やはり、また貴様らか……!!」
 忘れたくても忘れようもない、チストンで対峙した暗殺者たちに、姿かたちがそっくりだった。
 イスフェルが斬撃を持ち堪えている間、剣を取られた刑務官が敵の足元を払おうとしたが、失敗に終わった。抜剣したもう一人の刑務官が割り込んできたのだ。
「貴様、何奴だ!?」
 しかし、剣の腕は敵の方が遥かに上だったようである。五度と撃ち合わぬ前に、刑務官は床に沈んでしまった。
「雑魚に用はない」
 初めて男が口をきいた。イスフェルにはどこか聞き覚えのある声のように思ったが、そうであろうとなかろうと、倒れた刑務官の姿を見れば敵と疑わぬ余地はない。
「……剣を貸せ」
「し、しかし……!」
「ここで死にたいのか! 早くしろ!!」
 さすがに囚人に武器を渡すことはできないとためらっていた刑務官だが、イスフェルの怒号で腰元に手を伸ばした。しかし、壊れた鞘の欠片が鍔の間に入り込み、緊張も手伝ってうまく引き抜くことができない。
「何をしている、早くしろ!」
「そっそれが……ぬ、抜けません……!」
「くそっ」
 何か武器はないかと視線を走らせると、倒れた刑務官の剣が露台の隅に落ちているのが見えた。そこへ走り寄ったイスフェルだったが、寸でのところで間に合わなかった。
「そうはさせぬ」
 敵は剣を取ろうと屈んだイスフェルの喉元に長剣の切っ先を突き付けると、踏み付けていた足元の剣を河に放った。
(――何だ……?)
 この時、妙な違和感がイスフェルを襲った。剣を放る余裕があるのなら、最初から彼の首を刎ねれば済むことだ。なぜ、そうしないのか。しかし、長剣の唸りがそれ以上、彼に考える暇を与えなかった。
「イスフェル殿……!」
 防戦もできず逃げ回るしかないイスフェルに、結局、剣を諦めた刑務官が駆け寄ろうとしたが、丸腰が増えたところで死体の数を増やすだけだ。刑務官では実戦経験もほとんどなく、連携を取るのも難しいだろう。今後のために、イスフェルは何としても生き残らなければならない。自分を守るだけで精一杯な今、刑務官にまでかまっていられなかった。
「来るな! おまえは先に逃げろ!」
「そっそのようなこと――」
「私は死なない! おまえが応援を呼んで来るまではな! 何度も言わせるな! 早くしろ!」
 それでもしばらくその場に留まっていた刑務官だが、再び扉から炎が吹き出すのを見て、ようやく決心したようだった。彼は陸側の壁まで走って行くと、その下にあるらしい足場を伝って降りて行った。
「残念ながら、おまえには使えない手だな。うまくあそこへ辿り着けたとして、この剣に下まで突き落とされるだけだ」
「それはどうかな」
 じりじりと間合いを取り合いながら、イスフェルは忙しく考えを巡らせた。
「今まで散々姑息な手を使っていたくせに、今回は派手にやったものだな。最早手段を選んでいられなくなったか」
 腹立たしいことだが、確かに敵の言う通り、イスフェルが刑務官の使った道を行くのは難しいだろう。落ちれば確実に死ぬ。さらに、刑務官が味方を連れて戻るまで、逃げ続けていられるか。
「だが、おかげで、事態は私にも有利になった」
 その時、自分の言った言葉にまたしても違和感を覚えて、イスフェルは困惑した。
(――そうだ、有利過ぎる……)
 敵が今まで徹底的に陰に隠れていたのは、すべての罪をイスフェルに着せるためだった。しかし、今回の件でそれはすべて水泡と帰してしまった。監獄に火を付けるという行為は、敵襲を告げる狼煙を上げるのと同じことだ。襲撃者の存在を知った刑務官をみすみす見逃したのも解せない。それとも、今回の件までイスフェルの罪とする術を持っているというのか。
(何にしても、ここで死ぬわけにはいかないことに変わりない!)
 この間にも河側に追い詰められつつあったイスフェルは、横目で下を見た。黒い波が炎を映して紅く輝いている。その高さは十ピクト程と思われた。
(この高さなら行けるか……)
 その昔、テイランにいた頃、度胸試しとちょっとした崖から海へ飛び込んで遊んだことがあった。その事を知った伯父にはこっぴどく叱られたが、馬鹿はしておくものだとイスフェルは思った。
(おかげで予想も付きやすい……!)
