The story of Cipherail ― 第六章 翻りし白銀鷹旗


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 ラルカークの思惑とはうらはらに、マラホーマ転軍の報は、直ちにサイファエール軍の知るところとなった。
「もしウルカスが失敗したら……その時はどうする、イスフェル?」
 葡萄酒で唇を湿しながらリグストンが下問した時、戻ってきた斥候が跪き、声高らかに報告したのだ。
「閣下、いよいよです。将軍方も、お待たせ致しました」
 馬上で周囲を見回して力強い頷きを得ると、イスフェルは夜闇の中、篝火に浮かび上がるカイザールの砦を見つめた。この夜、息を潜めて行動するのはマラホーマ軍だけではなかった。サイファエール軍も人馬ともに息を殺し、城塞の西わずか二モワルまで忍び寄っていた。
「ユーリアは悔しがっているだろうな。今宵、あやつの出る幕はない」
 笑うペストリカに、ガイルザーテが言う。
「なにを言う。十日以上、マラホーマの攻勢に耐えたのだ。あやつには高みの見物をさせておけばよい。それよりおぬし、油断して返り討ちに遭うことのないようにな」
「誰に向かって言っているのだ、おぬしは」
 戦いを前に明るい将軍たちに目を細めると、ゼオラはセフィアーナを呼んだ。
「《太陽神の巫女》よ、神は我らに御加護を賜れようか?」
「はい、ゼオラ様。夜だというのに、わざわざいらっしゃって下さいました」
 見上げれば、満ちた月が太陽のように目映い光を地上に放っている。ゼオラは満足げに頷いた。


 サイファエール・マラホーマ両軍より三日早く、闇に棲んでいる者たちがある。モデール率いる一千騎の別働隊である。本隊と別れ、山に入った彼らは、カイザール城塞の北側を大きく迂回し、マラホーマ軍の後背、城塞から三モワル離れた断崖の上に陣を布いていた。
 モデールは、眼下に走る谷を見遣った。一ディルク前、そこの狭い街道を、ウルカスがたった一騎で通っていった。
(ウルカス、すべてはそなたに懸かっているのだ……)
 ゼキーロの使者に扮した男は、モデールの部下である。イスフェルの依頼を二つ返事で引き受けた彼を、上官として心配せずにはいられない。
「将軍」
 ふいに隣に馬を立てていた兵士に呼ばれた。見ると、彼は暗闇を凝視していた。下方から吹き上がって来た風が、土を踏む音、馬具の鳴る音を運んでくる。
「掛かったか……」
 口の端を擡げると、背後の兵士たちを振り返った。
「よいか、おぬしら。このようにおいしい状況で武勲を立て損ねては、一生名を上げることなど叶わぬぞ」
「はっ」
 しばらくして、マラホーマ軍の先鋒が月の光に浮かび上がった。彼らは崖の上に敵が潜んでいることなど夢にも思わず、粛々と前進していく。モデールは二部隊が通り過ぎたところで剣を掲げた。彼の横で、また対岸で、兵士たちが弓を引き絞る。将軍の剣が空を切り裂くと同時に、弓弦の音が鳴り響いた。
 驚いたのは、矢の雨をかぶったマラホーマ軍である。
「敵襲……! 伏兵だ……!!」
 両側を岩壁に挟まれた街道で、逃げ場を失ったマラホーマの隊列は、たちまち大混乱に陥った。その頭上に、サイファエール部隊は容赦なく矢を放った。
「サイファエール軍め、謀ったな……!!」
 後方の騒ぎを聞きつけ、先発隊を率いていたエスベラは、傍の兵士が驚くほど激しく歯軋りした。転軍を待ち侘びていたかのような布陣は、もはや敵の策略を疑う余地はない。この上は逆襲に馬首を巡らせようとするが、逃げてくる兵士たちとぶつかり、とても前進できるものではなかった。
「くそっ。前進! 前進だっ! このまま谷を抜ける!」
 先頭が立ち往生してしまったら、続々と本陣を立った軍勢が混乱に巻き込まれてしまう。それを考え、エスベラは苦渋に顔を歪めながら馬に先を急がせた。しかし、一度統制を失った軍は、容易に指揮官の指示に従うものではなかった。その後もモデール部隊の容赦ないに攻撃にさらされ、谷は人ひとり通れぬほどのマラホーマ兵の屍で覆われた。
「合図を!」
 モデールは火矢を放たせると、精鋭の部下たちに不敵に笑いかけた。
「今までは木に矢を放っていただけのこと。者ども、我らの真価を蛮族に知らしめるのだ!」
 怒号と同時に馬を躍らせると、モデールは垂直に近い崖を躊躇いもなく駆け下りた。彼の勇敢な部下たちもそれに続く。その雪崩のごとき突入を、新たに谷に入ってきたマラホーマの部隊はまともに喰らい、抗う間もなく下敷きとなった。


