The story of Cipherail ― 王都狂騒曲


     13

 二日間の謹慎を終えた翌日の昼休み、イスフェルは雪遊びをしようという仲間の誘いを断ると、ひとり図書館の裏にある大岩に登り、空を眺めていた。厚そうな雲が幾重にも連なり、今にも雪が降り出しそうである。
「おい」
 不意に声をかけられて、イスフェルがそちらへ目をやると、いつの間にやって来たのか、ひどく厚着をしたリデスが立っていた。
 相手が寒さのためではなく身を固くしたことに気付いたが、リデスはそれを無視した。
「……昨日のこと、もう聞いたのかよ」
 それは勿論、ついにリデスがクレスティナと仲直りしたという話のことである。イスフェルは、無言のまま頷いた。昨日のうちにクレスティナから聞いていたのだが、今朝方、セディスたちからも聞かされていた。
「感想は?」
「え?」
「事が思い通りに運んで、さぞかし喜んだんだろうな」
 それを聞いたイスフェルは瞬時に眉をひそめると、妖精のような身軽さで岩から飛び降り、リデスにまったく見向きもせず、図書館の方へと歩き出した。
「お、おい!」
 慌ててリデスが呼び止めると、イスフェルは歩を止め、しばらくの沈黙の後、ゆっくりと振り返った。
 リデスが今までに一度も見たことがないような表情をして、イスフェルは静かに言い放った。
「あんまりオレを過大評価するなよ。オレにだって、人を嫌う権利はある」
「な……何だよ、それ! 待てよ、イスフェル!」
 立ち去ろうとするイスフェルを追いかけると、リデスはその肩を掴んだ。イスフェルの怒りが爆発したのは、その瞬間である。彼は荒々しくリデスの手を払いのけると、間髪入れず、リデスの顔に拳を繰り出したのだった。まともにそれを受けたリデスは、雪の上に吹き飛ばされてしまった。
「いっ、いきなり何しやがる!」
 殴られた左頬に手を当てると、リデスは顔を上げて怒鳴った。しかし、それ以上の大声で怒鳴り返されてしまった。
「こういうことだよ! おまえがオレにしたことは、こういうことだっ!」
 イスフェルの、普段は穏やかな声がひどく震え、藍玉の瞳は微かに湿気を帯びていた。ここまで彼が激昂した姿を見たことのなかったリデスは、圧倒され、言葉もなく白い地面にへたりこんだ。そんな彼に、イスフェルは半ば罵声のような言葉を投げ付ける。
「勝手に寮を抜け出して、王宮に忍び込んで、関係のない人間に迷惑をかけて! 挙げ句の果てに、オレが今まで築き上げてきた信頼関係をめちゃくちゃにしたっ! オレが手を叩いて喜ぶとでも思っていたのかっ!? あいにくだが、おまえが思っているほど、オレはイイコではないんだよっ!」
「イスフェル……」
 ようやくのことで口を開いたリデスだったが、イスフェルの反撃はまだ終わったわけではなかった。
「なぜ向かってこない!? オレが宰相家の出身であることを鼻にかけてる? あんなことをする度胸があるなら、なぜオレに直接言わないんだ!」
「………」
「オレを嫌う奴は、大抵そうだ。口ほどに度胸を見せようとはしない。何がどう気に障るのか、遠巻きに騒ぐだけだ」
「……ねぇだろ」
 リデスの低く乾いた声がして、イスフェルは彼を見た。すると、今まで地面を見ていたリデスが突如、顔を上げた。
「言えるわけねぇだろっ。宰相家だぜ!? 相手は次代の宰相なんだぜ!? おまえ、自分がどういう立場にあるのか、わかってんのかよっ!」
