The story of Cipherail ― 第六章 翻りし白銀鷹旗


     2

 サイファエール軍は順調に軍を進め、王都を出立して五日後には、中間地点であるラディスを通過した。しかし、作戦会議は難航し、三日目の夜、囮部隊を用いるということで決着したが、上将軍は不服そうな顔を隠そうとしなかった。
「リエーラ・フォノイ、そのように鬣にしがみついては、馬が動けぬぞ」
 手綱を取りながら笑うクレスティナに、女神官は強張らせた顔を向けた。
「まさか、こっこのように高いとは……」
 天幕の屋根ごしに、竈の煙が何本も上がるのが見えた。
「でも、いつもと違う視点で気持ちよくありませんか?」
 セフィアーナが横に馬を立てると、リエーラ・フォノイは今度は恨めしそうに少女を見た。
「貴女が馬車でおとなしくしているような娘なら、私もこのような目に遭わなくてすむのですよ」
 途端、クレスティナが噴き出した。
「それは一理あるな。のう、セフィアーナ?」
「クレスティナ様……」
 セフィアーナが頬を膨らませた時、天幕の横からセディスとイスフェルが姿を現した。
「クレスティナ殿、シダを――」
 言いながら、セディスは見慣れぬ女神官が危なっかしく馬上にあるのを見、首を傾げた。
「……何をなさっているんです?」
「見ての通り、巫女殿のお目付役の乗馬訓練だ」
「たっ高いところから失礼いたします」
 鞍に掴まって会釈するリエーラ・フォノイに、イスフェルは尋ねた。
「確か準上将軍閣下の馬車に同乗なさっていると伺いましたが」
「はい。けっけれど、私の使命はこの娘の傍にあること。自分だけ馬車というのは……」
 その下でクレスティナが首を竦めるのを見て、ふたりは了解した。いくらゼオラのお達しとはいえ、《太陽神の巫女》の付き人を馬車に同乗させるのを、リグストン側が良く思うはずがない。その空気を女神官に感じさせたのだ。
「さてさて、練習時間は今しかないのでな。リエーラ・フォノイ、姿勢を起こして」
 女神官に手綱を渡し、自分は頭絡に結んだ紐を持って、クレスティナは馬に常歩を促した。リエーラ・フォノイは緊張した面持ちのまま、馬に揺られて行った。
「ところで、セフィアーナ殿。これから賭けをするんですが、貴女もいかがですか?」
「賭け?」
「シダが戦功を上げられるかどうか」
 悪戯小僧のような顔をするセディスに、セフィアーナは笑いながら首を振った。
「いいえ、私は……。誘ってくださってありがとうございます」
「そうですか。じゃあまた」
 軽く手を挙げてセディスが歩き出した。その後ろにイスフェルも続く。彼は目礼しただけで少女に言葉をかけることはなかった。セフィアーナは困惑して吐息すると、馬首を翻した。


 皆が寝静まった後、イスフェルは天幕を出ると、竈の周囲に置いた石に腰を下ろした。考えることがたくさんあり過ぎて、寝付けなくなったのだ。と、草を踏む音がして、クレスティナが現れた。甲冑を着込んでいるところを見ると、夜警なのだろう。
「王都を発つ時から、ずっとここにシワが寄っておるな」
 眉間を押さえる彼女に、イスフェルは僅かに目を見張ると苦笑した。
「……よくお気付きで」
「短い間ではあったが、私はおぬしの師であったからな。何か問題でも?」
 イスフェルは沈黙し、自分の迂闊さに内心で舌打ちした。
「いえ、別に……」
「まさか、宰相代理という任務がおぬしをぴりぴりさせているのでもあるまい」
「ひどいですね。私にとってはすべてが初めての経験なのですよ。ぴりぴりもします」
「……そうか」
 決して納得したような表情ではなかったが、クレスティナはそれ以上追及しようとはしなかった。わざわざイスフェルの天幕まで来たのは、それを問い詰めるためではなかったらしい。
「だが、八つ当たりはいかんな」
「……何のことです?」
 イスフェルが首を傾げると、クレスティナは持っていた松明を竈に立てかけた。
「巫女殿のことだ。――また、私の勘違いか?」
 すると、青年は小さく息を呑み、視線を地面に落とした。王都を発って以来、ろくに彼女と口を利いていない彼だった。
