The story of Cipherail ― 第五章 嵐の兆し


     6

 その者の言葉に、宰相と侍従長は目を剥き、そして蒼白となった。
「な、何だと……!?」
 てっきり娘を捜し出し、母親との再会を果たさせて戻ってきたと思っていたのに、密使の口から発せられたのが、サイファエールの将来を大きく左右するものだったからだ。
「ミンタム殿」
 あまりのことに動揺を露わにする侍従長に、ウォーレイは周囲を憚って小声で制した。一応、彼の執務室の奥部屋ではあったが、いつどこに鼠が潜んでいるとも限らない。
「も、もう一度言ってくれ……」
 ミンタムは必死で落ち着こうと茶杯に手を伸ばした。しかし、手が震えているため、うまく飲むことができない。そんな彼に、密使は再び淡々と告げた。
「レイミア殿には、陛下の御子と思しき八歳の男の子がいらっしゃいます――」


 王都に入ってからというもの、昨日までの風景とのあまりの違いに、セフィアーナは馬車の窓に釘付けになっていた。人工的に造られた河を走る帆船、競技をするためだけに造られた建造物、いったいどのくらいの商品が置いてあるのかわからないくらいの大市場、《太陽の広場》よりも広い公園――建物は聖都よりいっそう巨大化し、舗装された道路には星の数ほどの人馬が絶え間なく行き交っていた。
「あの森の向こうに見えるのが、我がサイファエール王宮です」
 御者台のゼオラの使者の言葉に顔を出すと、煌めく緑に囲まれた丘の上に、真白の宮殿が見えた。
「《正陽殿》よりも大きい……」
 遠目にも五倍は違いそうなその大きさに圧倒され、セフィアーナは大きく息を吐き出しながら座席に身を沈めた。
「本当に、世の中って広いのですね……」
 少女の呟きに、リエーラ・フォノイは思わず噴き出した。
「古から、権力者たちは競って巨大な建造物を残してきました。それが彼らにとって強大な力を示す手段だったからです」
「権力……」
 それを持つ者が手を振り上げるだけで、巨大で美しい建築が建ち、また大勢の人が死に至りもするのだ。それを、セフィアーナは少し実感した。
「あぁ、セフィ、御覧なさい。海が見えますよ……!」
 女神官の感激した声に、セフィアーナは再び窓の外を見た。最初は街並みの狭間に湖のようなものが見えているだけだったが、馬車がリオドゥルクの丘を上るに連れて、徐々にそれが繋がっていく。やがて、それはひとつの青い平原となった。
「あれが、海……」
 陽光を受けてきらきらと輝く水平線を、セフィアーナは息を呑んで見つめた。いったいどこまで続いているのだろうか。その果てには何があるのだろうか。
 セフィアーナは傍らの文箱の中から、カイルがくれた手紙を取り出した。
『……パーツオットの海は、オレが王都で唯一好きだったものだ。水平線から昇る朝日を、ぜひ一度見て欲しい――』
 唯一の肉親と死に別れたこの場所にセフィアーナが向かうと聞いて、カイルはさぞ複雑な心境だっただろう。
(……朝陽を見に行くことができたら、カイルのお母さんのためにお祈りしよう)
 そう心に決めた時、馬車はいよいよ城内へと入っていった。


