The story of Cipherail ― 第四章 波間に揺れる想い


     7

「思い出した……!」
 市場の雑踏の中で、セフィアーナは手綱を引きながら口を覆った。町の外へ出たところで隠れる場所もなく、東門回りで再び港街に戻ってきた一行だった。
 絶句する少女を見て、イスフェルは人影もまばらの波止場へ皆を誘導した。
「姉さん、何を思い出したの!?」
 男たちの注目を浴びながら、セフィアーナは青ざめた顔で口を開いた。
「さっきの、御者の人……巫女の推薦試験の時、遅れてきた――エルティスが乗ってた馬車の人だった……!」
「えー!」
 ひとしきり驚いて、しかし、ラスティンは首を傾げた。
「――つまり、どういうこと?」
「バッカ野郎。だからつまり、向こうはセフィの顔を知ってるってことさ」
 呆れた表情のアリオスの説明に、ラスティンは口をあんぐりと開けた後、頭をかきむしった。
「えー!! ダメじゃん! マズイじゃん! ヤバイじゃん! どーするの!? どーするのさ、イスフェル!?」
 テイランの人間との待ち合わせ場所は、その神殿の正門である。問われたイスフェルは、小さく吐息した。
「……待ち合わせ場所を変更する」
 迂闊だった。《光道騎士団》の手が回っている危険性を考えれば、神殿前での待ち合わせなど、本来計画するべきではなかった。
「変更するったって……あっちとどうやって連絡取るんだ?」
 波止場の石段に腰を掛けながら、アリオスはイスフェルを見上げた。
「あっちはもう待ってるかもしれないんだろ? 結局は神殿へ行かないといけないんじゃないのか?」
「勿論そうだ。だが、何も全員で行く必要はない」
「じゃあ、誰が行くんだ?」
 だが、それは言わずもがなの台詞だったようだ。三人の視線を受けて、アリオスは大きな溜め息を吐いた。
「――だよな。セフィは面が割れてるし、ラスティンも《光道騎士団》がいたらヤバイし、イスフェルはテイランの人間には会えねぇんだし」
「ごめんね、アリオス。あなたばっかり……」
 申し訳なさそうなセフィアーナに、アリオスはふいに悪童のような笑顔を浮かべた。
「なぁに、これでオレ様の評判もいっそう上がるってもんよ。何にもしてない誰かさんと違って」
 青年の鼻持ちならない言い方に、ラスティンは憤慨してダンッと足を踏み出した。
「何だと、アリオス! おまえの評判なんて上がったって誰が――」
「何でおまえが怒ってんだよ。誰も何もしてないのがおまえだなんて言ってないだろうが」
 からかわれて、ラスティンは猫が毛を逆立てるように奇声を上げた。その隣で、セフィアーナがぼそりと呟く。
「じゃあ、私のことね……。そうよね、私、迷惑かけてばっかりで……」
 縮こまる少女を見て、アリオスは容易に狼狽した。
「え、や、あの、セフィ。おまえのことじゃ……だから――そう、コイツ。コイツのことだよ」
 指さされたラスティンは、馬が驚いて立ち位置を変えるほど地団駄を踏んで見せた。
「やっぱりオレのことじゃないか! こンの、バカアリオス!」
「あーあーもう、うるせえな。イスフェル、話を進めてくれよ。オレは神殿へ行ってどうすればいいんだ?」
 火に油を注ぐ性のアリオスに苦笑いしながら、イスフェルは最寄りの宿屋に部屋を手配すると、皆に段取りを説明――念のため、二度ほど――した。
「よっしゃ。あとはオレに任せとけ! 行くぞ、イリューシャ!」
 勢いよく部屋の扉を開けたアリオスを、しかし、イスフェルは慌てて呼び止めた。その困惑顔を見て、今度はアリオスの方が苦笑した。
「――だよな。コイツ連れてちゃ、目立って仕方がないよな。さっきの連中にも見られてるし」
 言うと、アリオスは独り寂しく神殿へと出かけたのだった。


 これほど長きに渡って口を閉じたのは、彼の記憶にないくらい久しぶりのことだった。アリオスは、一度も背後を振り返ることなく一モワルほどの坂を上り切ると、ひと呼吸おいて踵を返した。眼下に、青い地平が延々と続いている。
