The story of Cipherail ― 第一章 闇に掴むもの


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 テイルハーサの子らは、死して十三日後、《光の園》に辿り着くとされている。聖域ルーフェイヤに配された聖官殿の順序どおり、初日は月の聖官ミーザ、二日目は商業の聖官アレン、と一日ずつ聖官のもとを訪ね、魂を浄められて十三日後、太陽神の御許に寄り添うのだ。
 宰相の喪明けの日、シダとセディスは連れ立ってオルヴァの丘を上った。夏の日差しはまるで彼らの影を地に焼き付けるように熱く、長く巻く坂を歩むその足取りは極めて重い。
 初めてその屋敷を訪ねたのは、王立学院在学中のことだった。夏の休暇中に、友が招待してくれたのだ。それまで、宰相家嫡男という彼の肩書きをどこか違う世界のことのように考えていたものだが、その門の前に来た時、本当に自分が彼と肩を並べていていいのか、内心で後ずさったものだ。
「初めて行った時に食べたお菓子、なんだかヘンテコな味だった」
「オレはエンリル嬢にお茶をひっくり返された」
 道中、久しぶりに口を利いた二人は、顔を見合わせて苦笑した。
「本当に天下の宰相家か!?」
 そこに暮らす人々は、友を含め、本当に温かかった。――だから、かつてなかった。この道を、これほどまでに長く感じたことは。運命の火宵祭の夜から半月あまり、将軍イルビスの捜査は行き詰まっているという。そしてそれは、友が無念を一寸も晴らすことなく逝くことを示していた。
 ようやくのことで坂を上り詰め、美しい門をくぐり、広大な庭を巡る緑の回廊に差しかかった時、玄関に四頭立ての馬車が止まっているのが見えた。
「来客中らしいな」
「ユーセットの居場所を訊くだけだ。いいさ」
 普段は開いている扉が、この日は閉まっていた。おそらく、あの日以来、閉ざされているのだろう。シダが扉を叩くと、しばらくして家宰のセルチーオが顔を覗かせた。
「これは、シダ様、セディス様」
「ユーセットはいるか?」
「……いえ……」
 言葉を濁す家宰に、セディスが再び尋ねる。
「いつから戻っていない?」
「もう、七日以上は……」
 それを聞いて、シダは思い切り眉根を寄せた。
「いったいどこをほっつき歩いてやがる!」
 ユーセットが消息を絶って、かれこれ十日近くになろうとしていた。イスフェルを失った今、イスフェルの夢のためにこれからどうするかを話し合いたいのに、王宮にも思い付いた場所にも、黒髪の青年の姿はなかった。
 彼を捜して、出仕の合間を縫って王都中を駆けずり回ったセディスも溜息をつく。
「もし戻ったら、書記官長が御心配なさっていると伝えてくれ」
「しかと」
 予想はしていたが、やはり何の手がかりもなかったことに落胆した二人が踵を返そうとした時、突然、廊下の奥の方で激しく扉が開かれる音がした。
「この家の当主は私だ! 私がこの家を守ると言ったら守る!」
 振り返った三人の視界に苦渋の表情で現れたのは、イスフェルの弟シェラードだった。少年は彼らには気付かぬ様子で、二階へ駆け上がって行った。
 セルチーオの横で、風が動いた。シダがシェラードを追いかけたのだ。
「シダ様、今は……!」
 友を制そうとするセルチーオを、セディスが引き止める。
「長居はしない」
 そして、彼もすぐに後を追った。


 二人が辿り着いた時、シェラードはイスフェルの部屋の中央に立ち竦んでいた。青年たちは顔を見合わせると、彼に近付いていった。
「シェラード」
 シダの声に、シェラードは怯えるように肩を震わせると、ゆっくりと振り返った。が、すぐにその正体を知り、安堵の吐息を漏らす。
「シダさん、セディスさん……」
「なかなか踏ん張ってるみたいだな」
 その言葉に、シェラードはすぐに険しい表情に戻った。
「私など、全然ダメです……」
 身体の横で握りしめられた拳が、微かに震えている。
「……やり合っているのは、メイビスか」