「かわいそうに、彼女、気にしておったぞ」
 すると、イスフェルは端正な顔を一気に歪め、組んでいた腕を解いた。
「私は呆れているのですよ」
「怒っているの間違いでは?」と、思わず問い返したくなるほどの彼の形相であったが、クレスティナは黙っていた。
「飛んで火に入る夏の虫ではありませんか。短剣すらろくに扱えぬのに、なぜわざわざ戦場に!」
「……それは直接、彼女に訊いてみることだな」
「!」
 あっさりとかわされて、イスフェルは憤懣やる方なしといった態で眉間にしわを寄せたが、ふと大きな溜息をもらした。
(……確かに八つ当たりかもしれないな)
 軍の物資と情報の管理、陣中見舞いに訪れる領主たちの接待、戦後処理の準備、そして最も重大な任務である、王子の迎え――。国王から宰相代理の言い渡された時から、宰相から大役を任された時から、そのひとつも取りこぼすことの無いよう務めようとしたが、しょせん新人の彼が表情も変えずにできることではない。もともと感情を露わにする性ではないから、それでも焦りや緊張を隠していたのだが、自分に何かできるかもしれないと甘い期待を胸に抱く少女を見た途端、それが苛立ちとなって噴き出したのだ。
「明日、彼女に謝ります」
「それが賢明だろうな」
 クレスティナは頷くと、小さく笑った。
「それにしても、おぬしが感情のまま行動するとは、珍しいこともあるものだな」
「わ、私も人間です。たまには我慢できなくなることもあります」
 ふくれっ面の青年に、クレスティナは真夜中ということも忘れて笑い出した。
「これで『冬のフォーディン』も雪解けとなるかな」
 そう言って腰を上げた昔日の師匠に、イスフェルは不思議そうに首を傾げた。


 翌朝、出立準備が進む中、イスフェルはセフィアーナを訪ねた。馬に荷を乗せる少女を呼ぶと、彼女は驚いた表情を隠そうとしなかった。
「旅の疲れが出る頃だろうが、よく眠れたかい?」
「ええ……」
 困ったように俯くセフィアーナに、イスフェルは苦い思いを否めなかった。
「……きみに、謝りに来たんだ」
「え?」
「昨日までのこと……その、嫌な思いをさせてしまって悪かったね。ちょっと気詰まりできみに――」
「ううん」
 イスフェルの声を遮るように、セフィアーナは首を振った。
「心配してくれていたんでしょう?」
「え?」
「危ない目に遭うかもしれないからって……」
 彼女の背後で、クレスティナが慌てて畳みかけの天幕に引っ込み、イスフェルは了解すると同時に頭をかいた。
「ああ……」
「確かに足手まといだものね。向上心のために来るところではないのかも……」
 今度はイスフェルが首を振った。
「たとえそうだとしても、きみはやはり来ることを選ぶだろう。見かけと違って、なかなか頑固だからな」
「な……イスフェル!」
 声を立てて笑う青年を可愛らしくも睨み返したセフィアーナだったが、ふいに安心したように吐息した。
「良かった……」
「何がだい?」
 聞きとがめたイスフェルが不思議そうな顔をすると、セフィアーナは心配そうに彼を見返した。
「最初の夜、ゼオラ殿下の天幕で見かけた時からずっと表情が硬かったから、ちょっと心配してたの。宰相代理のお仕事大変なんだろうけど……あんまり無理しないで」
 正直、イスフェルは驚いた。シダやセディスたちでさえ彼が思い悩んでいることに気付いていないのに、まさか少女が気付いているとは思わなかったのだ。
「――ああ、ありがとう……」
 呆けたように呟いて、イスフェルは改めて彼女を見た。そんな彼に、少女はにこっと微笑みを返す。青年は、肩から力が抜けたような気がした。
「……きみは、本当に巫女なんだなぁ」
「ええ?」
 セフィアーナが目を瞬かせた時、突如、風上の方で騒ぎが起こった。閧のような声とともに数本の矢が空に向かう。
「何だ……?」
 二人が矢を追って空に視線を遣ると、そこには黒い翼を膨らませ急上昇する大鳥の姿があった。
「ティユー!?」
