The story of Cipherail ― 第三章 混沌たる荒野


     4

 レドモント領主の館もあるチストンは、王都と聖都との中間都市として、また隣国カルマイヤへの街道の起点として古くから栄えてきた。街道沿いには赤い煉瓦の家が建ち並び、行き交う商人たちの足止めのため、街のどこかの広場では必ず催事が行われている。そこに暮らす人々は開放的で、夕暮れともなると老若男女問わず、酒を飲みながらの井戸端会議が始まる。おかげでそれなりの大きさの街だというのに、噂は一夜で共有されるものであった。
 セフィアーナたち一行がチストンを通ったのは、エルミシュワを脱して十四日後の夜半ことだった。必要以上に時間を要したのは、ナルガット山脈を北回りしたためと、そして何より《光道騎士団》の追っ手から逃れるために迂回路を多用したためだった。
 三人が宿を求め目抜き通りへ出た時、大きな神殿の前に黒山の人だかりができていた。人々と神殿の間には兵が等間隔に立ち並び、その前を棺が載った荷車が三台連なって神殿の中へ入っていく。
「何かあったのかしら……」
 セフィアーナは首を傾げたが、カイルには興味がなかったようで、先を急かされた。が、姉の疑問は弟も同じだったようで、適当な宿を見付けて中に入った時、ラスティンが女将に先刻の騒ぎについて尋ねた。すると、「宿屋の女将」という職業柄、どこよりも情報が早い彼女は、首を竦めながら教えてくれた。
「なんでも護送隊の役人が護送中の罪人に殺されたんだって」
「何だそりゃ」
「犯人はそのまま逃げたらしいよ。で、部屋はいくつだい?」
 それにカイルが答えようとした時、その背後に向かって突然、女将が怒鳴った。
「ちょっとあんた、どこに行ってたんだい!」
 三人が振り返ると、特徴的な口ひげを蓄えた中年太りの男がどかどかと歩いてきた。女将の様子からすると、この宿の主人らしい。
「ちょっと様子見にな」
「まったく……」
「それよりも、聞いて驚け!」
 主人は目を爛々と光らせると、三日月のように左右に反り返った髭を撫でながら言った。
「逃げた罪人は、あの・・イスフェル様だとよ」
 どうやら主人は先刻の野次馬のひとりになっていたようだ。しかし、セフィアーナとカイルが顔を強張らせたのは無論、「イスフェル」という名前を耳にしたからだった。
「え、イスフェル様って、あの……!?」
 驚いて息を呑む女将に、ラスティンが訝しげに声をかける。
「イスフェル様って、誰?」
 すると、女将はさらに驚いた様子で少年を見た。
「まあ、あんた、イスフェル様を知らないのかい? イスフェル様はイスフェル様さ。王都の宰相補佐官だった――」
 セフィアーナは我が耳を疑った。一瞬、同じ名前の他人かとも思ったが、王都の宰相補佐官といえば、まさに自分の知るイスフェルである。しかし今、眼前の女将は何と口にしただろう?
「『宰相補佐官だった』って……それ、どういうことですか!?」
 眉根を寄せ、詰め寄ってきた少女に、女将は目を瞬かせると、「おやまあ」と大袈裟に腰に手を当てて見せた。
「あんたたち、本当に何も知らないんだねぇ。いくら旅の最中って言ったって、もう少し世情に関心を持った方がいいんじゃないのかい?」
「教えて下さい! 『だった』って、どういうことですか!?」
「姉さん……?」
 語調を荒げる姉に目を丸くするラスティンの隣で、カイルは沈黙を保っていた。
「イスフェル様と言やぁ、なぁ?」
 主人の視線を受けて、女将が大きく頷く。
「王都の火宵祭でね、国王陛下のお従弟でいらっしゃるゼオラ様が、剣の腕比べをする祭りを開かれたのさ。その席で、宰相のウォーレイ様が毒殺されて、息子のイスフェル様はその犯人を王弟のトランス様だとして敵討ちに剣を向けたのさ」
「だが、証拠は何も無ぇ。王家に逆らった罪と父親を殺した罪で、イスフェル様は死刑を言い渡されたってワケさ」
 それを聞いたラスティンは、困惑顔で首を傾げた。
「『父親を殺した罪』って……なに、王弟とかに殺されたんじゃないの? それともイスフェルって人、自分で父親を殺しておいて、その罪を他人に着せようとしたわけ?」
