The story of Cipherail ― 第三章 混沌たる荒野


     3

 矢の狙いは極めて正確だった。イスフェルは頬に、ユーセットは左腕に、オーエンは右ふくらはぎにそれぞれ矢を受け、洞窟の中に転がり込んだ。幸いイスフェルとオーエンはかすり傷程度で済んだが、ユーセットは矢が二の腕を貫通していた。
「大丈夫か!?」
 イスフェルが頬に血を滲ませながら這い寄ると、ユーセットは小さく笑った。
「これくらい、何でもない」
 青年は額に巻いていた布で止血すると、深呼吸の後、自らひと息に矢を引き抜いた。
「地方の部隊にも有能なのがいるもんだな」
 しかし、武芸に秀でた三人に気取られることなく襲撃を成功させた腕前に、彼らの表情は険しかった。その時、外の様子を窺っていたオーエンが二人を振り返った。
「ここは危のうございます。一刻も早く出ませんと……」
 洞窟を囲まれては袋の鼠である。青年たちは頷くと、素早く馬に跨った。
「相手は何人だ?」
「今朝の時点では十人だったが、今は果たして何人になっていることか」
「ハッ。何しろ相手が天下の反逆者だからな。一個師団は軽いんじゃないのか」
 ユーセットの洒落にならない冗談に、イスフェルは困ったように笑った。
「……では、行くか」
 イスフェルが囮となっている間に、この場所での存在を知られてはならないユーセットとオーエンが逃げる策もあったが、上方から攻撃してきた追捕隊には、既に支援者がいることを知られているだろう。それで囮になったイスフェルが捕らえられては元も子もなく、三人は逃げ切るまでしばし共に在ることにした──が。
 崖下の細い道を塞ぐように三人を出迎えたのは、チストンの追捕隊ではなかった。


「貴様ら……何者だ」
 全身黒装束、顔も目の部分以外はすべて覆い隠すという異様な風体をした三人の男たちに、先頭のユーセットが声音低く誰何する。その手には既に抜き身の剣が握られていた。
 その時、男たちの背後からゆっくりとひとりの騎士が現れた。色が深緑という以外は男たちと同じ出で立ちだったが、夜の帳が下りた今、その判別は難しい。
「……噂には聞いていましたが、本当にどこまでもしぶとい御方ですね」
 そう悪意を込めて吐き出された言葉は、意外にも若い声だった。しかし、イスフェルが藍玉の瞳を細くした理由は、そんなことではなかった。
「……『ヨッセ』」
 それは、「ユーセット」をレイスターリア語で発音した場合の呼び方だった。敵にユーセットの素性を明かすわけにはいかず、イスフェルの苦肉の策だった。呼ばれたユーセットもそのことを察し、そして気付いていた。眼前の輩こそ、護送隊の官吏を殺し、その罪をイスフェルに着せた実行犯なのだ。そのまま捕まり死刑台送りになると思っていた『反逆者』が逃亡したので、彼らも捜していたのだろう。
「わかっているのなら、今のうちに手を引いたらどうだ」
 しかし、ユーセットの忠告は、言葉の短剣によって返された。
「殺しなさい」
 瞬間、まるで蜘蛛の子のように、黒装束の男たちが鈎爪のような武器をかざし、ユーセットを取り囲んだ。だが、ユーセットも愚かではない。斬撃を放ち、相手が怯んだ隙に馬首を斜めにし、利き手の右側に敵を追いやった。ユーセットへ次々と襲いかかる攻撃に、イスフェルは加勢したかったが、道が狭いせいで割っても入れない。彼の後ろからオーエンが騎士に矢を放ったが、当然の如く薙ぎ払われてしまった。
「イスフェル、ここはオレに任せて先に行け!」
 敵をひとり片付けた時、突然、ユーセットが叫んだ。
「ヨッセ!?」
 先刻、イスフェルに「王都へ戻れ」と言われた時のユーセット同様、イスフェルは驚き、剣を払うユーセットの背中を見た。ひとつに束ねられた漆黒の髪が、激しく揺れていた。
「『シュラッド』に、おまえを今度こそ守ると約束した! だから、行け! 先に行け!」
「シュラッド」とはシェラードのことである。イスフェルは目頭が熱くなった。あの弟が、愚かな兄を案じ、自分の窮地も顧みず、友を自分のもとへ遣わしてくれたのだ。
「何を言う! おまえを置いて行けるか!」
「オレが殺られるとでも思うのか!? 必ず後から行く!」
 それを聞いた敵の攻撃がますます激しくなったが、ユーセットはまるで城門のように相手を退けていた。嫌な金属音が渓谷にこだまする。イスフェルがなおも食い下がろうとした時、彼の手綱をオーエンが斜め後ろから無理矢理引いた。
「イスフェル様、参りましょう!」
「ダメだ、オレは行けない……」
「イスフェル様!」
 その時だった。敵の一瞬の隙をついて、ユーセットがイスフェルの馬に鞭を振るったのだ。
「行けえ!」
 ユーセットの渾身の想いに押されるように、イスフェルの馬は大地を蹴った。浅瀬に入ると、水しぶきをあげながら川を下って行く。オーエンもその後ろに続いた。
「何をもたもたしているのです。どきなさい」
 痺れを切らした騎士が、ついに抜剣した。馬を躍らせると、男たちの間に割って入る。
「おまえたちは奴を追いなさい」
 命令された黒装束の男たちはそれに従おうとしたが、ユーセットがそれを簡単に許すはずがなかった。
「そうはさせるか!」
 一度、騎士から離れると、ユーセットは黒装束の男のひとりに斬りかかった。見事に男の肩に剣を突き立てた青年だったが、次の瞬間、男が笑った。あろうことか、自らの鈎爪でユーセットの剣が抜けないように抑えつけると、反対側の手で彼の利き手を抉ったのだ。
「ぐう……!」
 さすがにこれには目も眩みそうな激痛を覚え、ユーセットは剣を手放してしまった。そこへ再び騎士が躍りかかる。
「貴方ひとりで私たちを抑えられると思ったのがそもそも間違いなのですよ」
 言うなり振り下ろされた斬撃は、頭をかばうのに上げられたユーセットの左腕を斬り飛ばした。腕を失って均衡を崩したユーセットは、血の弧を描きながら落馬すると、浅瀬に沈んだ。


