The story of Cipherail ― 第六章 翻りし白銀鷹旗


     5

  親愛なる我が太陽神よ
  雲霧をもって汝の空を覆いたまえ
  波風をもって汝の地を洗いたまえ
  今ここに静かに眠りゆく魂が
  再び汝の下で芽吹くよう
  決して闇の階段を下らぬよう
  汝の光をもって汝の園へ導きたまえ――

    (テイルハーサ教《鎮魂歌》)


 大勝にサイファエール軍が勢い込んだことはわかっていた。しかし、同じ夜に二度も奇襲をしかけてくるとは思わなかった。意気消沈して撤退準備をしているところへ猛攻撃を受け、また軍の宿将も失っていることから、マラホーマ軍は今度こそ総崩れとなった。
「目先の欲に眩んだりするからだ! しばらくは砂でも喰らって空腹を凌ぐことだな!」
 サイファエールの猛将の吼える声に、ラルカークはわずかな部下に守られて、歯がみしながら戦場を離脱した。
 夜明けとともに、サイファエール軍の完全な勝利が決した。


 ラルカークが同じ夜に二度も奇襲を受けるとは思っていなかったのも、ある意味、当然であったかもしれない。最初の勝利に酔いしれるあまり、サイファエール軍の誰も、同じ夜に再び城門を出ようなどと思っていなかったからである。しかし、ひとりだけ考えの違う男がいた。上将軍ゼオラである。彼は喜びに大騒ぎする兵士たちをしばらく放っておき、落ち着いた頃合いを見計らって、ガイルザーテとユーリアを呼び出した。最初の戦いでガイルザーテの部隊は後方支援に徹しており、せっかくの腕を振るう機会を与えられなかった。ユーリアの駐屯軍に至っては、十日以上にも及ぶ攻城戦に欲求不満となっている。軍の統率者として、ゼオラは手柄を立てる機会を公平に設けてやらなければならなかった。――何よりこのままでは、彼自身がイスフェルに良いところを全部持っ て行かれてしまう!
 彼の馬鹿げた内心などつゆ知らず、待ちに待った出番に二将二部隊は見事な働きをしてみせた。モデールの崖下りのおかげで街道は通行止め状態となっており、マラホーマ軍は山や泥地に逃げ込むしかない。その背を散々に叩き追いつめた。イスフェルの望んだ総大将の身柄は拘束できなかったが、その代わり、数人の将兵を捕虜に連れ帰った。
「ウルカス殿……!!」
 ガイルザーテとともに帰還した男を、イスフェルは満面の笑みで出迎えた。
「貴方ならきっとやってくださると思っていましたが、まさか敵の名将まで討ち取られるとは!」
「おぬしのおかげだ。おぬしの策がはまりすぎて、奴らはひどく動転してな。逃げるのも簡単だったが、留まって手柄を立てるのも簡単だった」
 ゴーギルの首が入った包みを持ち上げて、ウルカスは遠慮がちに笑った。今まで主役を演じたことがないので、どこか落ち着かないようだった。
「どうせなら王太子をここに引きずり出したかったが、さすがにそれは無理だった」
「何をおっしゃいます。将軍方が捕虜を連れて帰ってくれましたので、あとはそれで対処いたします」
 これからは文官たちの戦いである。城外においては負傷兵を収容し、戦死者の墓を造らねばならず、城内においては自軍の損害を把握して武勲簿を作成し、また捕らえた捕虜たちの使い途も考えなければならなかった。無論、何よりも先に早馬を放ち、この大勝利を王都へ知らせることも忘れない。
 イスフェルが一階の広間に陣を布き、入れ替わり立ち替わり入ってくる書記官たちを捌いている間、セフィアーナも自分ができることをしていた。戦勝祈願の時に来ていた美しい衣装などとうに脱ぎ捨てて、長い髪を無造作に結い上げ、竪琴を奏でる手に包帯や薬を抱えて負傷兵の間を走り回った。大勝とはいえ、さすがに誰も無傷とはいられない。マラホーマの数には遠く及ばないが、生命を落とした者もいる。
「決してこの添え木を外さないでくださいね。骨が曲がってくっついてしまいます」
 セフィアーナが肩口から三角巾を吊してやると、落馬して腕の骨を折った兵士は真面目な顔で頷いた。
「ありがとうございます、巫女さま。しかし心配は御無用です。骨が曲がっては、生まれたばかりの子を抱けなくなりますから」
「まあ、赤ちゃんが!? おめでとうございます」
「重ね重ね、ありがとうございます。しかし、まだ名がないのです。出立する間際に生まれたものですから、妻には帰るまでに考えておくと言い置いて……。――そうだ。巫女さま、名付け親になって頂けませんか!?」
「ええっ?」
 突然の申し出にセフィアーナが驚いていると、傍らに寝ていた老兵士が身を起こした。
「おお、おお、それがいい。巫女さまと近しくお話しできるなど、二度とあるまいて」
「そんな……私はただの村娘です。会おうと思えば、いつでも皆さんとお会いできます」
 いったい、今までの《太陽神の巫女》は、選ばれた後、人々と関わりを持たなかったのだろうか。巫女自体がもはや神のように見られる現状に、セフィアーナは少し閉口した。
「巫女さま、ぜひ名付け親になってください。初めての子で、女の子なのです。どうか、巫女さまのように優しく育ちますように」
 懇願されて、セフィアーナは困ったように首を竦めたが、ふと良い名前を思い付いた。
「――では、リュース、と」
「リュース?」
「平和と友好の聖官シャーレーンを慕う娘の名です。彼女はいつも笑顔を絶やさず、無愛想なシャーレーンでさえ、彼女の前ではよく笑ったと」