「ウォーレイ様が倒れたのがイスフェル様と剣舞をした直後だったらしいのさ。だから――」
 その時、悲鳴のような叫びが上がった。あまりのことに言葉を失っていたセフィアーナが、ようやく声を上げたのだ。
「そんな、そんなの絶対に間違いです! イスフェルがお父様を殺すはずがありません! あんなに、あんなに慕っていたんだもの……!」
 去る凱旋式の日、王都の大神殿の廊下でのことを、セフィアーナはまだよく憶えている。イスフェルは父親似だと言った彼女に、青年はこう言ったのだ。
『そう言ってもらえると嬉しい。とても尊敬しているから』
 その時の彼は本当に嬉しそうで、目を輝かせながら父の背を見つめていた。そんな彼が、父親を手に掛けるはずがない。
 姉の様子が尋常でないことは明らかだった。ラスティンはセフィアーナの袖を引くと、心配そうに尋ねた。
「姉さん、イスフェルって人のこと知ってるの?」
 それへ、セフィアーナは消え入りそうな声で答えた。
「……友だち、なの……」
「ええー!?」
 驚いたのはラスティンだけではなかった。宿屋の主人たちも目と口を大きく開け、呆然と少女を見た。立ち直りが早かったのは、やはり女将だった。
「お嬢さん、何を言ってるのさ。イスフェル様は天下の宰相家の跡取り息子だよ? つまり、何もなけりゃ宰相になってた御方さ。確かにあんたは美人……それも、とびっきりだけど、世の中には身分の違いってもんがあるのよ。きっとイスフェル様を騙ったヤツに騙されたのさ」
 自分とイスフェルが友だちだなどと、誰にも信じてもらえなくてもよかった。今はそんなことを言っている場合ではない。
「私のことはどうでもいいんです。それで、えっと……」
 あまりにも信じがたい事実に、何をどう訊けばいいのかまったくわからなかった。ただ、罪人、父殺し、宰相の死、逃亡、役人殺し、死刑などという負の言葉だけが脳裏を巡っていた。
「姉さん、大丈夫!? 顔が真っ青だよ……」
 立ち尽くしてしまったセフィアーナをラスティンが支え、彼女に代わってカイルが口を開いた。
「それで、死刑になった人間が何で今日まで生きてるんだ?」
 そこで女将がまたイスフェルが助命された経緯を話し、また盛大に溜め息を吐いて見せた。
「まったく、せっかくのお慈悲を無為にするなんざ、イスフェル様ってのは王家に刃向かったことといい、浅はかな御方だよ」
 セフィアーナは唇を噛みしめた。浅はかな人間が、例えば隣国の軍勢を全面的に敗走せしめることなどできるはずがない。きっと何か理由があったのだ。
 借りた部屋へ移動した後、セフィアーナは寝台に腰かけると、イスフェルの現状を思い、頭を抱えた。そんな彼女の足下にアグラスが寄り添い、その主が優しく声をかける。
「姉さん、元気出しなよ。だって、ほら、女将も言ってたじゃん。姉さんの友だちのイスフェルって人とは別人かも――」
「おまえは黙ってろ」
 カイルは、セフィアーナの「イスフェル」が宰相補佐官だったイスフェルと同一人物であることを知っている。部屋にあった椅子に浅く腰かけると、意気消沈する少女を見た。
「……谷を発つ前、奴が王弟に剣を向けたことは噂に聞いてた」
 セフィアーナは驚いてカイルを見たが、そのことを黙っていた彼を責めることはなかった。
「どうしてなの……? どうして、イスフェルが……」
 セフィアーナは、我知らず、その首にかかるボロドン貝の首飾りを握り締めていた。それを持つ仲間たちとともに、イスフェルはまさに夢の階段を上り始めたところだったのだ。
「……王宮とは、そういうところさ」
 珍しく感情も露わに吐き捨てた青年を、セフィアーナは一瞬、怪訝そうに見遣ったが、この時は自分のことで精一杯で、すぐに失意の中、彷徨っているであろうイスフェルに再び思いを馳せた。
「これから、どうなるの……?」
 ここまで来ると、状況がまったく理解できないラスティンも、姉の友人のイスフェルが罪人たる宰相補佐官本人だと認めざるを得なかった。しかし、口から出た言葉が悪かった。