「……これがサイラス内海の色か。パーツオット海より碧いな。なあ、イリュー――あ」
 散々孤独との戦いに苦心しながら神殿前まで辿り着いたというのに、最後の最後で足下に目を遣ってしまった。溜め息を吐いて、青年はひとり、頭を掻いた。
(叔父貴が旅を続けていられるのも、ベーゼルが一緒だからだな、きっと)
 ベーゼルとは、ラスティンの父カルジンの狼の名である。
 ラスティンや村人たちは、カルジンの放浪を出奔癖放蕩癖と嫌っているが、アリオスは、カルジンを尊敬している彼だけは、気付いていた。カルジンが旅を続けているのは、他ならぬ村人たち、そして家族に、カルジン自身を受け入れてもらいたいからだ。老いた父に溺愛された彼が、族長の座に興味がないことを兄たちにわからせ、そしてたとえ末席でも座に加えてもらうため――。その結果、皮肉にも旅自体を愛するようになったのだろうが、如何せん見知らぬ土地で独りぼっちというのは心が乾く。特に、今のように何かに感動した時は。
「――さてさて、早いとこ用を済ませてイリューシャのとこに帰るか。……それにしてもデカい神殿だな」
 神殿に向き直ったアリオスは、左右を見回してみた。どちらに首を巡らせても、神殿の壁が霞むほど彼方まで続いている。グロヴァース神殿が大きな神殿とあって、通りに巡礼者など人の姿が絶えることはないが、肝心の待ち人らしき姿はなかった。少し敷地内も覗いてみたが、同様である。運が良いのか悪いのか、先ほど見咎められた神官が警戒態勢を取っているような雰囲気はなく、神殿内には青年の苦手とする静寂が充ち満ちていた。
「……何だよ、まだ来てねぇのか?」
 仕方がないので、アリオスは、礼拝堂へと続く正面階段に腰を下ろすと、足下に転がっていた小石を手に取った。そして、地面にとある図形を描く。彼の頭上を影が覆ったのは、それを描き終えるのとほぼ同時だった。
 アリオスが上目で確認すると、旅装の若い男がひとり、彼を見下ろしていた。若いといっても、アリオスよりは幾ばかりか年上のようである。日差しよけか、目深に被った頭巾の下、太くて濃い眉が印象的だった――もっとも女好きのアリオスに、男の顔の造作になど興味はなかったが。
 その男の口が、何かに操られているかのように静かに言葉を紡ぎ出した。
「『この水門の名は?』」
「……『グリーヴス水門』」
 柄にもなく、アリオスも慎重な面持ちで応えてしまった。それは、先のテイランへの書状にしたためておいた合言葉で、実際にテイランにある水門の名である。
「じゃあ、『その水門のてっぺんにある硝子玉の色は?』」
「……それは書状には書いてなかった質問だな。念のためのものか。まあいい、教えてやろう。宰相家の信頼の証、紫だ」
 男は、土産物用と思われる石を彫ったグリーヴス水門の小型模型をアリオスに放ると、あからさまに太い眉を寄せた。
「おまえがアスフィールの友人?」
 まるで蔑むかのような物言いに、アリオスの眉間にもしわが寄った。返す言葉もつっけんどんになる。
「アスフィールって誰だよ」
「『誰だよ』だと? こちらへ手紙を寄越した男のことだ」
 合言葉も知っており、証明も果たしたのだから、テイランの人間に間違いはないのだろう。が、いくら世話になる身でも、アリオスには下手に出るつもりはなかった。
「イスフェルのことか。そんな呼び名、知らねえよ」
 途端、男がいきり立った。
「この馬鹿が! こんな往来でその名を気安く口にするな!」
「ンだと、この野郎!」
 立ち上がったアリオスの鼻先に、男が顔を寄せて凄む。
「おまえが何をやらかしたかは知らんが、男が己れの身ひとつ守れぬとは情けない」
「――は?」
「他でもないあいつの頼みだから、おまえの身の安全は保証してやる。だが、ひとつ、ぜひとも教えてもらおうか。あいつは今、どこにいる!?」
 その真摯かつ必死な眼差しに、ああ、と、アリオスはひとり得心した。どうも大きな誤解が生じているようである。いつどこで誰の目に触れるかわからない書状にすべてを記すわけにはいかないので、仕方のないことではあったが。