「リュース……」
『巫女さま』からいただいた名前を嬉しそうに噛みしめる兵士に、老兵士も顔をほころばせた。
「良かったな、おまえさん。これで娘さんの一生は幸せじゃ」
「巫女さま、本当にありがとうございます。妻も喜びます」
「喜んでいただけてよかった。幸せにしてあげてください」
「はい、必ず」
 その時、病院と化している礼拝堂の入口から、近衛兵が少女を呼んだ。
「巫女殿、上将軍閣下がお呼びです!」
「あ、はい! 今すぐ参ります!」
 準備が整い次第、《鎮魂の儀》をすると言っていた。彼女はそこで《鎮魂歌》を歌い、死者の魂を神のおわす《光の園》へ導くのだ。
「じゃあ、お大事に」
 薬箱を畳むと、セフィアーナは立ち上がった。彼女の胸を、一抹の悲しさが駆け抜ける。しばらく忘れていた想いだった。
(私の本当の親は、私に名前を付けてくれたんだろうか……)


 あまりの眩しさにゆっくりと目を開くと、地平線に太陽が沈んでいくところだった。
「………?」
 ぼうっとする頭を押さえながら、セフィアーナが長椅子から身を起こすと、向かいの椅子に座っていたクレスティナが微笑みかけてきた。
「疲れたのだろう。よく寝ていたぞ。茶でも飲むか?」
「あ、すみません……」
 目を擦ると、セフィアーナは椅子に座り直した。
(――ああ、そっか。儀式の後、着替えようと思って……)
 あてがわれた部屋に戻ってきた後、少し休憩しようと思ったところ、そのまま長椅子の上で寝入ってしまったのだ。一日以上、緊張状態で走り回っていたのだから無理もない。
 しばらくして、クレスティナが湯気の立ち上る紅茶を運んできた。礼を言ってそれを口に含むと、身体から疲れが抜けていくようだった。
「……何だか、まだ信じられません。もう戦が終わったなんて……」
 夢を見ているかのように吐息する少女に、クレスティナは噴き出した。
「まったく、同感だな」
「明後日にはもう王都へ発つんですよね?」
「いくらサイファエールが豊かな国でも、五万余の兵士に何日も無駄飯を食わせられるものではないからな」
 文字通りのとんぼ返りに、どこか骨折り損という感も否めない。無論、勝利したからこそ言えることではあるが。
「まったく……」
 クレスティナは紅茶の水面に映った自分の顔を覗きながら呟いた。
「相当、神に愛されておるらしいな、イスフェルは」
 ふいに水面が揺れる。その波紋が広がっていく先を、クレスティナは案じた。
「……それとも、そなたがいたからかな?」
「そんな――」
 セフィアーナが首を振った時、神の最後の一条が彼女の顔を照らした。
「おっと、そろそろ支度をしなくては」
「支度?」
「言ってなかったかな? 今宵は勝利の宴が開かれる」
 クレスティナは立ち上がると、荷物の中から何かを引っ張り出した。紫紺の布地――近衛兵団の軍服であった。それも正装である。
「それを着て行かれるのですか?」
「無論だ。私は近衛兵団の小隊長だぞ」
 セフィアーナはくすりと笑った。
「……ゼオラ殿下が何かおっしゃりそうですね」
 果たして、少女の勘は当たった。
「クレスティナ、なんという格好をしておるのだ。戦が終わった時ぐらい、絹の長衣でも着たらどうだ」
 大広間で女二人が挨拶に赴くと、ゼオラはあからさまに眉根を寄せたのだ。
「あいにく、今、この剣が隠せるような服は持ち合わせておりませぬ」
「ならば今回の褒美に加えてやろう」
 クレスティナは仰々しく一礼した。
「私は何も功を立ててはおりませぬ。それでもとおっしゃられるなら、これから閣下に危険な目に遭って頂かなくてはなりませぬ。私の武勲は王家の方々を危険からお守りしてこそのものゆえ」
 黙り込んだ上将軍にセフィアーナとクレスティナが顔を見合わせて笑っていると、この日の立て役者が姿を現した。イスフェルも書記官の蒼い制服を纏い、紫水晶の額輪を身に付けるという正装だった。
「閣下、この度の勝利、誠におめでとうございます」
 青年自身の策が功を奏したというのに、傲ったところがまるでない。
「おぬしが早々に口を開いていたら、無駄な会議をせずに済んだものを。まったく、将来が楽しみだて」
 こうして和やかな雰囲気の中、勝利の宴は始まった。最初に兵士たちの勲功表彰があり、手柄を立てた者たちに、ゼオラが褒美を取らせた。将軍たちについては、凱旋後、国王によって賞される予定となっている。
「おまえの作戦だと聞かされた時には、オレの人生も終わったと思ったがな」
 背後の声に振り返ると、シダが酒杯を差し出してきた。それに自分の杯を打ち鳴らすと、イスフェルは笑った。
「機会を設けてやったんだ。少しは手柄を立てたんだろうな」
「当ったり前だ。戦場でのオレの雄姿を見せてやりたかったぜ。幾人もの返り血を浴びて、オレはまるでケルストレス神のように――」
「ではなぜおまえは表彰されなかったんだ?」
 傍らからセディスが意地悪げに言い、シダは彼を睨み付けた。
「やかましいっ。今にオレの手柄を分けてくれと言い出すからな」
「オレは文官だ。武勲など欲しいものか」
 シダを軽くあしらって、セディスはイスフェルに囁いた。
「見ろよ、準上将軍閣下の周囲。何もしてないってのに、まったく良い御身分だな」
 何気なくそちらに視線を向けると、見知った貴族の子弟たちがリグストンを囲んでいた。
