The story of Cipherail ― 第一章 闇に掴むもの


     6

 宰相家の霊園は、王都の北、王家の墓がある丘の向かい側にあった。
 立ちこめる朝靄の中、ルシエンはひとり、亡くしたばかりの夫ウォーレイの墓の前に立っていた。その周囲は、連日の弔問客の供花で埋め尽くされている。
「……ねえ、貴方。《光の園》は、本当は・・・どのような場所でした……?」
 祈りを捧げている間に出逢った頃の愛しき日々が脳裏を過ぎり、ルシエンは顔を上げると、語りかけるように尋ねた。口元に、少女のようにはにかんだ笑みを浮かべて。
 ルシエンの実家の葡萄園が、初めて二人きりで遠出した場所だった。昼下がり、彼女が自ら作った弁当を食べた後、ウォーレイは敷物の上で眠ってしまった。地べたで痛いだろうと、ルシエンが彼の頭を膝の上に乗せてやり、それからの時間はゆっくりと過ぎていった。彼女はずっと本を読んでいたのだが、ふと視線を感じてウォーレイの顔を見ると、彼はいつの間にか起きていて、穏やかに微笑んで言ったのだ。《光の園》がこんな場所ならいい、と……。
 静かに手を伸ばすと、ルシエンは愛しそうに朝露に濡れた墓石を撫でた。あっという間に視界が滲む。
「……貴方とあの子を一度に失うなど、思いも寄らぬことでしたけど――」
 家名の存続を許されても、忠義を重んじるサリード家は今、大いに揺れている。屋敷では、子どもたちの前では、決して泣けなかった。花の匂いが立ちこめるこの場所だけが、今のルシエンを優しく包んでくれる場所だった。
「貴方とあの子の墓所が遠く離れることになるなど、もっと思わぬことでしたわ……」
 昨日、ウォーレイが《光の園》に召されたばかりだというのに、今日にはまた、最愛の息子が旅立ってしまう。しかも、こちらは辿り着く先が知れぬ旅に。
「もしあの子がちゃんと貴方のもとに辿り着けたら……その時はどうか叱らないでやって下さい。それまでに、苦しい苦しい旅をしていたはずだから……」
 ひとり佇む女の沈痛な声は、朝靄の中に深く溶けていった。


 この日ばかりは、朝から様々な人々が様々な思いで雲ひとつ無い青空を見上げることとなった。
「やっと宰相の喪が明けたのぅ。このような良き日和、故人が無事《光の園》に召された証しに違いないぞ」
 森の館の露台から遥か白亜の宮を望みながら、王弟妃ルアンダは満足げな笑みを浮かべた。その背後で、息子リグストンの侍従カリシュが大きく頷く。
「さらに申し上げれば、過日の陛下の御英断を神がお認めになったということ」
「まことにそなたの言う通りじゃ」
 今朝のカウリス家の次男トールイドの報告に寄ると、将軍イルビスは、カウリス家が手配した偽の祭礼官の存在にまで辿り着いていたらしい。しかし、既に手は打った。明日にもなれば、身元不明の変死体が運河で上がるだろう。
「それにしても、天下の宰相家がなんとも呆気ない最期よのぅ」
 室内に踵を返したルアンダは、優雅に鷹羽の扇を翻した。
 ――本来、その翼がはためく場所たる蒼穹を、クレスティナは王宮の庭で見上げていた。
(せめてもの救いか……。迷わず《光の園》へ行けるだろう……)
 そう思いながらも顔が歪むのは、神の眩さが理由だけではなかった。ふいに背後で草を踏む音がして振り返ると、そこには麾下のシダが面持ち硬く立っていた。
 青年は彼女の横に立つと、無言のまま、同じように空を仰いだ。
「オレは、負けません」
「……ああ、そうだな」
 再び顔を上げ、神を見据える。視界の端に小刻みに震える肩が映っていた。
「ずっと皆で、この蒼空を飛んで行こう……」
 そして、鷹匠の腕から今にも飛ばんとする愛鷹を寝室の露台から眺めているのは、国王イージェントだった。
