The story of Cipherail ― 第五章 嵐の兆し


     5

「……窓、閉めた方がいいか?」
 ユーセットの気遣うような声に、イスフェルは書面に視線を落としたまま尋ねた。
「なぜ?」
「行きたいんじゃないのか? 駆け初めの会」
 それは、その年、初めて従軍する馬を世間に披露するもので、サイファエール王宮の春の風物詩となっていた。そこで駿馬と認められたもので後日、活躍するものの多いことから、騎士たちはいっそう愛馬を鍛え慈しみ、それが軍全体にも良い影響を及ぼしている。
 その歓声が先刻から風に乗って二人のいる執務室まで届いているのだが、イスフェルの机上には今日中に目を通しておかなければならない書類がうずたかく積まれているという有様だった。
「行きたいのは山々だが、こっちも山々だ」
「今頃、フォルティースは馬屋で暴れているな」
 イスフェルの愛馬の名前を持ち出して、ユーセットは意地悪く笑った。
「あいつに駿馬の名誉をやれないのは残念だが、あいにくオレは文官だ。だが――」
 眉間に寄せていたしわをふいに解いて、イスフェルは不敵に微笑んだ。
「名馬列伝に騎手の差別はないからな。そのうち載せてやるさ」
 その時、窓側にいた書記官が歓声を上げた。
「イスフェル殿、とりあえず今日、列伝に名を残しそうなのがいますよ!」
 二人が顔を見合わせて窓辺に向かうと、眼下の並木道を、騎士に手綱を引かれて馬場の方へと歩んでいく馬が見えた。艶の良い葦毛の毛並みが陽光を受けて光り、鍛え上げられた筋肉がその動作に合わせて色濃い陰影を生み出している。興奮した様子はなく、時々騎士に顔を向けるところなどは、まるで話しながら散歩を楽しんでいるといった体である。
「確かに良い馬だな……。誰の馬だ?」
「あれは……ユーリア将軍麾下のパレス殿ですね」
「あぁ、聞いたことがあるぞ。自ら馬術書をしたためるくらいの馬好きだとか」
「今は将軍に従ってカイザール城塞に行かれているはずですが……このために戻ってこられたのでしょうか?」
「ありえるな。まあ、来月の即位記念式典の将軍の名代もあるんだろうが。……そう言えば、警備報告書も届いていたな」
 その時、無言で二人のやりとりを聞いていたイスフェルが再び席に戻り、いそいそと新しい書類に手を伸ばした。不思議そうな顔をする彼らに、イスフェルは決まり悪いのを隠すかのように淡々と言った。
「やっぱり見たくなった。昼までにこれに決着を付ける」
 窓辺の二人は思わず噴き出したが、彼が午前中の間に仕事を片付けるためには、それよりも前に自分たちの仕事を終わらせなければならないということを思い出し、慌てて席に戻った。結局、すべての作業が終わったのは正午を二ディルクほど回った時分だったが、最後のお披露目には間に合い、遅い昼食を取りながら、馬たちの競演を見ることができた。
 今年の名馬には案の定、パレスの馬が選ばれ、観衆から大きな拍手と賞賛を得たが、このことが後日、問題の種となり、やがてサイファエール王位継承者を決める上で少なからず影響を及ぼすことになろうとは、会場に集った誰も思い及ばぬことであった。


 庭から玄関広間へ、螺旋階段から廊下へ、その罵声は室内にいてもはっきりと聞き取ることができた。
「何事だ、騒々しい」
 ユーセットが入ってきたシダを睨み付ける。その後ろに、辟易とした表情のセディスがいた。
「許さねぇ! オレは絶対許さねぇぞ!」
「ああ、わかったから、少し落ち着けよ」
 久しぶりに穏やかな時間を屋敷の自室で過ごしていたイスフェルは、吐息とともに読んでいた本を綴じた。それは薬草に関する本で、イスフェルは薬を煎じるのを趣味のひとつとしていた。
「何かあったのか?」
「何か、だと!?」
 シダの顔に、ひきつった笑みが滲んだ。何かをしでかしそうな彼を友人が制そうとしたが、間に合わない。
「そりゃこんなところで優雅に本読んでりゃ、知るわけねぇよなぁ」
 謂われのない罵倒を受けて、イスフェルは微かに眉根を寄せた。しかし、シダが完全に普段の分別をなくしているので、その応酬をするでもなく、黙ってやり過ごした。その代わり、セディスの堪忍袋の緒が切れたようである。
「シダ、いい加減にしないか!」
