The story of Cipherail ― 第二章 失われた神の祈り


     6

 自分のために食事を口に運んでくれていた姉の白い手が止まり、ラスティンは首を傾げた。見ると、瑠璃色の瞳が宙をさまよっている。
「姉さん、何を考えてるの?」
「え? あ、うん……父さま、のこと……」
 セフィアーナは我に返ると、再び匙を運んだ。
 聖騎士たちに禁じられていたものの、昨夜のうちに弟の両手を縛っている縄を解こうとしたセフィアーナだったが、ラスティン自身に止められてしまった。《光道騎士団》にしてみれば、二人は《太陽神の巫女》と囚人であって、姉弟などではない。下手な行動は妙な誤解を生むだけだ。秘密通路の在処を知っていながら逃げなかったのも、敵を油断させるためだった。それを使うのは、最後の手段である。
「母さまと別れた父さまは、今はどうしているのかと思って……」
「母さんはその人とフィーユラルで知り合ったって言ってた。それ以外のことは……ごめんね」
 中途半端な情報しか持っていなかった自分に、ラスティンが歯痒げに俯くと、姉は困ったように微笑んだ。
「どうしてラスティンが謝るの」
 そう言って空になった皿を持って立ち上がった時、扉を叩く音がした。セフィアーナが応じると、サラクード・エダルとガレイド・エシルが入ってきた。同じ部隊ではないはずなのに、少女のせいなのだろうか、ここのところよく共に行動していることの多い二人だった。
 サラクード・エダルはセフィアーナとラスティンを一瞥すると、ガレイド・エシルを振り返って眉根を寄せた。
「貴方のせいで、《太陽神の巫女》が手ずから罪人に食事など与えることになったのですよ」
 守り役の嫌味にガレイド・エシルは首を竦めると、少年の縄を解かなかった少女を褒めてみせた。
「今は私たちを油断させようと、牙を隠しているだけかもしれませんからね。今後も宜しくお願いします」
 そんな彼に、ラスティンが抗議の声を上げる。
「だーかーらっ! そんなことないって! もう、ホントに勘弁してよ。盗みに入ったことは悪かった! もう二度と……少なくともここではしないからさ。いい加減、逃がしてくれよぉ」
「正直なことだな」
「だろ!? だからさぁ、頼むよ!」
「正直ついでに、もうひとつ教えて欲しいんだが」
「……オレが教えられることなんてないよ」
 意味深げな笑みを浮かべて、目の前で膝を着いた聖騎士に、ラスティンは地団駄を踏んでいた足をそろそろと引き戻した。
「相棒は、いつ戻る?」
 その質問に瞬間、心臓を鷲掴みにされた少年だったが、なんとか平静を保って相手を見返した。
「……相棒?」
「ここに来るまで、一緒だったのだろう?」
「何の話? オレはずっとひとりだよ」
 すると、ガレイド・エシルはわざとらしく目を見張って見せた。
「そんなはずはない。おまえを最初に捕らえた聖騎士が見ているのだから。私も見たぞ。隠れながら、おまえの後を付いて行っていた。賢いことだな」
「………」
「どうして相棒は姿を現さないんだ?」
「知らないよ! 逃げたんだろ!」
 ラスティンが拗ねてみせると、ガレイド・エシルは立ち上がり、なおも言を次いだ。
「そんなはずはない。どこかに潜んでいるんだろう、牙を隠して」
「何を言わせたいんだ!」
 少年のその言葉に、ガレイド・エシルは「待っていました」とばかりに笑った。
「主人思いの賢い犬が、一日経っても戻ってこない。となれば、どこかに助けを求めに行っているか、そこで足止めを喰っているか――」
「………!」


