The story of Cipherail ― 第一章 闇に掴むもの


     7

 トランスがイスフェルを助命したことは、その日のうちに公表され、宮廷はにわかに活気づいた。その筆頭たる双子王子は、話を聞くや否や部屋を飛び出し、中央廊下で叔父を待ち構えた。そして――。
「叔父上叔父上叔父上!!」
 イスフェルの懸念どおり、その姿を見るなり彼に向かって突進したのである。
「叔父上、ありがとう! イスフェルのこと助けてくれて、ありがとう!」
「叔父上、大好き……!」
 甥二人にきつく抱きつかれて、トランスは思わずよろめいた。四つの天色の瞳から涙が溢れているのを見、彼らを王宮へ連れてきた青年との絆を今、改めて想った。それはどこか、イージェントを慕うウォーレイとかつての自分の姿に重なって見えた。
(――いや、『かつて』ではないな)
 今回のことで、彼は再び兄王に忠誠を誓った。ウォーレイを失ってしまった今、自分が兄を一番に支えていかなければならないのだ。何に代えても。そして、今度こそ、夢を掴み取る!
「……二人とも、勘違いするでない」
 トランスは双子の肩を掴むと、我が身から引き離した。
「イスフェルは、ここには戻らぬ」
「え……?」
 その言葉の意味は説明せず、トランスは呆然とした甥たちを残し、廊下を後にした。その役目は、少し離れて様子を見守っていた双子侍従に託された。
「ねぇ、クイル。どういうこと? なんでイスフェル、戻ってこないの?」
 再び部屋に戻ってから、ファンマリオが待ち侘びたように口を開く。
「お二人とも、こちらへ」
 サウスは王子たちを長机の前に連れていくと、その上に王国の地図を広げた。
 はぐらかすことは簡単だった。しかし、後日、真実を知った二人が再び私室に篭城することになったら。自分たちが糾弾されて罷免されるだけならばかまわないが、王子たちの幼い心が必要以上に傷つくのだけは避けなければならなかった。
「いま私たちのいる王都は――」
「ここだろっ」
 指そうとしたサウスを押し退けるようにして、コートミールがバーゼリックを示す印を指で押さえた。王都にやって来た直後、テフラ村の位置を訊くために地図を見せてもらって以来、少年は地図の虜になっていた。ちなみにそれまで故郷の村は地図上に存在していなかったのだが、「地図は正確さが命」と、カレサスによって書き加えられていた。
 サウスは得意満面なコートミールに頷いてみせると、その細い手首を取り、そのまま南へ引っ張っていった。指先は山野を越え、海さえ渡ってある小さな島に辿り着いた。
「イスフェル殿は、今からこちらへ行かれるのです」
「えっ、ここってどこ?」
 眉根を寄せるコートミールの隣で、ファンマリオは地図の文字を辿った。
「ア、ン、ザ……アンザ島って書いてある」
「アンザ島? ここから、すごく遠いぞ……?」
「イスフェルは、ここへ行ってどうするの?」
 当然の疑問に、双子侍従の顔色が曇る。
「そちらの……監獄に入るのです」
「カンゴク? カンゴクってなあに?」
「……牢屋の、ことです」
「え、牢屋!?」
「どうしてまた牢屋なの!? 叔父上はイスフェルを助けてくれたんでしょう!?」
「トランス様がお助けになったのは、イスフェル殿のお命です。罪まで消すことはできません」
「そんな……」
 意気消沈する二人を、サウスは必死で諭した。十日後には立太子礼が控えている。彼らには元気な姿で民たちの前に立ち、蒼穹がこれからも続くことを示してもらわなければならないのだ。
「お二人とも、よくお聞き下さい。何度も申し上げますが、イスフェル殿の行動は本来、許されることなど有り得ないのです。ですから、陛下の御裁可も当然のことだったのです。それを、トランス様は……剣を向けられた御本人であるにもかかわらず、それも自ら牢屋へ赴いて、イスフェル殿をお救いになりました。もしかしたら、陛下のお決めになったことに反した咎で、御自分まで大変な立場に立たされるかもしれませんでしたのに……。ですから、これはとてもすごいことなのです」
「………」
「イスフェル殿に会えなくてお寂しい気持ちはよくわかります。私たちも……そうですから。でも、私たちのイスフェル殿です。生きてさえいてくだされば、いつか、いつの日か、きっとまた」
 王子たちの手を取るサウスの手に力が入り、二人はその想いを受け止めた。
「――そう……だね。そうだよねっ。イスフェルなら、きっとまた会いに来てくれるよね!」
 青年との再会を夢見て、四人は窓辺から中央裁判所の屋根を見下ろすのだった。