 二人は同時に叫ぶと、草を飛ばして走り出した。天幕の間を抜け、小さな通りに出ると、そこは弓を構える兵士たちでごった返していた。
「ちっ、当たらぬのう」
「さすが天空の覇者というべきか……」
 悔しそうにぼやく兵士たちを、イスフェルは背後から一喝した。
「何をしている! 部隊長、やめさせろ!」
 一緒になって騒いでいた部隊長は、慌てて周囲の兵士を宥めたが、その声の届かぬ場所では、相変わらず矢が宙に鋭く放たれた。セフィアーナは悲鳴のような声を上げて、兵士たちの間に割り込んだ。
「やめて、やめて!」
「おお、これは巫女殿」
 珍しい獲物相手に昂揚している兵士たちを、少女は睨み付けた。
「どうしてこんなことをなさるのですか!? 神は生命を徒に奪うことを許されていらっしゃいません!」
 そして、驚いて目を丸める彼らを捨て置いて、セフィアーナは近くの馬に飛び乗ると、天幕の間から飛び出した。
「ティユー! もう大丈夫よ!」
 セフィアーナの姿を地上に認めて、再びティユーは降下を開始した。彼女の身に危機感を覚えた兵士が矢を番えようとするのを、イスフェルは片手で制した。
「よく見ろ」
 おもしろそうに言う宰相代理を不審げに一瞥し、再び彼がセフィアーナに視線を戻した時――。信じられないことに、少女は人狩鳥と並びながら馬を走らせていたのだった。
「ティユー、来てくれたの!?」
 育ての親の嬉しそうな声に、大型の、まして殺人鳥には似合わぬ声で、ティユーは応じた。
「ごめんね、怪我はなかった? 皆、あなたのこと、味方だって知らなかったのよ。許してあげて」
 騒ぎを聞きつけ、少女を遠巻きに見ていた将軍モデールは、思わず感嘆の声を漏らした。
「なんと、あの娘、人狩鳥と戯れておるぞ。まさに神の落とし子かもしれぬな」
 兵士たちの大歓声をが上がる中、唯一ティユーがセフィアーナに懐いている理由を知るイスフェルも、微笑ましく少女の姿を眺めていた。


「……閣下、いかがなされました?」
 夜、作戦の詳細を決める会議の最中、頬肘を付き宙を睨みつけたままの上将軍を、ガーナは怪訝そうに見遣った。他の将軍たちも一斉にゼオラを振り返る。
「うむ……」
 しばらく考え込んでいたゼオラだったが、おもむろに顔を上げて言った。
「囮部隊だが、ここ数回の戦で、我が軍はその策を多用しておるな」
「はぁ、確かに……」
「ということは、敵もそれを読んで布陣しておろうな」
 その言葉に、天幕内は沈黙した。
「……しかし、あの辺りは結構な山岳地帯。城塞の兵と合流するにも、策は限られてきます」
「閣下、奇策が上策とは限りませぬぞ」
 宥められても、ゼオラは依然として不満顔だった。いつもの彼ならば早々に作戦をまとめて突撃していくのだが、今回は様子が違った。
(当分、挙兵など考えられぬくらい、打撃を与えたいのだがな。そのためには、初戦から王太子の鼻っ柱を叩く必要がある――)
 聖都での武道会で感じた焦臭さと、王都に帰参して感じた泥臭さ――それらがマラホーマをしばらく黙らせなければならない必要性を彼に訴えていた。
「九年前の侵攻の際は、いかにしたのか?」
 リグストンの問いに、モデールが答える。
「西門に囮部隊を向かわせ、城内の兵と呼応させて敵を挟撃し、敵本隊がそちらへ動くと同時に東門からなだれ込みました」
「あの戦いは勝ったからよかったようなものの、あまり思い出したくないわい」
 老将からは溜息さえ聞こえる。国王を失った数日間は、時を経ても癒えきらぬ傷痕を心に残しているのだった。
「イスフェル、おぬしからも閣下に言上してくれ。いい加減、策を講じてくだされと」
 ガイルザーテの突然の振りに、イスフェルが困ったような笑みを浮かべると、その横で突然、モデールが手を打った。
「それより、おぬしに策は何かないのか?」
「私に、ですか?」
 青年が目を瞬かせると、リグストンが意地悪げに笑った。
「おぬしの父は策士としての名も少なからず轟かせておったが、おぬしはどうやら違うようだな」
 そのあからさまな言に、イスフェルは無表情を装った。