 久しぶりに馬場に足を踏み入れたイスフェルは、雲ひとつない空を眩しそうに見上げた。
「絶好の競射日和であろう」
 背後の明朗な声に振り返ると、王従弟ゼオラが立っていた。母親が病臥したため、聖都から戻るやまたすぐ王都を離れていたのだが、先日帰って来て新人補佐官が執務室に籠もりっぱなしなのを聞きつけると、早速、競射に誘ってきたのだ。
「最近、鍛錬していなかったであろう? 観客が来る前に、ちと汗を流しておいたほうがよいぞ」
「観客、ですか?」
「稀代の上将軍と次代の宰相の対決ぞ! このように面白いことを万人に内緒でやるほど、私は無粋ではない」
 呆気に取られていたイスフェルだが、殿下は聖都で冷や飯ばかり喰わされていた、とのシダの言葉を思い出し、小さく笑った。
「やはり内緒にしておけばよかったと後悔なさることになりますよ」
 言い置いて愛馬フォルティースに跨ると、颯爽と起点に向かって駆けていった。残されたゼオラがユーセットにぼやく。
「ユーセットよ、あやつ、成人してから少し性格が悪くなったのではないか?」
 ユーセットは噴き出して、首を振った。
「いいえ、大いなる成長です」
 こうして競射は始まったが、八十ピクトの距離を四つの的を狙いながら疾走すること三度、勝敗は決しなかった。
「むう。やはりおぬし、侮れんな」
「予定では既に祝杯を呷っている時間では?」
 ゼオラは大口を開けて笑った。
「小童めが、抜かしおったわ。だが、果たして私が射終えた後も、その笑みを浮かべていられるかな!?」
 ゼオラが馬腹を蹴って走り出す。加速させながら体勢を整え強弓を引く様は安定し、さすが上将軍、と人々を唸らせた。唸るのは人々だけではない。弓弦から放たれた矢も、唸りながら空気を切り裂き、それぞれの的に突き立った。背後の観客席から拍手喝采が起こる。
「さすが殿下。御見事です」
 戻ってきた上将軍にイスフェルが声をかけると、ゼオラは勝負は着いたとばかりに馬から下りた。
「おぬしが一本でも外したら、私の勝ちだ」
 イスフェルは首を竦めた。
「ですが、私が四本とも真中を射抜いたら、殿下の負けです」
「できるか?」
「御覧になって下さい」
 イスフェルは馬首を返すと、再び走り出した。フォルティースの蹄が、上質の土を蹴り上げる。
「まずは一本目――」
 ゼオラの言葉に合わせるかのように、イスフェルが矢を放った。そして、それは的の中心に描かれた赤円に突き立ち、どっと歓声が上がる。間髪放たれた二本目三本目の矢も、一本目と同様であった。
「やった!」
 思わず拳を握るユーセットの横で、ゼオラが青ざめる。
「まさか……」
 鞍上で、青年は涼しげな表情で最後の矢を引き絞った。
「射抜け!」
 その時、イスフェルの視界の隅に人影が映った。蒼い神官服と、春風に揺れる蜜蝋色の巻き髪――その、あまりにも意外なものに、彼の手から力が抜ける。と、同時に、勝利を約束する矢は、青空の彼方へ飛んでいった。
「イスフェル!?」
「おお!」
 補佐官補佐と上将軍が隣り合って叫ぶ中、イスフェルは勝負のことなど忘れたように、その人物を見つめた。
「セフィアーナ……?」
 間違いない。段状の観客席の横から歩いてくるのは、紛れもなく聖都で別れた少女だった。
「セフィアーナ……」
 呟いた時には既に、彼女のもとへフォルティースを走らせていた。少女の方も、青年に気付いたようで、一瞬驚きの表情を浮かべる。
「セフィアーナ!」
 イスフェルは馬の背から飛び降りると、セフィアーナに迫った。
「何故きみが王都に!?」
 すると、彼女ははにかみながら答えた。
「ゼオラ殿下のお計らいで……今度の、即位記念式典に出席することになって……」
「ゼオラ殿下の? ――ああ、そう言えば、きみの歌をとても気に入っていらした……」
 納得するイスフェルに、セフィアーナは嬉しそうに微笑んだ。
「もう会えないと思っていたのに、こんなに早く会えるなんて。元気そうで、良かった」
 釣られてイスフェルも笑顔になる。
「ああ、きみも。旅はどうだった――」
 その時、背後で声が上がる。振り向くと、ゼオラの近侍が目礼した。
「イスフェル殿、皆様があちらでお待ちです」
「あ、ああ――」
 イスフェルはようやく競射の最中、それも重要な局面で勝負をすっぽかしたことを思い出した。
「しまったー」
 舌打ちする青年を、セフィアーナが怪訝そうに見上げると、彼はすぐに気を取り直したように言った。
「セフィアーナ、おいで。ゼオラ殿下に会わせよう」
 依然として舞踏会で美姫の手を取っていない宰相補佐官が、突然現れた美少女の手を引くのを会場全体が目を丸くして見ていたことに、本人はまるで気が付いていなかった。