 セディスが玄関にあった馬車を思い浮かべながら尋ねると、シェラードは暗い表情のまま頷いた。
「従兄は、どういう理由にしろ逆賊の汚名を着た者がオルヴァの丘に居続けるわけにはいかない、と。でも、ここは……ここは、私たち家族の、母上の、父上との想い出の場所なんです。これ以上、母上に大切なものを失わせたくないんです……」
 多忙な長男に代わって次男が一族を取りまとめることになっている宰相家では、現在、ウォーレイの亡くなった弟の息子メイビスがその任にあたっている。メイビスはイスフェルよりもひとつ年下で、父親が急死するまでは王立学院にいたため、セディスたちも知っているのだった。
 思えば、メイビスも気の毒な立場だった。本来、彼の父の職務を引き継ぐのはシェラードだったのだ。それが父の突然の死で、若干十四歳にして一族を取りまとめる身となった。サンエルトルの領地を守るため、学院も辞めざるを得なかった。そして、この度の事件である。年齢以上の責任を負わされ、彼もまた彼なりにサリード家を想って動いているのだ。
(天下の宰相家が……なんという有様だ)
 内心で首を振りながら、セディスはシェラードに再び問うた。
「味方は? ルシエン殿は何と?」
「母は何も……。表立って味方してくれるのは、妹だけです」
 シェラードが情けなさそうに苦笑する。そんな少年を見て、シダが苛立ちの声を上げた。
「まったくユーセットの野郎、こんな大事な時に!」
 しかし、そのことについて、シェラードが意外なことを口にした。
「……テイランからユーセットに手紙が来て……。従兄のアイオールは、やはり兄を実の弟のように思っていますから、今回の不始末の責任をひどく追及されたみたいで、それから帰って来てないんです」
 顔を見合わせる兄の友人たちに、シェラードは呟くように言を次いだ。
「……どのみち、ユーセットの心には、兄しかいませんから」
 ユーセットは、イスフェルには兄のような存在だったが、シェラードにはそうではなかった。兄を、弟たる自分から奪ってしまうような存在に思ったことが多々ある。一緒にいても、どこか疎外感を否めなかった。しかし、こうなってしまった今、誰よりも傍にいて欲しい人物でもあった。
「……おまえ、もう少し独りで踏ん張れるか?」
「え?」
 シェラードがセディスの言葉に瞬きしていると、その意味を理解したシダが、にやりと笑った。
「オレたちがユーセットを引きずってきてやるよ」
「お二人とも……」
 ユーセットがここまで徹底的に行方を眩ましたということは、最後の好機である今夜、必ず行動を起こすはずである。シェラードのためにも、自分たちのためにも、そしてこれ以上の混乱を避けるためにも、そこで捕り押さえるしかない。
「よろしくお願いします」
 深々と礼をするシェラードを残し、二人は部屋の扉へと向かった。と、シダが歩みを止めた。
「シェラード」
 呼ばれたシェラードが顔を上げると、青年の顔がわずかに怯んだ。
「おまえ……イスフェルを恨んでいるか?」
 すると、少年の双眸に、堪えていたものが滲んだ。首が強く横に振られたため、それは弾けて宙に消えた。
 シダは、破顔して部屋を後にした。


 焦れば焦るほど、刻はその背の翼を羽ばたかせ、彼の後方へと飛び去って行った。
 宰相暗殺事件の捜査の全権を国王から委ねられた将軍イルビスは、宰相の喪が明けたこの日、そしてその息子の処刑を明日に控えたこの日、抱えた報告書の中に犯人の名が記せなかったことに憮然としながら、国王の書斎の扉を叩いた。
「イルビス、待っていたぞ」
 書斎の机に独りで座っていた国王を見て、イルビスは一瞬、心臓を鷲掴みにされたような気がした。国王の顔色が、悪い。
「陛下、お加減がよろしくないのでは……」
 思わず尋ねると、しかし、書類を受け取ったイージェントは、微かな笑みとともに首を振った。
「まだウォーレイのおらぬ執政に慣れぬでな」
 立ち上がり、日当たりの良い長椅子に席を移す。向かい側の席にイルビスを勧めたが、彼は席には着かず、突然、深く頭を垂れた。