 斬撃をかわした直後、イスフェルは露台の縁に立った。次の瞬間、迷わず身体を宙に放り出す。
 初秋の河は、夜ともあって水温が低かったが、凍えるほどではなかった。着水の痛みもほとんどなく、イスフェルは無数の泡とともに数ピクト泳いだ場所から頭を覗かせた。
 監獄からは火の粉が絶え間なく河面へ降り注ぎ、まるで昼間のような明るさだった。火の爆ぜる音とともに怒号や悲鳴が聞こえてくる。飛び降りた露台を見上げたが、もはや独房から吹き出す煙が邪魔をして、敵の姿を見付けることはできなかった。
 どこから陸に上がろうかと首を巡らせた時、イスフェルの目にまたしても嫌なものが映った。抜剣した男たちが、岸辺で河面に視線を走らせていたのである。漆黒のいでたちは無論、刑務官ではない。
(やはり、おかしい。オレにここまでする価値はないはずだ……)
 イスフェルは大きく息を吸い込むと、再び河へ潜った。向かったのは、対岸にあるズシュール領マクバの役所だった。


 セフィアーナは、気が変になりそうだった。
 対岸の、天を焦がすかのように燃え盛る炎は、マクバの役所の一室からもよく見えた。本来、窓布を開けただけで見える方角の部屋ではなかったが、たまたまラスティンが窓を開けた時に焦げくさい臭いがし、原因を探ろうと身を乗り出して発見したのだ。
「ねえ、あそこって、イスフェルがいるとこだよね!? どうしよ、ねえ、どうしよ!?」
 弟の喚きを、少女は最後まで聞いてなどいなかった。人目に付いては困るという理由で半ば軟禁されていた部屋から飛び出すと、馬を引き出す間も惜しみ、徒歩でツァーレンに渡る橋へと向かう。無論、その後ろにはラスティンやアリオス、そして狼たちも続いていた。
「ねえ、ジリストンさんたちに声かけた方がよくなかった!?」
「気付いてなきゃ、護衛役失格だ!」
 アリオスが嫌みを飛ばした時、狼族二人の両側を馬が駆け抜けた。言わずと知れたジリストンとダイアスである。
「セフィアーナ殿、お待ちなさい! どこに行かれるのです!」
 騎馬の二人は少女の前に立ちはだかったが、それで怯むセフィアーナではなかった。
「そんなの決まってます! あそこです!」
 まっすぐ対岸の火事場を指し示した彼女に、ジリストンは首を振った。
「貴女はあそこへは行けません」
「何故です!? あなた方はイスフェルのことが心配じゃないんですか!?」
 やっとの思いで、それこそ死ぬ思いをして、イスフェルはツァーレンに辿り着いたのだ。これからという時に、火事で生命を落とすなど冗談ではない。彼がこれ以上の辛酸を舐めるのを、黙って見ているわけにはいかなかった。
「無論、心配です。なれど、今の我々には貴女の安全の方が重要。それこそがアスフィール様の願いなのですから」
「そもそも、この時間、橋を通ることはできませんよ。たとえ行けたとしても、貴女にできることは何もありません」
 苛立ちを隠さないダイアスの言葉は、セフィアーナの胸を容赦なく抉った。彼女とて自分の無力さは百も承知だ。それでも、アイオールの意に反してジリストンたちを危険に晒してでも、役所の部屋でじっとしていることはできなかった。
 唇を噛み締め、悔しさにうち震えているセフィアーナを見て、堪えに堪えていたアリオスの怒りがついに爆発した。
「確かにてめぇらの言う通り、オレたちが向こうへ行ってできることはねぇよ。だが、てめぇらはどうなんだ! この非常事態に、アイオールの野郎はどこに隠れてやがる!」
「貴様、口を慎め!」
 上官を侮辱され、顔を怒りで真っ赤にしたダイアスの手は、剣の柄にかかっていた。一触即発の事態に、相変わらず無表情のジリストンが割って入る。
「二人とも馬鹿はよせ。隊長が戻られればわかることだ」
「『戻られれば』って……アイオール様は役所にいらっしゃるんじゃないんですか!?」
 痛いところを突かれて、馬上の二人は押し黙った。
「まさか、あの火事……」
 自分の悪い予感を思い出し、セフィアーナは表情を曇らせた。それを確信に変えるようなことを、ジリストンは淡々と言った。
「我々の口からは何も言うことはできません。とにかく役所へ戻ってください。隊長もじきに戻られます」
「……わかりました」
 とても納得できる状況ではなかったが、橋が通れないのでは仕方がない。泳いで渡ろうにも、河幅は一モワルはありそうだった。
「姉さん、大丈夫……?」
 往きは脇目も振らず駆け抜けた道をとぼとぼと引き返す姉を見て、ラスティンが心配そうに声をかけてきた。
「うん、大丈夫よ。ごめんね。ラスティンも、それからアリオスも、ありがとう」
 特にアリオスの怒りの発言は、セフィアーナの気持ちを代弁したものでもあった。
「何を言ってるんだよ。相変わらず姉さんは水臭いな」