「行け! おまえの羽ばたきで、陛下の御心をお慰めするのだ!」
 鷹匠の言葉とともに、風が舞い上がった。力強いはためきがすぐに風の聖官の息吹を捉え、空高く昇っていく。あっという間に小さくなったその影は、迷える魂を導くように、神の周囲を回り続けた。あまりの眩しさに耐えられず、吐息とともに人界に視線を落とした彼の目に映ったのは、険しい表情を浮かべた弟トランスだった。
「起きられて大丈夫なのですか」
「公務を休んでいるのに、か?」
 イージェントは手すりから離れると、小さく笑いながら椅子に座った。
 火宵祭より体調を崩していた国王だが、ついに侍医長から数日間の絶対安静を言い渡されてしまったのだった。
「外の空気をお吸いになりたいのはわかりますが、このような炎天下でそのような薄着はお身体に障ります」
 言って、トランスは日よけを引き寄せると、さらに室内から取って来させた膝掛けを、国王の膝に着せかけた。瞬間、イージェントの脳裏に、親友の息子の笑顔が強烈に浮かび上がった。
「……陛下?」
 急に沈黙してしまった国王をトランスが見下ろすと、兄はふいに弟の手を掴んだ。ゆっくりと顔を上げたイージェントは、譫言のように呟いた。
「つい、この間のことなのだ」
「……何です?」
「最後に頼れるのは弟だけでしょうから、と、おまえと同じように私に膝掛けを掛けてくれた……」
 最初は何のことか理解ができなかったトランスだが、イージェントの視線が眼下の小さな塔に向かっているのに気付き、言うべき言葉を逸した。彼の手を握る兄の手に力がこもり、再び彼を見下ろすと、イージェントは真っ直ぐとトランスを見上げていた。
「……トランス、我が弟よ。この日をよく憶えておくがよい。我らの恩人が命を落とす日だ」
「恩人……?」
 トランスは容易に顔を歪めた。イスフェルは王族たる彼の生命を狙った反逆者であって、恩人でなどでは断じてない。だが、その怒りより、国王の発言による驚きと苛立ちのほうが遥かに勝った。
「……おまえを海軍の上将軍にと言い出したのは、イスフェルなのだ」
「………!?」
「おかしなことよのぅ。余もウォーレイも、おぬしが戻る日を待ち侘びていたというのに、そんな考えには一度として行き着いたことがなかった。それを、あの若者は――」
「陛下!」
 思わず、国王の言葉を遮ってしまった。どこからともなく現れ出た大きな、それは大きな波が、彼の心を呑み込んでいく。その感覚は、これまでの人生の中で既に感じたことのあるものだった。
(いったい、どこで――)
 考えて、すぐに思い出した。幼い頃、「兄君がお倒れに」と侍従から報告を受けた時だ。大切なものを失うかもしれない――そう思った後、彼はいつでも走り出していた。大切なものを守ろうと、必死で。
「陛下、兄上、私は今後、命を賭けてサイファエールに尽くすことをお約束致します。ですから、そこで上げる功のすべてをもって、ただの一度、王命に背くことをお許し下さい!」
 トランスは早口で言い立てると、兄の返事を待たず、疾風のように露台を飛び降りていった。その姿に、かつての愛弟の魂を見たイージェントは、双眸から溢れるものを止めることができなかった。
「ウォーレイ。トランスが、帰って来たぞ……」


 中庭まで出たところでたまたま居合わせた近衛兵の馬を引ったくると、トランスは手綱を奮って城内を駆け抜けた。
『誕生祝いだ。我が親友の息子イスフェルが、常に幸福であるように』
 十八年前、イスフェルに生命の水の壺を与えたのは自分だった。あの若者の誕生は、彼にとって、我が子のそれよりも嬉しいものだったのだ。それを、自ら叩き割るような真似をして……!
