The story of Cipherail ― 第三章 混沌たる荒野


     5

「標的を取り逃がしてしまいました。申し訳ございません」
 そう言って深々と頭を下げるガルドリュース・ゼアンの左目の下には、剣の切っ先の軌跡が生々しく浮き上がり、端正な顔を台無しにしていた。聞けば、神官服の下は包帯を多重に巻いているという。失態を犯した者を許さないことで館中の使用人たちを震え上がらせている王弟妃ルアンダだったが、今は何故か呆れたように溜め息を吐いた。
「そなた、仮にも神官であろう。顔に傷などして、神殿でどんな言い訳をしているのだ」
 すると、ガルドリュース・ゼアンは目の端を赤らめて答えた。
「……悪漢に襲われたと……」
「なんとまあ。腕利きの暗殺者が、何と下手な嘘を吐くのだ」
「私が武術を嗜んでおりますことは、こちらでは誰も知りませんゆえ、皆、同情してくれました」
「同情か。まあ、旅に盗賊は付き物というからな」
 ルアンダが目を細めているのを見て、彼女の息子リグストンの筆頭侍従であるカリシュが軽く咳払いした。
「ルアンダ様。仮にも腕利きの暗殺者ならば、なぜ宰相補佐官を取り逃がすことになったのか、それをお責めになるべきでは?」
 先だって、ガルドリュース・ゼアンは母の葬儀に出席するため、故郷のカルマイヤへ帰ったことがある。それがなければ、彼こそが剣舞祭で祭礼官に扮し、宰相補佐官の短剣に毒を塗る役を任されるはずだった。彼が不在ゆえに外部の暗殺者を雇い、そして口封じに殺すという手間をカリシュが取ることになったのだが、実際のガルドリュース・ゼアンがこうもあっさりと失敗し、それを詫びただけで許されるとあっては、今後が思いやられるというものだ。彼は在サイファエール大使ヴォズロンの紹介でルアンダの館に出入りするようになったが、そうなってからはまだ日が浅かった。
「それは無論だが、今回はイスフェルの方が腕が勝ったのだ。致し方あるまい」
 その口調には、言葉の内容ほどの優しさはない。ガルドリュース・ゼアンは、「精進致します」ともう一度頭を垂れた。
「……それにしても、イスフェルの同行者というのはいったい誰か」
 ルアンダは寝椅子から身を起こすと、持っていた茶杯をカリシュの盆の上に戻した。
「老人はともかく、若い男のほうは随分と親しげな感じがしました」
「だとすると、王都の者ということになるが?」
 ルアンダの視線を受けて、カリシュは首を振った。
「宰相補佐官の友人にヨッセという名の男はいなかったと思います。母方の実家の方の関係も疑えますが……しかし、少々面倒なことになりましたね」
 イスフェルがヨッセなる旧知の男と荒野の逃亡劇の最中に偶然、出くわしたなどと、そのように都合のいい話をカリシュは信じない。その何者かは、おそらくイスフェルの身に起きようとしていることを知り、彼のもとへ赴いたのだ。結果、ガルドリュース・ゼアンに倒されることにはなったが、こちらの画策を知っていたのが斃れた二人だけとは限らない。
「力を失った宰相家をさらになどと、少々欲をかき過ぎたようです」
 カリシュが盆を円卓の上に乗せて言うと、ルアンダは不機嫌そうに溜め息を吐いた。
「どうもそのようじゃな。少なくとも、サリード家の罪は増えたのだし、これに関しては、しばらく高みの見物としよう。ところで、マルドーの件はうまくいっておるのじゃろうな?」
 ルアンダの切れ長の黒い瞳が妖しく煌めいた。カリシュはちらとガルドリュース・ゼアンを見た後、まるで彼に説明するかのように長々と応じた。
「そのように伺っております。宮廷では国王陛下の御快癒が近いと噂されているようですが、宰相が亡くなられてひと月半。薬の特性からいってもそろそろかと」
 サイファエール国王が再び倒れたとガルドリュース・ゼアンが聞いたのは、この二日後、まさに彼がチストンで行ってきたことがきっかけだった。
 その後、ルアンダの館を辞したガルドリュース・ゼアンが森の中を神殿へと戻っていると、前方の木々の間からひとりの神官が姿を現した。見知った顔にガルドリュース・ゼアンが驚いて歩みを止めると、先方からにこやかな笑みを浮かべて近付いてきた。
「久しぶりだな、《緑影》」