「うるさい! これが怒らずにいられるか! 騎士の生命たる馬が、不当な理由で奪われたんだぞ!」
 鬼のような形相でシダは足を踏み鳴らし、イスフェルとユーセットは、困惑の表情で顔を見合わせた。
「いったい何があったんだ?」
 ユーセットの問いかけに、セディスが肩を竦めて応じた。
「……パレス殿の馬を、リグストン殿下が譲り受けたんだ」
「ゆ、ゆず……!?」
 怒髪天を衝く勢いで、シダはセディスに詰め寄った。
「馬鹿言え! ああいうのは、強奪って言うんだ!」
「シダ、声を落とせっ。おまえ、仮にも近衛兵だろうが! 誰かに聞かれたら、大事だぞ」
「ハン、望むところだ!」
 睨み合う二人の前で、イスフェルは首を傾げた。
「パレス殿の馬……?」
 イスフェルの視線を受けて、ユーセットは頷いた。
「この間の駆け初めの会で、名馬の仲間入りを果たした馬だ」
「そうだ。殿下はその時にパレス殿の馬を見初めて、その日のうちに馬を譲れと言ってきたらしい」
 イスフェルは沈黙した。
 リグストンというのは、王弟トランスの息子である。イスフェルより三つ年上で今年二十一歳になるが、カルマイヤ王家出身の母ルアンダに溺愛されて育ったため、傍若無人で飽きっぽく、いつも周囲に取り巻きを侍らせていた。自ら望んで入った学院も、一年に満たずして王宮に戻ってしまったため、イスフェルは公式行事以外で殆ど彼を見かけたことがない。そして聞こえてくるのは今回のような負の噂ばかりである。
「周知の通り、あの馬はパレス殿が手塩をかけて育てたもの。パレス殿も最初はどうにかやり過ごしていたんだが――」
「女狐が出て来やがったのさ」
 シダが吐き捨てるように言い、その横でユーセットが納得したように頷いた。
「子どもの我が儘に、親が口添えしたってわけか」
 セディスがイスフェルの様子を窺うように、言葉を発す。
「……今度の即位記念式典で正式に王太子の発表があるんじゃないかと専らの噂だ。今、一番玉座に近いのは……言いたくないが奴の父親だ。誰も次代の権力者に楯突こうとは思わない」
「そんな噂を信じるのか? 最初に誰が言い出したかなど、馬鹿馬鹿しくて考えたくもない」
 ユーセットが嘲るように笑う。その前で、相変わらずシダは喚き続けていた。
「もしオレがパレス殿のような目に遭ったら、たとえ刺し違えても、そんな勝手はさせねぇ!」
 ゴトッ、と音がして、壁に掛けてあった絵が傾き、慌ててセディスが駆け寄った。シダが力に任せて壁に拳骨を繰り出したのである。
「……覚えとくよ」
 恨めしそうに天井を仰ぐと、セディスは額縁を真っ直ぐに整えながら言った。
「結局、パレス殿は代わりの馬の世話で気を紛らわせているんだそうだ。馬に罪はないから、と」
「畜生がっ!」
 まるで幼児のように地団駄を踏むシダを、ユーセットは煩わしそうに見やった。
「シダ、何をそんなに苛立っている? 冷たい言いようだが、もう終わったことだろう」
「終わったぁ!? 終わらねぇよ! 全ての人から全てのものを奪い尽くすまで、奴の気は治まらねぇ!」
「シダ……?」
 シダのあまりの憤激に、改めて常軌を逸したものを感じて、イスフェルは心配そうに友人を見やった。すると、急に猛虎はその勢いを失って静かになった。
「……オレの知り合いは、婚約者を奴に無理矢理手折られたんだ……。だが、その直後、シューリア姫との婚約話が出た奴は、あっさり彼女を捨てた。結果、彼女は友人の目の前で自害したっ」
 息を呑んで立ち尽くす三人を一瞥すると、
「明日は我が身だぜ」
 そう言い残して、シダは静かに書斎を出ていった。
 残されたセディスとユーセットは沈黙し、イスフェルは悄然として一点を睨み付けていた。


 数日後の早朝、イスフェルが執務室の長椅子でひっくり返っていると、扉を叩く音がした。目頭を押さえながら身体を起こすと、入口にセディスが立っていた。
「随分お疲れのようだな」
 即位記念式典を十日後に控え、補佐官はその準備で連日王宮に泊まり込みを余儀なくされているのだった。
「セディスか。早いな」
 目覚ましに茶を飲もうとするが、卓の上の茶杯はすっかり冷め切っていた。それでも我慢して飲み下す。
「なんだ、報告書か?」
 勘弁してくれ、と首を振る友人に苦笑しながら、セディスは向かい側の椅子に腰を下ろした。
