The story of Cipherail ― 第二章 失われた神の祈り


     7

 当初は聞こえていた雄叫びや剣の刃鳴りも、半ディルクもすると聞こえなくなった。二頭の馬と一匹の狼の草を踏む音だけが耳に付く。セフィアーナとカイル、ラスティンの三人は、完全に味方とはぐれ、今はどことも知れない緑の丘にあった。
「みんな無事に逃げられたかな……」
 自分の浅慮のせいで仲間たちの生命が危険にさらされることとなり、馬上の少年の顔色は青ざめていた。
「きっと大丈夫よ。ね、カイル」
 弟を励まそうと、後ろに座るカイルに同意を求めたセフィアーナだったが、青年の面持ちは硬かった。
「もし南に逃げた奴らがいたら、捕まったかもしれんな。すぐに森が切れて、敵に見つかっただろうから。待ち伏せされていたかもしれないし」
 もはや沈黙しかない。
「……とにかく今は日が落ちるのを待って、もしもの時に落ち合うことになっていた場所に向かおう」
 それから再び森に入った三人は、大きな岩が寄り添っている木を見付け、そこでしばらくの休息を取ることにした。体よく伸びていた枝に手綱を繋いだカイルは、馬から降りたままぼんやりと突っ立っているラスティンに手を差し出した。
「えっ、なに?」
「手綱」
「あ、ああ。ありがと……」
 元気だけが取り柄なのに、今の少年にはまるでそれがない。無理もないことであったが。
「……せめてもの救いは、今が夏ということだな。このうえ暖の心配をする必要がない」
 追われる身で火を焚くことはできない。しかし、エルミシュワの冬はナルガット山脈から吹き下ろす風で、カイルとセフィアーナの故郷ダルテーヌの谷よりも苛烈だった。
「自分の行動を本気で悔いているのなら」
 その言葉にラスティンが顔を上げると、青年は冴えた碧玉の瞳で彼を見つめていた。
「二度と同じ事を繰り返すな。おまえにも自尊心はあるだろうが、今はオレに従え。いいな」
 少年に否やはなかった。
「わかったよ」
 深く頷くと、ラスティンは岩に上り腰を落とした。その横にアグラスが寄り添う。弟が少し明るさを取り戻したことを嬉しく思いながら、セフィアーナは岩を背もたれに腰を落とした。
「――で、二人で逃げてきたってことは、もう話は済んでいるんだろうな」
 カイルの少し呆れた表情に、姉弟は岩の上下で顔を見合わせて苦笑した。
「ええ……ごめんなさい」
 セフィアーナが頭を下げると、カイルは軽く首を竦めて見せた。
「別に謝る必要はないが……おまえたち、よく似ているな」
「えっ、ほんとう!?」
「その――ドタバタしているところが」
「何だよ、それ!」
 せっかく喜んだのに、青年の言葉に姉弟は憮然とするしかなかった。
「とにかくまだ安心はできないが――よかったな、セフィ」
「うん……」
 十六年間、ずっと迎えが来るのを待っていた。養母シュルエ・ヴォドラスや村の皆に守られ支えられて育ち、何の不自由もなかったが、それでもどこか心は飢えていた。しかし、今やそれも満たされて、セフィアーナは自分が幸運であったことに深く感謝した。
「カイル。姉さんね、今回の《光道騎士団》のことが決着したら、エルジャスに来てくれるって」
 ラスティンの言葉にカイルが少女を見ると、セフィアーナは小さく頷いた。もとよりそれに否やはなかったが、果たしてそんなに簡単に決着が付くとも思えない。そもそもどう決着した後でも、《太陽神の巫女》たるセフィアーナは、もはや自由に動けないのではないだろうか。混乱に紛れ、エルジャスへ旅立った方がいいような気がした。
(このまま行くか……)
 カイルが本気で思案し始めた時、セフィアーナが彼を呼んだ。
「カイル、リエーラ・フォノイから手紙をもらったって言ってたわよね。それっていつ? リエーラ・フォノイは何て?」
「あ、ああ――」
 青年は思わず押し黙った。リエーラ・フォノイが手紙をくれたのは、自らの生命に危険を感じたからであり、書かれていた一連の内容はセフィアーナには知らせていないとあった。話すべきなのか迷った末、カイルはしばらく様子を見ることにした。