『我々の戦は、この戦が終わった後に始まる』
 ふいに父ウォーレイの声が脳裏に甦る。
(――そうだ。オレは、今日の勝利に酔いしれているわけにはいかないんだ)
 その時、ゼオラに請われたセフィアーナが、竪琴を弾き始めた。薄荷色の薄い衣を靡かせて、少女は微かな笑みとともに涼やかな旋律を奏でている。ふと、彼は彼女に初めて逢った日のことを思い出した。
(……だが、せめて今宵までは……)
 しかし、時間神は彼の僅かな願いなど聞いてくれなかった。


 宴たけなわの大広間で、クレスティナはふと辺りを見回した。セフィアーナの姿が見えないことに気付いたのだ。ゼオラのそばにも、イスフェルたちの輪の中にもいない。クレスティナが首を傾げて立ち上がった時、額に汗を浮かべた近衛兵が転がり込んできた。
「たっ大変です!」
「何事だ」
 クレスティナが眉根を寄せると、近衛兵は廊下を指さして叫んだ。
「《太陽神の巫女》が……!」
 人々が不審な表情を見合わせた時、後ずさる数人の近衛兵に続いて、ひとりの男が入口に姿を現した。その腕の中に見慣れた少女が捕らわれているのを見て、イスフェルは酒杯を取り落とした。
「セフィ!」
 彼の声に、少女は目だけを動かして応じた。首筋に突きつけられた剣が、今にも彼女の白い喉を傷付けそうであった。
 どこかへ行く時には必ず報告するよう、セフィアーナはクレスティナから言われていた。しかし、安全な城塞の中におり、しかも戦は既に終わった。厠へ行くのに、わざわざ女騎士に面倒をかけるのもどうかと思い、黙って大広間を後にした。その帰り、道端にうずくまっていた男に駆け寄ったところ、突然羽交い締めにされ、凶器を突きつけられたのだ。
 騒然とする中、クレスティナは麾下の者たちに何気なく男を包囲させると、上座に背を向ける形で暴漢の正面に立った。
「どけ! この女がどうなってもいいのか!」
 その身に纏ったサイファエールの鎧は、戦いの跡をそのままに血と汗と埃にまみれていた。喚く男に、クレスティナは微笑さえ浮かべてやんわりと話しかけた。
「勇気ある者よ、おぬしの名を聞かせてはもらえぬか?」
 まさかいきなり名を聞かれると思ってなかったのだろう、一瞬、目を見開いた男は沈黙とともに眼前の女騎士を睨み付けていたが、しばらくして低い声で答えた。
「……タブラスカ村のゲルド」
「ではゲルド、今すぐその少女を解放するのだ」
 しかし、ゲルドは即座に突っぱねた。それもそうである。腕の中の少女は、彼の安全を確保するための人質なのだから。
「だめだ! オレの言うことを聞け!」
 クレスティナが一瞬、上官に視線を向けると、ハイネルドは小さく頷いて見せた。彼女は再び厳しい表情で暴漢を見た。
「……では聞こう。おぬし、サイファエール人でありながら、何故このような席でそのようなことをする?」
 今度の戦いの勝者であり、またテイルハーサ教の信徒でありながら、なぜそれらに泥を塗るような行為をするのか――。クレスティナはいきなり怒鳴りつけるのではなく、男を落ち着かせ、暴挙に至った理由を聞き出そうとした。そうすることで、男が考えを変えるかもしれないし、そううまくいかなかったとしても、どこかで油断や隙を見付けられるかもしれないからだ。
 クレスティナは表面的には余裕の表情であったが、内心では焦っていた。彼女はゼオラからセフィアーナの身の安全を任されている。自身の怠慢から少女を危険な目に遭わせただけでも問題なのに、このうえ少女の身に――生命に何かあれば、クレスティナは最早生きてはいけない。近衛の小隊長として、テイルハーサ信徒として、少女の友人として、そしてひとりの人間として、自分自身を許すことなど、到底できない。
「亡き友の恨みを晴らすためだ」
 クレスティナは紅蓮の瞳を細くした。マラホーマ兵の言葉なら理解できるが、それがサイファエール兵の口から発せられたからだ。
「亡き友とは?」
「昨夜の戦いで、準上将軍を庇って死んだ――勇敢なバロスのことだ!」
 途端、大きなざわめきが大広間を満たした。衆人の視線が一点に集中し、そこに立っていたリグストンは、しかし、顔を歪めたまま沈黙を守っていた。
 ゲルドから視線を外さなかったクレスティナの頭の中で、警鐘が鳴り始める。彼の標的がリグストン――近衛の守るべき相手とわかって、わずかな誤りも許されなくなった。たとえそれが忠誠を尽くすには足らぬ人物だったとしても。
 昨夜、二度目の出撃で、クレスティナはゼオラに従って戦場に出た。そして帰って来た時、同僚の小隊長から、リグストンが足の怪我を押して出撃していたことを聞かされた。それがリグストンの人気取りであることは疑いない。周囲が、特にイスフェルが活躍するのを、黙って見ていられなくなったのだ。
「それは気の毒に……。しかし、戦で命を散らすは武人の本懐であると私は心得るが」
「オレだって武人の端に名を連ねる者。そんなことは百も承知だ!」
「では、恨みを晴らすとはどういうことだ。バロスは準上将軍閣下を庇って名誉ある戦死を遂げた。これは末代まで語り継がれるべき勲功である。凱旋した暁には、彼の遺族は手厚く報いられるであろう」
「名誉ある戦死だと……?」
 クレスティナの言葉に、ゲルドは身体をぶるぶると振るわせた。唸るような声を耳元で聞き、セフィアーナは、恐怖の中で、自分の自由を奪っている男の悲しみを見たような気がした。
