The story of Cipherail ― 第六章 翻りし白銀鷹旗


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 カイザール城塞の手前二十モワルの地点、街道からは北に十モワルも離れた場所で、イスフェルは上将軍に前進を止めさせた。
「閣下、ここで三日間、野営をしていただきます」
「うむ」
 五日前の夜、誰よりも早く宰相代理の策に乗ったのは、奇策を求めていたゼオラだった。
「『サイファエール海軍、ゼキーロを包囲す』か……。海軍が使えるものになったら、いつかやってみたい策ではあるが、その大ボラを敵本陣で吹く命知らずの人選は済んだのか?」
「ええ。モデール将軍麾下の、ウルカスという者に頼みました。マラホーマ語に長けております」
 ゼオラは頷くと、整った天幕に諸将を招集した。
「我が軍は今、パーツオットに浮かぶ船の上でゼキーロを襲撃していることになっておる。よって、我々がここにいるということを絶対に敵に気取られてはならぬ」
 竈や篝火の使用を極力制限するよう言い渡すと、待ちぼうけを喰らわされることとなった将軍たちは、口をへの字に曲げた。
「三日もここでじっとしておけと? ある意味、実戦よりも辛いわい」
「いくら作戦のためとはいえ、目の前で味方が攻められておるのに、何の手出しもせぬというのは……」
 イスフェルは将軍たちの勇敢さを称えつつ、そっと諭した。
「マラホーマ軍を正確に罠に陥れるためです。あまりにもサイファエールの援軍の到着が遅れれば、敵は不審に思うでしょう。そこへゼキーロからの使者が来て、サイファエール海軍によって街が陥落寸前だと告げれば、あとは向こうが勝手に話をでっち上げてくれます」
「して、我々の出番は本当に三日後やってくるのだろうな」
 ガイルザーテが半ば脅すような口調で年若い軍師に詰め寄る。イスフェルは笑いながら頷いた。
「嘘をひとつついただけで戦が終わるのであれば、苦労は致しません。三日後、必ずお力をお借りしますので」
 その後、イスフェルは、自分の陣営に戻っていったモデールを訪ねた。
「おぬしが急に暇を言い渡すものだから、無骨な私は何をしてよいやら……。気取られてはならぬとあらば、狩猟祭もできぬな」
 苦笑混じりの将軍に、イスフェルは笑った。
「無骨な方が歌など詠まれますまい。聞きましたよ。中央劇場での先の公演で披露された歌の中に、貴方の作られたものが入っていたそうですね」
「ぬっ。おぬし、どうしてそれを!」
 瞬間、モデールの顔は耳まで紅く染まった。
「ペストリカなどには内緒にしておいてくれよ。あやつに知れたら何を言われるかわからん」
「では、その口止め料にお願いがあるのですが」
「なにっ!?」
 たじろぎ、迷惑げにイスフェルを見返したモデールだったが、青年の言うことを聞くうち、その顔に喜びを溢れさせていった。
「それは我が隊には打ってつけの役だ。私が指揮を執ろう」
「宜しくお願い致します」
 こうして他の部隊が干物を中心にした味気ない昼食を摂っている頃、モデールは自分の部隊の精鋭一千騎と案内役のパレス、そして道化役のウルカスを連れて、北側の山の中へと入っていった。