「手紙を受け取ったのは、おまえと聖都で別れてから十日くらいしてからかな。ちょうどこいつと聖都へおまえに会いに行く途中だった。おまえのことを、すごく心配していた」
「聖都に着いてからは? リエーラ・フォノイに会った?」
「いいや。《月光殿》に行ったが、会えなかった」
 ここで突然、ラスティンが岩を蹴りつけた。
「あの時の神官どもの態度ときたら! 姉さん、よくあんなところにいられるね」
 弟の憤慨を訝しみながら、セフィアーナはカイルに説明した。
「リエーラ・フォノイは、今は《月光殿》にいないわ。大きなお役目を頂いたとかで、シャーレーン聖官殿に戻ったの。すごく急な話だったから、私も挨拶できないままで……」
 それを聞いて、カイルは眉根を寄せた。
「おまえに前もって断りがなかったのか?」
「ええ。聞いたのは、聖都を発つ直前なの。リエーラ・フォノイも来るはずだったのに……」
「………」
 嫌な予感がした。ふと、聖なる山に、黒い布に包まれて埋められていた神官たちのことを思い出した。
「カイル?」
「……いや、何でもない」
 とにかく今は確かめようもないことである。考えても仕方がない。吐息して目下の問題に思いを馳せた時、あることを思い出した。
「――セフィ、『フラエージュ』という言葉を聞いたことがあるか?」
 それは、セフィアーナが閉じこめられていた部屋を訪ねてきた男が放ったものである。彼は愛おしそうにその言葉を口にし、おそらく、セフィアーナに口づけした。当の本人は眠っていたから知るはずもないが。
「え、フラ……? ――いいえ……?」
「何だい、そのフラナントカって?」
 不思議そうな表情の姉弟の前で、カイルはひとり沈黙した。
(《太陽神の巫女》という立場のせいで、ただでさえ面倒なことになっているというのに、この上まだ何かあるというのか……)
 そんな青年を見て、ラスティンがセフィアーナに耳打ちした。
「姉さん、カイルって……何だか変わってるね」
「え?」
「身のこなしもだけど、妙に勘が鋭いっていうか……あののどかな谷で育ったわりには」
「え、ええ……まあ」
 一年半付き合ってようやく教えてもらったカイルの過去である。出会ったばかりの少年に、青年が自分が盗賊の残党だと話しているわけがなく、少女の口から言えるはずもなかった。
「谷と言えば、姉さんって村のみんなから好かれてるんだね。みんな『セフィは』『セフィは』って、《太陽神の巫女》に選ばれたこともすごい誇らしげだった。春輝亭には竪琴まで飾られてたし」
「えっ?」
 その時になって、セフィアーナはようやく違和感に気付いた。
「なんだかオレも嬉しかったよ――って、姉さん?」
 ラスティンの話を最後まで聞かず、セフィアーナは繋がれた馬の方へ走り出していた。
「姉さん、どうしたの!?」
 追いかけてきたラスティンとカイルの前で、馬の背の荷物を確かめていたセフィアーナは項垂れた。
「私、荷物を……竪琴を置いてきてしまったわ、あの部屋に……」
「竪琴って……えっ、まさか母さんの!?」
「ええ……」
 どこに行く時もいつも一緒だった半身のような竪琴を、あの暗い部屋に置き去りにしてきたなどと、セフィアーナは自分が信じられなかった。
「その、取りに、帰る……?」
 姉のあまりの落胆ぶりに、ラスティンが思わず呟く。
「まさか! ここまで逃げてきて、今さらそんなことできないわ。いいのよ、自分が悪いんだし。それに、決着のしようによっては戻ってくるかもしれないし。たとえ戻ってこなかったとしても、もう母さまが見付かったから、うん、いいのよ」
 本音を言えば、そんなに簡単に諦めがつくものではない。あの竪琴がどんなに自分を救ってくれたか。しかし、そのせいで二人を危険にさらすわけにはいかなかった。自分ひとりで取りに帰ると言って、聞いてくれる彼らではない。それは傲りではなく、エルミシュワまで彼女を助けに来てくれたことを考えても明らかだった。