 アリオスは仕切り直しに階段を一段上がると、腰に手を当てて言った。
「誤解その一、やらかしたのはオレじゃない。誤解その二、そのアスフィールの友人はオレだけじゃない。誤解その三、ツァーレンに来てちょっと問題が発生したもんで、オレだけがここへあんたを迎えに来た。誤解その四、イス――アスフィールが今どこにいるか、オレは知らない。以上」
 最後のはあながち嘘ではない。イスフェルはアリオスに言ったのだ。彼がテイランの使者を連れて戻った時、自分はもう宿屋にはいない、と。イスフェルが役所への道の・・・・・・どこにいるかは、アリオスにはわからないことだった。
「知らないだと!?」
 男の剣幕にもアリオスは動じなかった。
「ああ」
 すると、今度は男の方が地面に座り込んでしまった。
「くそっ、最後の希望だったのに……」
 うなだれた男の呟きを耳にして、アリオスは少々後ろめたい気分になった。イスフェルはテイランの人間に拘束されることを恐れていたようだが、眼前の男を見る限り、そんなことをしようとしているようには見えなかった。
「まあ、そう気を落とすなよ。他のヤツに聞けば、何かわかるかも知れ――」
「他のヤツだと!? そいつは一体どこにいる!?」
 再び男の顔が鼻先に現れて、アリオスはのけぞった挙げ句に尻もちをついてしまった。立ったり座ったりと忙しい二人である。
「や、あんまり期待されても困るんだが……」
 半ばでまかせなので、アリオスがこめかみを掻きながら立ち上がると、男はいきなり片手を挙げ、近くの建物に向かって何かの合図を送った。看板を見る限り、巡礼者用の宿屋のようである。
「……何やってんだ?」
「こちらも誤解を解いておこう。迎えは私ひとりだけではない」
「は?」
 しばらくすると、なるほど男と同じような格好をした男たちが三人、まっすぐとこちらに向かってやって来た。
「さあ、他の者の居場所に案内してもらおうか」
 四人の男に取り囲まれて、アリオスはすぐに自分の無駄口を呪うこととなった。
(……まあ、セフィの身の安全は守られそうだし、いいか)
 そもそも楽観的な性格の青年はそれで気を取り直すと、先頭を切って坂を下り始めた。
「で、結局、おまえたちは何人なんだ。誰が何をやらかした?」
 不本意そうに尋ねてくる太眉の男に、アリオスは歩きながら肩を竦めたものである。
「それこそこんな往来じゃ言えねえな」


 広場で時刻を告げる鐘の音が、セフィアーナたちのいる宿屋の一室にも聞こえてきた。セフィアーナは、床の上で居心地が悪そうにしているイリューシャの背を撫でてやりながら、窓の外に視線を放った。
「……あれからもう二ディルクね。アリオス、テイランの人に会えたかしら……」
「また余計なこと言って面倒起こしてなきゃいいけどっ」
 突き放した物言いとは裏腹に、ラスティンもまた落ち着かない様子で、部屋の中をウロウロしている。その時だった。
「戻って来たぞ」
 窓辺で外の様子を窺っていたイスフェルが、緊迫した声音で告げたのである。
「えっ、ホント!?」
 二人が硝子越しに下の通りを見下ろすと、確かに意気揚々と歩いてくるアリオスの姿が見えた。その後ろには、辺りに注意を払いながら付いてくる旅装の男たちが四人。
「イスフェル、あの中に見たことのある人、いる……?」
 ラスティンの不安げな問いに、イスフェルは正直に答えた。
「一人目は顔が見えないからわからないな。二人目は……見たことがないが、三人目と四人目には見覚えがある。多分、テイラン警備隊の連中だ」
 答えつつ、青年は内心で安堵感が膨らんでいくのを感じた。
(あの様子なら大丈夫か――。伯父上、アイオール……)
 イスフェルが信じていた通り、テイランは使者を寄越してくれた。アリオスの明るい表情を見ても、不肖の甥の最後の願いは聞き入れられたのだろう。王都よりもずっと近い場所にいながら二度と会うことのない親愛なる人々に、イスフェルは深く感謝した。そして、その瞳に強い意思の光を宿すと、顔を上げ、心の恩人に声をかけた。