 聖騎士たちが部屋を出て行った後、セフィアーナは打ちひしがれたようなラスティンを心配そうに振り返った。
「ラスティン。『相棒』って、話してくれた狼のこと……?」
「うん……」
「どうしたの?」
 すると、ラスティンは一度、セフィアーナの顔を見つめ、片膝を抱え込んだ。
「……あのガレイド・エシルって神官、何か嗅ぎつけてる。カイルたちが危ないかもしれない……」
「ええっ!?」
 ガレイド・エシルは、つまりアグラスが戻ってこない理由を、近くに仲間がいるからではないのかと考えているのだ。近く――セレイラ警備隊の者たちが潜んでいる森は、それこそ《光道騎士団》が陣を敷く岩山の目と鼻の先である。もし森を囲まれたら、カイルたちは容易に捕まってしまうだろう。
「どうするの……?」
「こうなったら――」
 ラスティンの視線が寝台の下の秘密通路に向けられ、セフィアーナは慌てて首を振った。
「でも、また道に迷ったら? あなたが逃げたことが判って捜されたら、きっとまた捕まってしまうわ。今度はただじゃすまない――」
「でも、このままじゃカイルたちの方が捕まっちゃうよ。まだ援軍も来てないだろうし、とても太刀打ちできる人数じゃないんだ……」
 セレイラ警備隊と《光道騎士団》が犬猿の仲であることは、道中、警備隊の面々から聞いて、彼もよく知っているところである。もし捕まったりしたら、村人を邪教徒と決めつけて扱った《光道騎士団》のことである。どんな言いがかりを付けて生命を奪おうとするかわかったものではない。
 縛られたまま両の拳を握りしめていた少年は、思い余って床を蹴りつけた。
「くそっ! オレが勝手なことしなけりゃ!」
 カイルの忠告をちゃんと聞いていれば、道に迷うこともなく、《光道騎士団》に捕まることもなく、せっかく出会えた姉に心配をかけることもなかったのに。
「……やっぱりオレ、行くよ。責任、取らなきゃ」
 弟の空色の瞳に固い意志の光が宿り、セフィアーナは説得するのを諦めざるを得なかった。
「……わかったわ」
 大きく頷くと、「その代わり」とラスティンを真っ直ぐ見つめる。
「私も一緒に行くわ」
「姉さん!?」
 ラスティンが仰天して姉を見ると、セフィアーナはなぜかにこりと笑った。
「もう待つのはおしまい。私、エルミシュワの人たちの心を慰めるために来たのに、彼らには会えずじまいだったわ。おまけに『残党に襲われる可能性があるから』なんて、こんな部屋に閉じこめられて……私がここにいる意味なんてないもの。表に出て、《光道騎士団》が本当は何をやっているのか確かめるわ。動ける時に動かなきゃ、本当に動きたい時には動けなくなる」
 最後には少女の顔からも笑みが消え、少年もまた説得を諦めた。
「アグラス、おまえの鼻を貸してくれ……!」
 通常なら、昼食の時間まで誰も《太陽神の巫女》の部屋を訪れない。しばらくは時間が稼げると思っていたが、その考えは甘かったようである。姉弟が秘密の通路に姿を消してから半ディルクもしないうちに、再びサラクード・エダルがやって来た。その後方から顔を覗かせたガレイド・エシルは、室内が蛻の殻であることを確認すると、「やはりな」と独りごちた。それから彼は騎士たちに部屋中をくまなく検分させ、ついに秘密の通路への入口を見付けたのだった。
「犬を連れた盗人など、正面から入れるはずなどない。どこかに隠された道があると思っていた」
 盗人の少年を部屋に入れたいという少女の愚かな願いを聞き入れたのには、それなりの打算があったのだ。セフィアーナは村人の生き残りの生命を案じていた。同情の末、盗人――残党が動きやすいように仕向けるのではと思っていたのだ。
 ガレイド・エシルは、その通路へサラクード・エダル以下聖騎士数名を向かわせると、別の聖騎士にアルヴァロスのもとへ報告に行かせ、自分はすぐに外へ出た。愛馬へ跨った時、背後で召集の号令が聞こえた。
「《太陽神の巫女》が残党にさらわれたぞ! 武装を整えろ! 残党狩りだ!」
 しかし、彼は軍を待たず、単身、森の方角へと走り出した。


 方向音痴の姉と、地図の読めない弟であったが、奇跡的にも数度、通路を引き返しただけで、古井戸に辿り着くことができた。井戸をよじ登り、木漏れ日を浴びた時ばかりは、太陽神と白狼神が手を組んだとしか思えなかった。
 それから転がるようにして森の中を駆け抜けた二人は、やがて見えてきたセレイラ警備隊の天幕に、文字通り転がり込んだ。
「大変だ! みんな、逃げて!!」
 驚いたのは、中で食事をしていた警備隊の一行である。
「ラスティン!?」
「おぬし、逃げてきたのか!」
 しかし、少年と共に地面に倒れ込んだのが《太陽神の巫女》たるセフィアーナだと判ると、天幕内は騒然となった。
「みっ巫女殿!?」
「おい、どういうことだ、いったい!?」
「せっ説明してるヒマがないんだ。早く――」
 しかし、その時、久しぶりに主人に会えたアグラスが突進して来、ラスティンは再び地面に転がる羽目になった。
「アグラス、よせ。今はおまえの相手をしてる場合じゃないんだ!」
「まったく馬鹿が。勝手な真似しやがって」
 アグラスを引きはがそうと躍起になっていたラスティンだったが、横でセフィアーナを助け起こしたカイルに睨まれ、少年は逆にアグラスにしがみついた。
「それで、『逃げて』ということは、つまり我々のことがバレたというわけか!?」
 この時既に、口の中に食事を詰め込んだ面々は、武装を整えつつあった。
「セ、セレイラ警備隊とはバレてないけど、仲間がいるんじゃないかと疑われて――」
「それで抜け出してきたら決定的だろうが! おまけにセフィまで連れてきて、余計に話がややこしくなったぞ!」
 なぜセフィアーナと一緒なのかなどと詮索している暇は、今はない。おそらくまた少年に幸運が巡っただけのことなのだ。その時、外で見張りに立っていた隊員の叫びが上がった。
「敵襲! 敵襲だ!」
 それを聞いたカイルの冴えた碧玉の瞳が、少年をこれ以上なく鋭く突き刺した。来るのが、早すぎる。
「――おまえ、尾けられたのか!?」
 祭殿の部屋を脱してからのことはわかりようもなかったが、すべては少年の浅はかな行動が招いた事態だった。
「ごめん! ごめん!! ごめんなさい!!」
「どこまでも大馬鹿野郎が! セフィ、来い!」
「はい!」
 多勢に無勢の状態では、逃げるしかない。一行は蜂の巣をつついたように天幕から飛び出すと、それぞれの馬に跨り、森の奥へと疾走を開始した。

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