 夜空で小さな火塊が弾けた。モデールの、本隊の出撃を求める合図であった。
「よし、出撃だ!」
 ゼオラが馬を竿立たせて号令する。大地を揺るがすような鬨の声がそれに重なり、即座に疾走が開始された。上将軍と近衛兵団、そしてガーナの部隊一万が城塞の北側から、ペストリカの部隊一万が南側からマラホーマ軍に突進する。準上将軍とガイルザーテは残った部隊を指揮し、サイファエール軍の城塞への退路を確保した。
「サイファエール軍だぁ……!」
 月光を浴び、サイファエール軍の剣先が銀色の波となる。それは馬蹄の轟きとともに破滅の大津波となって、転軍に全神経を注いでいたマラホーマ軍に襲いかかった。陣営の各所で絶叫が上がる。
 マラホーマ軍は四万、そこへ突入したサイファエール軍は二万余だったが、マラホーマの部隊が長蛇の列と化していたため、各個撃破は容易であった。
「サイファエール軍め、姑息な策を……!」
 言語は違っても、このような時に発される言葉はたいてい同じである。
「では、それに引っかかった貴様たちはなんだ」
 短いサイファエール語が発せられ、倒れた篝火が一瞬にして天幕を火柱に変えた。その光を顔半面に受けたペストリカは、まるで鬼神のようであった。マラホーマ軍と剣を交えることを三日三晩待ち侘びた彼である。彼が馬上で剣を振るうたび、マラホーマ兵士の首や腕が宙を舞った。
 名のある騎士が次々と闇に葬り去られるのを見て、マラホーマの将軍ワイラーンドは、額に汗を滲ませた。彼の陣は最前線にある。ゼキーロの使者によって転軍の命が下ってより、厳重に警戒しながら出立の準備を行った。サイファエール軍には気付かれていないはずだった。その証拠に、カイザール城塞の城門は今も固く閉ざされている。何が起きたのかを把握する間もなく、彼は多くの部下を失っていた。
「たとえ今夜果てるとしても、このままではおくまいぞ……!」
 ふつふつと湧き起こる怒りを堪えながら周囲に目を向けると、剛の剣を振るうサイファエール戦士の姿がある。白銀鷹の刺繍された外套を纏い、大刀一手に同胞を次々と斬り飛ばす様は、マラホーマの地を荒らす砂嵐のようであった。ワイラーンドはその戦士に馬首を向けた。
「夜目の利かぬ鳥が、わざわざ夜に出てくるとは! このワイラーンドが翼をもぎとってくれるわ!」
 マラホーマ戦士の怒号に、サイファエール戦士は黒い瞳をおもしろそうに細めた。刹那、馬腹を蹴り、敵に突進する。
「祭の邪魔をしたのが、貴様らの運の尽きよ!」
 嘲笑とともに繰り出された斬撃は、まさに神速であった。それを避けることができた者は、かつてない。おそらく、これからもないであろう。ワイラーンドは驚きの表情を浮かべたまま、異郷の地に沈んだ。
「閣下!」
 上将軍が悠長にも大刀の血糊を拭っていると、黒煙の中から紫紺の甲冑を朱に染めたハイネルドが飛び出してきた。後に十数人の近衛兵が続く。
「勝手に姿を眩まされては困りますぞ!」
 憤慨した様子のハイネルドに、ゼオラは大仰に手を拡げた。
「私が姿を眩ましたのではなく、おぬしらが私を見失ったのだ。しっかり付いてこんか」
 黒煙や天幕の狭間など、捲きやすい場所をわざと通っておきながら、ゼオラは飄々と言い放った。彼はもともと個人の勇を誇りたがる性である。日頃はそれを我慢して大軍を率いているので、この夜のように個人同士の乱戦が主体となる戦いの時は、自由に馬を駆り剣を振るいたいのだった。
「ときに、ウルカスは巧く脱出できたであろうか?」
 この夜の戦いの鍵ともいえる勇者の安否を気遣うことを、ゼオラは忘れなかった。
「わかりませぬ。なれど、本人も捕まるまでわざわざ敵陣に居残ってはおらぬでしょう」
 ゼオラは頷くと、首を傾げた。
「これで王太子を生け捕りにできれば万々歳だが、そう巧くはいくまいな」
 さすがに本陣近くは守備が固く、抵抗も凄まじい。この時点でマラホーマ軍の前衛は完全に崩れ去っており、夜ということもあって、ゼオラは退却を指示した。
 満月が中天に差しかかった頃、サイファエール軍は歓喜の叫びに迎えられて、カイザールに入城を果たした。
「凄まじい産声だな」
 今回は準上将軍の傍で出番のなかったクレスティナが、城壁を見上げて呟いた。そこでは、十日間の籠城に堪えた兵士たちが身を乗り出して歓声を上げている。
「産声?」
 セフィアーナが尋ねると、女騎士は今度は中庭の中央を指さした。
「サイファエールに新しい軍師が誕生したのだ」
「ああ……」
 その先では、将軍たちに麦藁色の髪をもみくちゃにされるイスフェルの姿があった。
 ユーリアをはじめとするカイザール駐屯部隊の将らが、血と汗にまみれた頼もしい援軍を称えると、ガイルザーテたち援軍の将も、マラホーマの攻勢に長きに渡って堪えた駐屯部隊の労をねぎらった。幾度もの戦いをともにくぐり抜けてきた男たちの、久々の再会であった。
「行ってやらぬのか?」
 クレスティナの言葉に、しかし、セフィアーナは躊躇った。《太陽神の巫女》として、神の地を守った信徒たちに何かして然るべきなのかもしれない。だが、この夜、彼女は何もしていない。そんな自分が生命を賭して戦った者たちに物を言うなど、とてもおこがましい気がした。
「クレスティナ様は行かれないのですか?」
 少女の逃げの言葉は、女騎士を苦笑させた。
「私は難しい立場なのでな……」
 中央の輪から少し離れたところに、準上将軍の八頭立ての馬車が見える。その主は、依然として車内に留まっているようであった。
(これでますますリグストン殿下はイスフェルを目の敵にするであろうな……)
 クレスティナが嘆息した時、ゼオラがセフィアーナを呼んだ。勝利に文字通り花を添えるつもりなのだろう。困ったような少女の背を、女騎士はそっと押してやった。