「も、もし、その人が本当に役人を殺したんだったら、今度こそ死刑だよね……?」
 すかさずカイルに睨まれ、ラスティンは唇を一文字に引き結ぶと、再び黙り込んだ。そんな少年を見ながら、カイルは吐息した。
「だからこそ、おそらく奴は犯人じゃない」
 驚いて顔を上げる姉弟たちに、カイルは説明した。
「いくら咎人となっても、奴にはまだ守らなければならないものがある。一族と、そしてその首飾りを持つ者たちを」
「エンリル様たちと、王子様方……」
 セフィアーナは改めて手中の首飾りを見つめた。
「王家に逆らって生き永らえたのは奇跡だ。二度目はない。そのことは宰相家の奴になら十二分にわかっているはず」
「じゃあ、誰が役人を殺したのさ?」
「宰相を殺した奴だろう。まあ、実際に役人を殺したのは、イスフェル本人かも知れないがな」
 カイルの言いように、ラスティンは容易に混乱した。
「ええ? 一体どういうことさ?」
「奴はおそらく今回もまたハメられたのさ。何者かが役人を殺しても、生き残った奴が犯人。真犯人の息のかかった役人が奴を殺そうとして、奴が死んだとしても犯人。逃亡しようとしたから殺したとか、理由はいくらでも作れる。逆に奴が役人を返り討ちにしても、やはり犯人。どう転んでも、奴が犯人にされるのさ」
「そんな……」
 打ちひしがれたように、セフィアーナは顔を覆ってしまった。その背を撫でてやりながら、ラスティンは再びカイルに尋ねた。
「でも、本当に逃げちゃったんじゃ、守りたいものは守れないんじゃないの?」
「王都から遠く離れた場所では、逃げなければ即刻処刑される可能性もある」
 地方の役人は、王都ほど礼儀正しくはない。現場責任者の力が事態を大きく左右するのだ。
 しばらく黙って何かを考えていたラスティンだったが、まじまじとカイルを見た後、言いにくそうに口を開いた。
「……こう言っちゃナンだけど、どうしてカイルが推測できることが、王都ではできないのさ。姉さんの友だちってことは、そのイスフェルって人、良い人なんだろうし、それなら姉さんみたいにその人が無実だって信じてる人も、王都にはたくさんいるんじゃないの?」
「だから、それが王宮なのさ。それに、証拠がなければ、無実と証明できない。今の国王は公正で知られているが、それだけにな」
 それを聞いて、ラスティンは足下のアグラスの毛がなびくほど大きな溜め息を吐いた。
「はぁー。オレ、まだ運が良かったのかな。生まれたのがそんな場所じゃなくて」
 楽観的な性格のはずの少年の言葉に、カイルは目を瞬かせたが、口に出しては何も言わなかった。今はそれよりもセフィアーナである。
「セフィ」
 すると、セフィアーナはゆっくりと顔を上げると、真っ直ぐと青年を見つめた。
「カイル。イスフェルは無実なの」
 カイルはただ、頷いてやった。


 窓の向こうで白々と夜が明けていく。その様子をぼんやりと眺めていたセフィアーナは、意を決すると、物音を立てないように寝台から下りた。向かい側の寝台ではカイルが、その下の床の上ではラスティンが寝息を立てている。宿屋に泊まる時はいつも、カイルかラスティンか、時にはその両方が床で寝ていた。自分だけがいつも寝台だと悪いと言っても聞かない彼らだった。
 セフィアーナはさらに床に視線を走らせたが、アグラスの姿はなかった。昨夜の夕食時、食べ物のことでラスティンと喧嘩し、拗ねて窓から出て行ってしまったのだ。それからまだ帰ってきていないらしい。
(無事だといいけれど……)
 疲れた顔に不安の色を浮かべると、セフィアーナは部屋を、そして宿を出た。
 昨夜は結局、一睡もできなかった。エルミシュワを発った直後は《光道騎士団》やネル少年、そして結局行方不明のままのアイゼスのことが気になって仕方がなかった。それでもエルジャスが近付くにつれ、ようやく念願だった実母との再会についても考えられるようになった。喜びと、そして不安が胸中に渦巻き、旅の空の下、母はどんな女性なのだろうと思いを巡らせた。そこへ、昨日のイスフェル受難の知らせである。彼女が何も知らないうちに、友人たるイスフェルはあらゆる辛酸を舐め、失意の最中にあった。記憶にあるのは、新緑の季節、自然と同じくらいに輝くイスフェルの笑顔だというのに。
