The story of Cipherail ― 第五章 嵐の兆し


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「過日、侍従のカレサスの母が病に倒れましてな。危篤だというので、一時帰郷を認めたのです」
 円卓を囲む籐の椅子に腰を下ろすやいなや、ミンタムがウォーレイに向かって言った。
「しかし、残念ながら、カレサスは臨終には間に合わなかった……」
「確かカレサス殿の実家は、カイザール城塞に近いディローの町でしたな。急いでも、七日はかかる……」
 自ら杯に茶を注ぎながら、ミンタムは話を続けた。
「カレサスの母は、息子が陛下にお仕えしていることをとても誇りとしておりましてな。最初に里帰りした時、戸口をくぐるなり、『侍従が陛下のおそばを離れてもいいのか!』と罵倒されたそうです。それからというもの、カレサスは陛下が勧めても、故郷に帰ろうとはしませんでした。だからでしょうか……葬送の儀をすませた後、カレサスはあるところを訪ねてみようと思い立った」
「あるところ?」
「ダーズワールの村です」
「ダーズワール……。例の娘の村ですね」
「いかにも。カレサスが侍従になって初めての大仕事が、九年前の迎えの使者だったのです」
 イージェントが切なそうに笑った。
「あの時、失意の中、帰参したカレサスに、余は言ったのだ。『今一番悲しいのは娘を失った両親だから、そなたが里帰りする時は、少し気を付けてやって欲しい』と……」
「しかし、最初の一度以来、カレサスがタスクの地を踏むことはありませんでした」
 それなのに、突然ダーズワールを訪ねようと思った理由をミンタムが尋ねると、カレサスは、「母を失って、急に娘の両親のことが気がかりになりました」と返した。
「ところが、彼を待っていたのは衝撃的な事実でした。最初に村人に娘の家の様子を尋ねたところ、母親は、娘に先立たれ、頼りの夫とも三年前に死に別れ、今は気が触れてしまっている、と。娘は本当は生きているのだ、と、げらげら笑いながら村を歩いたことがあったそうです」
「本当は生きている……」
 気が触れたからこそ言える真実もあるだろう。それとも、言いたいがために気の触れたフリをしたのか。
「カレサスはそれを聞いて、直に尋ねてみることにしたのです。それが本当なら、自分が九年前に聞かされたことは何だったのかと問いつめるつもりだったそうです」
「それで、母親は何と……?」
 ミンタムは一瞬、口を噤むと、吐き出すかのように言った。
「カレサスたちは、王都からの二番目の使者だった、と」
「二番目?」
「余より先にダーズワールへ使者を送った者がいたのだ」
 国王は珍しく憤った口調でウォーレイを見た。
「メルジアだ」
 ウォーレイは目を剥いた。それは、サイファエール王妃の名だった。
「いったい何故……」
 宰相の問いに、ミンタムは深い溜息を漏らした。
「今でこそ賢妃と名高いメルジア様もやはり女性。戦から王都に戻られてからの陛下の御様子を見て、娘が陛下にとってどういう存在なのか気付かれたのです」
「どういう? 陛下の命の恩人であり、救国の英雄……」
 言いながら、ウォーレイは次第に顔を青ざめさせていった。もしそれだけなら、王妃が夫に先んじて使者を送る必要などないはずだ。しかも、その後、娘は死んだことになっている。
「まさか……」
「陛下は、娘を……レイミア殿を愛されたのです」
 瞬間、ウォーレイはすべてを悟ったような気がした。
 長引く戦いに、国王不在の王都を守りながら、ウォーレイも相当気を揉んだものだった。しかし、彼以上にメルジアは不安だったに違いない。三人の娘とともに、ひたすら勝利の凱旋を祈っていたことだろう。だが、当の本人は行方不明になった挙げ句、命の恩人とはいえ村娘にうつつをぬかしていた。レイスターリア王家の出身である彼女にとって、それは屈辱であったのかもしれない。大いに自尊心を傷付けられ、嫉妬に駆られ、娘を迎えに行こうとする夫に先手を打ったのだ。
「いったい何と言ってあの家族を脅したのか……」
 とにかくレイミアは両親の下を去り、両親は村人に娘は死んだと言って娘の名を口にすることはなくなった。感謝されてもされきれないほどの大功を上げながら、生命を奪われた方が良かったかもしれない苦しみを与えられたのだ。
「私はカレサスの話の真偽を、メルジア様付きの侍女長に問いただしました。彼女は首を縦に振りましたよ」
「メルジアも白状した。八年前、トレス山に月神ミーザの神殿を建てると言い出したのも、レイミアに対する謝罪だったと……」
 国王の激しい怒りは、しかし、メルジアに向けられたものではなかった。
「だが、余が、余がレイミアを愛しさえしなければ、こんなことには……。すべては、余が招いたことだ……」
 眉間に深い皺を刻み、頭を抱える国王に、ウォーレイはミンタムと顔を見合わせた後、静かに声をかけた。
「……陛下、そうお思いでしたら、もうおわかりでしょう」
 国王は顔を上げると深く頷いた。
「このまま、あの家族をばらばらで居させてはおけぬ。何としても娘を捜し出し、母親と再会させてやってくれ。暮らしに困っているようなら、彼女たちが望むような援助を」
「御意」
 こうして宰相と侍従長は、信頼のおける者をタスクの地へ向かわせたが、その心は複雑だった。
(メルジア様が一番恐れたのは、おそらくレイミアという娘が後宮に入り、男児を生むことだったろう。王族出身の正室と、平民出身の側室……。力関係は歴然だが、そこに継承者争いが入ると、宮廷は……。残酷なことだが、メルジア様がかの娘を退けたのは、ある意味正しかったのかもしれぬ……)
 しかし、それから九年が経った現在も直系の王位継承者が不在であるというのは、王妃にとっても皮肉な事実であるに違いなかった。