「御期待に添うことができず、誠に申し訳ありません」
 普段は滅多に感情を表さない将軍の顔が強張っているのを見て、イージェントはめくりかけていた報告書の手を下ろした。
「……あの宰相家を卑劣な手段で陥れた輩が、そう簡単に尾を掴ませるはずもない。引き続き、頼む」
「はっ……」
 静かに言葉を発す国王が、あまりにも痛々しかった。イルビスは再び礼をすると、足早に部屋を出た。廊下の角を曲がってから、ようやく溜めていた息を吐き出す。その時、ふいに名を呼ばれた。顔を上げると、緋色の絨毯の先に、近衛兵団長トルーゼが立っていた。
「その様子では、明日の正午までには間に合いそうもないな」
 それは、イスフェルの処刑時刻だった。トルーゼは、一番近い部屋の扉を開くと、イルビスを招き入れた。
「それで、何か進展はあったのか?」
 押し殺した声を発する近衛兵団長の瞳が、真摯な光を放っている。
 彼と殺された宰相は互いに名門の出身であり、学院時代からの付き合いが三十余年に及んでいることは周知の事実だった。国王を囲み、それは遠い未来までずっと続いていくものだと誰もが信じていた。それを最悪の形で奪っていった犯人に対する憎しみの炎は、表に出せない分、トルーゼの心を焦がし続けていた。
 誰が黒幕か、あるいはそれに繋がる人物かわからない王宮で、今日まで捜査状況を国王以外の誰にも語らなかったイルビスだが、イスフェルの命の刻限が迫っていることもあり、近衛兵団長を信ずるに値する人物だと判断して、ようやく重い口を開いた。
「宰相補佐官が犯人でないのだけは確かです」
「当たり前だ。あのイスフェルが父殺しなどあり得ぬ。父を人生の師と仰ぎ、ひたむきにその背を追っていたあの若者が。世間が推測だけで騒ぎ立てているように、仮に王子擁立に関して対立があったとしても、殺す理由がない。待っていれば、直に宰相の地位が手に入るのだからな」
「おっしゃる通り。それに、補佐官は祭が始まる直前、剣舞に使った短剣で王子に果物を切り分けています。今から父親を毒殺しようかという人間が、同じ刃でそのようなことはしないでしょう。シオクラスの毒は、短剣が彼の手から離れた――つまり、祭礼官の手に渡ってからのわずかな間に塗布された」
「祭壇にいた祭礼官は?」
「祭礼官長を併せて三名。目下、取り調べ中です。なれど――」
 イルビスの口調が鈍り、トルーゼは眉根を寄せた。
「該当人物はなさそうか」
「……ええ。祭礼官長はそもそも一段高い壇におられましたので、直接行動するのは不可能。もっとも、かの御方はウォーレイ殿と懇意にされていましたから、それを考慮しても犯人ではないでしょう。残るは、実際に剣の受け渡しをしていた祭礼官ですが、二人とも頑として否定しています」
 トルーゼは一瞬、目を見張ると、イルビスを訝しげに見つめた。
「まさかおぬし、それを鵜呑みにしているわけではあるまいな。刑務官を務めたこともあるおぬしが」
 すると、イルビスには珍しく口元に苦笑いが浮かぶ。
「そのまさかです」
「なにっ!? 最も犯人に近い輩を前に、おぬし、いったい何をやっているのだ」
 詰め寄って胸ぐらを掴まんばかりのトルーゼに、将軍は思わず半歩退いた。
「しかし、現在の祭礼官連中は、祭壇にいた二人を含め、大半が宰相派なのです。というより、ウォーレイ殿は、まるで彼らの英雄です」
「どういうことだ?」
「祭礼官たちは剣舞祭の開催を目指して、剣舞の布教を精力的に行っていたでしょう?」
「ああ……」
「ウォーレイ殿が比較的早くに剣舞に親しまれたおかげで、武官だけでなく貴族にも広くたしなみとして浸透し始めたらしいのです」
「……なるほど、それで英雄か」
 トルーゼは、剣舞祭の親子舞を思い出し、納得しながら頷いた。武人の中の武人である彼から見ても、ウォーレイとイスフェルの舞は呼吸をするのを忘れるほど美しく危険で、そして爽快だった。
「祭壇にいたのは、特に中心となって動いていた若手で、嫌疑をかけられたことにそれはひどい剣幕です。この間などは、その祭礼官に無能者呼ばわりされた刑務官が腹を立てて……お耳に入っているかもしれませんが、取っ組み合いの大喧嘩です」