 その呼び名に、ガルドリュース・ゼアンはわずかに面持ちを強張らせた。
「《白影》……」
《白影》と呼ばれた神官はすらりとした長身で、ガルドリュース・ゼアンより頭ふたつ分ほども背が高い。焦茶色の細い瞳はほとんど感情を露わにすることはなかったが、この時は少し違った。彼は、《緑影》と呼んだ男の顔にできていた傷を見つめると、小さく笑った。その瞳には、今までと違い剣呑な光があった。
「森の館の貴婦人は、おまえを使って随分と派手に動かれているようだな。おかげで宰相家側に付いていた私はやることがなくなった」
「……代わりは他にいくらでもいるでしょう。誰が最後に残ってもいいように。そうすれば、我々の目的は達せられます」
「……まったくその通りだな」
 模範解答を読み上げたような《緑影》の台詞に、《白影》はまた笑った。
「ところで、《蒼影》から連絡があった。エルミシュワに行っていた《紫影》とサラクード・エダルがヘマをやった。おかげで《金炎》が行方不明だ」
「行方不明?」
「どうもセレイラが一枚噛んでいるらしい。とにかく、何かわかったことがあったら――いいな」
 そう言い置いて、《白影》は同僚の返事を待たず、その場を去っていった。残されたガルドリュース・ゼアンは、溜め息を吐きながら、王宮の方角の空を見上げた。


 レドモント領主ビハルインと王従弟ゼオラの、イスフェル逃亡に関する報告書を携えて王都へ戻ったシールズは、真っ先に将軍イルビスのもとへ向かった。書状がビハルインのものだけであれば、早馬よろしく、担当の書記官に書状を託せばよかったが、今回は事情が違う。ゼオラのものはシールズが直接、国王に手渡し、そして自分の知る真実を話しておきたかった。しかし、一刑務官が国王と謁見するには、多少は取り払われたものの、依然として幾重もの壁がある。その点、将軍は元々彼と同じ刑務官であり、目下、宰相暗殺事件の捜査指揮官でもあって、仲介役を願うには打って付けの人物だった。
 シールズの読みは当たり、彼はイルビスの先導によって国内の陳情者や各国の使者の横を通り過ぎ、最短の時間で国王との謁見を許された。だが、思わぬことが起きた。公の報告書として先にビハルインの書状を読んだ国王がその内容に激しく衝撃を受け、昏倒してしまったのだ。言葉を失ったシールズの横を、将軍や侍従、侍医たちが慌ただしく駆け回る。幸いにも国王はすぐに意識を回復したが、公務の続行が不可能であることは、誰の目にも明らかだった。しかし、シールズは、王従弟の書状を、そしてビハルインの書状にはない真実を、国王に伝えなければならなかった。その心痛を和らげるためにも。
「実は書状はもう一通あるのです!」
 そう言って侍従長に頼み込むと、半日ほどしてようやく二度目の謁見が許された。
「報告書がもう一通あると聞いたが、それはどういうことか」
 執務室の隣に設けてある寝室でシールズを迎えた国王は、顔色こそ悪かったが、その威厳は何ら衰えるものではなかった。そのことに小さく吐息すると、シールズは懐からゼオラの報告書を出し、直に国王に手渡した。
「陛下の御従弟ゼオラ様より預かって参りました。閣下はこの度の件の折り、ちょうどチストンにいらっしゃいまして、レドモント領主とは別に捜査をなさっていらっしゃいました」
「なに、ゼオラが?」
《光道騎士団》の処分のためにセレイラへゼオラを派遣したのは国王自身であるが、まさかこの重大事件の時にその地へ居合わせるとは。イージェントは急いでゼオラの書状に目を通した。そして、再びシールズを、今度は訝しげに見遣る。
「……ゼオラはそなたが重要な証人であると言っているが、それに相違はないか」
 シールズは身を正した。
「はい、陛下。我が友人たちの死に誓って、私が閣下に申し上げたことは真実相違ございません」
 あの日の前夜まで、確かに友人たちは彼の傍らにいた。囚人――それも反逆者の――の護送は決して楽しい仕事ではない。ゆえに彼らの団結も強かった。それを一夜にして失ったのである。ビハルインの報告通り、もし仲間を殺したのが本当にイスフェルなら、仇を取っても取りきれないくらい憎い。しかし、森で出くわしたあの最悪な状況にあって、仲間の死体を調べる前にイスフェルに向かっていかなかったのは、そもそも彼の仕業と考えるにはあまりに信じがたかったからである。