「何ということだ……」
 まんまとサイファエール軍の策にはまり、兵力に甚大な損失を受けた王太子ラルカークは、傾いた本陣の柱を呆然と見つめた。異郷に斃れた者八千名、山野に逃げ散った者一万余――。たった一夜にして、彼は軍の半分を失ってしまったのだ。
「あの忌々しい偽使者はどこだ。私自身が首を刎ねる」
 控えていたゴーギルは、片膝を付いて深く頭を垂れた。
「申し訳ありません。戦いの混乱で取り逃がしました……」
 落雷のごとき刃が自分の首に落ちるのをゴーギルは覚悟したが、ラルカークは黙り込んだまま、彼の生命を奪おうとはしなかった。自分に背を向けたままの王太子に、将軍はおそるおそる声をかけた。
「殿下、これからいかが致しましょう……」
「――いかが!?」
 腹の底から煮えくりかえるような声を発すると、王太子は老少軍を睨み付けた。
「撤退しかあるまい! 我々は兵力の半分を失い、一方のサイファエール軍は、無傷の駐屯軍二万に姑息な援軍が数万だぞ! 勝負になるか! 直ちに撤退だ!」
 堪えに堪えていた不満を爆発させるかのように喚き散らすラルカークに、ゴーギルは歯を噛みしめながら一礼し、天幕を出た。
 彼にはラルカークの苛立ちがよくわかっていた。漸く手に入れた平和を、同時に手に入れた権力のために放り投げた国王。ラルカークは、出立前夜まで父王に出兵を思いとどまらせようとしていたのだ。カイザール城塞の守備が甘くないことは、ここ数十年の戦いでわかっていた。それを攻めようとすれば、サイファエール側がいかなる反撃に出るかということも。わずか四万の軍で、降って湧いた野心を実現できるはずなどないのだ。案の定、攻城戦は十日に及び、現れた援軍に手ひどいしっぺ返しを喰らってしまった。
(明日になれば、サイファエール軍は満を持して出撃してくるであろう。そうなれば、我々はお終いだ)
 なんとかサイファエール軍の奇襲に耐え、生き残っていた将兵に撤退を告げると、ゴーギルは足早に自分の天幕に戻った。彼自身も額に傷を負っており、そこから溢れた血が左目に入って視界を奪っていたのだ。
 木箱から包帯を取り出そうと手を伸ばした時、彼は動きを止めた。片方の視界に妙な物が映っている。蒼く塗られた矢幹であった。そうと認識した瞬間、逆流してきた血が口から噴き出した。
「おのれ……」
 胸に突き立ったそれを引き抜くと、ゴーギルは絶命した。
「……これでオレも立派なサイファエール人だ」
 物陰から現れたウルカスは、倒れた敵将に歩み寄ると、その首を刎ねた。
 彼の両親はサイファエール人で、彼もサイファエール人であることを誇りに思っていたが、すべてを失って戻った母国で、彼は外国人のように扱われた。ただ、生まれ育った場所が外国だったというだけで、仲間から信用されなかった。その時以来、抱え続けてきた劣等感を、彼はこの日この瞬間、完全に払拭したのだった。
 突如、闇の奥で鬨の声が上がった。まるで彼の新生を待っていたかのように、味方の軍勢が再び攻め寄せて来たのだ。

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