 昨日までのイスフェルなら、あるいはその言葉に怯んだかもしれない。しかし、クレスティナが言ってくれた。彼女や仲間たちは、イスフェル自身を好きになってくれたのだ、と。
「では、シダたちはどうなるんだ。あいつらは、そんなことにはかまわず、オレに文句を言ってくれるぞ」
「フン。あいつらは上手く転んだだけだ。普通のヤツなら、上の者の眼も光ってるおまえに、心をさらけ出すことなんてできるかよ」
 イスフェルは微かに目を見張った。そんなところでユーセットの存在が裏目に出ていたとは、思ってもいないことだった。
(ユーセットのヤツ、いつも少し不機嫌そうに見えるからな……)
 内心で溜息を付くと、イスフェルは改めてリデスを見つめた。
「『普通のヤツなら』。じゃあ、おまえもそうだったというわけだ」
「なに?」
 リデスが眉根を吊り上げるのを見て、イスフェルはほくそ笑んだ。故意に挑発的な言葉を重ねていく。
「だって、そうだろう? おまえはオレに本心を見せようとしない。ということは。……おまえのことは、少しは骨のあるヤツだと思っていたのに」
「……オレを凡人扱いする気か」
「違うのか?」
 組長の秀麗な顔が不敵な笑みを湛えている。リデスは忌々しげに舌打ちした。もともと彼は舌戦を得手としない。彼の前に立ちはだかる人間は、いつも力ずくで地にねじ伏せてきた。
「……能書きばっかりたれやがって。そんなに言うなら、オレが凡人じゃないところを見せてやる。そのキレイな顔をボコボコにしてやるよ」
 開き直ったリデスを、イスフェルは軽く笑い飛ばした。
「いいだろう。ただし、できればの話だがな」
「上等だ!」
 叫ぶと同時にリデスはイスフェルに殴りかかった。イスフェルはそれを間髪避けると、動きを鈍らせる毛皮の上着を脱ぎ捨て、リデスの襟元に掴み掛かった。リデスは一度はそれを払いのけたものの、イスフェルの絶え間ない攻勢に均衡を崩してしまった。イスフェルは待っていましたと言わんばかりに、リデスを背負うようにして投げ飛ばした。
 どうやら武術における組長の優秀さは、剣術ばかりではないようであった。突然の大技に、リデスは痛みも忘れて呆気に取られた。そのためにイスフェルが彼の上に乗りかかって来た時も、容易にそれを許してしまった。
「さっきの勢いはどこにいった?」
 イスフェルが胸ぐらを掴んだまま嘲笑する。
「るせえっ!」
 リデスも負けてばかりはいられない。隙を突いてイスフェルの顔に張り手を喰らわせると、膝を抱え込んでイスフェルを蹴りはがした。そのまま相手の上にのしかかろうとしたリデスだったが、それよりも速く、イスフェルは後方へ飛び退いてしまった。
「はっ、おもしろくなってきやがった……」
 リデスは口の中で呟いた。決して虚勢を張っているわけではない。彼は学院に入る前、毎日喧嘩をしていた。それが彼にとっての遊びだった。
 リデスは王都から遠く離れたマルカス地方の出身だった。親が大商人で、町の子供たちの代表的存在であった彼は、親の野心のために学院へやって来た。大陸の紅玉と異名をとる王都に赴くにあたり、それなりの不安は勿論あったが、それまでの彼の経験と比べると、大したことではないように思われた。
(中央貴族のおぼっちゃまなんて、なまっちょろい奴ばっかりに違いない。オレが行ったら、皆オレを頼ってくるに決まってる!)