「窓硝子を割る、な。まったく、天下の一大事に何をやっておるのだ」
「面目ありませぬ。――ああ、いえ、しかし、私が祭壇にいた祭礼官を重視していないのには、他にも理由があるのです」
「何だ」
「私には三つになる息子がおりますが――」
 この非常時に、寡黙なはずの将軍が突然、家族――それも我が子の話を口にしたので、トルーゼは容易に目を丸めた。
「最近、ようやく二十まで数が数えられるようになりました」
「……それが?」
 近衛兵団長の表情に困惑の色が滲む。犯人に極めて近い祭礼官を無視する理由が彼の息子の成長といったいどう関係があるのか。
「あの日の夜、息子は妻と一緒に観客席にいました。そして、妻と一緒に、覚えたての数字で祭礼官の人数を数えていたのです。十六まで」
 なおも淡々と言を次いでいたイルビスの目が、ここで鋭く光った。
「あの日、あの場にいた祭礼官は、総勢十五人です」
 瞬間的に面持ちを険しくする近衛兵団長に、追い打ちをかける。
「祭壇に三人、他三辺に四人ずつ、計十五人。ですが、妻は四辺に四人ずつ、計十六人だったと」
「祭壇に祭礼官を装った者が……!?」
「捜査の総指揮をとる人間の身内からの情報でも信じて頂けるのなら、おそらく、その十六番目の祭礼官が宰相補佐官の剣に毒を塗った犯人……」
 二人の間に、緊張の帳が降りる。トルーゼは、再び押し殺した声を放った。
「祭壇にいた者は、その人物に心当たりがないのか」
 イルビスは悄然として首を振った。それがわかれば、国王の部屋を足取り重く訪ねることなどなかったのだ。
「訊けば、祭壇と反対側にいた祭礼官のひとりが、確かに祭が始まる直前、祭壇側に四人いるのを見た、と。しかし、他の者が何かの用で祭壇に近付いただけかと思って、特に気にしなかったようです。遠目だったこともあり、それが誰だったかはわからない、と……」
「あの熱狂の直中のことだ。致し方あるまい。我々軍人は隊で動くゆえ、隣人が誰か、人数が揃っているか、常に気にしているが、祭礼官はそうではない」
 歯痒そうに黙り込んでしまったイルビスの横で、トルーゼは大きく息を吐き出した。
「とにかく一刻も早く犯人を捕らえねば、人心が落ち着かぬ。何より、ウォーレイに顔向けできぬ。イスフェルまであのようなことになって……」
 部屋の窓から、ちょうど中央裁判所の尖塔が見えた。おそらく、今宵、イスフェルが地上で最後の夜を過ごす祈りの塔であろう。
 イルビスは、過日、裁判所の一室で、彼の尋問を素直に受けていた宰相補佐官の顔を思い浮かべた。もはや何の光も宿していなかった、藍玉の瞳。たとえ真犯人が捕らえられようと、王家に刃を向けた青年が罪から逃れられるはずもなく、既にその心は絶望の沼に深く沈んでしまっていた。
「……どんなに時間がかかっても、真犯人は必ず捕まえます。身命を賭して」
 皆の無念を、何より国王の無念を晴らす術は、それしかない。
「長い夜になりそうだな……」
 しばらくの間、二人は無言のまま、その部屋に留まっていた。


「見ろ、今日は満月だ」
 背後の卓の声に釣られ、ユーセットが視線を窓の外に放ると、夕闇の中、東の空に白い月がぽっかりと浮かんでいるのが見えた。
(……どうやらミーザにまで見放されてしまったらしいな)
 内心で皮肉げに呟くと、勘定を済ませ、酒場を出る。目の前に伸びる通りは凱旋通りと呼ばれ、北西の端は過日、遠征軍が勝利の歌声とともに通過したクレイオス凱旋門に通じていた。王宮の北に伸びる目抜き通りとして、その両側にはあますところなく店舗が建ち並んでおり、その中には、中央裁判所も在った。
 ユーセットは懐から皺だらけになった紙片を取り出した。拡げて、文面に目を落とす。

『――何よりも口惜しいのは、伯父が貴殿の様な無能の輩をイスフェルの側近に選んだことだ』

 その乱れた字は、書いた人間の怒りに力を得て、今にも青年に躍りかかってきそうだった。
(オレは、無能者ではない……!!)