「いや、シダのことなんだが……」
 いつもと違ってセディスの歯切れが悪いので、イスフェルは改めて彼を見た。
「シダが、どうかしたのか」
「あいつ、この間のことが相当腹に据えかねてるみたいなんだ」
「………」
「無理もないよな。おそらくこれから仕えなければならない人間が――」
 瞬間、イスフェルの鋭い声が飛ぶ。
「セディス。ここはサイファエール王宮だぞ」
 はっとして口を噤んでしまった親友に、青年は今度は静かに声をかけた。
「シダは昔から誰よりも一本気だった。曲がったことが何より嫌いな……」
 セディスがそれを噛みしめるように何度も頷く。
「時にはそれが邪魔にもなったが……好い奴だ。失いたくない」
「どういう意味だ?」
 眉根を寄せるイスフェルに、セディスは深い溜息をついた。
「昨日、城を出る間際にクレスティナ殿にお会いしたんだが……あいつ、クレスティナ殿に近衛を辞めるかもしれないと言ったそうだ」
「な……」
 セディスは椅子から立ち上がると、窓辺へと歩んでいった。
「なあ、覚えてるか? 六年前の一件……」
 怪訝そうな顔をするイスフェルに、セディスは少し興奮気味に言った。
「あの時、おまえはずっと対峙していたリデスをいつの間にか懐柔しちまった」
「………」
「その魔法、今回は使えないのか……?」
 イスフェルは困ったように笑った。
「現実主義者のおまえの口から、魔法なんて言葉を聞くとはな。だが、オレは魔術師じゃない」
「イスフェル」
「だが、オレだってシダを失うのは嫌だ。オレの夢は、おまえやシダとともに叶えたいものだからな」
 気が遠くなるような時間の流れの中で、彼らが生きていられるのはわずか瞬きほどの間なのだろう。しかし、たとえ一瞬でも、優しく輝く時代を自分たちで作りたい。
「王位継承者はいずれ決する。それがどのような結果になっても、オレは夢を諦めたりしない。だからおまえたちも、諦めないでいて欲しい」
「イスフェル……」
 セディスは俯いた。
「悪かった。オレたち皆で乗り越えて行こう」
「ありがとう」
 セディスが去った後、イスフェルは頭を抱えた。
「まだ、まだたった五か月だ、シダ……」
 その時、別の部屋で休んでいたユーセットが部屋に入ってきた。
「どうした?」
「あ、いや……」
「今、そこで小耳に挟んだんだが、リグストン殿下、早速、例の馬で狩りに出かけられるらしいぞ」
 その言葉に、イスフェルは天井を仰ぐしかなかった。騒ぎは、その日の午後に起きた。


「……騒がしいな」
 イスフェルがユーセットと回廊を歩いていると、渡る風が何やら喧噪の気配を運んできた。と、突然現れた近衛兵とぶつかりそうになる。
「おっと……」
「失礼――あ、これはイスフェル殿。申し訳ない」
 見知った顔だった。確かシダと同じ部隊の人間だ。
 走り去ろうとする彼を引き留めて尋ねた。
「そんなに慌てて、何かあったのですか?」
「はぁ。それが、あの……」
 口吃る彼を、ユーセットが叱咤する。
「はっきり言わんか」
「か、狩りに行かれていたリグストン殿下が、お怪我をされたそうで……」
「怪我!?」
「はい。なんでも落馬されたとか。あ、私は医師を呼んでくるよう仰せつかっておりますので、これにて失礼いたします」
 近衛兵を見送った後、二人は複雑な表情で顔を見合わせた。


「パレス殿、殿下は御立腹ですよ」
 リグストンの私室に入るなり、パレスは筆頭侍従カリシュの叱責を受けた。
「は……?」
 訝しげな顔の騎士に、奥の寝椅子から冷え冷えとした声が上がる。リグストンだった。
「パレス、よくもあのような駄馬を私に寄越したな」
 いつも人を見下すかのような光りをたたえた青褐色の細い瞳は、今は怒りも露わにパレスを睨み付けている。
「駄馬、でございますか……?」
 パレスはリグストンの言っていることがよくわからなかった。あの馬は、駆け初めの会で衆人から名誉を授かったのだ。だからこそ、リグストンも強引に馬を欲しがったのではないのか。
「そうだ、駄馬だ! だから私がこのような目に遭った!」
 指さされた先の右足は、白い包帯で頑丈に巻かれていた。医師の診断では、全治三か月の骨折ということだった。
 パレスは唇を噛みながら、ただ詫びることしかできなかった。