 名も知らぬ宿敵は、襲撃も見事なら、追撃も迅速だった。イスフェルの後ろから付いて来ていたオーエンの馬が突然、嘶き、草地に倒れ込んだ。鐙から足を抜き損ねたオーエンは巻き込まれ、イスフェルが駆け戻った時、馬の下敷きになっていた。馬の尻には二本の矢が突き立っていた。
「オーエン、大丈夫か!?」
 イスフェルが老人を引きずり出そうと衣服を掴むと、オーエンはその手を掴んで言った。
「イスフェル様……お逃げ下され……」
 老人にはわかっていた。馬と地面とに挟まれた時、両足とも折れていたのだ。そしてこの息苦しさと激痛。おそらく折れた肋骨が肺を傷付けたのだろう。
「ダメだ! おまえからは聞き出さねばならんことが山ほどあるんだ。生きてもらうぞ!」
「イスフェル様……」
 その時だった。馬蹄の音がして、先ほどの騎士と黒装束の男がひとり、闇の中から湧くように現れた。
「貴様……犬の鼻でも持っているのか」
 イスフェルの憎々しげな言葉に、騎士は目を細めて応じた。
「褒め言葉として受け取っておきましょう」
「私の仲間はどうした!」
「おや、仲間だとお認めになるのですか?」
「おまえたちは、光の当たる場所へは出られない」
 彼らとて、この場所での存在が公になるのは好ましくないのだ。
「……まあ、今はそうですね。ヨッセとかいう男なら死にましたよ。私が腕を斬って差し上げました。こちらも二人、彼に殺されましたからね」
 途端、イスフェルの全身から殺気が紅い火柱のように立ち上り、オーエンは痛みも忘れて頭上の青年を見た。聞いた話で想像するなら、火宵祭で主君トランスに対峙した時もまさにこのような状態だったのではないだろうか。
「オーエン、少し待っていてくれ……」
 青年は呟くように言うと、オーエンの剣を取り、ゆらりと立ち上がった。瞬間、彼の反対側の手が閃き、そして黒装束の男が倒れた。その眉間には短剣が刺さっている。秒殺だった。
「……さすが、剣舞祭で喝采を浴びられた御方」
 抑揚のない声で言うと、仲間をすべて失った騎士は馬から降り、イスフェルから十ピクト離れたところに立った。
「もう一度言ってやろう。しぶといとわかっているのなら、今のうちに手を引いたらどうだ」
「わかっているからこそ、今のうちに叩き潰すのですよ」
 冷たい沈黙が、夏だというのに冷たい風とともに二人の間を吹き抜けた。