「それより、この後のことを考えましょう。集合場所ってどこなの?」
 わざと明るく振る舞う少女に、カイルは「取りに行こう」と言ってやれない自分がもどかしかった。


 傾いた太陽が梢の向こうで光を割った。
「さて、そろそろ行くか」
 カイルの言葉に、セフィアーナとラスティンは立ち上がると、馬の方に向かって歩き出した。
「姉さん、馬に乗れるんだ。もう一頭あったらなぁ」
「ダメよ。乗れるといっても、初心者だもの。こんな山道じゃ、足手まといになるだけよ」
「そう?」
 すっかり打ち解けた姉弟が鞍上に身を跳ね上げた瞬間、
「伏せろ!」
 突然、カイルの鋭い声が上がり、セフィアーナは青年によって鞍上から引きずり下ろされた。ラスティンに至っては突き飛ばされて、今は地面の上で顔を歪めている。
「痛ぇ……一体どうしたっていうんだよっ」
 ラスティンが顔を上げた時、アグラスが近くの木に向かって吠えつけた。見ると、幹に短剣が刺さっている。
「追っ手……!?」
 緊張の色を露わにする姉弟の横で、カイルが森の奥に向かって叫んだ。
「そこにいることはわかっている! 出てこい!」
 すると、古い大木の陰から、ひとりの男が姿を現した。セフィアーナを訪ねていった聖都でも似たようなことがあったが、今、姿を現したのはヒース=ガルドではなく、《光道騎士団》の軍服を纏った若い男だった。
「賤しい田舎者と侮ってしまったようだな」
 皮肉げな笑みを浮かべたその顔を見て、セフィアーナは息を呑んだ。
「ガレイド・エシル!」
 すると、ガレイド・エシルは少女に向かって深々と頭を下げた。
「《太陽神の巫女》、ご無事で何より。お迎えに上がりました」
 彼こそセフィアーナを『フラエージュ』と呼んだ人物だと気付き、カイルは少女を振り返った。
「知り合いか」
「《光道騎士団》のガレイド・エシルよ。道中、親切にして下さったの」
「嫌なヤツだよ」
 そう吐き捨てるように補足したのは、体のいい尋問をされたラスティンである。
 セフィアーナは一歩進み出ると、男の正面に立った。
「ガレイド・エシル。私、一緒には帰れません。《光道騎士団》には、戻りません」
 強い意志とともに言い放った少女を、ガレイド・エシルはわずかに目を細くして見返した。
「……何故です? 貴女を連れ去った者どもは――」
「私は連れ去られたのではありません。自分からあの部屋を出たんです。あなた方のなさっていることに疑問があるから……」
 セフィアーナは一瞬、ぎゅっと目をつぶった。瞼の裏が紅く染まり、あの凄惨な夜が甦る。
「エルミシュワの人たちは、本当に邪教の徒なんですか?」
 少女の渾身の問いを、しかし、男は小さく笑って躱した。
「この者どもに何を吹き込まれたかは知りませんが――」
「この人たちは、あなたが思っているような人ではありません」
 ガレイド・エシルは二人のことをエルミシュワの民の生き残りだと思っている。しかし、彼らの素性を明かせない今、そうではないとも言えず、セフィアーナは言葉選びに苦心した。
 少女に何度も言葉を遮られたガレイド・エシルは、軽く首を竦めると、何気なく歩を進めた。
「ふむ……ではどういう者たちかと尋ねても、答えは返ってきそうにありませんね。素性の当ては外れたようですが、……仲間がいるという勘は当たったらしい」
 男の視線を受けて、ラスティンは忌々しげに唇を噛みしめた。そんな彼に、カイルが前を向いたまま小声で話しかける。
「あいつはオレに任せて、セフィを連れて先に行け」
「はぁ? 何言ってるんだよ」
「オレの馬にセフィを乗せろ。落ち合う場所はさっき確認したな。このうえヘマするな」
 カイルの硬い面持ちに、それが冗談でないことをようやく悟ると、ラスティンは眉根を寄せた。相手は騎士、それも聖都からエルミシュワまでの道中、陰惨たる噂しか聞かなかった《光道騎士団》のである。いくらカイルが普通ではないと知っていても、その作戦は無謀に思えた。