「あのような鼻息の荒い馬が、よくぞ名馬ともてはやされたものよ。もうよい。おぬしの顔を見ていると腹が立つ。さっさと出て行け」
 横になっていたせいで乱れていた肩までの黒髪は、激昂したせいでいっそう乱れた。
 パレスは震える手を握りしめながら一礼すると、リグストンの私室を出た。その足で、今日の狩猟地へと向かう。愛馬の方も窪地に落ちて脚を骨折したと聞き、その最期を見届けようと思ったのである。
 彷徨っているうちに、丘陵の下に求めているものの姿を見出した。近付いていくと、その側にうずくまっている人影があるのに気付いた。驚いたことに、近衛兵団の制服を着ている。さらに近付いて行くと、足音を聞きつけたのか、その人物が顔を上げた。まだまだ少年のあどけなさを残すそれが、新人であることをパレスに教えた。彼は若者に対して見覚えがなかったが、若者の方では違ったようで、パレスの顔を認めた途端、弾かれたように立ち上がり、彼に向かって姿勢を正してきた。
「おぬしは……?」
「近衛兵団第一連隊所属、シダ=エストールと申します。本日の狩りに、リグストン殿下の護衛として従っておりました……」
 語尾に行けば行くほど、言葉に勢いが無くなっていく。パレスは若者が心ならずも護衛としてここへやって来たことを知った。
 改めて愛馬を見下ろした騎士の目に、馬の脚にくくりつけられた板が飛び込んできた。
「これは、おぬしが?」
「はい。馬の手当などしたことがないのでまるで出鱈目ですが、とても放っておくことは……」
 シダの言葉を聞いて、パレスは深い深い溜息を漏らした。
「そのような心根が、どうしてかの御方には……」
 パレスの心情が痛いほどわかって、シダはただ沈黙するしかなかった。と、どこからか馬の嘶声が聞こえてきた。二人が辺りを見回すと、彼らの背後の丘の上にひとつの騎影が姿を現した。だんだんと近付いて来る影を見て、シダが驚きの声を上げた。
「しょ、小隊長!?」
 二人の鼻先を、わざわざ丘陵の急な斜面を選んで降りてくるのは、紛れもなく近衛兵団の紅一点、クレスティナであった。絶妙な手綱捌きは、さすが最年少かつ女の身で今の地位を掴み取っただけのことはある。
 彼らのもとへやってくると、クレスティナは軽い身のこなしで地に降り立ち、目上のパレスに一礼した。そして、なぜ上官がこのようなところに現れるのか、と唖然としているシダに対し、逆に問いを浴びせた。
「シダ、このようなところで何をしておる。おぬし、今宵は夜警であろう。すぐに王宮へ戻れ」
 それを聞いて、シダは眉を顰めた。いくら旧知の仲とはいえ、格下の新人をこんなところまで追いかけて来、もっともらしく夜警などと言い出すクレスティナの気が知れなかった。今はそれどころではないのだ。騎士の名誉がかかっているのだ!
「しかし、小隊長……!」
 真っ向から食ってかかろうとするシダを、パレスが手を挙げて制した。
「よいのだ、シダとやら。おぬしの気持ちだけで十分だ」
「し、しかし……!」
 なおも食い下がろうとするシダだったが、彼を見つめるパレスの瞳のあまりの穏やかさに、思わず言葉を詰まらせてしまった。
 急に俯いてしまった部下を、クレスティナは憐れみとともに見遣った。
 まだ近衛士官として叙任されてから四月と十一日しか経っていないというのに、彼は既にその将来に失望しかけていた。その原因をつくったのが、他でもない、今回の名馬強奪事件を引き起こしたリグストンであり、近衛で最も必要な忠誠心の十中八九、将来の向けどころとあって、クレスティナも心を痛めていた。まだ彼女の場合、リグストンより年上であり、これまでに培われてきた近衛精神もあって、彼が次代の王となることにある程度の覚悟ができているが、シダのように人一倍侠気のある若輩連中はそうはいかない。ましてシダは、リグストンが敵視するイスフェルとの間に並々ならぬ親交を結んでいる。
 クレスティナは、シダがイスフェルとともに描いている夢を知っていた。武勲を立てて近衛の頂点に上り、宰相となったイスフェルとともに、サイファエール国王を盛り立て、後世に残る時代を築く――。しかし、現実は早くも彼の夢に爪を立てようとしていた。このまま玉座が王弟派のものとなれば、いずれイスフェルと敵味方に分かれる日がやって来る。イスフェルがどれほど巧く立ち回ろうと、それを避けるのは不可能だろう。最悪の場合、近衛兵団に身を置くシダが、イスフェルを反逆者として捕らえなければならなくなるかもしれないのだ……。
