The story of Cipherail ― 王都狂騒曲


     11

 ささやかな陰謀がごく一部の宮廷人たちの肝を冷やした翌日、クレスティナは問題を起こした責任を取って、出仕を控えた。無論、表立っての処罰があったからではなく、偏にクレスティナ自身がけじめをつけるためであった。
 そしてさらに翌日、近衛兵団全員が顔を揃える朝の謁見式の際、クレスティナは迷惑をかけたファンジーニとテルガー、そしてフゼスマーニのもとへ赴き、謝辞を述べたのだった。昨日のうちにフゼスマーニに書状を送り、今回の事の詳細を明かしていたので、朝の忙しい時間を気の重い話で潰す必要はなかった。
「まあ、よい経験をしたと思えばよい。ところでおぬし、大した腕力だな。おぬしから受けた肘鉄の場所に、見事な青痣ができたぞ」
 わざとらしく左の脇腹を撫でながら、フゼスマーニは抗議するように言った。朝っぱらからとぼけた男である。クレスティナは表面的に呆れてみせたが、内心は感謝の気持ちでいっぱいだった。他の二人の男たちも、大まかな経緯を副長から聞いていたらしく、揃って彼女の肩を励ますように叩いてくれたものだった。
 その後、普段の場所の警備に向かい、それも終えてしまうと、問題児たちの暮らす学院へ、午後の街道に馬を走らせた。道中考えたことは、専ら彼らの処分についてである。イスフェルの言葉を信じ、すべてを任せはしたが、本当にそれでよかったのだろうか。夜中、寮の規律を破って、勝手に抜け出したのだ。良くて全員自室謹慎、最悪の場合は退寮処分も考えられる。少年たちの中には地方出身の者もおり、もしそんなことになれば大問題であった。
 学院の長い坂道を上りきり、厩舎に馬を預けたクレスティナは、とりあえずいつものように武道場へ向かった。だが、稽古をする気はさらさらなかった。したくても、おそらく少年たちはいないであろう、そう思った。しかし、彼女の予想は大きく外れた。
 クレスティナが武道場の入口をくぐると、その先に相変わらず真っ二つに分かれたままの少年たちの姿があって、彼女は驚いて紅蓮の瞳を大きく見開いた。
「お、おぬしら、なぜここに……」
「なぜって、稽古の時間じゃありませんか。それより、さぼった方がよかったですか?」
 セディスがおどけたように言って、小さく笑った。
「罰は何もなかったのか? まさか、そんなことはないと思うが……」
 呆然としながらクレスティナが問うと、エルセンが寂しそうに俯いた。
「オレたちは反省文だけで済んだんですけど、イスフェルが『例の部屋』で二日間の謹慎を言われて……」
 言われてみると、少年たちの中にイスフェルの姿はなかった。
「それで?」
「あ、えっと……え? それだけです、けど」
 とまどったような反応を示すエルセンに、クレスティナは唖然とした。
「それだけ……? ひどく寛大な……」
「はい。オレたち、今まで素行がよかったから、先生たちが大目に見てくれたんです」
 それを聞いて、クレスティナは思わずその場にへたりこんでしまった。一昨日から思い詰めていたものが一気にどこかへ行ってしまい、かわりに安堵感が彼女を支配してまわった。
「あの、先生。本当に迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありませんでした。どうか、また僕たちに剣を教えて下さい」
 屈んだセディスが師の顔を覗き込むようにして言った瞬間、それを否定する鋭い声が上がった。
「冗談じゃない」
 無論、クレスティナの言ではない。彼女がゆっくりと声のした方に顔を向けると、案の定、そこにはリデスの姿があった。
「オレは絶対、嫌だからな。なんで女になんか……!」
「おまえ、まだそんなこと言ってやがるのか!」
 シダの怒号が飛び、武道場はまたもや緊迫した空気に包まれることとなった。
「クレスティナ殿はな、あのフゼスマーニ様をも沈黙させたんだぞ! いい加減、観念したらどうだ!」