 ところが、現実は彼の期待を大きく裏切った。学院に入る少年は、その九割が王都出身の者である。彼らにしてみれば、王都以外の出身者は田舎者も同然であった。加えて、貴族や騎士家の者は血を尊ぶ。大商人などの子供は、それでなくとも軽んじられた。それだけでもリデスには耐え難かったのに、その上さらに徹底した縦社会である。すべてにおいて上級生が優先され、下級生は理不尽な事でもただ我慢することしか許されなかった。もっとも、学院内には兄弟関係にある者が多く、そういう人間が幅を利かせたりした。つまり、リデスは最も低い地位にあったのである。相手が誰であろうと力でねじ伏せ、地元で常に最高位にいた彼にとって、これは屈辱であった。
 イスフェルに出会ったのは、そんな時である。リデスにとってイスフェルは劣等感の塊であった。光り輝く名門に生まれ、未来は宰相職を約束されている。同期の少年たちはやたらと彼をもてはやし、上級生までもが彼の顔色を窺っていた。イスフェルと同じ組で学ぶことが決まった時、リデスは密かに決心したのだ。必ずこいつを蹴落としてやる、と――。
「次で決着を付けてやる!」
 二度目の取っ組み合いは、更に激しさを増した。リデスが殴りかかれば、イスフェルが足を払う。イスフェルが組み伏せれば、リデスがひっくり返す。飛び退いて離れては衣服を掴み合い、二人は雪にまみれながら地面の上を這いずり回った。そして。
 はたと気付いた時、彼らの下に地面はなかった。二人は一瞬、顔を見合わせたが、時既に遅しである。
「わっ」
「げっ」
 彼らはお互いに掴み合ったまま、雪と共に三ピクトほど下へ転落した。


「ってえ……」
 真っ新だった雪の上でのそのそと起き上がると、リデスは腕をさすった。頭をかばって、雪下に隠れていた岩にぶつけてしまったのだ。幸い打ち身だけで済みそうだったが。
「だ、大丈夫か……?」
 こちらは仰向けに転落したイスフェルが、衝撃に何度も瞬きを繰り返していた。
「お、おまえこそ――」
 情けない声でリデスが応じようとした時、
「あー! 制服が……!」
 突然、イスフェルが絶叫し、勢いよく起き上がったかと思うと、擦り傷だらけの手で自分の制服の袖をつまんだ。すると、肘から手首にかけて、蒼い布地が見事に裂けていた。
 イスフェルは、きっとリデスを睨み付けた。
「おい、リデス。おまえ、顔をボコボコにするって話だったろう! なんだって制服をボロボロにするんだ!」
「……なに? 何だって?」
 イスフェルの言い分が理解できず、リデスは思わず首を傾げた。
「これで今月に入って三着目だ。またセルチーオに怒られる! まったく、おまえのせいだぞ。どうしてくれるんだ!」
「はあ……!?」
 リデスは頭をかきむしると、イスフェルに食ってかかった。
「おまえ、宰相家のゴレーソクなんだろ!? 制服の一枚や二枚でギャーギャーうるせえな!」
 だが、イスフェルも負けてはいない。制服は季節の変わり目に二着ずつ支給されるが、自分の過失で破いてしまったりした時は、自分で買わなければならないのだ。そして、その代金は無論、親元へ請求される。少年たちが学院で何をやっているか、そういった面からも親が把握できるようになっているのだ。イスフェルはまだ入学して丸一年を迎えていないのに、既に自分で買った枚数が支給された枚数を上回るという体たらくだった。そして、代金を支払いに来た家宰のセルチーオの無言の剣に耐えなければならないのだ。
「宰相家宰相家って、おまえこそうるさいぞ! 宰相家が物を大事にしたら悪いのか! おまえ、セルチーオにおまえが破ったって証言しろよ!」
「ショーゲンだあ!? 何でオレが! だいたいセルチーオって誰だよ!」
「オレの家の執事だ!」
「執事の方が若君よりエライってのか!? しかも、組長様がひと月に三枚も制服破ってんなよ! どうせあの馬鹿どもと木登りでもやってたんだろっ」
「うるさい! 一枚はそうだが、もう一枚は……そうだ、やっぱりおまえのせいだ! 二枚目を破ったの、三日前の夜だぞ! おまえが余計なことするから!」
「何だと!? おまえが鈍くさいからだろうが! オレの知ったことじゃねえ!」
「な、何を……!」
 再びイスフェルがリデスに掴みかかろうとした時、突然、頭上に伸びていた樅の枝から雪の塊が落ちてきた。
