The story of Cipherail ― 王都狂騒曲


     12

 一方、武道場の笑声が届かない寮の一室では、二日間の謹慎を言い渡されたイスフェルが、寝台の上に身を横たえ、無言のまま天井を見つめていた。
 王宮潜入の興奮も冷めやり、組長としての反省を出し尽くして、今考えていることは、心に棘となって刺さったままだったリデスの言葉についてである。
『親か。へえ。結局、おまえだけは安全だな』
『宰相の地位は世襲だもんなあ。ちょっとやそっとのことくらいじゃ、その権利を剥奪されたりしないんだろ? オレたちは処罰を受けても、おまえだけは将来のために揉み消してもらえるんじゃないのか』
 イスフェルは、音がしそうなほど瞼を強く綴じた。『おまえだけは』という言葉が、彼の心を残酷に抉った。
(そんなに宰相家の人間であることは特別なことなのか……? それではオレは、どんなに努力して皆と打ち解けようとしても、結局は受け入れてもらえないのだろうか……。将来のためもあるが、特には今を楽しく過ごすため、オレは宰相家の権力を振りかざしたことなど、一度もない。これは誓って言える。だが、オレはそのつもりでも、皆から見たらちらつかせているように見えるのだろうか……? いや、権力をちらつかせないこと自体が権力になるというのなら!? まさか、シダやセディスや皆は、それに屈せざるを得なくて、オレと一緒にいてくれているというのでは……!?)
 まるで魔物にでも取り憑かれたかのように、すべての疑惑は負の方向へと流れ始めた。二日前、仲間からもらった宝石のような言葉も、次第に輝きを失い、ただの石ころのようになっていく。
(オレはどうしたらいい!? 今度から皆とどうやって接したらいいんだ! なぜ……なぜ宰相家などに――)
 その禁忌の思いに触れようとした瞬間。
 牢屋の住人なら大抵が嫌う、耳障りな金属の音がして、彼の部屋の扉が開いた。入ってきたのは、漆黒の髪を短く切りそろえた、背の高い女性であった。
「クレスティナ殿」
 イスフェルは慌てて身体を起こすと、寝台を降りた。そんな彼に笑顔を投げかけると、クレスティナは室内を眺めた。
「……これはまた、牢獄のようなところだな」
 師の率直な感想に、イスフェルは苦笑した。彼が今いるのは、問題を起こした生徒が入れられる地下の反省部屋で、あるのは木製の小さな円卓と椅子、そして固い寝台だけであった。明かり採りの窓が壁の上方にあるのだが、三本の鉄格子で脱走を禁じておくだけで、無論、硝子などは入っていない。そこから夜は冷気が、雨の日は雨粒が、風の強い日は砂塵が侵入するため、壁はシミだらけ、床は埃だらけで、イスフェルの本当の部屋と比べると雲泥の差、およそ同じ寮内にあるとも思えない部屋であった。本来なら、彼とは無縁であるはずの部屋である。
 イスフェルは、クレスティナにひとつしかない椅子を勧めると、彼自身は再び寝台の上に腰を下ろした。椅子に着いてクレスティナは軽く息を吐き出すと、イスフェルを正面から見つめた。
「どうやらうまくいったらしいな。まさか反省文だけで済むとは思わなんだ。まったくおぬしはすごい」
 しかし、イスフェルは先刻までの物思いのために、沈痛な面持ちであった。それに気付いて、クレスティナはふっと眉根を寄せた。
「どうした、浮かない顔をして……」
 このような部屋に閉じこめられて嬉しいはずもないが、今少し安堵した顔でもいいのではないか、そう思ったのである。
 しばらくの沈黙の後、藍玉の瞳をまったく翳らせたイスフェルが、まるで五年近くもこの部屋に閉じこめられているかのように陰気な様子で答えた。
「……ずっと、考えていました。あの晩、リデスに言われたことを」
「リデスに?」
(はて、何だったか……)
 思い出せずにクレスティナが逡巡していると、それを察して、イスフェルは説明した。
「私が宰相家の者であることを鼻にかけている、というような発言です」
「ああ……」
 クレスティナは沈黙した。あの時の傷ついたイスフェルの横顔が、彼女の脳裏に浮かんできたのだ。
「良家に生まれたことが負になるなど、身分違いの恋などをしない限り、あるまいと思っていたが……こういう場合もあったのだな」
「オレは……あ、いや、私は――」
「私に敬語を遣うことはないぞ。師弟関係といっても短い間だし、ろくなことはしてやれぬ。それに本来、敬意を払わねばならぬのは、私の方なのだから」
 クレスティナの言葉は、仲間たちが本当は見えざる権力に怯えて自分と共にいるのではないかという彼の疑惑を、さらに深めさせた。
「そんなことを言わないで下さい。たとえ短い間でも、師弟は師弟です。私は貴女を尊敬しているのに……」
 狭い室内に、少年の沈痛な声が響く。
「私は、何もしていない間から、家系の権威だけで気を遣われたくありません。だから、皆にも普通に接してきました」
 言って、イスフェルは唇を噛みしめた。
「そのつもりだったのに……」
「気にするな。リデスは、売り言葉に買い言葉で言ったのだ。弾みで出た言葉だと思って――」