「……酷な言い様だが、これが戦の現実だ。友や親兄弟を失う度にその原因を取り除こうとすれば、いつまでたっても不幸のままだぞ」
「黙れ黙れ黙れ黙れ!」
 ゲルドが歯軋りし、血を吐くような勢いで叫ぶ。
「何が名誉ある戦死だ! 何が勲功だ! 今頃バロスは《光の園》で、さぞ己の愚行を悔やんでいるだろうよ!」
「愚行?」
「そうだ!」
 涙を流しながら、ゲルドはあからさまにリグストンを指さした。
「そいつはなぁ! 援護に入ったバロスを見捨てて戦場から逃げ出したんだよ! それだけじゃない! 自分の馬が矢で射られたからといって、何とか窮地を逃れて健気にも追いかけてきたバロスを馬から引きずり下ろし、飛んできた矢の盾にしたんだ! そしてまた自分だけ逃げ出した!」
 物音ひとつしない大広間に、ゲルドの荒い息づかいだけが響く。ふいに彼は深く吐息すると、少し落ち着いた様子で言を次いだ。
「……どういう形であれ、友は準上将軍を敵の手から守った。その心意気を是非汲んで欲しいと、オレは戦いの後、こいつに会いに行った。ところがだ! こいつは紗を隔てた向こうで偉そうに言いやがった。『あれが蠅のように付きまとったおかげで、武勲を立て損なった』とな! 足を怪我しているのなら大人しく王都に居ればいいものを、命を懸けて守った相手がそんなクズ野郎だったとは、バロスの奴、死んでも死に切れまいよ……!」
 騎士や貴族が決して口にすることのできない言葉を、平民のゲルドは次々と言い放つ。ある意味、羨ましいほどに。
「……それでこのような暴挙に出たわけか。だが無論、同情はできんな。先程おぬしは自分も武人の端に名を連ねる者だと言ったが、ではかよわき乙女を盾に喚き散らすのは武人のすることか」
 ゲルドの表情がさっと変わる。そうでもしなければ、一介の兵士である彼が大広間に足を踏み入れ、親友の無念を訴えることなどできなかった。しかし、無関係の少女――それも、朝に夕に祈りを捧げる神の娘を巻き込んでしまったことを、彼は心の奥で悔いていた。
「おぬしの身は私が保証しよう。だから彼女を解放してくれないか?」
「オレは助命など望んでいない!」
「わかっている。ああ、言い方が悪かったな。このようなことをしようとし、実際したのだから、それなりの覚悟があったのだろう。剣を引く気も生きながらえる気もないのはわかっている。だから、このクレスティナが相手をしてやろう」
「……あんたが?」
「小隊長!」
 頷くクレスティナに麾下の兵士から制止の声が飛ぶ。しかし、彼女は不敵に笑った。
「冥土の土産だ」
「おもしれえ……」
 いくら近衛小隊長とはいえ、女ならば勝てると思ったのか、ゲルドは、にやっと笑うと、セフィアーナを突き飛ばした。
「きゃ……!」
「セフィ!」
 床に倒れ込んだ少女を、イスフェルが助け起こす。
「大丈夫か!?」
「え、ええ……」
 その時、耳を塞ぎたくなるような音がして、クレスティナとゲルドの剣が激突した。力で押し合った末、ゲルドが飛び離れる。そこへクレスティナが鋭く斬り込んだ。まるで剣舞のようなクレスティナの流暢な動きに、大広間の人々は非常事態ということも忘れて魅入っていた。
「どうした、防御だけでは私を倒すことはできぬぞ」
 さすがに女性で近衛小隊長の地位を勝ち取っただけある。次から次へと息つく間もなく繰り出される斬撃に、そう弱いはずのないゲルドも身をかわすのが精一杯だった。
「この女……!」
 力任せになんとかクレスティナの剣を弾き返すと、ゲルドは突進した。紙一重の差で、彼の剣は空を切る。しかし、彼はそのまま再び女騎士に襲いかかった。右に左に剣を振り、じりじりとクレスティナの余裕を奪っていく。その時、視界からクレスティナの姿が消えた。と同時に視野が反転する。身を畳んだクレスティナが足払いをかけたのだ。首筋に落ちかかってきた剣をどうにか受け止めたが、手首を思いきり蹴飛ばされ、ゲルドはついに剣を手放してしまった。
「フ、オレの負けか……」
 先刻とは反対に、今度は自分が剣を突きつけられ、ゲルドは大きな声で笑い始めた。
「……あんたの眼は節穴だな」
 それが挑発であることは疑う余地もない。クレスティナが無言のまま剣の柄を握り直すと、ゲルドは再び言った。
「女のあんたの後ろで蒼い顔していらっしゃる準上将軍閣下は、命を懸けて守るに値する男か」
「……愚問だな。王族の方々を命の限りお守りすることが近衛の仕事だ」
「あんたも御苦労なことだな。その苦労、オレ様が取り除いてやるぜ……!」
 クレスティナが剣を振り上げるのと、ゲルドが懐にしまっていた吹き矢を吹くのが同時だった。
「小隊長!」
 輪の中から飛び出した近衛兵が、クレスティナを突き飛ばす。その隙に、ゲルドは左に一転した。彼の死角へ死角へ近衛に守られながら移動していた仇の全身が、一瞬、彼の前に晒される。それだけで充分だった。
 ゲルドが最後に放った吹き矢は、真っ直ぐとリグストンを目指した。恐怖と憤怒に目を眩ませた準上将軍は、自ら危険を回避しようとして、側にあったものを掴んだ。それは、蜜蝋色の巻き髪だった。  親愛なる我が太陽神よ
  雲霧をもって汝の空を覆いたまえ
  波風をもって汝の地を洗いたまえ
  今ここに静かに眠りゆく魂が
  再び汝の下で芽吹くよう
  決して闇の階段を下らぬよう