「くっそ……」
 リデスが頭を振って雪を振り落とした時、イスフェルは目が覚めたような顔をして彼を見ていた。刹那、
「ぷっ……はっはっは! あははははは!」
 突然、笑い出したイスフェルに、リデスは眉をひそめた。
「な、何だよ」
 しかし、彼の問いには答えず、イスフェルは笑い転げていた。そして、いつしかリデスも笑い出していた。二人して雪の上に寝転がり、冬の空に響きわたるほど声高らかに笑い合った。
 ひとしきり笑い続けていた二人だが、かと思うと、急に静かになった。久しく沈黙が彼らを支配する。そうこうするうちに、天空から雪が舞い降りてきた。
 ふいにリデスが宙を見つめながら呟いた。
「……まったく、おまえなんか大嫌いだよ。いつも自分が正しいみたいな顔してやがる」
 イスフェルは、身体は空と向き合ったまま、注意だけをリデスに向けた。
「ま、実際、おまえの方が正しいのかもしれないけどよ」
「リデス……?」
「だが、おまえの大事な仲間たちは、そんなおまえを夢だと言った」
 意外な言葉を聞いて、イスフェルは咄嗟に片肘を付いて起き上がった。麦藁色の頭から、雪が滑り落ちる。
 珍しく藍玉の瞳が動揺を隠さないのを見て、リデスは嘲るような笑みを浮かべて言葉を次いだ。
「泣きそうな顔しながらだぜ。笑わせるなってんだ」
 黙り込んだイスフェルを、リデスは窺うように横目で見やった。しばらく逡巡した後、意を決して問いかけた。
「……なあ、おまえの夢って、何なんだ?」
「―――」
 まさかリデスにそんなことを問われる日が来るとは思ってもみなかったので、イスフェルは困惑の表情を浮かべた。が、相手も同じことを考えたのか、急にそわそわし始めた。
「あ、まあ、そんなに知りたいわけじゃねえけどよ」
 イスフェルは小さく笑うと、再び視線を空に放った。
「……去年の秋のことさ。突然、屋敷にみすぼらしい格好をした人たちが荷車を引いて押し掛けてきたんだ。何事かと思って窓から見ていたら、ちょうどそこに父上が帰って来た」
 サイファエールの宰相たるイスフェルの父ウォーレイは、国王の右腕として多大な功績を上げている。温厚寛大で気さくでもある彼は、農民たちを屋敷に招き入れると、彼らのために宴を催した。訝しげに顔を出したイスフェルに、北方のパラ族の村から来たという農民たちは、嬉しそうに実った小麦を差し出してきた。「ウォーレイさまが造って下さった畑でできたんです」と――。
「……その夜、そのパラ族のひとりがさ、オレに言ったんだ。ウォーレイ様はパラ族の英雄だ、異民族でパラの歴史に名を残された初めて御方だ、って。それまでオレは、英雄になれるのは、戦いで武勲をたてた人だけだとばかり思っていたから、目から鱗が落ちたような気がした。宰相は一応、文官職だから、自分はなれないってどこかで思っていたんだな、きっと……。それでオレ、自分が将来どんなことをやらなければいけないか、わかったんだ」
 リデスが横を見ると、イスフェルは明るい表情で嬉しそうに言葉を紡いでいた。
「彼らのような笑顔を浮かべる人々を増やすことだ。それで、もう少し欲を出して、サイファエールの歴史に名を残すような政治家になりたい。いや、なってみせる」
 イスフェルの視線がこちらに向く前に、リデスは彼から目を離した。
「……なるほどな」
「想像どうりか?」
「……まあな」
 すると、イスフェルが見事に頬を膨らませた。
「イヤな奴」
 リデスは呆気にとられて、イスフェルを見つめ直した。
「……何だよ」
「いや……おまえでも、そんなこと言うのかと思って」
 イスフェルは憮然とした。頼まれて話した夢にケチを付けられて、誰が笑ってすませられるというのだろう。
「だから最初に言っただろう? オレにだって、人を嫌う権利はある」
「……フン、今までその権利とやらを使ったことないクセに。権利は使わなきゃ意味ねえんだよ」
 リデスは勢いよく立ち上がると、衣服に付いていた雪を払った。
「じゃあな、『おめでた』組長さん」
 左手をひらひらと振りながら去っていくリデスの後ろ姿を、しばらく憮然として見送っていたイスフェルだったが、我に返った時、どこかくすぐったいような感覚を禁じ得なかった。

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