 当初、新設する海軍の本拠地は、港町ラディスと見られていた。パーツオット海に面したサイファエールの町の中で、ラディスは王都の港イデラに次ぐ荷揚げ高を誇り、海岸線も新たな港を造成する余地を充分に残していたためである。ラディスを抱えるタスク地方の領主も、そこの大商人たちも大いに乗り気で、海軍事業が本格化して以来、連日のように王宮を訪れ、ラディスの素晴らしさを声高に訴えていた。ひとつには、近年の売上高の伸び悩みを、新事業をきっかけに打破したいのだった。
 しかし、海軍の上将軍となったトランスが最初の決断として実際に本拠地と定めたのは、王都を流れるララ運河の河口北岸だった。
「ラディスは近いようで実は遠い。王都との間にはプラノース河もまたがっている。異国の敵船が監視の網をくぐり抜けて王都に迫った時、その報告を受けてより何日で取って返せるか。間に合わねば、取り返しの付かぬことになる。それよりは、陛下のお声がすぐに届くこの地に港を築いた方がよい」
 それが彼の見解だった。しかし、せっかく盛り上がっているラディスの人々を突き放すのも酷というものである。そこでトランスは、ラディスには将来的に分港を築くことにした。兵力の分散はやむを得ないが、戦略的には選択肢が増えることになる。
「ガーナ、建設予定地のことだが」
 ラディスの関係者を丁重に送り返した後、トランスは執務室の机で書類を眺めながら口を開いた。
「王都警備隊長の報告では、ララの河口には居住者がいるそうだな」
「はい、閣下。王都でも貧しい者たちの家が軒を連ねております。他国よりの流れ者が多いようです」
 海軍上将軍の右腕に任じられた将軍は、この数日、慣れぬ海上での訓練に加え、いまいち掴み所のない上官に困惑していた。
「そのような場所は無法者の巣窟ともなろう。有無を言わせず、すべて取り壊せ」
「は……しかし、住人たちは――」
「住人ではなく不法滞在者だ」
 はっきりと言い切ると、トランスはガーナを真っ直ぐと見た。しかし、存外、その瞳が穏やかなのに、ガーナは首を傾げた。
「だが、就任直後の圧政は前途明るき海軍事業に水を差そうな。その者たちと取引をしよう」
 それは、海軍基地建設に協力する者には、新しい住居と職を提供するというものだった。
「他国からの流れ者ということは、異国の言葉を話せるということであろう。通訳や教師として雇える。海に通じた者なら兵士に取り立てろ。女たちで希望する者があれば、食堂で働かせてもよい」
「しかし、その者たちの中に、他国の間者が紛れ込んでいましたら……」
「可能性を疑えばきりがない。が、いいだろう。しばらくおぬしの麾下を潜入させろ。その可能性がある者は投獄。それでよいな」
「はっ……」
「では、私は屋敷に戻る。何かあれば北の館だ」
「承知しました」
 ガーナが顔を上げた時には既に、トランスの姿は消えていた。将軍は入れ替わるように入ってきた新米将軍のイルドラに、軽く首を竦めて見せた。
「亡き宰相殿とかつて肩を並べていらっしゃっただけのことはある」
「まったくです。逆に言えば、なぜ影に回られたかもわかるような気が」
「……そうだな。船頭は何人も要らぬ」
 これまで王弟派として国王に対立してきたトランスではあるが、この日までは、朽ち果てるには惜しい才能を遺憾なく発揮している。武力を手に入れた彼が、これからも今のままであって欲しいと両将軍は願わずにはいられなかった。