「神さま、どうか彼をお守り下さい……」
 昨夜から幾度願ったことだろう。そして、いま宿を出てきたのも、神殿へ行くためだった。
 神殿の場所は昨日の騒ぎで知っている。宿からも見える場所なので、方向音痴な彼女でも迷わずに行くことができた。この日の正午、この神殿でイスフェルに殺されたとされる役人たちの葬儀が執り行われることになっていた。それには偶然、領主の館に居合わせた王従弟ゼオラも出席することになっていたが、それがセフィアーナの耳に入ることはなく、王都で近しく存在していたセフィアーナ、イスフェル、ゼオラの三人が、チストンの地で互いの姿を見ることはなかった。
 神殿の門をくぐったセフィアーナが礼拝堂へと続く石畳を歩いていると、二頭の犬が庭を奥の方へゆっくりと駆けていくのが見えた。後ろを走っていた犬を見て、セフィアーナは歩みを止めた。
「アグラス……?」
 既にその姿は見えなくなっていたが、セフィアーナは庭の方へと爪先を転じた。しばらく石像や生け垣の陰などアグラスを捜してみたが、見付からない。
「二頭だったし、きっと見間違いね……」
 狼は鼻が利く。彼女と違って迷子になることはないだろうが、悪漢に襲われる可能性もある。と、その時、困惑したセフィアーナの鼻先を、緑色の物体がかすめた。驚いて足下を見ると、そこにはパリコの葉が三枚連なった細い枝が落ちていた。
「なんだ……びっくりした」
 セフィアーナは胸を撫で下ろすと、それを手に取った。どの葉も葉脈が生き生きと黄色い。不思議そうに樹を見上げた少女は、瑠璃色の瞳を大きく見開いた。
「あ、危ない……!」
 蜘蛛の巣が張ったように伸びている大枝のひとつに、ひとりの男が器用に寝そべっていたのだ。
 少女の突然の悲鳴に、木の上の男は驚いて飛び起きた。おかげで頭上の枝に気付かず、朝露をたっぷりたたえた葉の中に顔を突っ込んでしまった。
「な、なんだぁ……?」
 寝ぼけた顔を朝陽に光らせて、男はセフィアーナの方を見下ろした。当初、短く刈り込んである髪が銀色だったので年齢のほどはわからなかったが、今見える小麦色に焼けた顔は、カイルと同じくらいに見えた。
「あ、あの、驚かせてしまってごめんなさい」
 ところが、頭上の青年は榛色の瞳を瞬かせると、急に口の端をもたげた。
「へぇ……なるほどね。こりゃ驚くほど似てるな」
「え?」
 意味が解らず、セフィアーナが首を傾げていると、青年は枝の根元にくくりつけておいた荷物を持って降りてきた。どうやら彼も旅の途中らしい。
「やれやれ、目覚めと同時に洗顔を済ませるなんて、オレの要領の良さは天下一品だな」
「あの……?」
 独り言ばかり言っている青年にセフィアーナがとまどっていると、彼がいきなり核心を突いた。
「あんた、ラスティンの姉貴だろ?」
「えっ!?」
「そんなに驚かなくても、見ればすぐわかるさ。あんた、よく似てるよ、叔母さんに」
「ど、どうしてそれを……?」
 その時、そばの茂みが揺れ、アグラスが姿を現した。先ほどの犬はやはりアグラスだったのだ。安堵したセフィアーナがその名を呼ぼうとした時、さらにもう一頭、こちらは真っ白な毛並みの狼が二人の間に立った。少女が呆然としていると、青年は膝を折り、白い狼の首筋を撫でた。
「イリューシャ、どこに行ってたんだ?」
 それを見て、セフィアーナはようやく納得した。
「あなた……ラスティンと同じエルジャスの人ね?」
「ああ」
 青年は頷くと再び立ち上がり、ずいと手を伸ばしてきた。
「アリオスだ。よろしく」
「セフィアーナです。こちらこそ、よろしく――」
 しかし、セフィアーナがその手を取ろうとした瞬間、
「あー! おまえ、こんなところで何やってんだよ!!」
 朝の静寂を切り裂くけたたましい声がして二人が振り向くと、神殿の門の下に身構えたラスティンの姿があった。
「おはよう、ラスティン――」