  汝の光をもって汝の園へ導きたまえ――

    (テイルハーサ教《鎮魂歌》)


 大勝にサイファエール軍が勢い込んだことはわかっていた。しかし、同じ夜に二度も奇襲をしかけてくるとは思わなかった。意気消沈して撤退準備をしているところへ猛攻撃を受け、また軍の宿将も失っていることから、マラホーマ軍は今度こそ総崩れとなった。
「目先の欲に眩んだりするからだ! しばらくは砂でも喰らって空腹を凌ぐことだな!」
 サイファエールの猛将の吼える声に、ラルカークはわずかな部下に守られて、歯がみしながら戦場を離脱した。
 夜明けとともに、サイファエール軍の完全な勝利が決した。


 ラルカークが同じ夜に二度も奇襲を受けるとは思っていなかったのも、ある意味、当然であったかもしれない。最初の勝利に酔いしれるあまり、サイファエール軍の誰も、同じ夜に再び城門を出ようなどと思っていなかったからである。しかし、ひとりだけ考えの違う男がいた。上将軍ゼオラである。彼は喜びに大騒ぎする兵士たちをしばらく放っておき、落ち着いた頃合いを見計らって、ガイルザーテとユーリアを呼び出した。最初の戦いでガイルザーテの部隊は後方支援に徹しており、せっかくの腕を振るう機会を与えられなかった。ユーリアの駐屯軍に至っては、十日以上にも及ぶ攻城戦に欲求不満となっている。軍の統率者として、ゼオラは手柄を立てる機会を公平に設けてやらなければならなかった。――何よりこのままでは、彼自身がイスフェルに良いところを全部持っ て行かれてしまう!
 彼の馬鹿げた内心などつゆ知らず、待ちに待った出番に二将二部隊は見事な働きをしてみせた。モデールの崖下りのおかげで街道は通行止め状態となっており、マラホーマ軍は山や泥地に逃げ込むしかない。その背を散々に叩き追いつめた。イスフェルの望んだ総大将の身柄は拘束できなかったが、その代わり、数人の将兵を捕虜に連れ帰った。
「ウルカス殿……!!」
 ガイルザーテとともに帰還した男を、イスフェルは満面の笑みで出迎えた。
「貴方ならきっとやってくださると思っていましたが、まさか敵の名将まで討ち取られるとは!」
「おぬしのおかげだ。おぬしの策がはまりすぎて、奴らはひどく動転してな。逃げるのも簡単だったが、留まって手柄を立てるのも簡単だった」
 ゴーギルの首が入った包みを持ち上げて、ウルカスは遠慮がちに笑った。今まで主役を演じたことがないので、どこか落ち着かないようだった。
「どうせなら王太子をここに引きずり出したかったが、さすがにそれは無理だった」
「何をおっしゃいます。将軍方が捕虜を連れて帰ってくれましたので、あとはそれで対処いたします」
 これからは文官たちの戦いである。城外においては負傷兵を収容し、戦死者の墓を造らねばならず、城内においては自軍の損害を把握して武勲簿を作成し、また捕らえた捕虜たちの使い途も考えなければならなかった。無論、何よりも先に早馬を放ち、この大勝利を王都へ知らせることも忘れない。
 イスフェルが一階の広間に陣を布き、入れ替わり立ち替わり入ってくる書記官たちを捌いている間、セフィアーナも自分ができることをしていた。戦勝祈願の時に来ていた美しい衣装などとうに脱ぎ捨てて、長い髪を無造作に結い上げ、竪琴を奏でる手に包帯や薬を抱えて負傷兵の間を走り回った。大勝とはいえ、さすがに誰も無傷とはいられない。マラホーマの数には遠く及ばないが、生命を落とした者もいる。
「決してこの添え木を外さないでくださいね。骨が曲がってくっついてしまいます」
 セフィアーナが肩口から三角巾を吊してやると、落馬して腕の骨を折った兵士は真面目な顔で頷いた。
「ありがとうございます、巫女さま。しかし心配は御無用です。骨が曲がっては、生まれたばかりの子を抱けなくなりますから」
「まあ、赤ちゃんが!? おめでとうございます」
「重ね重ね、ありがとうございます。しかし、まだ名がないのです。出立する間際に生まれたものですから、妻には帰るまでに考えておくと言い置いて……。――そうだ。巫女さま、名付け親になって頂けませんか!?」
「ええっ?」
 突然の申し出にセフィアーナが驚いていると、傍らに寝ていた老兵士が身を起こした。
「おお、おお、それがいい。巫女さまと近しくお話しできるなど、二度とあるまいて」
「そんな……私はただの村娘です。会おうと思えば、いつでも皆さんとお会いできます」
 いったい、今までの《太陽神の巫女》は、選ばれた後、人々と関わりを持たなかったのだろうか。巫女自体がもはや神のように見られる現状に、セフィアーナは少し閉口した。
「巫女さま、ぜひ名付け親になってください。初めての子で、女の子なのです。どうか、巫女さまのように優しく育ちますように」
 懇願されて、セフィアーナは困ったように首を竦めたが、ふと良い名前を思い付いた。
「――では、リュース、と」
「リュース?」
「平和と友好の聖官シャーレーンを慕う娘の名です。彼女はいつも笑顔を絶やさず、無愛想なシャーレーンでさえ、彼女の前ではよく笑ったと」
「リュース……」
『巫女さま』からいただいた名前を嬉しそうに噛みしめる兵士に、老兵士も顔をほころばせた。
「良かったな、おまえさん。これで娘さんの一生は幸せじゃ」
「巫女さま、本当にありがとうございます。妻も喜びます」