 その後、監視されるように役所へ戻った三人だったが、軟禁の解除だけは許してもらい、アイオールたちの帰参がすぐにわかるよう、庭で待つことにした。
 セフィアーナが最も河岸に近い石塀にもたれて対岸を見ていると、ラスティンが茶杯を持ってきてくれた。
「イスフェルならきっと大丈夫だよ。だって、あの・・イスフェルだもん」
 火事を発見した当初とは打って変わって、ラスティンは、セフィアーナの横に並びながら、明るく言い放った。
 確かに、荒野で獣や盗賊に襲われた時も、さらには砂嵐に遭った時でさえ、イスフェルは対処を誤らず、自分たち三人をも助けてくれた。また、セフィアーナは、彼が将軍たちに認められた軍師であることも知っている。しかし、そんな彼の才をもってしても、この数か月の転落を防ぐことができなかったのだ。世の中に絶対ということはないという、皮肉な例だった。
「ありがとう、ラスティン。そうよね。今はイスフェルを信じて待つしかないわよね」
 イスフェルのことを心配せずにはいられなかったが、それも度を過ぎると、今度は自分がラスティンたちに心配をかけてしまう。セフィアーナはひと口だけ茶を飲むと、大きく息を吐いた。
 真下の茂みから男の鋭い声がしたのは、その時だった。
「動くな」
 お互いが何かを言ったのかと顔を見合わせる姉弟に、声の主は呪縛の言葉を発した。
「動くなと言っている。後ろの者たちに気付かれぬよう、おとなしく前を向いていろ。さもなければ、私の仲間がおまえたちの仲間を殺す」
 突然の強迫に頭が真っ白になった二人だったが、動くような馬鹿な真似はしなかった。
「わ、わかりました。それで、な、何の用ですか……?」
 侵入者に対してまぬけな質問この上なかったが、そんなことを考える余裕などありはしない。そして、次の言葉が息をする余裕さえ奪っていった。
「《太陽神の巫女》、手荒な真似をして申し訳ない。おとなしく質問に答えていただければ、我々は何もしないことを約束しよう」
 それは最初の厳しい声とは打って変わった穏やかな声だったが、内容の厳しさは最初の比ではなかった。セフィアーナが《太陽神の巫女》であること、そしてここにいることを知られてしまっているのだから!
「あ、あなたは、どなたですか? ツァーレンの、方ですか……?」
 思い当たるのは、ツァーレンの市中で出くわした神官の馬車だけだった。そして、それは当たっていた。
「私はツァーレンのグロヴァース神殿を預かるライネル様の配下の者。貴女は今年の《太陽神の巫女》セフィアーナ殿に相違ないか?」
「……はい」
 この期に及んで否定しても仕方がない。セフィアーナはラスティンと目を合わせた後、素直に頷いた。
「よろしい。では、なぜ貴女が今ここに? ライネル様は、貴女が《光道騎士団》に付き従い、エルミシュワに行かれたことまではご存知だ」
「それは……こちらが訊きたいくらいです。エルミシュワへはアイゼス様を助けるために行ったのに、村人がみんな亡くなってしまって……。それなのに団長のアルヴァロス様は何も説明してくださいませんでした。私、《光道騎士団》のしていることがわからなくなって……恐ろしくなって、それで逃げ出したんです。聖都へは勿論、故郷へも帰れず……だからここに」
 相手の態度が紳士的なことに、自らも少し落ち着きを取り戻したセフィアーナは、必要最小限のことを淡々と語った。亡き母のことを話せば、ラスティンの故郷エルジャスに迷惑がかかるかもしれず、カイルのことを話せば、彼の生命が危うくなるかもしれず、そのくらいの分別は少女にも付いた。
「これからどこへ?」
「それは……そこまでは言えません」
「仲間が死んでもいいと? 安心なされよ。ライネル様は貴女の行き先をただ把握しておかれたいだけだ。《秋宵の日》はいよいよ明日。巫女でもなく神官でもない貴女に、もはや用はない」
 男の言葉に、セフィアーナははっとした。
(――そうだわ、明日は《秋宵の日》……)
 本来なら聖都で神官となる儀式をし、希望が通れば王都の神殿へ行くはずだった。その夢を思い描いたのはそんな遠い日でもないのに、彼女のまわりにいた人々は誰もいなくなっていた。アイゼスも、リエーラ・フォノイも……。
(私はもう、巫女ではなくなる……)
 少女の心に張り巡らされていた緊張の糸が、音を立てて切れたように思った。
「なんだよ、それ……。《太陽神の巫女》って、そんなもんなのか!? そんなもんのために、姉さん、こんなつらい思いして……!」
 ラスティンの震える声にセフィアーナが顔を上げると、少年の手は石塀の上で強く握りしめられていた。
「少年、威勢がいいのは結構なことだが、おまえから殺してもいいのだぞ」
 容赦ない男の物言いにも、この時ばかりはラスティンも怯まなかった。