 しかし、少年は姉の挨拶など聞いていなかった。どかどかと芝生を踏んでやって来ると、いきなりアグラスの首を羽交い締めにしてしまったのである。
「まったく、昨夜からどこに行ってたんだよっ。行くぞ、ほら! 姉さんも!」
「え、えええ、でも――」
 今朝は誰もまともに少女の言葉を聞いてくれない。おまけに、ラスティンはアリオスにまったく興味を示さない。青年はラスティンの知り合いではなかったのだろうか? 困惑したセフィアーナがアリオスを見ると、彼はなぜか今にも吹き出しそうな顔をしていた。
「ね、ねえ、ラスティン。あの人、アリオスのこと、知らないの? イリューシャっていう狼を連れてるし、エルジャスの人なんでしょう?」
 必死にもがくアグラスを、そのまま引きずるようにして歩いていく彼に、セフィアーナは追いすがって尋ねた。すると、少年は進行方向を向いたまま、何かが弾けるように叫んだ。
「知らないよ、あんなヤツ!」
 すると、背後で青年の笑い声が爆発した。
「ほーお、そりゃご挨拶だな、ラスティン」
「うるさい、バカアリオス! てめぇ、こんなとこで何してやがる!」
「おーや、オレのこと、知らないんじゃなかったのか?」
「やかましい!」
 しかし、次の瞬間、氷のように冷たい声が三人にかかった。
「やかましいのは貴方がたの方です。ここをどこだと思っているのですか? 神に祈りを捧げる神殿ですよ。それも朝の」
 いつの間にやって来たのか、姉弟のすぐ後ろにひとりの神官が険しい表情で立っていた。セフィアーナは慌てて頭を下げた。
「ほら、アリオスも、表に出てから話をしましょう」
「話すことなんか何にもねーや!」
「いいから、早く!」
 神官の見張るような視線を背中に感じながら、今度はセフィアーナがラスティンを引きずるようにして表通りまで走り出た。
「ああもう。お祈りに来たのに、もう行けなくなってしまったわ」
 悠長に歩いて後を付いて来たアリオスが完全に神殿から出るのを確認すると、セフィアーナは溜め息を吐いた。
「それにしてもラスティン。あなた、やっぱりアリオスのこと知ってるんじゃない」
「……できれば一生知りたくなかったよ」
 そっぽを向くラスティンとは対照的に、アリオスは再び笑い始めた。
「おまえがまだオムツの取れないうちから散々遊んでやったってのに、恩を仇で返す物言いだな」
「オムツの取れない子どもを狼の背中にくくりつけたり、沼に落っことしたりしたのは一体、どこのどいつだ!!」
「試練さ」
「もーいい!!」
 完全に手玉に取られ、ラスティンは顔を真っ赤にして踵を返した。
「おい、待てよ」
 アリオスの呼び止める声は完全に無視されていたが、青年はかまわず言を次いだ。
「昨日の夜、アグラスは誰のおかげで夕飯にありつけたと思ってるんだ? 礼はいいからお代を頂戴したいねぇ」
 止めだった。ラスティンはぴたりと歩くのをやめると、異様な雰囲気を察して後ずさりを始めたアグラスを睨み付けた。
「おまえ……あんなヤツからメシをもらったのか」
 普段から下がっているアグラスの尻尾だが、今はもはや下がりすぎて生えていないように見える。
「伴侶を餓えさせるなんて、おまえもまだまだだな」
「やかましい!」
「じゃあ、とっとと払うもの払ってもらおうか。なんせ大食いアグラスのために予定外の出費で、財布の中がスッカラカンなんだ」
「………」
 ここで銭子を叩きつけられればよかったが、あいにく今のラスティンはカイルの懐に縋る身だった。
「せめて朝飯くらいは奢ってくれよ。積もる話もあるし」
 こちらの事情になどまったくお構いなしのアリオスに、ラスティンはどうにか歯ぎしりを堪えた。
「……いいか、絶対にカイルの機嫌を損ねるなよっ」
 それだけを言い置いて、ひとり宿の方へと戻っていく。残されたアリオスは、怪訝そうにセフィアーナに尋ねた。
「カイルって誰だ?」


 真夏にしては気持ちの良い朝の食卓だというのに、その円卓だけは空気が重かった。同郷の青年について説明して詫びを入れた少年に対し、カイルは「オレは貴族じゃないんだぞ」としか言わなかったが、怒られなかったことの方がラスティンには気鬱だった。そんな弟を気遣って、セフィアーナも知らず知らず無口になる。一方のアリオスは、黙々と食事を口に運んでいるカイルにどうやって絡もうかと思案中だった。