「セフィ、ラスティン。オレはそろそろ行くよ」
「イスフェル……」
 ついに、その時・・・が来てしまったのだ。セフィアーナは窓枠に寄りかかっていた身をゆっくり起こすと、青年に向き直った。しかし、胸に抱えた幾多の想いが、彼女の口を重くする。
「あとのことは、よろしく頼む」
「うん、わかってる……。あなたに言われた通り、ちゃんとやるわ」
 この期に及んで無いことと願いたいが、もしテイランの使者が早々とこのツァーレンで少女たちを見捨てようとした場合の対処を、イスフェルはセフィアーナに講義していた。少女が《太陽神の巫女》であることは、最小限の人間にしか知らせたくないことではある。が、背に腹は代えられない。彼女が聖都やエルミシュワで体験したことは、政府側にとって今や重要な証言ともなる。彼女を保護することは、テイランの利益にもなり、その点を利用するつもりだった。
「本当にありがとう。ここまで来られたのは、きみのおかげだ」
 荒野で友と死に別れてから、彼は一歩進むごとに復讐者となりつつあった。暗い想いしか心に宿さない人間に。しかし、彼女が、彼女だけが救ってくれたのだ。彼の闇しか蠢かぬ心に光を灯し、再び太陽神の世界へ連れ戻してくれた。
「そんなこと……」
 王都で別れた日とは逆に、差し出された大きな手を取りながら、セフィアーナは唇を噛んだ。
「私も一緒に行けたらいいのに……」
「ははっ。まさか《太陽神の巫女》を罪人の島へ連れていくわけにもいかないさ。――ああ、でも、もしきみが来て歌を歌ってくれたなら、永遠の咎人たちも心を改めるかもしれないな」
「ほんとう!?」
 セフィアーナの瞳が真剣なのを見て、イスフェルは彼女に出逢えたことを心底、幸運に思った。
「でも、きみはテイランへ行ってくれ。テイランはオレが王都の次に好きな場所だ。いつだったか王都の朝陽の話をしてくれたが、テイランの夕陽も格別だからぜひ見て欲しい」
 そして、置いていく荷物の中から一通の書状を取り出す。
「アイオールに手紙を書いておいた。きみたちに不自由はさせないよ」
「不自由なんて……」
 今でも十分すぎるほどだというのに、青年自身も窮地にありながら、どれほど彼女たちを案じてくれれば気が済むのだろう。セフィアーナは静かに首を振ると、瑠璃色の瞳に涙を滲ませながら、イスフェルを抱きしめた。復讐にたぎる心を捨て、血にまみれた剣を捨て、囚人服の上にただ灰褐色の外套のみを纏った青年は、今や完全に王都で別れた時の自信に溢れていた彼に戻っていた。
「決して希望を捨てないで。私はいつだってあなたの味方だから」
「セフィ……」
 いっそう力の込められた細い腕の上から、イスフェルもセフィアーナを抱きしめた。この日も少女から香ったシェスランの花の匂いが、これまでのように彼の今後をも救ってくれるように思った。
「イスフェル、階段の下まで来てるよっ」
 いつの間にか廊下へ出ていたラスティンが、焦ったように戸口から顔を覗かせ、イスフェルは名残惜しそうにセフィアーナから離れた。
「ラスティン――」
 イスフェルが少年に歩み寄ると、彼は軽く首を竦めた。
「わかってるって。姉さんは必ずオレが守るよ」
「……頼んだぞ」
 ラスティンを見ていると、王都に残してきた弟や王子たちのことを思い出した。イスフェルがいなくなったことで、彼らもそれぞれに要らぬ戦いを強いられているのだ。自分がここで弱音を吐いて、すべてを投げ出すわけにはいかない。
「じゃあ、二人とも、元気で」
「神の御加護を……!」
 セフィアーナの言葉に穏やかで優しげな笑みを残して、イスフェルは部屋から出て行った。己の無実を証明し、家族の生命を守るために。
 姉の頬をとうとうと伝わる涙に、ラスティンは言おうと思っていた言葉を呑み込んだ。「姉さんはイスフェルのこと好きなんだね」――その、たわいもない戯れ言を。そして、その直後。