「だって……言ってることがおかしいじゃないかよ。用がないなら、姉さんをそっとしといてくれよ……」
「ラスティン、やめなさい」
 どうせここで見張りを続けられれば、行き先は容易に知られてしまう。生命を賭けても仕方のないことだった。
「わかりました。行き先をお教えします」
「姉さん!?」
「その代わり、私の質問に答えてください。ひとつ、だけですから」
 まるで生命の取引をしているようだった。緊張のあまり唾を飲み下す少女に、男はしばしの沈黙の後、静かに口を開いた。
「……いいだろう。何だ?」
「ライネル様があなたを寄越したのは、何故なんです……?」
 すると、男は小さく笑ったようだった。
「王都へ行かれて、耳目も磨かれたと見える。――ライネル様は、聖都の将来を懸念されておいでなのだ」
「聖都の将来……?」
 しかし、男は彼女の疑問に答えることはなかった。
「質問はひとつだけのはず。さあ、行き先を」
 茂みの中で何か金属が光るのが見え、セフィアーナは観念した。嘘を吐こうにも、そもそも彼女は地理に疎く、適当な地名も思いつかなかった。
「……テイランです」
「ご協力感謝する。このことは他言無用。よろしいな」
 あっさりと尋問を切り上げようとする男に、さすがにラスティンも呆れて減らず口を叩いた。
「最後まで脅すんだね。もう二度と来ないって約束してくれるなら、誰にも言わないよ」
「それは保証できぬな。だが、巫女殿。貴女が巫女であろうとなかろうと、私は貴女の歌が好きだ。どうぞ、ご無事で」
「そっ、れは……ありがとうございます――」
 その時、アリオスが暇つぶしに投げた干し肉を追って、アグラスとイリューシャが二人の方へ駆けてきた。一瞬、そちらに気を取られた姉弟が再び前に向き直った時には既に、茂みに人の気配はなくなっていた。
「……今のはいったい何だったの……?」
 呆然と呟くラスティンに、セフィアーナは無言で首を振るしかなかった。
「短気だったけど……いい人だったね……。姉さんの歌も褒めてくれたし……」
「うん……」
 だが、確かに男には殺気があった。戯れ言はすべて、生命を奪られずに済んだから言えることだということは、二人にはよくわかっていた。
 それにしても、と、セフィアーナは首を傾げた。名を明かしたライネルは、神官中の神官である。そんな彼が、暗殺者のような人間を囲っているとは、信じがたい事実だった。彼が懸念しているというもののために必要ということなのか。
(聖都の将来……それにはきっと、《光道騎士団》が深く関わっているんだわ……)
 だからこそ、彼女のもとへ来たのだ。ろくな情報を与えられなかったが。
 その時、ラスティンがセフィアーナの袖を引っ張った。
「姉さん、今のことって――」
「ええ。しばらくは約束を守りましょう」
 すると、ラスティンはぷうと頬を膨らませた。
「ちぇっ。ダイアスの奴をギャフンと言わせる絶好の材料なのに」
 自分たちが生命の危険に晒されたことは、護衛役たる彼らの失態である。だが、そもそも部屋でおとなしくしていれば起こらなかったことだということに、少年は気付いていなかった。
「ラスティンったら」
 困ったように小さく笑うと、セフィアーナは再び対岸に目を遣った。この頃になると火もだいぶ鎮まり、監獄の辺りだけがいっそう濃い闇に覆われていた。
(イスフェル……!)
 セフィアーナが胸の前で手を揉んでいると、隣でラスティンが訝しげな声を上げた。
「姉さん、あれ見て。何だろ、酔っぱらい……?」
 弟の指さす方向に目を移すと、左手の役所の門に向かって、ひとりの男がよろよろと歩いてくるのが見えた。歩くのがつらいのか、時折立ち止まっては膝に手を当てて蹲らんばかりだった。
「ラスティン、ジリストンさんを呼んできて」
「わかった」
 それから、セフィアーナはひとり、石塀に沿って門の方へ近付いていった。先ほどの刺客のこともあるので、最初はそろそろとだった歩調だが、一瞬、役所の篝火に照らされた男の姿に、それは次第に速まっていった。
(まさか、そんな、うそ……ほんとなの……!?)
 最後には駆け足になって、セフィアーナは辿り着いた門扉にしがみついた。
「イスフェル……!」
 男が、顔を上げた。汚れた顔が、奇妙に歪んだように思った。思った、というのは、彼がそのまま地面に倒れ込んでしまったからである。
「ここを、ここを開けてください……!」
 門番に頼んで扉を開けてもらうと、セフィアーナは青年のもとへ走っていった。
(無事だった! 無事だった!! 無事だった……!)
 そう感激に心をうち震わせながら。

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