「リエーラ・フォノイ」
 長旅の疲れからか、朝から微熱に冒されている女神官に、セフィアーナは杯子を差し出した。
 聖都を発って既に十二日、《太陽神の巫女》の一行は、道程の五分の三を消化していた。
「大丈夫ですか? お薬を頂いてきました。飲んでください」
「ありがとう……」
 リエーラ・フォノイは背を起こすと、薬草を煎じた水を口に含んだ。
「世話をかけて申し訳ありませんね」
「そんな。もとはと言えば私が――」
 リエーラ・フォノイに思いがけない苦労をさせることになってしまい、少女はもはや口癖のように自分を責めた。それを、女神官が手で制す。
「セフィ、それは言わない約束ですよ。王都へ行くことは貴女のためばかりではありません。私もまだ、修行中の身なのですから」
 自分の考えがひとりよがりなものであることに気付き、セフィアーナは恥ずかしそうに頷いた。
 車内に新鮮な空気を入れようと小窓を開けると、少し冷たい春の風が二人の頬を撫でた。
「……もうすぐチストンですね。そういえば、故郷の方から手紙の返事は来ましたか?」
「はい。昨日、村の鳥が持ってきてくれました」
 この旅にも、ティユーはセフィアーナの騎士役として人知れず従っている。たとえ手紙を届けるために離れても、遠くから少女の竪琴の音を聞き分け、必ず彼女のもとに戻ってきた。
「巫女になったと思ったら今度は王都だなんて、さぞ驚かれたことでしょうね」
「はい。ほんの一月前まで、谷からもろくに出たことがなかったのにって」
 セフィアーナは笑いながら傍らの文箱を撫でた。ティユーが届けてくれた三通の手紙――シュルエ・ヴォドラス、孤児院の子どもたち、そしてカイルが書いてくれたもの――を、彼女はそこに大切にしまっていた。
「……そう言えば、リエーラ・フォノイは、ずっと聖都で修行を?」
 唐突な話題に、リエーラ・フォノイは数度瞬きした。
「なんです……?」
「あ、すみません。さっきの、『まだ修行中の身』っていうので、ちょっと思って……」
 本来ならこのような身の上話はもっと早くにしているはずなのだが、今年の《太陽神の巫女》は良くも悪くも忙しすぎた。
「ああ。いいえ、私はヴォーダスの出です。聖都で修行できることになったのは……それこそ《太陽神の巫女》のおかげです」
「えっ。リエーラ・フォノイも《太陽神の巫女》だったのですか!?」
 目を丸くする少女に、リエーラ・フォノイは笑って左腕を見せた。
「セフィ、私の左腕に腕輪はありませんよ。巫女だったのは、私の妹です」
「妹さん?」
「ええ。私は十三歳の時に思い立って神殿に仕えるようになりました。三つ年下の妹は歌が好きで……ある日、《太陽神の巫女》に立候補する娘がヴォーダスを通りかかったのです。妹は彼女の歌を聞いて感激し、さらに彼女が巫女に選ばれたことを知って『私も巫女になる!』と言い出して。それから一年間、私がお仕えしていた神殿で修行し、聖都へ行ったのです」
「そして見事、《太陽神の巫女》に選ばれたのですね!?」
 彼女自身も《太陽神の巫女》なのに、「見事」と言うあたりが女神官には面白く感じられた。
「ええ。けれど、妹は神官になるつもりはなかったのです。巫女の証を戴いた後、《尊陽祭》に来ていた大手の歌謡団に招かれて、そのまま次の公演地へと旅立ってしまいました」
 当時は呆気に取られて腹を立てたこともあったが、今ではそんな生き方こそ妹らしいと思うようになっていた。時々届く手紙には、リエーラ・フォノイが訪れることのできない異国の話が書いてあり、羨ましくも思った。
「私は妹の付き添いで聖都へ行っていたのですが、幸運にもシャーレーン聖官殿の神官長に声をかけていただいて、聖都にはそれからですから、そうですね、もう十年になるでしょうか」
 四十年五十年と聖職にある者が多い聖都において、十年とはまだまだ未熟の域ではあるが、セフィアーナが物心ついた時には既に彼女は聖都に在り、人々や自分のために色々な経験をしていたのだ。セフィアーナは、彼女から少しでも多くのことを学ぼうと思った。
「聖官殿ではどのような修行を?」
「地方はともかく聖都となると、その方法は人様々ですが、私は最初の数年はひたすら《聖典》の理解に費やしました。それから町の人々に《聖典》や《神聖文字》の講義をしに行くようになって、二年前から《太陽神の巫女》の教育係を――」
 言ってから、しまったと思った。案の定、セフィアーナは訊ねてきた。
「去年の方は、神官の道を選ばれたのですか?」
「………」
「リエーラ・フォノイ?」
 急に黙り込んでしまった女神官をセフィアーナが心配そうに覗き込むと、彼女は慌てて首を振った。
「ええ。けれど故郷で修行すると言って……今は、テティヌにいます」
「そうなんですか。聖都にいらっしゃるのだったら、一度お会いしたかったです」
「ええ。私も会わせたかったわ。きっと良い……友人になれたでしょうに」
 あの《祈りの日》に死んだ少女が前の《太陽神の巫女》だとは、よもや思わないだろう。彼女でさえ、時々悪い夢だったのではないかと思う。しかし、その度にラフィーヌを見た衝撃と、その痛々しい身体に触れた感触が戻ってくるのだ。
「もう少し……休ませてください」
 熱が上がったように思って、リエーラ・フォノイは再び横になった。
「ゆっくり休んでください」
 セフィアーナは、女神官に毛布をかけてやると、小窓を閉めた。

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