 軍配はイスフェルの方に上がったが、復讐までは叶わなかった。何度もの打ち合いの末、やっとの思いで謎の騎士を追いつめた時、森の中から追捕隊と思われる人馬の音がし、敵は一瞬の隙を突いて逃げてしまったのだ。肩で大きく息をしながら忌々しげに暗がりを睨み付けていたイスフェルだったが、我に返ると、慌ててオーエンのもとに駆け戻った。
「オーエン、しっかりしろ! 今すぐ手当てしてやるからなっ」
 しかし、いくら薬草に詳しくても、イスフェルは医師ではない。馬の下から引きずり出した結果、足が折れているのは見た目で判ったが、青黒く変色した胸部は、荒野では為す術がなかった。
「くそっ、何かないのか、何か――」
 大切な人間が次々と彼のもとを去っていってしまう――その現実にがたがたと震えながら追捕隊から奪った馬の荷をひっくり返していると、にわかに老人が笑い声を漏らした。
「あ、あ……よく、似ておられる……」
 何のことかわからず、イスフェルが手を止めてオーエンを見ると、彼は再び微笑んだ。
「ウォーレイ様に、よく……」
 イスフェルは藍玉の瞳を大きく見開くと、オーエンに取り付いた。
「父を――父を知っているのか!?」
 しかし、老人はそれには答えず、ゆっくりと掲げた手でイスフェルの頬に触れた。イスフェルは思わずオーエンを抱き起こした。
「イスフェル様……どうか、お許し下され……あの方を……どうか……」
「あの方? あの方とは誰だ。おまえの主人のことか?」
「どうか、生きて――……」
 そして、老人の手が、フォトレル王の御代より影で歴戦をくぐり抜け、少なからずサイファエールの歴史を変えてきた手が、ついに草むらに落ちた。
「オーエン……?」
 軽かったはずの老人の身体が、今は重い。イスフェルは、全身から血の気が引くのを感じた。
「――待て、オーエン。オーエン? オーエン!? 目を開けろ! 目を開けてくれ、頼む! オーエン……!」
 荒野に、青年の絶叫がこだました。


「……何だと?」
 いつもは陽気なゼオラの黒い瞳が、今は剣呑な光を放ち、眼前にひれ伏したレドモント領主の頭を見ていた。先の《光道騎士団》のエルミシュワ派遣に関して、国王の命令を伝えに聖都へ向かう道中、立ち寄ったチストンでのことであった。
「『反逆者イスフェルが護送隊の官吏を殺し、逃亡しました』だと?」
「はっ……」
 レドモント領主たるビハルインはいっそう縮こまると、改めて追捕隊の失態を詫び、現在は追捕隊を二百人に増員して罪人の捕縛にあたっていることを強調した。
「必ずや、必ずや捕まえまして――」
 しかし、ゼオラは領主の責任を回避しようとする御託を聞こうとはしなかった。
「おぬしの引責については私が関知するところではない。それより、生き残った官吏は今どこにいる」
「はっ、それでしたら役所に――」
 またしてもビハルインが言い終わらぬうちに、ゼオラは一夜の宿となっていた豪奢な一室を飛び出した。廊下や回廊を荒々しく歩きながら、歯ぎしりした。
(何を馬鹿なことを。何故イスフェルが官吏殺しなど!)
 それどころか、何故あの青年が父殺しなど! 王家に対する反逆罪など! である。ゼオラはイスフェルが王立学院生の頃から知っている。戦で失った親友が、彼やその仲間たちと親しくしていたと聞き、会いに行った。それ以来の付き合いだった。
(ハッ。馬鹿なことを言い出したのは私か。私さえ言い出さなければ……!)
 ゼオラが主催した剣舞祭で宰相が死に、宰相家が死に、そしてイスフェルが事実上、抹殺された。彼はイスフェルに対して、大きな負い目も感じていたのだった。
 辿り着いた役所は真夜中だというのに煌々と篝火が焚かれ、役人たちが苛立った様子で所々に集まっていた。突然現れた上将軍に驚きつつ、誰も「いかがなさったのですか」などという愚かな質問は発さなかった。
 ゼオラが案内された部屋に入ると、窓際の机にひとりの男が座り、机の上で組んだ手をじっと見つめていた。ゼオラが近付いていくと男は弾かれたように立ち上がった。
「……おまえが生き残りだな」
 男は王都の刑務官の衣装を着ており、果たして首を縦に振った。
「話せ」
 名をシールズというその刑務官は、前夜に檻車の車輪が壊れた時点からのことを順を追って話し始めた。その口調から、ゼオラは彼が誠実な人間であり、イスフェルのことも悪意をもって見ていないことを察した。
 シールズは、自分が仲間たちのもとへ戻った時のことまで話すと、ふいに言葉を切った。ゼオラが訝しげに見遣ると、彼は周囲の様子を窺った後、硬い面持ちで切り出した。
「閣下、おかしゅうございます」
「何がだ」
 ゼオラの声は苛立っていた。言われるまでもなく、おかしなことばかりだった。そもそも、イスフェルが官吏たちを殺して逃亡するそのことの利点が、彼には理解できない。
「私がアシュットたち……殺された者たちに触れた時、彼らは冷たく、そして既に硬くなっておりました」
 その重要な証言に、ゼオラは黒い瞳を見開いた。
「何だと……!?」
「そうです、閣下。イスフェル殿が犯人なら、なぜそんなに長い間、あの場所に留まっていたのでしょう。翌朝に私が戻ることは知れておりましたのに」
 ゼオラは腑に黒く冷たい石が沈んでいくような感じを覚え、両の拳を握りしめた。
「またやられたということか……。しかし、これではっきりした。陰謀だということがな」
 上将軍の口から出た「陰謀」という言葉に、シールズが息を呑んだ。ゼオラはチストンでの滞在期間を延ばすと、領主ビハルインが王都に宛てた報告書とは別に報告書を作成し、それをシールズに持たせた。

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