「サイファエールの援軍はまだ来ぬのか」
 マラホーマ軍を率いる王太子ラルカークは、本陣の自分の椅子の上で不機嫌そうに言った。
「はっ。斥候の報告では、街道にも砂塵は見えず、と……」
「おかしいではないか。俊足を自称する奴らなら、今頃とうに我らとこの狭き野で対峙しているはずであろう」
 十日かかってもカイザール城塞を落とせないでいることを棚に上げ、ラルカークは酒杯を呷った。そんな彼を、将軍たちは困ったように見ている。
(なぜ私がこんな目に遭わねばならんのだ)
 ラルカークは、杯を床に叩き付けたい気分だった。彼は今年三十八歳になる。もともと第八王子の息子という、玉座にはほど遠い家庭に生まれ、二十代の終わりまで砂漠に囲まれた宮殿で平和な暮らしをしていた。しかし、九年前、サイファエールとの戦で王太子が戦死したことで、マラホーマ王宮の安寧は砂嵐とともに吹き飛んでしまった。第二王子の立太子に第三、第四王子が反対し、血みどろの内乱がこの年明けまで続いたのである。結果、何の因果か実の父レイロードがその嵐の海を泳ぎ切り、ラルカーク自身は次期国王という看板を背負わされてしまった。それでもとにかく落ち着いたことを喜んでいると、国王となった父にサイファエール侵攻を言い渡されてしまったのだ。
(なぜこの上さらに戦なのだ!)
 国内の平定と次期国王を内外に示すためだと言われても、欲しくもない権力を与えられた彼には到底納得できなかった。おまけに出立直前に愛妻の懐妊を告げられては、なおさらである。
(サイファエール軍め、いったい何をもたもたしているのだ。雁首そろえたところで一気に叩き潰してやるものを。もとはといえば、奴らが王太子であったディガール伯父を殺したからこんな目に……!)
 腹立たしげに外套を翻すと、ラルカークは自分の天幕に戻った。
 一方、謂われのない八つ当たりをされたとは知る由もないカイザール城塞では、城を預かるユーリアが城壁の上で腕組みをしていた。学問を司る聖官と同じという、その優しげな名とは裏腹に、表情は獲物を定めた虎のようであり、鍛え抜かれた筋肉は篝火を受けてくっきりと陰影をつけている。口元に蓄えた髭は、彼のお気に入りであった。
「将軍、援軍が来る様子はまるでありません」
 この日、不安そうな部下を宥める言葉を何度口にしたことだろう。
「そう慌てるな。陛下が我々をお見捨てになるはずがなかろう。それより、明日に備えておぬしはもう休め」
「はっ……」
 見上げれば、月神ミーザが満面の笑みで暗き野を照らしている。カイザール城塞に来てから早十二年、こんな夜は王都に残してきた家族のことが思い出され、彼は溜息をついた。真横にあった篝火が派手な音を立てて倒れたのは、その時である。
「!?」
 最初、敵陣から放たれた矢が当たったのかと思ったが、どうやら違ったらしい。
「将軍、大丈夫ですか!?」
 見張りの兵士たちが駆け寄る中、ユーリアは足下に転がった拳大の石を拾い上げた。それは周囲を紙でくるまれていた。
「ああ、持ち場に戻ってよい」
 言いながら紙面に目を落とすと、そこには短く『ヴォラス、曰く』と書かれてあった。隅に、ゼオラの遊び印が捺してある。それは有名な英雄伝の一場面で、将ヴォラスが逸る兵たちに三日間の待機を言い渡す箇所の記述だった。
「―――」
 彼が小さく笑って顔を上げると、天と地の境を黒い鳥が飛んでいくのが見えた。


 サイファエール軍には待ち侘びた三日後がようやく訪れた。しかし、宰相代理にして軍師となったイスフェルは、朝から自分の天幕に籠もったまま、前日と同じように本を読んでいた。ゼオラはゼオラでセフィアーナに竪琴を弾かせたり、初めて間近で見る人狩鳥に伝令の礼を言ったりして、まるで出陣の気配がない。三将軍は、次第に焦り始めた。
「イスフェル!」
 本人の了解も得ず天幕に乱入したペストリカは、優雅に茶を飲んでいた青年に詰め寄った。
「おぬし、我らの出番は今日だと申したはずだが」
「ええ……申し上げましたが、それが?」
 きょとんとした顔のイスフェルに、歴戦の勇者は苛立たしげに顔を歪めた。
「日はとうに昇っておるぞ。いつまで待たせる気だ」
「日の出と同時に出撃とは申し上げませんでしたが。それに、今日はまだあと十二ディルク以上あります」
「されど……!」
 興奮したペストリカを遮り、今度はガーナが進み出た。
「先日からモデールの姿が見えぬのだが、おぬしは何か知っておるか?」
「ええ。将軍には私がお願いして先に発って頂きました」
「なにっ!?」
 ペストリカが円卓を両の拳で叩いた時、入口の布が揺れて、セフィアーナが顔を覗かせた。
「皆さま、こちらにおいででしたか」
 少女はにこっと笑うと、盆を持って入ってきた。
「干物ばかり食べていては、心も渇きましょう。召し上がってください」
 見れば、皿には湯気の立ち上るスープが注がれてある。渇いた心のままイスフェルを責めていた二人は、咄嗟に押し黙った。すると、少女は慌てて言い繕った。
「あ、あの、心配しないでください。天幕の中で作ったから、煙は漏れていません。あ、でも、部屋中、真っ黒にしてしまって、クレスティナ様には怒られてしまいましたけど……」
「……はっ」
 ふいにガーナが笑い出し、ペストリカもそれに続いた。少女が困惑の表情を浮かべる中、二人は椅子に腰を下ろすと、美味しそうに彼女の作ったスープを飲んだ。
 夕刻、出立準備を終えたサイファエール軍は、三日間過ごした野営地に別れを告げた。