「でっでも!」
「言っただろう。後悔したくなきゃ、今はオレに従え」
 少年も多少、棒術に覚えがあるが、実戦の経験はほとんどない。今までは専ら逃げ足の速さを鳴らしてきたのだ。カイルと連携して攻撃などできない。それどころか、足手まといになる確率のほうが極めて高い。そして、その場にいて、カイルに万一のことがあっても、彼一人で姉を守りきる自信はない。
「わかったよ……」
「なら、さっさと行け」
 その時、ガレイド・エシルが小さく笑った。
「何をこそこそと話している」
 途端、ラスティンがセフィアーナの手を取って走り出した。
「ちょ、ちょっと、ラスティン!?」
 その少年の背に向かって、男が再び短剣を投じる。が、それはまたしてもカイルによって阻まれてしまった。今度は剣で薙ぎ払われた短剣は、二度ほど跳ねて草むらに転がった。持ち主の悪意に満ちた視線がカイルに突き刺さる。その間に、ラスティンは姉を急かして馬に乗せるのに成功した。
「でっでも、カイルは!?」
「後から来るって! ほら、行くよ!」
「カイル……!」
 背に少女の不安げな呼び声を受け、カイルは軽く左手だけを振った。やがて不安定な蹄の音は遠離っていった。
「……貴様ごときが私を足止めできると思うのか」
 その声音が今までのものとはまるで違い、暗く剣呑なものになっていることにカイルは気付いた。しかし、それで臆する青年ではない。
「足止め?」
 カイルはくすりと笑うと、挑発的に剣先を男に向けた。
「生命と馬をもらおうか」


 カイルと別れた姉弟は、闇の勢力の強くなった森の中を南東の方角へと馬を走らせた。セレイラ部隊の長ヒースが落ち合う場所と決めたのは、エルミシュワへの道中、アグラスが見付けてきた滝だった。それは、セフィアーナがボロドン貝の首飾りを落とし、ネル少年と最初に出会った小川の上流だったが、無論、地理に疎い彼女の知ったことではない。
「ねえ、ラスティン。やっぱり戻りましょう。二人が心配だわ」
 盗賊だったカイルと、《光道騎士団》のガレイド・エシル。どちらが強いかなどセフィアーナは知りようもなかったが、本気で戦えば、二人とも無事では済まないはずである。
 必死で手綱を握りながら、しかし、何度となく背後を振り返る姉に、ラスティンは眉根を寄せて叫んだ。
「なに言ってんのさ! あのガレイド・エシルってヤツ、オレとカイルを殺そうとしたんだよ!? 姉さん、《光道騎士団》へは戻りたくないんでしょ!?」
「そうだけど、でも、ちゃんと話せば――」
 ガレイド・エシルだけが、孤独な陣中にあって唯一、優しく話しかけてくれた。彼なら、セレイラの部隊が来ているのだと話せば、光道騎士団長に取り次いでくれるかもしれない。しかし、ラスティンは腹立たしげにセフィアーナの言葉を遮った。
「話してわかるヤツらなら、村の人たちは殺されなかったよ! 《光道騎士団》とセレイラ警備隊は仲が悪いから、言ったところでかえって皆殺しに遭うだけだって、さっきカイルも言ってたじゃないか! 運良くこっちは両手で数えられるだけの人数で、後は知らぬ存ぜぬで通せばいいんだからね!」
 言い込められて、セフィアーナは馬上で押し黙った。
「とにかく今は、滝に行くことだけを考えようよ!」
 ラスティンにも責任がある。セフィアーナと必ず滝へ辿り着くとカイルに約束した。そして、彼のせいで生命の危険にさらされている部隊の皆にも、自分たちが無事なことを伝えなければならないのだ。
「わかったわ。無理を言ってごめんね、ラスティン」
「姉さんが謝ることじゃないよ。もともとはオレが悪いんだし……」
 気を取り直して再び疾走を開始した二人だが、この時、木々の間から《光道騎士団》の追っ手に見咎められたことに未だ気付いていなかった。

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