「喜んでいただけてよかった。幸せにしてあげてください」
「はい、必ず」
 その時、病院と化している礼拝堂の入口から、近衛兵が少女を呼んだ。
「巫女殿、上将軍閣下がお呼びです!」
「あ、はい! 今すぐ参ります!」
 準備が整い次第、《鎮魂の儀》をすると言っていた。彼女はそこで《鎮魂歌》を歌い、死者の魂を神のおわす《光の園》へ導くのだ。
「じゃあ、お大事に」
 薬箱を畳むと、セフィアーナは立ち上がった。彼女の胸を、一抹の悲しさが駆け抜ける。しばらく忘れていた想いだった。
(私の本当の親は、私に名前を付けてくれたんだろうか……)


 あまりの眩しさにゆっくりと目を開くと、地平線に太陽が沈んでいくところだった。
「………?」
 ぼうっとする頭を押さえながら、セフィアーナが長椅子から身を起こすと、向かいの椅子に座っていたクレスティナが微笑みかけてきた。
「疲れたのだろう。よく寝ていたぞ。茶でも飲むか?」
「あ、すみません……」
 目を擦ると、セフィアーナは椅子に座り直した。
(――ああ、そっか。儀式の後、着替えようと思って……)
 あてがわれた部屋に戻ってきた後、少し休憩しようと思ったところ、そのまま長椅子の上で寝入ってしまったのだ。一日以上、緊張状態で走り回っていたのだから無理もない。
 しばらくして、クレスティナが湯気の立ち上る紅茶を運んできた。礼を言ってそれを口に含むと、身体から疲れが抜けていくようだった。
「……何だか、まだ信じられません。もう戦が終わったなんて……」
 夢を見ているかのように吐息する少女に、クレスティナは噴き出した。
「まったく、同感だな」
「明後日にはもう王都へ発つんですよね?」
「いくらサイファエールが豊かな国でも、五万余の兵士に何日も無駄飯を食わせられるものではないからな」
 文字通りのとんぼ返りに、どこか骨折り損という感も否めない。無論、勝利したからこそ言えることではあるが。
「まったく……」
 クレスティナは紅茶の水面に映った自分の顔を覗きながら呟いた。
「相当、神に愛されておるらしいな、イスフェルは」
 ふいに水面が揺れる。その波紋が広がっていく先を、クレスティナは案じた。
「……それとも、そなたがいたからかな?」
「そんな――」
 セフィアーナが首を振った時、神の最後の一条が彼女の顔を照らした。
「おっと、そろそろ支度をしなくては」
「支度?」
「言ってなかったかな? 今宵は勝利の宴が開かれる」
 クレスティナは立ち上がると、荷物の中から何かを引っ張り出した。紫紺の布地――近衛兵団の軍服であった。それも正装である。
「それを着て行かれるのですか?」
「無論だ。私は近衛兵団の小隊長だぞ」
 セフィアーナはくすりと笑った。
「……ゼオラ殿下が何かおっしゃりそうですね」
 果たして、少女の勘は当たった。
「クレスティナ、なんという格好をしておるのだ。戦が終わった時ぐらい、絹の長衣でも着たらどうだ」
 大広間で女二人が挨拶に赴くと、ゼオラはあからさまに眉根を寄せたのだ。
「あいにく、今、この剣が隠せるような服は持ち合わせておりませぬ」
「ならば今回の褒美に加えてやろう」
 クレスティナは仰々しく一礼した。
「私は何も功を立ててはおりませぬ。それでもとおっしゃられるなら、これから閣下に危険な目に遭って頂かなくてはなりませぬ。私の武勲は王家の方々を危険からお守りしてこそのものゆえ」
 黙り込んだ上将軍にセフィアーナとクレスティナが顔を見合わせて笑っていると、この日の立て役者が姿を現した。イスフェルも書記官の蒼い制服を纏い、紫水晶の額輪を身に付けるという正装だった。
「閣下、この度の勝利、誠におめでとうございます」
 青年自身の策が功を奏したというのに、傲ったところがまるでない。
「おぬしが早々に口を開いていたら、無駄な会議をせずに済んだものを。まったく、将来が楽しみだて」
 こうして和やかな雰囲気の中、勝利の宴は始まった。最初に兵士たちの勲功表彰があり、手柄を立てた者たちに、ゼオラが褒美を取らせた。将軍たちについては、凱旋後、国王によって賞される予定となっている。
「おまえの作戦だと聞かされた時には、オレの人生も終わったと思ったがな」
 背後の声に振り返ると、シダが酒杯を差し出してきた。それに自分の杯を打ち鳴らすと、イスフェルは笑った。
「機会を設けてやったんだ。少しは手柄を立てたんだろうな」
「当ったり前だ。戦場でのオレの雄姿を見せてやりたかったぜ。幾人もの返り血を浴びて、オレはまるでケルストレス神のように――」
「ではなぜおまえは表彰されなかったんだ?」
 傍らからセディスが意地悪げに言い、シダは彼を睨み付けた。
「やかましいっ。今にオレの手柄を分けてくれと言い出すからな」
「オレは文官だ。武勲など欲しいものか」
 シダを軽くあしらって、セディスはイスフェルに囁いた。
「見ろよ、準上将軍閣下の周囲。何もしてないってのに、まったく良い御身分だな」
 何気なくそちらに視線を向けると、見知った貴族の子弟たちがリグストンを囲んでいた。
『我々の戦は、この戦が終わった後に始まる』
 ふいに父ウォーレイの声が脳裏に甦る。
(――そうだ。オレは、今日の勝利に酔いしれているわけにはいかないんだ)
 その時、ゼオラに請われたセフィアーナが、竪琴を弾き始めた。薄荷色の薄い衣を靡かせて、少女は微かな笑みとともに涼やかな旋律を奏でている。ふと、彼は彼女に初めて逢った日のことを思い出した。