 その夜、ラルカークはやっと寝付いたところで叩き起こされた。不機嫌そうに身を起こすと、侍従の額にはうっすらと汗が滲んでいる。夜着に外套をひっかけただけの姿で本陣に赴くと、主立った将軍たちが全員集まっていた。
「殿下!」
「何事か、騒々しい」
 すると、軍で一番の老将ゴーギルが片膝を付いている兵士を指さした。汗と泥にまみれ、見るも無惨なその形に、ラルカークは眉根を寄せた。
「ゼキーロより、使者が参ってございます」
「なに、ゼキーロから?」
 王太子の視線を受け、ゼキーロの使者――サイファエール人のウルカスは、大声で叫んだ。
 実は彼の生まれはゼキーロであった。しかし、二十数年前、マラホーマがゼキーロを手に入れた際、サイファエール人を始めとする外国人は迫害を受けた。そのため、貿易商人だった彼の両親は、幼い息子を連れ、サイファエールに逃げ帰ったのだ。故郷を奪われた恨みを晴らす機会を、ウルカスは思わぬところで最高の形で手に入れた。そのためには、たとえ偽使者として捕まり八つ裂きにされようとかまわない。
「王太子殿下に申し上げます! ゼキーロが、陥落寸前です……!」
「なっ何だと!? いったいどういうことだ!」
 思わず腰を浮かせた彼に、ウルカスは涙ながらに語った。小一ディルク前まで、サイファエール人たちとともに行動していた人物とはとても思えない名演技ぶりである。
「七日前に突然、サイファエール海軍が現れ、連日の船上砲火に守備軍の善戦も虚しく……」
「なに、パーツオットの潮風が白銀鷹旗まで翻らせているなど、聞いておらんぞ!」
 ラルカークは厳しい表情で将軍たちを見遣ったが、彼らは困惑顔で顔を見合わせるだけだった。内心で「それはそうだろうな」と嘲笑いつつ、ウルカスは表には驚いてみせた。
「はっ、はあ……なれど、サイファエールが海軍を整備していることは、以前から噂になっておりました……」
「なに……!?」
 あまりのことに、ラルカークは呆然と椅子に沈み込んだ。彼らの都は数千年、内陸の緑地にある。その視野に、港や海はなかなか入ってこないのだった。黙り込んでしまった王太子の代わりに、将軍エスベラが忌々しげに言い捨てる。
「援軍の来襲が遅い遅いと思っておったら、まさかゼキーロを攻めておったとは……!」
「――待て、待つのだ」
 ゴーギルは諸将の動揺を鎮めるように、両手を広げた。
「しかし、サイファエール海軍の来襲は七日も前のことであろう。おまえはなぜ今頃来た?」
「そうだ……早馬ならば、ゼキーロから二日の距離ではないか!」
 ウルカスは唇を噛みしめた。
「……山を、越えたからでございます」
「はっ!」
 ゴーギルは笑うと、ゼキーロよりの使者を睨み付けた。
「山を越えた? 火急の使者が、街道を通らず山越えだと?」
「奴らがっ」
 ウルカスは拳を地面に叩き付けると、額をそこにこすりつけた。
「……私は三番目の使者です。海に白銀鷹旗を見た時、城司イルド殿は即座に私の兄を使者に立てました。そして次に私の親友を――。しかし、時を過ごしても、殿下の軍のお姿は見えず……イルド殿は、今度は私を使者に。……そして私は見たのです。街道上に無惨に転がった兄と親友の遺体を……! あのっ、あの腐れ切った盗賊どもが、二人を殺し、我がマラホーマを危機に陥れたのです……!」
「………!」
「奴らに捕まらぬために、私は山に入るしかございませんでした。それをお咎めになるならば、どうぞお好きになさいませ!」
 今度はウルカスが睨み付ける番であった。そのあまりの迫力に将軍たちは顔を見合わせ、そして彼の言を信じるしかなかった。
「……直ちに転軍。エスベラ、おぬしが先発隊を率いよ」
「はっ」
 地理的にも経済的にもゼキーロを失うわけにはいかない。ラルカークは瞬時に決断を下すと、他の将軍にも指示を重ねた。転軍に気付いたカイザール城塞のサイファエール軍が出撃してこないよう、行動は隠密に運ばねばならない。最悪の場合、ゼキーロを制圧したサイファエール海軍とに挟撃されるかもしれないのだ。落ちぬ城を見上げながら敵の援軍を待つより、今は煙と消え、ゼキーロを守りあるいは取り戻し、改めてサイファエール軍と向かい合えばよい。その時、戦場が今のような山間ではなく平原であったらなおさらいい。難攻不落の城塞に拠られて手間取るより、その方がよほど益な戦ができるはずだ。
「篝火はこのままに。光り物には布をかけるのだ。寝静まっているように、物音は立ててはならぬ」
 もしこれがゼオラなら、動くことを派手に相手に知らせたかもしれない。相手の警戒をあおり、逆に出撃を思いとどまらせるために。

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