 太陽も地平に隠れようとし、幾分涼しくなった風が、青年の山吹色の外套を翻らせる。それは、真実を愛する平和と友好の聖官シャーレーンの胸帯の色であり、そして刑務官の外套の色でもあった。
 青年は、屋根々々の向こうで天を指している塔に向かって歩き出した。人馬の行き交う通りを横切り、塀の連なる小径を抜け、また開けた通りに出る。一大決心をしている彼とは打って変わって、擦れ違う人々はあまりにも普通の日常を送っていた。まるで、自分だけが異物のような存在に思えた。そして進むにつれ、その違和感はますます膨れ上がり、やがて彼から聴覚と色覚を奪っていった。目に映るのは、ただ、闇にそびえる尖塔のみ――。
 やがて辿り着いた中央裁判所の門扉は、あまりにも無防備に開いていた。夕食を食べたばかりの腹をさすりながら夜勤に向かう衛兵に紛れ、ユーセットは山吹色を通行手形に、建物の奥へ向かった。しばらく行って、周囲に誰もいなくなったのを確認すると、傍の部屋に素早く身を隠す。そこは近親の傍聴人のための待合室だった。煌々と照りつける月明かりが、室内の調度品の影を操り、確実に一刻一刻を刻んでいった。
 ふいに、部屋の中が翳った。窓から外の様子を窺うと、月が流れてきた厚い雲に姿を隠したところだった。ユーセットは音もなく立ち上がると、窓枠の上に立ち上がり、二階の露台の縁を掴んだ。そのまま、自らの腕の力だけで三階まで上っていく。
 中央裁判所の配置図は、この十日間で頭に叩き込んだ。今夜、イスフェルがいる祈りの塔は、中央裁判所の西側に建っている。通常、そこへ出入りするには、本棟の地下から伸びる一本道を行くしかない。だが、祈りの塔は重罪人を扱っていることもあり、警備は王宮同様に厳しく、いくら刑務官の制服を着ていても必ず見咎められる。従って、外から攻めるしかなかった。幸い、塔と建物の間には、三階部分までの高さの木があった。先に今いる三階の露台から三十ピクトほど離れた塔の屋上へ縄を渡しておき、今度は自分の身を露台から木へ、木から塔の外壁へ縄を頼りに飛び移るのだ。
 ユーセットは、その背に隠しておいた弓銃を取り出した。鏃の代わりに先端に付いているのは鈎で、それを塔の屋上の縁に引っ掛けるのだ。ぎりぎりと弓を引き絞った時、その手が離されるより一瞬早く、耳が何かが夜気を切り裂く音を捕らえた。思わず仰け反る。頬にかすかな熱が走った。素早く上体を立て直して振り返ると、それまで人気のなかった室内に、ぼうっと手燈の灯りが浮かび上がった。それを持っているのは、見知った二人の青年だった。
「これはこれはユーセット殿。書記官室で姿をお見かけしないと思いましたら、このような場所で。いつ刑務官に転属に?」
 書記官室の後輩であるセディスのユーセットを見る目は、どこか見下したようであった。それは、隣に身を立たせているシダも同じだった。
「まったくあんたには失望したよ。見付けたのがオレたちじゃなかったら、今頃どんな騒ぎになっていたことか。このうえサリード家に汚名を着せる気か!」
 二人とも嫌味のつもりか、書記官と近衛兵の正装だった。
「……学院長に嘆願書の署名をお願いしたそうですね」
 黙ったままのユーセットに、セディスがわずかに口調を和らげて語りかける。
「貴方の気持ちは痛いほどにわかりますが、だからといって今さらこんな真似をして、いったい何になるというんです?」
 そこで初めてユーセットの表情が険しくなった。緑玉の瞳に憎悪の色が滲む。
「……裏切り者どもが」
 腹から闇色の靄を吐き出すようなユーセットに、シダは怒気を抑えて立ち向かった。
「裏切り者はどっちだ。こんな真似しやがって、万一イスフェルに会えたとして、あいつが喜ぶと思うのか! あいつがおまえと一緒に牢を出ると!?」
「あいつをこのまま死なせるわけにはいかない。あいつを守るのがオレの使命だ」
 案の定だった。ユーセットは、折れた杖を曲がったままくっつけようとしていたのだ。