 王都を出立する時から囚人たるイスフェルは潔く、格下の刑務官たるシールズらにも従順だった。彼らの誰も彼に恨みはなく、むしろその罪を負った経緯から同情していたので、「アンザ島に着くまでは」と囚人に許される範囲内で最も紳士的に扱ってやったくらいだ。ある日、シールズがイスフェルに食事を持って行った時、彼は黒檻車の中でいつものように虚空を見つめていた。逃げぬよう忠告したシールズを、イスフェルは真っ直ぐと見返して言ったのだ。「そんなことをしてどうなるんだ」と――。あの言葉が、イスフェルの言動すべてが刑務官たちを油断させる布石だったとは到底思えない。落ちた吊り橋を挟んで対峙した追捕隊に、だがイスフェルは「今は捕まるわけにはいかない」と言ったという。「今は」――その言葉に、シールズは深い想いが込められているように思った。
 シールズの話を聞き終わった国王は、控えていたイルビスを呼ぶと、彼に命じた。
「イスフェルに追捕隊を差し向けよ。隊長には、この者を」
「御意」
「シールズ」
 驚いているシールズを、国王は真っ直ぐと見つめた。
「真実を捜すのだ。そなたの仲間のためにも」
 それが追捕隊とは名ばかりの捜索隊であることを、シールズは察した。


 病床の国王は、それから三人の人物を寝室に呼んだ。その頃には国王の顔色はいっそう悪くなり、額には脂汗さえ浮かんでいた。彼の身体が強くないことを十二分に知っている侍従長ミンタムは無論、休息を勧めたが、国王は首を縦に振らなかった。ミンタムには、国王が焦っているように見えた。まるで意識を失う前にすべてを終わらせようとしているかのように……。
 最初に呼ばれた二人は、しかし、呼ばれる前から隣室に控えていた。侍従長からの連絡を受けて駆けつけてきた王弟トランスと、近衛兵団長トルーゼである。
「イスフェルが護送部隊の刑務官を殺して逃亡した」
 その報告を聞いて愕然としている彼らに、イージェントは言った。
「トルーゼ。近衛兵の中から精鋭を選び、トランスに親衛隊を」
「へ、陛下!」
 それは、イスフェルが王都へ取って返し、トランスの生命を狙うと言っているのも同然だった。
「まさか、イスフェルがそのようなことを……」
「そうやって何の準備もしていなかったから、余はウォーレイを失い、またエルミシュワの民も失った。もう何者も失いたくはない」
「……わかりました」
 トルーゼが親衛隊編成のために下がると、トランスはイージェントの正面に立った。
「陛下、その報告は間違いないのですか?」
「何故だ? 我が弟の生命が危険にさらされているなどと、冗談で言えることか? それとも、まさかビハルインが嘘を言っていると?」
「いえ、そうではございませぬ……」
 トランスは顔を伏せ、失望の色を隠した。腹立たしいことに、どうやらルアンダの陰謀は成功したらしい。そして、それはオーエンの失敗を意味する。イスフェルは運良く逃げおおせたらしいが、あの腹心の老人は無事だろうか。沈黙したままの彼に、国王が声をかけてきた。
「イスフェルを助命したことを後悔しておるのか?」
 トランスは少し間を置いて返答した。
「そうせざるを得ませぬ。陛下には御心痛と御迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません」
 今回の件がルアンダの陰謀であることを、国王は知らない。トランスは、恩赦を与えた者に裏切られた者として振る舞わなければならなかった。
 一方のイージェントは、ゼオラの報告書から、イスフェル逃亡が何者かの陰謀の可能性があることを知らされている。それがトランスでないことを、彼の言動から察するしかなかった。
「トランス、余はおぬしを信じておる」
「……はい?」
 出し抜けに放たれた言葉に、トランスは瞬きした。
「ゆえに上将軍に任命し、そして今、新たに力を与えた」
 国王の言う「新たな力」が親衛隊を指すことはわかったが、結論として何が言いたいのかはわからなかった。
「力を使う先は、常にサイファエールのためであって欲しい」
「陛下、それは勿論でございます」
「それを聞いて安心した」