「ところで」
 突然、カイルが口を開き、三人は思わず息を呑んだ。
「旅の目的は何なんだ?」
 カイルの冴えた碧玉の瞳が自分を見、アリオスは「ああ」と匙を皿の上に置いた。
「こいつが病床の母親をほっぽり出したんで、探しに来たのさ。なにせオレはこいつの教育係だからな」
 途端、ラスティンが目尻を吊り上げる。
「なーにが教育係だ。誰も頼んでないや。単なる従兄のくせに」
「いとこ? あなたたち、従兄弟なの?」
「父方のな。オレの親父が長男で、ラスティンの親父が三男なのさ」
 口に千切った面包パンを放り込みながら説明するアリオスに、カイルが不審げに首を傾げた。
「……だが、ラスティンがエルジャスを出たのは、半年近くも前の話だろう。何で今頃こんな場所で会うんだ?」
 エルジャスからチストンまで、歩いてひと月弱の距離である。半年も経っているのだから、聖都を彷徨いていてもいい頃である。
 カイルに痛いところを突かれたのか、思わず口ごもってしまったアリオスに、ラスティンがここぞとばかりに追い打ちをかけた。
「族長がよく村を出ること許してくれたね。まさかアリオスも家出して来たんじゃないよね?」
「バカ言え。なんでオレが家出なんか」
「シイラとの結婚話、どうなった?」
「………」
「やっぱりね」
 得意げにふふんと鼻を鳴らす少年を、アリオスは睨み付けた。
「うるさい。お子様にオレの気持ちがわかってたまるか。オレにはまだやりたいことがたくさんあるんだ」
「へえ? やりたいことって何だよ」
「オレはな、あんな狭い村で一生を終えるなんてまっぴらゴメンなんだよ。叔父貴みたいにいろんな場所へ旅をして――」
 完全に優位に立ったつもりか、椅子の上で反っくり返っていたラスティンだが、アリオスのその言葉を聞いた途端、また不機嫌になった。
「そうだね。族長を継ぐのは長男じゃないアリオスじゃないんだし、好きにしたら?」
 突然の刺々しい物言いにセフィアーナが驚いていると、弟はさらに怒りを言葉に滲ませた。
「父さんみたいに自分勝手な風来坊になりたいんなら、シイラと結婚するべきじゃないね。シイラがかわいそうだ!」
「ラ、ラスティン、ちょっと落ち着いて。ね?」
 しかし、ラスティンは音を立てて席を立った。
「外に……アグラスのところへ行ってくる」
 そんな彼の背に、アリオスは存外、冷静な声をかけた。
「ラスティン。叔父貴、ずっと叔母さんに付き添ってるぞ」
 その言葉に、ラスティンの足が止まる。驚愕の表情とともにゆっくり振り返ったかと思うと、勢いよく卓子に手を付き、アリオスに迫る。
「かっ、母さんの容態は!?」
「まあ座れよ」
「いいから話せよ!」
 アリオスは溜め息を吐くと、軽く首を竦めた。
「オレが村を発ったのはちょうどひと月前だが、ずっと熱が下がらなくてな。そろそろ……本当に限界だ」
「母さん……」
 全身の力が抜けてしまったのだろう、ラスティンは先程まで座っていた椅子に寄りかかるように腰を下ろした。
「言っとくが、オレは本当に家出じゃないぞ。村を出たい気持ちはそりゃあったが、叔父貴におまえを探してくるように頼まれたんだ」
「……わかったよ。――ありがと……」
 呆然とした少年は、おそらく自分が今、アリオスに礼を言ったことなど憶えていないに違いなかった。
「……しっかし、本当に見付けてくるとはなぁ」
 アリオスの視線を受けて、まだ見ぬ母の余命があとわずかであることを知ったセフィアーナは、いたたまれなくなって俯いた。
「――さて、事態は急を要するらしいな。すぐに発つぞ」
 カイルのその言葉で、重い朝食の席は散会となった。


 アリオスにとって、今回の旅は念願の出奔の好機だったが、ラスティンの父から息子を探すよう頼まれていた手前もあり、セフィアーナらとともに村へ戻ることにした。しかし、アリオスは当然ながら馬を持っていないので、三人が交代で乗せることになった。朝食を奢らされたカイルは、「まさか他のものも無いとか言わないだろうな」と冷たく言ったが、アリオスはそれを笑ってかわしただけだった。