(……だが、せめて今宵までは……)
 しかし、時間神は彼の僅かな願いなど聞いてくれなかった。


 宴たけなわの大広間で、クレスティナはふと辺りを見回した。セフィアーナの姿が見えないことに気付いたのだ。ゼオラのそばにも、イスフェルたちの輪の中にもいない。クレスティナが首を傾げて立ち上がった時、額に汗を浮かべた近衛兵が転がり込んできた。
「たっ大変です!」
「何事だ」
 クレスティナが眉根を寄せると、近衛兵は廊下を指さして叫んだ。
「《太陽神の巫女》が……!」
 人々が不審な表情を見合わせた時、後ずさる数人の近衛兵に続いて、ひとりの男が入口に姿を現した。その腕の中に見慣れた少女が捕らわれているのを見て、イスフェルは酒杯を取り落とした。
「セフィ!」
 彼の声に、少女は目だけを動かして応じた。首筋に突きつけられた剣が、今にも彼女の白い喉を傷付けそうであった。
 どこかへ行く時には必ず報告するよう、セフィアーナはクレスティナから言われていた。しかし、安全な城塞の中におり、しかも戦は既に終わった。厠へ行くのに、わざわざ女騎士に面倒をかけるのもどうかと思い、黙って大広間を後にした。その帰り、道端にうずくまっていた男に駆け寄ったところ、突然羽交い締めにされ、凶器を突きつけられたのだ。
 騒然とする中、クレスティナは麾下の者たちに何気なく男を包囲させると、上座に背を向ける形で暴漢の正面に立った。
「どけ! この女がどうなってもいいのか!」
 その身に纏ったサイファエールの鎧は、戦いの跡をそのままに血と汗と埃にまみれていた。喚く男に、クレスティナは微笑さえ浮かべてやんわりと話しかけた。
「勇気ある者よ、おぬしの名を聞かせてはもらえぬか?」
 まさかいきなり名を聞かれると思ってなかったのだろう、一瞬、目を見開いた男は沈黙とともに眼前の女騎士を睨み付けていたが、しばらくして低い声で答えた。
「……タブラスカ村のゲルド」
「ではゲルド、今すぐその少女を解放するのだ」
 しかし、ゲルドは即座に突っぱねた。それもそうである。腕の中の少女は、彼の安全を確保するための人質なのだから。
「だめだ! オレの言うことを聞け!」
 クレスティナが一瞬、上官に視線を向けると、ハイネルドは小さく頷いて見せた。彼女は再び厳しい表情で暴漢を見た。
「……では聞こう。おぬし、サイファエール人でありながら、何故このような席でそのようなことをする?」
 今度の戦いの勝者であり、またテイルハーサ教の信徒でありながら、なぜそれらに泥を塗るような行為をするのか――。クレスティナはいきなり怒鳴りつけるのではなく、男を落ち着かせ、暴挙に至った理由を聞き出そうとした。そうすることで、男が考えを変えるかもしれないし、そううまくいかなかったとしても、どこかで油断や隙を見付けられるかもしれないからだ。
 クレスティナは表面的には余裕の表情であったが、内心では焦っていた。彼女はゼオラからセフィアーナの身の安全を任されている。自身の怠慢から少女を危険な目に遭わせただけでも問題なのに、このうえ少女の身に――生命に何かあれば、クレスティナは最早生きてはいけない。近衛の小隊長として、テイルハーサ信徒として、少女の友人として、そしてひとりの人間として、自分自身を許すことなど、到底できない。
「亡き友の恨みを晴らすためだ」
 クレスティナは紅蓮の瞳を細くした。マラホーマ兵の言葉なら理解できるが、それがサイファエール兵の口から発せられたからだ。
「亡き友とは?」
「昨夜の戦いで、準上将軍を庇って死んだ――勇敢なバロスのことだ!」
 途端、大きなざわめきが大広間を満たした。衆人の視線が一点に集中し、そこに立っていたリグストンは、しかし、顔を歪めたまま沈黙を守っていた。
 ゲルドから視線を外さなかったクレスティナの頭の中で、警鐘が鳴り始める。彼の標的がリグストン――近衛の守るべき相手とわかって、わずかな誤りも許されなくなった。たとえそれが忠誠を尽くすには足らぬ人物だったとしても。
 昨夜、二度目の出撃で、クレスティナはゼオラに従って戦場に出た。そして帰って来た時、同僚の小隊長から、リグストンが足の怪我を押して出撃していたことを聞かされた。それがリグストンの人気取りであることは疑いない。周囲が、特にイスフェルが活躍するのを、黙って見ていられなくなったのだ。
「それは気の毒に……。しかし、戦で命を散らすは武人の本懐であると私は心得るが」
「オレだって武人の端に名を連ねる者。そんなことは百も承知だ!」
「では、恨みを晴らすとはどういうことだ。バロスは準上将軍閣下を庇って名誉ある戦死を遂げた。これは末代まで語り継がれるべき勲功である。凱旋した暁には、彼の遺族は手厚く報いられるであろう」
「名誉ある戦死だと……?」
 クレスティナの言葉に、ゲルドは身体をぶるぶると振るわせた。唸るような声を耳元で聞き、セフィアーナは、恐怖の中で、自分の自由を奪っている男の悲しみを見たような気がした。
「……酷な言い様だが、これが戦の現実だ。友や親兄弟を失う度にその原因を取り除こうとすれば、いつまでたっても不幸のままだぞ」
「黙れ黙れ黙れ黙れ!」
 ゲルドが歯軋りし、血を吐くような勢いで叫ぶ。