「私は文官として従軍している身。おまけに、戦の経験はありません。サイファエールきっての武人方を幾人も前にして、何を申し上げられましょうか」
 すると、上座でゼオラがげんなりとした様子で言った。
「この際、武官も文官もないわ。イスフェル、おぬしが何も考えておらぬわけがあるまい。遠慮せずに申してみよ」
 イスフェルは首を竦めた。
「……ならば、謹んで申し上げます――」
 確かに考えていないことはなかったが、まさか新人の文官である自分にお鉢が回ってくるとは思わなかった。
「ゼキーロを攻められてはいかがですか?」
 途端、将軍たちは一様にぽかんと口を開け、リグストンに至っては笑い出した。
「何を言い出すかと思ったら……」
 と、突如、準上将軍は細い青褐色の瞳を鋭く光らせた。
「イスフェル! 戯れもいい加減にせぬと、宰相家の名を辱めることになるぞ! ゼキーロがここから何百モワル先にあるか知っておるのか!? その間、カイザール城塞はどうする! 敵の手にむざと陥落させるのか!」
 しかし、宰相代理はその怒号に臆したりはしない。たとえ戦の経験がなくても、知識量という点で、彼は準上将軍を遥かに凌いでいた。
「そのようなことは致しません。だいたい、ゼキーロへ行くには必ずカイザール城塞を通らなければなりませんし、もし行ける道があったとしても糧食がまるで足りません。周囲が砂漠では、現地調達も難しいでしょう」
 リグストンは容易に混乱した。
「だが、おぬしは今、ゼキーロを攻めろと申したではないか」
「はい」
 ふたりのやりとりを聞いていたガイルザーテは、太い両腕を組むと、大陸の地図に目を落とした。ゼキーロはマラホーマ唯一の港で、カイザール城塞よりさらに百五十モワルも東にある。
「ふむ……確かにゼキーロを攻めれば、城塞を包囲しているマラホーマ軍は引くしかあるまいな」
「何を言う。所詮、叶わぬ策だ」
 リグストンの言葉に、ペストリカが頷く。
「攻城戦は既に十日近くに及んでおるのだぞ。もはや時間がない。上将軍閣下、迷いは禁物です。囮部隊を」
 しかし、ゼオラはイスフェルが浮かべた不敵な笑みを見逃さなかった。
「おぬし、何を考えておる?」
「その前に、お尋ねしたいことが二、三。モデール将軍、あなたは昔、使節の護衛としてマラホーマに行かれたことがおありだそうですね」
 モデールは驚いたように頷いた。
「ああ、もう二十年近くも昔の話だ。よく知っておったな」
「それは船で?」
「うむ。ゼキーロまで船で三日、国都まで馬で……二十日ばかりかかったかな」
「三日……」
 しばらく地図を見て考え込んでいたイスフェルだったが、今度はガーナに向かって問いを発した。
「ガーナ将軍、城塞付近の急峻な場所とは?」
 すると、ガーナは気まずそうに首を竦めた。
「そ、れは、儂に訊くより……」
「……何です?」
 尋ねながら、イスフェルは微かに苛立たしさを覚えた。彼にはガーナの言いたいことがわかっていた。カイザール城塞の守備を任されている将軍ユーリアの部下で、今回の戦に従軍している兵士たちの中で最もカイザール城塞に詳しい人物――パレスは、馬の一件でこの天幕に入ることを遠慮していた。
「む? そう言えば、パレスはどうした?」
 内心でわざとらしさを十分に自覚しつつ、ゼオラは近衛兵にパレスを連れてくるよう指示した。すると、十を数える間もなく、パレスが入ってきた。自分の知識が必要になるかもしれないと思い、天幕の外で待機していたのだ。
「パレス殿、こちらへ来て、城塞付近の急峻な場所を教えて頂きたいのですが」
 天幕内に走る緊張を無視して、イスフェルはパレスに手を差しのべた。パレスは地図の拡げられた机までやってくると、将軍たちに向かって一礼した。
「東に三モワルほど行ったこの辺りと、城塞の北側一帯だが」
「そうですか……」
 再び沈思する宰相代理に、上将軍はしびれを切らした。
「なんだ、イスフェル。いい加減、説明せぬか」
 すると、青年はひとつ頷き、楽しそうに言った。
「それでは、申し上げます」

inserted by FC2 system