 北の館へ戻ったトランスが南の庭の新しい花壇に水撒きをしていると、執事のオーエンが銀盆を手に現れた。
「戻ったか、オーエン」
「遅くなって申し訳ありませぬ」
 老人は花壇の端に盆を置くと、茶を注いだ杯を主人に向かって差し出した。
「――で、壺を割ったか?」
 手を休め、茶を口に含むトランスの表情は、どこか辛辣だった。オーエンは小さく吐息すると、そんな彼を見上げた。
「壺だけで済めばよろしゅうございましたが……侍女がひとり、腕を折られました。奥方様のお気に障ることを申したようで」
 それを聞いた王弟の瞳が、ますます細められる。
「あの女は昔から気性が荒くていかぬ。気に入らぬことがあれば、すぐ物に当たる。あの女のせいで、今まで幾つのサイファエールの宝を逸したか」
「なれど、ウォーレイ様の御子息様にはもはや何の力もございませぬ。奥方様には何故ああまで激されまするか」
 すると、トランスは持っていた杯を噛み砕くような勢いで苛立たしげに言い放った。
「イスフェルが命拾いしたことに腹を立てておるのではない。私があの女の邪魔をしたからだ」
「邪魔……でございますか?」
「忌々しい宰相家を潰す、な」
「では、やはり……」
「普段のあやつなら、王弟・・の評判が上がるとなれば、両手を挙げて喜んでいるはずだ。将軍の捜査は難航しているようだが、間違いない。イスフェルの刃に毒を塗ったのはあの女だ」
 トランスから彼の妻ルアンダの館への潜入の命を受けた時から、ある程度の予想はしていたが、あまりにも悲惨な茶番劇に、オーエンは内心で改めてウォーレイの冥福を祈った。
「……では、実行犯はカウリス家かマルドー家の次男ということになりましょうな。先だってより頻繁に奥方様の私邸に出入りしております」
「どうやら好きにさせすぎたようだな。……宝を逸したのは、私のせいか」
 トランスは自嘲気味に笑うと、困惑顔のオーエンを振り返った。
「老体に無理をかけて悪いが、また何かあったら報告してくれ。このままでは終わるまい」
「昔取った杵柄ゆえ、どうぞお気になさいませぬよう」
 老人はその昔、先王フォトレルの子飼いの間者として鳴らしたものだった。主人の死を期に引退しようとした彼の身を、トランスが引き受けると言い出し、亡き王が気にかけていた息子だったせいもあって、トランスのところへ落ち着いたのだ。
「……トランス様」
 行きかけて、オーエンはふと足を止めた。
「いまひとつ、お伺いしてもよろしゅうございますか」
「何だ?」
 間者の性か、それでも昔よりは自らの疑問を口にするようになった執事だった。ひとつには、トランスが彼に側近という立場を望んだためだ。
「なぜ、アンザ島・・・・なのでございましょうや」
 イスフェルの最も重要な政治生命を断ちたいだけならば、別に暗黒の島アンザでなくてもよかったはずだ。助命――それだけで、主人は罪人たる青年を完璧に許しているはずである。
 その問いかけに対するトランスの返事は、あまりにも哀しいものだった。
「愛より憎しみの方がより生きる力を与える」


 ……花びらが、舞っていた。幾千、幾万、幾億と。王都中の主たる通りに人々が詰めかけ、淡い桃色の絨毯が敷き詰められたような道の上を往く馬車の列に熱狂的に手を振っている。
 ひときわ目を引くのは、近衛兵の騎馬隊に挟まれた三台目、四頭の白い馬が引く馬車だった。座席には純白の礼服を纏ったひとりの少年が座し、手を振りながら、周囲に笑顔を振りまいていた。時折真後ろの騎馬を振り返り、彼と同じ顔をした騎手を羨ましそうに見ているのが遠目にも判る。
 二十五年ぶりに立った王太子を、誰もが歓迎し、また蒼穹に鷹を戴けることを祝していた。
「……そろそろ、参りましょうか」
 いつの間にやってきたのか、振り向くと滞在中世話になった刑務官が立っていた。
「あの歓声が、聞こえますか」
 イスフェルが鉄格子の先を指さすと、刑務官は静かに微笑んだ。
「勿論聞こえます。貴方が連れてこられた王太子殿下を、皆が祝福する声です」
 青年もまた、わずかだが微笑んだ。
「……この光景を、私は一生忘れないでしょう」
 それから独房を出たイスフェルは、裏庭に待機している黒檻車に向かった。彼が乗り込んですぐ、車体は白い幌布で覆われてしまった。祭を興ざめさせないためらしい。「これも王弟殿下のお慈悲です」という刑務官の声を、イスフェルはどこか遠くに聞いていた。
 ぎっと車輪の軋む音がして、檻車が動き出した。これからアンザ島に辿り着くまでのふた月もの間、彼は罪人として人々の目に晒されることになる。
「どこであろうと、生きてさえいればよい。死ねばそれまでだ」
 それはイスフェル助命を知ったゼオラの言だったが、今のイスフェルには王子たちの傍にいられないことは死も同然だった。どんどんと歓声が遠離っていく中、暗黒の檻で暗黒の島に向かう彼の前途は、やはり暗黒に包まれていた。
 そして、西方エルミシュワの地から、これも暗黒の報が届くのは、イスフェルが王都を出発したわずか三日後のことであった。

【 第一章 了 】


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