「けれど、その使命を貴方に与えた宰相閣下は、もういらっしゃらない」
 セディスの言葉に、ユーセットが激昂する。
「だからこそだ!」
「ユーセット殿。普段の冷静な貴方に戻ってください。うまくイスフェルを助けられたところで、もうあいつに帰る場所はありません。オルヴァの屋敷も今や……」
「……何だ」
 訝しげなユーセットに、セディスはシェラードとメイビスの対立を語った。
「イスフェルは家族を大切にしていた。イスフェルを存在させてくれたという点で、貴方は彼らに大恩があるはずです。その彼らが困っている時に、貴方はこんな場所で、そんな格好で、いったい何をやっているんです!? ここは貴方の居るべき場所ではない! 使命も約束も大切ですが、時にはそれよりもっと大切なものがある場合もあるでしょう!」
 呆然とするユーセットの手から、シダは弓銃を引ったくった。
「テイランの従兄とやらに何を言われたか知らねぇが、言われっぱなしってのはあんたらしくないんじゃねぇのか? 見返す方法は他にもある。早く戻って、シェラードの傍に居てやれよ。確かにあいつはイスフェルに比べたらまだまだだが、だからこそあんたの力を発揮して、再び栄光を取り戻させてやることもできるだろ」
 ユーセットは、首を傾げた。
(イスフェル不在の栄光……?)
 そんなことが、あり得るのだろうか。
 振り返って、月明かりに陰影を濃くする尖塔を見上げた。その一室に蹲っているだろうイスフェルの姿を想う。
『ユーセット、オレは父上のような宰相になるんだ!』
『だがユーセット、それは少しおかしいんじゃないのか?』
『ユーセット、おまえがそう言うのなら、やってみよう』
『オレはおまえを頼りにしてる。だから、いつまでも傍にいてくれ』
 いったい自分にとって、イスフェルとの出逢いは何だったのだろうか。
(『いつまでも』とは、いつまでだ。イスフェル……)
 自分が諦めたら、すべてが終わってしまうような気がした。何も、何も残らない……。
 その時、部屋の扉が開き、滑るようにひとりの刑務官が入ってきた。
「おい。二人とも、これ以上の長居は危険だ」
 彼はクレスティナの知人で、二人の案内役を引き受けてくれた人物だった。
「さあ、ユーセット殿。オルヴァの丘へ戻りましょう」
 セディスとシダは強引にユーセットの両腕を取り、引きずるようにして部屋を出た。なんとか誰にも見付からずに一階まで下りると、裏庭へ出る。その時だった。
「む、このような時分にこのような場所で近衛兵と書記官が何をしているのだ」
 振り返ると、回廊の篝火がカウリス家の次男トールイドの姿を照らしていた。咄嗟のことに沈黙している二人の顔を見て、彼は浮かべた笑みを徐々に強めていった。
「おや……これは、元宰相補佐官の御学友たちではないか。そして、そちらは元補佐官補佐殿か。――なにゆえ刑務官の姿をしているのかは知らぬが」
 語尾に、間違いなく毒が含まれている。セディスは慌ただしく脳裏に対抗策を巡らせた。王弟派筆頭の彼に、決して尾を掴ませてはならない。しかし、自分たちのことは弁解できても、刑務官の制服を着ているユーセットの説明をどう付ければよいかわからなかった。
「これは、トールイド殿。貴殿こそ、このような時分にこのような場所でいったい何を?」
 セディスの鸚鵡返しの問いに、トールイドが小さく笑う。
「私は昼間の忘れ物を取りに来ただけだ。明日、こちらへ来るのは憚られるので、今日のうちにと思ってな」
 あまりにも白々しい言い分だった。彼は、宰相派が行動を起こさないか見張るためにわざわざやって来たのだ。シダの奥歯がぎりっと鳴るのを聞いて、セディスは思わず親友の腕を掴んだ。ここで騒ぎを大きくしては、元も子もない。
「それで、貴殿たちは? 特に、補佐殿にお訊きしたい。その格好はいったい何だ」
 雲間から再び顔を覗かせたミーザが、四人の影を色濃くする。絶体絶命だった。よりによって、王弟派の輩に見咎められるとは!