 ふいにパレスのかつての馬が呻き声を漏らし、クレスティナは我に返って視線を落とした。
「これから、あなたと共に武勲を立てるはずでしたのに……。本当にお気の毒です」
 彼女自身、今回のことは遺憾に思っているが、近衛で長を名乗る以上、迂闊なことは言えなかった。それに、言葉を並べ立てたところで、パレスの気が晴れるわけでもない。
「なに、案外、戦場に出た途端、射抜かれておったやもしれぬ」
 あっさりと言い放ちながらも、その口元には諦めと寂しさの入り交じった笑みが浮かんでいる。それを見た途端、クレスティナは急に苦しくなって胸を押さえた。得体の知れない感情が彼女の内に翼を広げ、自分に対する疑念の鱗粉を撒き散らし始めた。
(――ソレデ良イノカ? 誰カガ虐ゲラレテイルノヲ知リナガラ、見テ見ヌ振リヲスルノカ? オマエノ将来ノ主ノコトダゾ。ソレデ近衛ヲ務メテイルコトニナルノカ……?)
 その感情は次第にクレスティナの心を覆っていき、ついに彼女は堪えきれなくなって膝を折った。落ち着きなく手を伸ばし、シダのおざなりな手当てをやり直す。
「これではまだ緩い……」
「クレスティナ?」
 彼女の動揺に気付いたのか、パレスが訝しげに声を上げた。二人の視線を手元に後頭部に感じながら、クレスティナは思わず呟いていた。
「……連れて帰りましょう、パレス殿」
 途端、シダの顔に喜色が満ちた。一方、パレスは彼女の意外な言葉に目を丸めている。
「――何だと?」
「馬は風神の化身とも申します。このまま滅びさせては、サイファエールに良い風が吹かなくなりましょう。駆けることは無理でも、せめてもう一度大地を踏みしめさせてやりたい……」
 無理は百も承知だった。そんなことをしても、人間の自己満足で終わってしまうかもしれない。パレスの心に残る傷跡を、かえって大きくしてしまうだけかもしれない。さらには王太子候補の怒りを買った馬を助けた、と無用の疑惑をかけられるかもしれない。しかし、今ここでこの馬を放棄したら、一生、自分自身を許せなくなるだろうことを、クレスティナは確信していた。
(これから彼の御方に仕えていかなければならないのなら、近衛がとことんその責めを負うべきだ!)
 彼女の中で、悲愴な誓いが生まれる。
「パレス殿、私からもお願いします。この馬を諦めないで下さい!」
 クレスティナの胸中のことは露知らず、シダは勢いづいてパレスに迫った。
「二人とも、急に何を言い出すのだ……」
「このままでは、この馬があまりにもむごいではありませんか!」
「それは……私とて、我が子のように慈しんで育てた馬だ。みすみす死なせたくはない」
「じゃあ……!」
「だが、私にも――特におぬしらは近衛ではないか。もし殿下の御不興を買うことあらば、いかにして生きていくつもりか」
 現実的な問いかけに、シダは返す言葉がなかった。将来の近衛がリグストンを守るためにあるのなら、何の未練もありはしない。しかし、武勇で身を立てて夢を実現させることは不可能になる。
 唇を噛むシダを尻目に、クレスティナはきっぱりと言い放った。
「そのようなこと、買った後で考えます。それよりも、今はこの馬を助けることの方が我々にとっては重要なのです。これから近衛を務めていくためにも」
 クレスティナが丘に向かって手を挙げると、しばらくして八人もの男たちが牛車を従えて姿を現した。呆然とする二人の前で、男たちは地面を掘って馬の胴体に綱を巻き、静かに板に乗せていく。
「クレスティナ、おぬしは最初からこのつもりで……?」
「私ではありません。知り合いの、ひどいお人好しに頼まれたのです」
 クレスティナは、横に立ち尽くす若者にそっと囁いた。
「……シダ。イスフェルもセディスも、おまえのことを案じていたぞ」
 目頭が熱い。溢れくるものを抑えるように、シダは男たちの作業に加わった。


 ……数日後、宰相と侍従長が野に放っていた密使が王都に帰参した。その胸中に、一方には朗報となり、もう一方には凶報となる事実を携えて。

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