 後方に景色が飛んでいく中、トランスは庭に植えられている木々の影が短いことに気が付いた。城門の正面でひとたび馬を止めれば、太陽はまさに天頂に達しようとしていた。
「愚か者が……!」
 それは、火宵祭の夜、彼に向かって剣を抜いたイスフェルに対して吐かれた言葉と同じものだったが、いま呪わしいのは自分以外の何者でもない。そもそも、あの青年の反逆に対する怒りなど、ありはしなかった。あったのは、早合点で取り返しの付かない事態を引き起こした苛立ちだけだ。
 近衛兵の制止を無視して、トランスはリオドゥルクの丘を疾走した。イスフェルの処刑は正午。もはや一刻の猶予もならない。しかし、行く手に現れた馬車の一団が、彼を呼び止め、道をふさいだ。
「父上!?」
 開いた馬車の扉から顔を覗かせたのは、他でもない彼の息子リグストンだった。
「父上、何をそのようにお急ぎです? 供の者も連れず……」
 未だ落馬の骨折が癒えぬリグストンは、馬車の中で片足を伸ばしていた。トランスは苛立たしげに顔をしかめると、あからさまに正面に立った筆頭侍従の顔を睨み付けた。
「何事もない。カリシュ、そこをどけ」
 しかし、カリシュは道を開けるどころか、一歩前に進み出た。
「いいえ。王弟殿下が白昼堂々、単騎でこの道を下るなど、尋常事ではございませぬ。私たち同様、道行く者の不安を煽りますゆえ、何事もないのでございましたら、どうぞお戻りを」
 さらに、王弟の視線が剣呑なものに変わるのを見て取るや、今度は困ったように態度を軟化させた。――まるで、己に主導権があるかのごとく。
「では、せめてどなたか供の者を。おひとりの時に何かございましたら、王国の一大事。私でよろしければお供いたしますゆえ――」
「出しゃばるな!」
 突然の王弟の怒号に、その場にいた者は息をすることも忘れて立ち竦んだ。
「上将軍たる私に向かって、『何かございましたら』か。フン、あながち杞憂ではないかもしれんな。あの宰相でさえ、衆人環視の中、斃れていった」
 言外に含みがある。だが、周知の通り、宰相ウォーレイの生命を奪ったのは、実の息子のイスフェルである。
「……父上、それはどういう――」
 しかし、リグストンが反論しようとした時、トランスは黙したカリシュの首を鞭の先で押しのけ、道を開けさせたところだった。
「準上将軍、まだ傷も癒えぬ身でこのように彷徨くな。戦場にまた馬車で行くつもりか」
 それだけを言い残し、王弟は風を供に再び走り出した。


 昼間だというのに薄暗いその部屋には、小さな祭壇が設けられていた。その前の床に敷かれた深紅の聖布の上では、真白の長衣を纏った青年がひとり、膝立ちして沈黙とともにその刻を待っていた。彼の頭上で、神官が粛々と罪状を読み上げている。
 実の父に手を掛けた罪。サイファエール王国の宰相を殺した罪。その罪を第三者――サイファエール王弟トランスに転嫁しようとした罪。王族に向かって抜剣した罪……。遥かに繋がる罪の連鎖が青年の心身を拘束し、今やそのすべてを失わせようとしていた。
「……サイファエール国王イージェント陛下の御裁可により、本日、その罪を汝の生命によって贖うものである」
 たとえ国王が一部にしろその無実を知っていても、証明できなければ減罪することはできない。
「……何か、言い遺すことはありますか?」
 処刑の度、大神殿から中央裁判所に派遣されている高等神官のジェシルは、衣擦れの音とともに歩み出ると、眼下の青年に静かに問うた。以前に見かけた時は、目に鮮やかな青い衣装を身に付け、颯爽としていた若者だが、この日、その面影を見付けることはできなかった。顔は青白く、頬はこけ、理知的に周囲を見ていた藍玉の瞳にはもはや生気が感じられない。
「……では、私を愛して下さった人々に心よりの感謝を。……特に、王子殿下お二人に――」