「弾みで出た言葉が本音を表しているって、いつだったか誰かが言っていました。私もそう思います」
 今にも消え入りそうなほど思い詰めたイスフェルを見て、クレスティナは今更ながら、彼がまだ年端も行かぬ少年であることに気付き、深く溜息をついた。なまじ頭がいいだけに、どこか決定的な亀裂が入ると弱いのだろう。
「……おぬしらしくもない。そう悪いほう悪いほうへ考えるな」
 しかし、相変わらずイスフェルの表情は暗い。
「私には、おぬしが何を悩んでいるかが……いや、結局、どうしたいのかがわからぬ」
「……え?」
 意外な問いかけに、イスフェルは顔を上げた。クレスティナは、イスフェルと膝がぶつかるほど身を乗り出すと、彼の顔を覗き込んだ。
「私はおぬしが好きだ。シダやセディスやエルセンたちも皆、そう思っている。だから、おぬしの側を離れない。それなのに、ろくに話もしたことのない人間に――ただ、おぬしの才能を妬んでいるだけの人間に文句を言われたからといって、自分を責めるのか? そんな馬鹿な話はあるまい」
 イスフェルは沈黙していた。一気に彼の考えていたことを覆されて、何が何だかわからなくなってしまったのだ。それでもクレスティナは、そのまま言を次いだ。
「私たちが好きになったのは、おぬしが十二年かけて育んできた今のおぬしなのだ。もっと自信を持て。でなければ、困る。私たちの人間を視る眼が曇っていたということになるのだからな」
 そう言って、クレスティナは大輪の薔薇のように美しく笑った。その笑顔は、春風のような暖かさでイスフェルの心に入り込み、そこに渦巻いていたすべての暗い感情を容易に吹き飛ばしてしまった。
 イスフェルは、全身が総毛立つのを感じた。彼女は今、彼に何と言ってくれたのだろう? そして、それを理解したのは、明晰と褒め称えられて久しい彼の頭脳ではなく、彼の心であった。砂が水を吸い込むように、心が理論を超えて勝手に理解してしまったという感じであった。
「人間関係とはおかしなものでな、ふとしたことで、大きく変わる。良くも悪くもな。そして、ふとしたこととは、望んだ時には決して訪れぬものだ。結局のところ、おぬしは今までどおりでよいということだ」
「……はい」
 微笑むイスフェルの秀麗な顔に普段の明るさが戻って来、クレスティナは安堵して頷いたのだった。
「ところで、話は変わるが、おぬしにひとつ、訊きたいことがあったのだ」
 今度はクレスティナが心に引っかかっていたものを取り払う番であった。
「何でしょう?」
「おぬし、私と初めて王宮で会った時、私が女であることに気付いていたか?」
 途端、イスフェルが狼狽の表情を見せた。
「あ……い、いえ、その……」
 意表を突かれて吃る少年を、クレスティナは人の悪い笑みを浮かべて見やった。
「あの後、射場で貴女が女性だと聞いて……」
「やっぱり」
 クレスティナは肩を竦めた。二人が師弟として再会した日、イスフェルは王立学院長に彼女のことを尋ねたと言っていた。王宮内に五万といる近衛兵のことなど、普通なら調べたりはしないであろう。たまたまクレスティナが女であったから、彼の印象に留まったのである。もし彼女が男だったら、果たして二人が今のような関係を築けたかどうか。
「まったく、女に生まれて良かったのか、悪かったのか……」
 師のぼやきを耳にして、それまでバツが悪そうに俯いていたイスフェルは、怪訝そうに顔を上げた。彼には、クレスティナが相当、男女の別を気にしているように思われた。それは、彼女と出会ってから、既に何度も感じたことである。そしてついに、彼女自身からその言葉を聞くこととなった。
「……おぬしにこんなことを言うのもなんだが、私自身、自分の感情がよく掴めておらぬのだ。男となることに何のためらいもなかったし、後悔もしておらぬ。でもたまに、女として生きられたら、とも思わないでもないのだ。私は一生、こんな思いから抜け出せぬのかな……」
 クレスティナのように一見、地に足をつけて生きているように見える人間でも、心の中に葛藤を抱えていることを知り、イスフェルは生きていくことの難しさを垣間見たような気がした。
「それは必然的な感情だから、否定する必要はないと思います」
 イスフェルが再び口を開いたのは、長い沈黙の後のことである。励まそうにも適い言葉が思いつかないので、彼は感じたことを素直に話した。
「――なんか生意気ですね。申し訳ありません。でも、私が女の子として生きていかなければならなくなったら、きっと同じように悩むと思いますし……」
 それに応じたのは、クレスティナの押し殺したような笑声であった。師の意外な反応に、真面目なイスフェルは呆気にとられた。
「どうなさったのですか?」
「いやいや、何でもない」
 クレスティナは大袈裟に手を振ると、勝手にこぼれてくる笑みを隠すのに必死になった。言えるわけがなかった。「さぞ可憐な少女が誕生することだろうな」とは。そして、笑いながらもクレスティナは、彼女の心の中で確実に何かが変わっていくのを感じていたのだった。
 そんな師の姿を、弟子は訝しげに眺めていた。

inserted by FC2 system