「おーい、連れて来たぜー」
 アリオスの明るい声が、それまでの室内のしんみりとした空気を吹き飛ばした。
「失礼する」
 硬い声とともにぞろぞろと入ってきた男たちで、そもそも一人用の宿泊部屋は、満足に身動きもできない状態になってしまった。
「あ、あの、はじめまして――」
 セフィアーナは慌てて涙をぬぐうと、男たちに深々と頭を下げた。驚いたのは男たちの方である。
「女……!?」
 それも、ただの女ではない。窓辺に立った少女には背後から陽の光が降り注ぎ、蜜蝋色の豊かな髪を黄金の如く輝かせていた。陶器のように白い顔は美しく優しげな面差しをしており、ゆえに愁いを帯びた瑠璃色の瞳が男たちの興味をいっそう駆り立てる。ズシュール領主の居城プリスラの庭園には、それは立派な噴水がある。その頂きに載っている愛と美の聖官エリシアの石像の如き美少女だった。たとえ衣装が男物でも、隠れようもない美しさである。
 テイランの使者たちは一様に目を剥いて、少女を見つめていた。部屋に最初に入って来た男などは、宿の建物に入ってさえ被っていた頭巾を取り払ったほどである。
「あいつに限って、最もあり得ないことが起きたぞ……」
 テイランに届いたイスフェルの書状には『大切な友人』としか記載が無く、性別も人数も書かれていなかった。だが、イスフェルは『冬のフォーディン』と異名を取るほど女嫌いで、だからこそ彼らは『友人』を当然のように男だと思っていたのだ。
「あの……?」
 呆然としている使者たちにセフィアーナが遠慮がちに声をかけると、頭巾の男――アリオスに最初に声をかけてきた、眉目秀麗というべき彼が、仲間たちを一瞥した後、気を取り直したように口を開いた。
「――いや、失礼。私はテイラン警備隊の――……エンクィストという。隣がバファロイ、後ろのがジリストンと、ドーレス」
 バファロイは一番の年長者で四十代半ばと思われた。中肉中背で、無駄のない筋肉が付いている。参謀といった風体だった。ジリストンとドーレスはともに二十代後半のようで、ジリストンが無表情ならドーレスは眉間に深いしわがあり、話しかけにくい雰囲気は同じだった。
 軽く目で一礼する男たちに、セフィアーナも浅い会釈で応じた。
「ダルテーヌの谷のセフィアーナと申します。こちらは弟のラスティン」
「で、オレはアリオスだ」
 青年の今さらな名乗りに、ラスティンは即座に眉根を寄せた。
「名前も言わずにここまで来たのか?」
「漏れる秘密はできるだけ少なく、ってな」
「おまえの名前がなんで極秘事項なんだよ」
 セフィアーナが二人のやり取りに気を取られていると、再びエンクィストに呼ばれた。
「これはさっき、アリオスにも言ったことだが、ズシュール領主デルケイス=ラドウェル様は、きみたちの身柄の安全を保証するとおっしゃられている。ゆえに、我々が責任をもってきみたちをテイランまで連れて行く」
「それは……ありがとうございます」
 安堵の吐息を付くと、セフィアーナは深々と頭を下げた。イスフェルの講義は無駄なものになってしまったが、それが良いことなのは言うまでもない。
「それで、だ」
 ふいにエンクィストの口調が鈍った。セフィアーナが怪訝そうな表情を浮かべる中、彼の視線を感じたアリオスは、肩を竦めて少女に声をかけた。
「イスフェルの行方を知らないかってさ」
 言外にアリオスが語りかけてくる。やっぱり訊いてきたぞ、と。それに瞬きで「そうね」と応じながら、セフィアーナはまっすぐエンクィストを見返した。
「……いいえ」
 お互いに試し試されているかのような沈黙が、しばらく続いた。
「――本当に?」
「……はい」
 先に折れたのはエンクィストの方だった。彼はそばの椅子の背もたれに手を乗せると、大きな溜め息を吐いた。
「そうか……」
 まさかほんの少し前まで、この部屋にイスフェルがいたとは思いも寄らない。
「では、質問を変えよう。アスフィールとはどこで別れた? そもそも、あいつとはどういう知り合いなんだ?」