 乾ききった唇から発せられたのは、意外にもしっかりとした声だった。日の下から姿を隠してより二十日あまり、彼がその言葉を言うためだけに生きていたのだと、その場の誰もが確信した。
「私のことで国王陛下をお恨みになりませんように、と。すべては私の浅はかな言動が原因。お約束を……守れず……」
 牢の中で、何度悔いたかしれない。イスフェルは瞳を閉じた。白い強烈な光の中に、あの日、テフラ村の小さな庭で自分が口にした言葉が蘇る。
『私たちが全身全霊を賭けて貴女方をお守りいたします――』
 そこから新たに生まれた小さな約束。
『そうだ! イスフェル、この本、いつか読んであげるねっ』
『本当ですか?』
『うん、約束する!』
 そして、それまでに腹心の友たちと約していた夢。
『オレたちで、サイファエールを光の国に!』
 しかし、その言葉や想い出は、あっという間に闇の渦に呑まれていった。
「……罪は償います。私の家族と、とこしえにお慕い申し上げている陛下の御為に」
 ジェシルは深く頷くと、青年に小さな白い杯を差し出した。その中に湛えられた液体は水のように無色透明であったが、致死量の毒物が混ぜてある。それを受け取ろうとして、イスフェルはある物に気付いて表情を強張らせた。その杯を包んでいたのが、見覚えのある紫色の手布だったのだ。正面の部分に、多少歪んだ宰相家の紋章が見える。思わず神官を見上げると、彼はただ静かに頷きを返してきた。
(エンリル……)
 それは、成人の日、妹エンリルから贈られたものだった。オルヴァの丘で、家族揃って笑った日はついこの間のことだというのに、それは自分のせいで二度と叶わないものになってしまった。だが、恨み憎んでもいいはずの兄を、小さなエンリルは最期まで想ってくれていたのだ。
 イスフェルが受け取って天にかざした杯へ、丸天井に設けられた《光道》と呼ばれる穴から、正午の光が矢の如く落ちた。それを合図に、杯を自分の口元へ運ぶ。
「神よ、この誠実なる僕に安らかなる死を」
《光道》を見上げ、ジェシルの祈りとともに杯を傾けようとした瞬間、突如、眼前を銀の光が一閃した。と、同時に手に持っていた杯が割れ飛ぶ。室内は神官や刑務官たちの声なき叫びで満ちた。
「何事です!」
 今までとは打って変わったジェシルの鋭い声が飛ぶ中、イスフェルは呆然と手元を見ていた。両手に載せた手布の中に、粉々に砕け散った杯の欠片が白い屍を晒している。手布の端からは、死の水が床に滴り落ちていた。
「こっこれは、王弟殿下!!」
 その声を聞いた時、イスフェルは全身に鳥肌が立つのを感じた。身体が小刻みに震え始める。どうして王弟がこの場にいるのか。自分が死ぬのを見届けにきたのだろうか――嘲笑うために。
「殿下、今は神聖な儀式の最中でございますよ」
 ジェシルの険しい声を、しかし、戸口に立ったトランスは一蹴した。
「必要ない」
「は……!?」
 王弟は居並ぶ神官や刑務官を無視して青年の前に立つと、床に転がった自分の短剣を一瞥した後、低く伏せられた麦藁色の頭を見下ろした。
「……おぬし、牢に居ながら王国の人事を操るとは大した男よの」
 しかし、イスフェルは自分の感情を押し殺すのに必死だった。この時点での軽率な行動は、今度こそサリード家を破滅させる。
「殿下、御心配なさらずとも、私は犯した罪は償います」
「無論だ。おぬしはサイファエールの王弟たる私に剣を向けたのだからな。ただ、その方法を違えるだけだ」
 ふと、睨み付けていた床の聖布の模様がぼやけた。トランスの言っていることが理解できなかった。
「おぬしには、生きて罪を償ってもらう」
「………!?」
 イスフェルが思わず顔を上げると、王弟トランスは打算を含んだ笑みを向けてきた。