「まさかおぬしらが知己であったとはな」
 ゼオラは二人がどういう経緯で知り合ったのか知りたがったが、聖儀の夜はともかく、翌日の《太陽神の巫女》が夜の神殿を脱走するという醜態があるので、イスフェルは適当に話をごまかした。それで納得したわけではないだろうが、少女の長旅の疲れを配慮し、ゼオラは早々に彼女を解放してくれた。国王を驚かせたいので、式典までは《太陽神の巫女》であることを伏せておくように、とだけ念を押して。その後、イスフェルは勝者の御託を延々と聞かされ、解放されたのは祝杯が五度も打ち鳴らされてからだった。
「この後、仕事さえなければ、ヤケ酒が呑めるのに」
 しかし、馬場の隣にある浴場で汗を流し、また補佐官の制服に袖を通すと、そんなことはどうでもよくなった。よくないのはユーセットの方である。彼はそもそも、セフィアーナのことをイスフェルから何ひとつ聞かされていなかった。
「おい、イスフェル――」
 しかし、それより一瞬早く、イスフェルが声を上げた。回廊の柱の陰に、セフィアーナの姿を見付けたのである。
「セフィアーナ」
 ユーセットが前を見ると、問題の少女が二人の前に進み出た。
「部屋に戻ったんじゃなかったのか?」
 イスフェルが目を瞬かせると、セフィアーナは申し訳なさそうに口を開いた。
「あなたにお詫びを言いたくて……」
「お詫び?」
「さっき、弓の勝負をしていたんですってね。私が変な場所から出てしまったから、あなたが……」
 イスフェルは困ったように顔を覆った。
「誰がきみに余計なことを。きみは悪くないさ。オレの集中力が足りなかっただけだ」
「そう……?」
「ああ」
 ふいに腕を小突かれる。イスフェルが横を向くと、ユーセットが時間だと合図してきた。
「わかってる。――ああ、紹介がまだだったな。セフィアーナ、彼はユーセットだ。オレの、古くからの友人で、良き相談相手だ」
 セフィアーナは、イスフェルとは正反対の凄烈な印象を与える青年を見上げた。
「セフィアーナです。はじめまして」
 少女の屈託のない笑顔に、ユーセットは吐息した。
「……ユーセットだ」
 その愛想のない物言いに、イスフェルが怪訝そうな顔をする。それにかまわず、ユーセットは急かした。
「ほら、さっさと戻るぞ」
「ああ。――いや、先に行っててくれ」
「イスフェル」
「すぐに行くから」
 久しぶりに会ったのに、気を遣わせただけで別れるのは、彼女に対して申し訳なかった。腹立たしそうに去っていく彼の背を見ながら、ふとユーセットが初対面の人間に礼を欠くような行動を取ったことを意外に思った。
「私のことはいいから、早く行って」
 またも申し訳なさそうな彼女に、イスフェルは首を振ってみせた。
「このところずっと死ぬほど働いてたから、今、きみと話す余裕くらいはできてるはずさ」
「お仕事?」
 セフィアーナは首を傾げた。カイルからイスフェルは宰相の息子だと聞かされていたが、そんな人物が死ぬほど働いたりするのだろうか?
「ああ。この間、成人して、正式に宰相補佐官に――あ」
 イスフェルは、セフィアーナに自分が宰相家の嫡男であることを伝えていなかったことを思い出した。最初に出会った時、身分を告げて楽しい雰囲気が壊れることを嫌ったのだ。
「……父が宰相なんだ。サイファエールの宰相職は今、世襲制になってるから、次はオレということになる。だから今は、修行中の身なんだ。きみと同じね」
「そう、それで『英雄へ』の中の英雄みたいな生き方を……」
「憶えていてくれたのか」
 イスフェルが嬉しそうに言うと、セフィアーナは「勿論」と頷いた。あの時の青年のきらきらした瞳は、少女にとってとても印象的だった。
「きみの方は、よく王都に来ることができたね。今まで《太陽神の巫女》がサイファエール国王の即位記念式典に来たことなんてないはずだ。頼んでも来てもらえなかった」
「そうなの? 私はただ、アイゼス様に行くか行かないかは自分で決めなさいって言われて……。私、聖都に出てきて自分の見聞がとても狭いことに気が付いたから、せっかく機会があるのだから王都にも行ってみようって思ってお受けしたの」
 イスフェルは形のいい顎に手を当てた。
「アイゼス……《月光殿》の管理官か」
 セフィアーナは頷くと、今年は《月影殿》ではなく《月光殿》が《太陽神の巫女》の監督をしていることを告げた。
(会ったことはないが、神官なのに外交感覚に優れていると聞いたことがあるな……)
 ふと、イスフェルは重要なことを思い出した。
「そう言えば、きみの友だちの……何といったっけ、カイ……ルだったかな? ちゃんと谷へ戻ったのかい?」
 瞬間、セフィアーナは心臓を鷲掴みにされたような気がして胸を押さえた。
「ええ、本当に……あの時は迷惑をかけてしまってごめんなさい」
「いや、それなら良かった。彼に手紙を書くことがあったら、ぜひ今度手合わせをしてくれるよう伝えてくれ。ケルストレス祭の優勝者が怒っている、と」
 楽しそうに悔しそうに言うその様からは、イスフェルがカイルの正体に気付いているとはとても思えなかった。セフィアーナは少し安堵して頷いた。
「あの時の賞金、どうもありがとう。谷で、大切に使わせてもらっているから」
 結局、イスフェルはセフィアーナを滞在することになっている王宮内の神殿へ送り届けてから、執務室へ戻った。ユーセットの眉間にしわが刻まれていたのは言うまでもない。
 三日後に迫った即位記念式典の最後の準備に、イスフェルはこの夜も遅くまで取り組んだ。しかし、それが三日後に行われることはなかった。

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