「アスフィール……?」
 アリオス同様、首を傾げたセフィアーナに、エンクィストは舌打ちした。
「『イスフェル』をレイスターリア読みするとそうなる。テイランでの愛称だ」
「……イスフェルとは、手紙を出したところで別れました。キース砦の南で……」
「では、やはり国境を越えていたのか」
「はい。私とイスフェルは、今年の《尊陽祭》の時、聖都で知り合ったんです。故郷のことで困っていた私に、いろいろと親切にしてくれて……」
「親切、ね……」
 意味深長な物言いで口を閉ざすと、エンクィストはしばしの逡巡の後、『アスフィールの友人たち』を見回した。
「出発は明日の朝だ。それまで、ゆっくり休んでおくといい。私たちもこの宿に部屋を取ろう」
 部屋を出て行こうとするエンクィストの左頬を、傾きの早くなった日差しが照らした。何気なくそこを見たセフィアーナは、あるものに気付いて息を呑んだ。随分と薄くなってはいるが、唇の横から目尻にかけて剣による傷跡があったのだ。忘れようもないカイルの言葉が脳裏を過ぎる。
『オレはその従兄の顔に、逃げ出しざま刀傷を負わせてきたのさ』
 その『従兄』というのが、イスフェルが信頼し、テイランで世話になる予定のアイオールだった。
(自分でエンクィストだって名乗ったんだもの。まさか、ね……)
 警備隊の人間なら、戦闘で怪我を負うことも多いはずだ。不吉な合致は単なる偶然だろうと、セフィアーナは無理矢理思い込もうとした。


 テイランの使者たちがセフィアーナたちの部屋に入った直後、舞い戻ったイスフェルは、しばらくその扉の外に立っていた。『彼女を必ず守り抜く』――自分がカイルにした約束を果たすために。そして、それは果たされた。使者が彼女たちの安全を明言すると同時に、彼は宿を飛び出していた。もはや思い残すことは何もない。他の何にも目をくれず、まっすぐとツァーレンの役所を目指した。
 ツァーレンの役所は宿のすぐ北側にあったが、名物の防火壁が邪魔をして、いったん表通りへ出るしかなかった。それにもどかしさを感じながら、イスフェルは人馬をかき分け、道を進んだ。そして、ついに辿り着いたのである。
 白い煉瓦で造られた役所の門は、青年の前に泰然と構えていた。頭上には、少し錆び付いた半円状の黒い鉄格子が架かっている。それを透かして見た空は薄曇りで、流れの速い雲が東へと向かっていた。
「ユーセット。おまえとの約束も今、果たそう……」
 最後の最後まで自分のことを思い遣ってくれた青年のために、イスフェルはしっかりとした足取りで役所の建物に入っていった。
 港町の役所だけあって、出国を希望する者たちが身分証明書の発行を求めてきたり、商人たちが貿易品の審査に訪れたりと、内部もたいそうな賑わいだった。イスフェルはちょうど空いた窓口に行くと、忙しげに書類を繰っている若い役人に声をかけた。
「長官に会いたいのだが」
「……約束は?」
「ない」
「……じゃ、駄目だ」
 一度もこちらを見ようとしない役人に、イスフェルは小さく吐息した。
「……では、アンザ島への囚人の護送を取り次いでいる部署はどこだ?」
 そこで初めて役人は顔を上げ、イスフェルを見た。不審の表情を露わにして、彼をじろじろと眺め回す。
「なに……?」
「アンザ島だ。直接、波止場へ行けばいいのか?」
 その不吉な地名に、両隣の窓口をはじめ、居合わせた者たちの誰もが押し黙った。その波は伝播し、やがてその階全体が妙な沈黙に包まれた。
「貴様……何者だ?」
 そこで、イスフェルは灰褐色の外套を脱いだ。薄汚れた、血痕さえ滲む囚人服が衆人環視に曝される。
「私の名はイスフェル。元宰相補佐官イスフェル=サリードだ」
 役人の座っていた椅子が、派手な音を立ててひっくり返った。――ツァーレンの役所の受難の始まりだった。

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