 だが、驚いたのは、周囲の神官たちも同じである。処刑に関する儀式の責任を負っているジェシルは、トランスに詰め寄った。
「しっしかし、殿下! 国王陛下の御裁可は……!?」
「案ずるな。陛下にはご了承いただいておる」
「さ、さようで……」
 王弟にそう言い切られてしまっては、いくら高等神官でももはや出る幕はない。そもそも、イスフェルの処刑など、多くの者が望んでいなかったのだ。
「……それで、この者の新しき償いとは……」
 誰もが固唾を呑んで見守っている中、トランスは道中で考えた償いの方法を告げた。
「イスフェルには、アンザ島へ行ってもらう」
「ア、アンザ島……!?」
 その名を聞いて、イスフェルは怒りで目の前が真っ赤になった。それでも仇敵に襲いかからずに済んだのは、エンリルの手布のおかげである。
 その昔、テイランで暮らしていた頃、港の漁師たちが暗い表情で話しているのを何度か聞いたことがあった。アンザは呪われた島だ、と。彼らの話では、毎日のようにアンザ島付近で人死にがあり、運良く生きて帰ってきた者の話では、島からしきりに断末魔のような叫びが聞こえていたという。
 当時の漠然とした恐怖は、学院で勉強してからは嫌悪感を伴う恐怖に変わっていた。サイファエール史上にもたびたび登場するその島は、王国の南に位置するサイラス海にあって、周辺諸国で大罪を犯した者が収容される監獄を擁していたのだ。その周囲は北と南で向きの違う速い潮流によって常に大渦が巻き、入獄さえ困難、脱獄などは不可能とされていた。断末魔のような叫びとは、おそらく狂人と化した囚人たちの咆哮だろう。彼らは常に手足に重い枷を嵌められ、日の光を浴びることもなく狭い独房で一生を終えるのだ。首を刎ねられたほうが余程マシだったと思える苦しみとともに……。
「そこで、おぬしはただ生きていればいいのだ。どうだ、大罪には見合わぬ償いであろう」
 そう言って薄笑いを浮かべるトランスに、イスフェルは彼の真意を悟った。
(すべては、人気取りか……!)
 王子たちの登場以来、サイファエール宮廷では俄然、宰相派が幅を利かせていた。その筆頭である宰相家が失脚したとしても、王子たちがいる限り、王弟派に未来はない。将来のため、まずは新しく得た上将軍の座を確固たるものにするために、青年の身命をだし・・にする気なのだ。ぎりぎりのところでイスフェルを救って見せれば、父を慕ってくれた人々は、トランスを慈悲深き御方と褒めそやすだろう。
(どこまでオレを貶めれば気が済むのだ……!)
 一切の希望を奪われ、死を目指して生きるしかなかったこの数日間。このうえ、絶望の谷底はまだ深かったというのか。だが、今はそんなことよりも――。
 脳裏に、運命の日のファンマリオの叫びが甦る。
『叔父上、助けて! イスフェルは悪くないって、皆に言ってよ!』
 実情はともかく、青年の生命を救ったには違いない叔父を、王子たちは両手を挙げて歓迎するに違いない。羊たちが何の疑念もなく狼の前に飛び出すようなものだ。イスフェルはぎりっと奥歯を噛みしめたが、もはや額輪を失った額を床にこすりつけるしかなかった。
「……殿下のご恩情、このイスフェル、生涯忘れませぬ」
 屈辱か、怒りか、憎悪か、或いはそのすべてか、再び伏した青年の肩が震えているのを、トランスは無言のまま見下ろしていた。しかし、それもごく短い時間だった。
「詳細は追って沙汰する」
 ジェシルに短くそう言い置くと、トランスは踵を返した。長く暗い廊下を、今度はゆっくりと歩む――どうにか間に合ったことに安堵しながら。
「決して、水を涸らせるな……」
 しかし、その呟きは小さく、再び絶壁から突き落とされたばかりのイスフェルの耳に届くことはなかった。

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