「まさか、真実の色を騙ったのではあるまいな」
 トールイドの低い声が闇に響く。しかし、それを否定したのは、意外な人物だった。
「騙ったのは、その者ではない」
 驚いた四人が振り返った先には、将軍イルビスが立っていた。
騙った者は・・・・・別にいる・・・・
 繰り返すイルビスに、我に返ったトールイドが食い下がる。
「しかし、イルビス殿! この者は書記官で、刑務官ではない!」
「そんなことは存じておる。私が頼んだのだから」
「な、何と!?」
 これにはセディスたち三人も目を剥いた。特にユーセットは、信じられない思いでイルビスの顔を見つめていた。無論、これは彼が勝手にやった蛮行で、将軍に指示されたものであるはずなどない。
「なぜ貴殿がそのようなことを……」
「それはおぬしの関知するところではない。おぬしこそ、今ここにいるのにはたいそうな理由があってのことだろうな」
 今度はトールイドが絶句する番であった。悔しそうに唇を噛みしめると、将軍を睨み付けた。
「……そのように無意味なことをなさっているから、未だ犯人を捕らえられぬのではありませんか!?」
 そう吐き捨てると、トールイドは身を翻し、足早に立ち去っていった。あまりの展開に呆然としている三人に、イルビスは視線を戻した。
「……おぬしらは鷹巣下りに加わった者たちだな」
「は、はい、閣下」
「ならば金輪際、自ら巣を叩き落とすような真似をするな。よいな」
「はい……」
 宰相派の行動を見張りにきたのは、何も王弟派だけではなかった。しかし、彼には、行動を起こした宰相派を糾弾するつもりはなかった。
「さぁ、早く行け。これ以上は庇ってやれぬ」
 三人を裏庭の奥へ追い払うと、イルビスは回廊の奥へと姿を消していった。
「……オレたちに、借りを返されたおつもりなのだな」
 裁判所の周囲を取り囲む塀までの林を抜けながら、シダがぽつりと呟いた。イスフェルと親しかった彼らに、今日まで真犯人を捕らえることができなかったことに対する将軍なりの詫びなのだろう。
「ユーセット、おまえ、この期に及んでオルヴァの丘に帰らないとか言わないだろうな」
 塀を越えようとした時、彼がユーセットに問い質すと、黒髪の青年は再び祈りの塔を見上げ、呟くように言った。
「……戻るさ。いつまでも、オルヴァにいられるように」
 イスフェルとの出逢いには、必ず意味があったはずだ。それは、これから見付けていくしかない。
 空を見上げれば、月は西に傾きつつ、彼らの前途を照らしていた。


 ……満ちた月から放たれた光は、塔の一室へも確かに届いていた。が、もともと色彩のないその小さな世界には、それは無用のものであった。
「下げても宜しいか……?」
 扉の向こうから遠慮がちに掛けられた声に、闇の中で蹲っていた青年は、瞬きだけで応じた。手が付けられていないのはいつものことだというのに、最後の夜くらいはとでも思ったのだろうか。
 刑務官が床の膳を引っ張る音が、螺旋階段に響き渡った。通常なら、それに下りていく刑務官の足音が続くのだが、今夜はなぜかすぐに静寂が訪れた。訝しんだ彼がゆっくりと首を巡らせた時、再び刑務官の声がした。それは低い静かなものだった。
「……先ほど、ご友人たちが来ていましたよ」
 ただそれだけを告げて、刑務官は去っていった。青年は、ゆっくりと視線を転じると、鉄格子の嵌った高窓を見上げた。降り注ぐミーザの慈悲に、もはや彼らの栄光を祈ることしかできなかった。
 ふと、一片の詩が口をついて出る。

  この惨めさを知る者がいた
  彼は遥かネルガットよりも高い世界にいながら
  火のない台所の鼠の名を知っている
  彼は常春の野に横たわりながら
  漁り夫の指にできた肉刺まめの数を知っている
  ある日 彼が歩き出した
  その行く先を知らぬ者はいない
  茨と氷と闇とが彼を待ち受けたが
  拳と血と志とで彼は乗り越えた
  彼の後に多くの鼠と多くの漁り夫が続いた

  かつて この誇らしさを与えてくれた者がいた――

 抱えた膝に、青年はゆっくりと額を伏せた。
「……セフィ、オレは英雄にはなれなかったよ……」

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