「何が名誉ある戦死だ! 何が勲功だ! 今頃バロスは《光の園》で、さぞ己の愚行を悔やんでいるだろうよ!」
「愚行?」
「そうだ!」
 涙を流しながら、ゲルドはあからさまにリグストンを指さした。
「そいつはなぁ! 援護に入ったバロスを見捨てて戦場から逃げ出したんだよ! それだけじゃない! 自分の馬が矢で射られたからといって、何とか窮地を逃れて健気にも追いかけてきたバロスを馬から引きずり下ろし、飛んできた矢の盾にしたんだ! そしてまた自分だけ逃げ出した!」
 物音ひとつしない大広間に、ゲルドの荒い息づかいだけが響く。ふいに彼は深く吐息すると、少し落ち着いた様子で言を次いだ。
「……どういう形であれ、友は準上将軍を敵の手から守った。その心意気を是非汲んで欲しいと、オレは戦いの後、こいつに会いに行った。ところがだ! こいつは紗を隔てた向こうで偉そうに言いやがった。『あれが蠅のように付きまとったおかげで、武勲を立て損なった』とな! 足を怪我しているのなら大人しく王都に居ればいいものを、命を懸けて守った相手がそんなクズ野郎だったとは、バロスの奴、死んでも死に切れまいよ……!」
 騎士や貴族が決して口にすることのできない言葉を、平民のゲルドは次々と言い放つ。ある意味、羨ましいほどに。
「……それでこのような暴挙に出たわけか。だが無論、同情はできんな。先程おぬしは自分も武人の端に名を連ねる者だと言ったが、ではかよわき乙女を盾に喚き散らすのは武人のすることか」
 ゲルドの表情がさっと変わる。そうでもしなければ、一介の兵士である彼が大広間に足を踏み入れ、親友の無念を訴えることなどできなかった。しかし、無関係の少女――それも、朝に夕に祈りを捧げる神の娘を巻き込んでしまったことを、彼は心の奥で悔いていた。
「おぬしの身は私が保証しよう。だから彼女を解放してくれないか?」
「オレは助命など望んでいない!」
「わかっている。ああ、言い方が悪かったな。このようなことをしようとし、実際したのだから、それなりの覚悟があったのだろう。剣を引く気も生きながらえる気もないのはわかっている。だから、このクレスティナが相手をしてやろう」
「……あんたが?」
「小隊長!」
 頷くクレスティナに麾下の兵士から制止の声が飛ぶ。しかし、彼女は不敵に笑った。
「冥土の土産だ」
「おもしれえ……」
 いくら近衛小隊長とはいえ、女ならば勝てると思ったのか、ゲルドは、にやっと笑うと、セフィアーナを突き飛ばした。
「きゃ……!」
「セフィ!」
 床に倒れ込んだ少女を、イスフェルが助け起こす。
「大丈夫か!?」
「え、ええ……」
 その時、耳を塞ぎたくなるような音がして、クレスティナとゲルドの剣が激突した。力で押し合った末、ゲルドが飛び離れる。そこへクレスティナが鋭く斬り込んだ。まるで剣舞のようなクレスティナの流暢な動きに、大広間の人々は非常事態ということも忘れて魅入っていた。
「どうした、防御だけでは私を倒すことはできぬぞ」
 さすがに女性で近衛小隊長の地位を勝ち取っただけある。次から次へと息つく間もなく繰り出される斬撃に、そう弱いはずのないゲルドも身をかわすのが精一杯だった。
「この女……!」
 力任せになんとかクレスティナの剣を弾き返すと、ゲルドは突進した。紙一重の差で、彼の剣は空を切る。しかし、彼はそのまま再び女騎士に襲いかかった。右に左に剣を振り、じりじりとクレスティナの余裕を奪っていく。その時、視界からクレスティナの姿が消えた。と同時に視野が反転する。身を畳んだクレスティナが足払いをかけたのだ。首筋に落ちかかってきた剣をどうにか受け止めたが、手首を思いきり蹴飛ばされ、ゲルドはついに剣を手放してしまった。
「フ、オレの負けか……」
 先刻とは反対に、今度は自分が剣を突きつけられ、ゲルドは大きな声で笑い始めた。
「……あんたの眼は節穴だな」
 それが挑発であることは疑う余地もない。クレスティナが無言のまま剣の柄を握り直すと、ゲルドは再び言った。
「女のあんたの後ろで蒼い顔していらっしゃる準上将軍閣下は、命を懸けて守るに値する男か」
「……愚問だな。王族の方々を命の限りお守りすることが近衛の仕事だ」
「あんたも御苦労なことだな。その苦労、オレ様が取り除いてやるぜ……!」
 クレスティナが剣を振り上げるのと、ゲルドが懐にしまっていた吹き矢を吹くのが同時だった。
「小隊長!」
 輪の中から飛び出した近衛兵が、クレスティナを突き飛ばす。その隙に、ゲルドは左に一転した。彼の死角へ死角へ近衛に守られながら移動していた仇の全身が、一瞬、彼の前に晒される。それだけで充分だった。
 ゲルドが最後に放った吹き矢は、真っ直ぐとリグストンを目指した。恐怖と憤怒に目を眩ませた準上将軍は、自ら危険を回避しようとして、側にあったものを掴んだ。それは、蜜蝋色の巻き髪だった。
「………!?」
 激痛がし、何が起こったのかわからないまま、セフィアーナはゲルドの正面に引き出された。そして、その胸に、広間の照明を反射して光った毒針が吸い込まれていった。

「………!?」
 激痛がし、何が起こったのかわからないまま、セフィアーナはゲルドの正面に引き出された。そして、その胸に、広間の照明を反射して光った毒針が吸い込まれていった。

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