 国王が王弟のための親衛隊を組織させるのには、表向きの護衛という理由以外にも目的があった。トランスは数年前から王弟派として力を得つつあったが、実際、特に親しくしている貴族というのはいないらしい。王弟派の筆頭とされるカウリス家は、むしろ彼の妃ルアンダと懇意だった。上将軍という地位を得てからも、周囲に自ら置いた参謀というのがおらず、兄の目に弟は孤独に見えた。ゆえに、この度の件に乗じて、近衛を彼の手足として遣わすことにしたのだ。ウォーレイ暗殺、イスフェル襲撃と、陰謀の首謀者が誰かはわからない。もしかしたら、否定はしているがトランス自身かもしれない。しかし、イージェントは弟を信じると決めた。毒喰らわば皿まで、である。
「……実は、ゼオラがチストンから書状を送ってきた」
 そう言うと、イージェントはゼオラの報告書をトランスに渡した。それを読んだトランスは、真実がその一端を日の下に覗かせていることに内心で安堵した。しかし、それでは国王の考えに矛盾が生じているというものである。
「なんと、イスフェルが――サリード家がまたしても狙われたと……。しかし、それでは、なにゆえ私に近衛を? まさか、このことを公表なさらないおつもりですか?」
 国王は沈痛な面持ちで組んだ手に視線を落とした。
「公表すれば、宮廷はまた混乱する。ようやく落ち着いて来たところだというのに……」
「でしたら、サリード家の処分は如何様になさるのですか?」
 それこそ、トランスがオーエンを派遣してまで阻止しようとしたことだった。このままでは、サリード家はまさに逆賊として世間にさらされることとなる。
「先ほど当主を呼んだ。彼なら――まだ若いとはいえ、ウォーレイの息子だ。わかってくれるだろう」
 冤罪だとわかっているのだから、生命まで取りはしないだろうが、トランスは国王がどのような裁きを下すか見当が付かなかった。
(オーエン、早く帰ってくるのだ……)
 しかし、腹心の老人は既に荒野で永きの眠りに就いているのだった。


 三人目、侍従長に先導されて寝室に入ってきたシェラード=サリードの姿を見て、イージェントは一瞬、言葉を失った。未だ十五歳の少年は、処刑を宣告された者が着る真白の装束を纏い、床の上で膝を折った。襲い来る頭痛も忘れて、イージェントは思わず身を乗り出した。
「そなた……何故そのような格好をしておるのだ……?」
 シェラードは深々と頭を垂れた。
「数日来、陛下のお召しがないようにと祈っておりました。なれど、もしもの時は、サリード家の当主として、父祖に恥じぬようにと覚悟を決めてもおりましたゆえ」
「そなた……何のことを言っている?」
「今日、私をお召しになったのは、我が兄イスフェルの件でございましょう?」
 国王の天色の瞳が見開かれるのを見て、シェラードは唇を噛んだ。
 思えば火宵祭の夜だったか、王族の天幕を訪れた際、国王が彼を気遣ってくれていたと聞き及び、友人たちと「国王陛下にご挨拶に行こう!」と騒いだことがあった。まさかこのような形で謁見となるとは思いも寄らなかった。
「やはり……。それで……兄は、どのような罪を……? 兄が何をしたのかは、実は知らないのです……」
 日が経てど、すべてを託したユーセットは帰らず、代わりにオルヴァの丘を上ってきたのは、国王の使者だった。これはもう、彼の意が果たされなかったに相違ない。そして少年は、兄が重ねたという罪を、国王自身の口から聞かされることとなった。
「それで、何故そなたはこの度のことを知っておったのだ……?」
 そこでシェラードは、庭先に現れた不詳の老人のこと、彼とともにユーセットを兄のもとへ派遣したことを国王に告白した。
「――ユーセットを遣わしたのは、あくまで兄に償いを全うさせるため。それ以上の考えは持ち合わせておりません。我がサリード家の行く末を思い、そして陛下の周辺を騒がせることを憂い、独断で事を運び……このような結果に。陛下にはお詫びのしようもございません」
 再びひれ伏したシェラードの肩は激しく震えていた。彼はただ悔しかった。父を救えず、兄を救えず、友を救えず、主君を救えず……。たった十五歳の自分であるが、何かひとつはできると思っていたのに、すべてが砂漠の乾いた砂のように手の平からこぼれ落ちていった。もはや、家族の生命は自分の生命で救うしかない。