 朝食の席以来、気になっていたことがあったセフィアーナは、真っ先にアリオスを乗せることを申し出ると、出発後、他の二人から少し間合いを取って、彼に話しかけた。
「ねえ、アリオス。ちょっと訊きたいことがあるんだけど……」
 少女の深刻な口調に、アリオスは榛色の瞳を瞬かせた。
「叔母さんのことか?」
「いえ……ラスティンの、お父様のこと」
「ああ……」
 セフィアーナは先を行くラスティンの背を眺めながら尋ねた。
「ラスティン、お父様のこと嫌ってるの……?」
「……まあ、ちょっと複雑でな。……あんたには説明しといた方がいいかもな」
 アリオスは一呼吸置くと、街道の遠くを見ながら口を開いた。
「先代の族長には、息子が三人いたんだ。長男は将来の族長として厳しく躾られたが、三番目の息子は遅くに授かったこともあって、父親に溺愛された」
 その長男が現在の族長たるアリオスの父親であり、三男がラスティンの父カルジンだという。
「親父は叔父貴に嫉妬してたんだ。よもや叔父貴に族長の座を奪られるんじゃないかとも思ってたらしい。だから祖父さんが死ぬ前から――死んだ後、自分が族長になってからは目に見えて、叔父貴に冷たく当たったらしい。てか、それは今でも変わってないけどな。叔父貴はそんな村の雰囲気に耐えかねて、あと、族長の座を狙う意志がないことをわからせるために、出奔を繰り返したんだ。ラスティンから聞いてるかもしれないが、オレたちはそりゃ閉鎖的な部族でな。勝手に村を出るのは御法度だ。おかげで親父は叔父貴を徹底的に無視し始めた」
 そんなある日、カルジンが旅先からひとりの女性を伴って帰って来たという。それがラスティンの母セラーヌだった。
「親父は斧を持ち出して、そりゃ凄い剣幕だったらしい。村の者もよそ者を嫌う傾向があったし、叔母さんは最初から孤独だった」
 セラーヌと結婚してからも、カルジンの出奔癖は治らなかった。身重の彼女を置いて、しょっちゅう旅に出ていたという。そしてラスティンが生まれた。しかし、村中から無視されている夫婦の子どもに明るい未来などなかった。ラスティンはいつも父の帰りを待つ母のそばで独り、遊んでいたという。
「あんなに明るいのに、信じられない……」
「オレは大人の事情なんてわからなかったから、あいつを散々連れ回したが、最初の頃、あいつ、ずっと怯えたような顔をしてた。まあ、周囲の大人に呪われた子だなんだと邪険にされてたから無理もないがな」
「呪われた子……」
「外の血を混ぜたりして、白狼神の怒りを買うとかってな。だが、あいつは変わった。アグラスを得て――真の友を得て」
 いま、アグラスはラスティンの馬と併走していた。時折、上を向いてはラスティンの様子を窺っている。
「――ま、針のむしろの中に母親を置き去りにした父親のことは、未だに嫌いらしいが、それはもう仕方がないな。ガキの頃からの積もり積もった感情だし、逆に言えば、それだけ母親を大切に思ってる証拠でもあるからな」
「ええ、そうね。母さまは、息子に慕われて幸せね」
 アリオスの言葉に力強く頷いたセフィアーナに、青年は意外そうな表情を浮かべた。背中越しにその気配を察して、セフィアーナは小さく笑った。
「私、どうして私は捨てられたのかしらって、幼い時からずっと考えてたわ。でも、それとは別に、もうひとつ思ってたことがあるの。両親は私を捨てたけど、その後、幸せになれたのかしらって。私を――って、傲慢な意味じゃなくて、子どもを犠牲にしてまで掴んだ幸せに、今もちゃんと包まれているかなって。……母さまは、ラスティンがいてくれてきっと幸せだったと思う。だから、それなりに、私が犠牲になった意味があるかなって」
 アリオスは苦笑した。
「セフィ、おまえ……お人好しだな」
「そう?」
「ああ。あのクソガキと同じで、お人好しだ」
 そう言うと、アリオスはじりじりと強くなり始めた太陽を見上げた。

inserted by FC2 system