「王弟殿下より賜った御厚情をこのような形で裏切りましたこと、もはや許されることではございません。どうぞ、私の生命をお取り下さい。なれど、どうか一族の者だけはお許しを……! どうか……!!」
 国王は深く、そして深く吐息した。
「……そなたもやはり、ウォーレイの息子だな」
 その静かな声にシェラードがおそるおそる顔を上げると、寝台の上の国王は儚げな笑みを浮かべていた。
「陰謀だとわかっている以上、本来、罪は他の地にあると主張するのがひとの常だ。しかし、そなたはそれをせず、自分の過ちを詫びるばかり。父兄同様、潔くな」
「それは……亡き父によく言われましたゆえ。他人のことをとやかく言う前に自分の姿を鏡に映せ、と。この度のこと、私がもっと違う方法を取っていればこのようなことには……」
「そうかもしれぬが、そなたはまだ若い」
 経験不足を指摘されて、少年は黙るしかなかった。旋毛が見えるほどに項垂れた彼の麦藁色の頭を、国王は真摯な眼差しで見つめた。
「シェラード、余は知っているのだ」
「………?」
「此度のこと、何者かがイスフェルに罪を重ねさせようと企んだ可能性があることを。チストンに居合わせたゼオラが知らせてきた。――無論、詳細はこれからの捜査となるが」
「さ、さようでございましたか……」
 自分だけが握っていると思っていた秘密は、既に相手の手の内にあった。シェラードはまたしても己の小ささを呪った。しかし、国王の次の言葉が、彼を見事に甦らせた。
「ここだけの話だが、イスフェルがウォーレイを殺したという罪同様に、イスフェルが刑務官を殺して逃げたなどと、余は信じておらぬ。ゆえに、サリード家の取り潰しはせぬ」
「陛下……!」
「だが、そなたも案じたように、陰謀を露見させて、この上いたずらに宮廷を騒がせたくはない。そこでひとつ、そなたに頼まれて欲しいのだ」
「は、はい。何なりと……っ」
 自分はともかく、母やエンリルの生命が救われるのであれば、どんな労苦も厭わぬ覚悟だった。
「そなたには当面――少なくともイスフェルが見付かるまでの間、サイエス監獄に入ってもらいたい。無論、待遇は考慮するゆえ心配は要らぬ」
 サイエス監獄は王都から海岸沿いに二十モワルほど行った断崖にあり、主に王都で罪を犯した者が収監される場所であった。
「そのようなことで私の浅慮をお許し頂けるのであれば、監獄だろうとどこだろうと参ります。けれど、本当によろしいのでしょうか。我が家への世間の目はともかく、陛下にも処罰が甘いと苦言が出るのでは……」
 それを聞いた国王は、青白い顔をわずかに上気させて笑った。
「そなた、そのような格好をして、本当に死にたいわけではなかろう?」
「あっ、はい――あ、いえ、あの、そのようなことは……」
 縮こまるシェラードを見て、ひとしきり笑っていたイージェントだが、ふいにその顔から笑みを消した。シェラードの姿がイスフェルに、イスフェルの姿がウォーレイに見えたのだ。
「……そなたら親子には世話になりっぱなしだというのに、何も報いてやることができず、すまぬな」
 サリード家に対する処罰が甘いという諌言があったとしても、シェラードが死に装束を着てきたことで、忠臣の鏡として大いにかばってやることができる。その彼が投獄されていれば、世間の非難の目は自ずと逃げたイスフェルへ向かうだろう。イスフェルには苦難の上に苦渋を背負わせることになるが、いつか彼が無実を証明できれば、それは一気に同情へと変わるはずだ。その時を、イージェント自身が早めてやればいいのだ。だが。
(急がなければ……)
 彼は、自分の身体がかつてないほど弱っていることを自覚していた。もともと疲れやすい体質であったが、ウォーレイの死以来、身体に痺れがくることが頻繁になっていた。急に発熱したり、めまいを起こしたりと、以前は医務室にかまえていた侍医たちも、今では常に隣室に詰めている状態となっている。
(ウォーレイ、余にそなたの力を貸してくれ……)
 しかし、その夜、彼は再びその意識を手放した。

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