「だっ黙れっ」
 だが、その声には以前ほどの迫力はない。もはや抗っても仕方がないが、リデス自身の意地と自尊心の手前、そうせずにはいられないのだろう。
「臨時のくせに出しゃばりやがって。女ならそれらしく、家の奥で本でも読んでおけばいいんだ!」
「口を慎め、リデス。師に向かってその言いよう、礼を欠くぞ!」
 本来なら、礼を欠くどころか、無礼千万も甚だしい。だがリデスは、セディスの柔らかい表現を軽く一蹴した。
「ふん、偉そうに。朱に交われば赤くなる、か。口が達者になったな、セディス」
「何だとっ!」
 この場合の「朱」が、いったい誰を指しているのか、彼の皮肉たっぷりの口調から、もはや疑う余地はない。
「てめえ、イスフェルを侮辱するのか!」
 シダがリデスに詰め寄り、その胸倉を掴んで怒鳴ると、リデスは少し怯んだように見えたが、すぐに意地の悪い笑みを口元に閃かせた。
「イスフェル? 何でここにあいつが出て来るんだ?」
 今度はシダが怯む番だった。内心はどうあれ、確かにリデスは一言もイスフェルの名を口にしてはいないのだ。自分の走り過ぎで相手に付け込む隙を許してしまったことに気付いてシダが口ごもると、それを見たリデスは嘲るように笑い、力の抜けたシダの手を激しく振りほどいた。
「とうとう化けの皮が剥がれたな」
「……どういう意味だっ」
「普段からイスフェルが口ばっかりの奴だと思ってたから、そんなこと言うんだろ」
「違う!」
「ふん。おまえらは結局、利益と打算で結びついてるってことさ」
「何をわけのわからないことを」
 シダでは埒があかないと思ったのか、セディスが横から口を挟んだ。
「よく言うぜ。セディス、オレ、知ってるんだぜ」
 思わせ振りな彼の言葉に、セディスは無言のまま目を細めた。
「おまえ、ここに来たばっかりの頃、言ってたよなあ。次代の宰相であるイスフェルと仲良くしとけば、いつかいいことがあるかもしれないって。おまえら、皆そうなんだろ? イスフェルもむごいよなあ」
 痛烈な罵倒を受けて、イスフェルの友人たちの顔に、一斉に怒気が漲った。だが、セディスはそんな仲間たちを片腕を上げて静かに制した。
「ああ、そうだよ。確かに言った」
 仲間たちが息を呑む音を背後に聞きながら、セディスは大きく息を吸うと、一段と声を張り上げた。
「だが、そんな馬鹿げた考えは、一日で灰になったさ!」
 セディスには珍しい、感情的な叫びであった。
「……ここへ来るまで、僕は後継として、それは厳しく育てられてきた。父に、どうやったら巧く世間を渡れるか、それだけを叩き込まれてきたんだ。だからイスフェルと同じ組になって、それは喜んだね。好機が向こうから転がり込んできたんだからな!」
 得意げに叫んだセディスの顔は、だがすぐに旬を終えた草花のように萎れてしまった。
「でも、イスフェルは、僕のそんな下心を見抜いていて……はっきりと言われたよ。オレはきみがそんな態度を取っている間は絶対にきみを信頼しない、とね。イスフェルは知っていたんだ。利益だけで結びついた関係が、如何に脆いかということを。それから、自分のことしか考えてなかった僕に、顔を上げて周囲を見ることを教えてくれたんだ。あいつはすごいよ。まだ出会ってから数日しか経っていなかったのに、僕よりも僕のことを理解して、その長所を引き出そうとしてくれたんだ」
 イスフェルとの間に似たような経験があるのだろう、彼の仲間たちもしきりに頷いている。
「イスフェルは自分の夢を僕に話してくれて、それを僕にも分けてくれた。僕はその夢をイスフェルのためにも絶対叶えたいと思った。だけど、だからといって、僕はイスフェルに服従したわけじゃない。あくまで僕とイスフェルは、同じ立場にある仲間だ。将来がどうであろうと、今は知ったことじゃない」
 イスフェルとセディスたちとのつながりが真物であることを、リデスは認めざるを得なくなった。彼は反論することもなく、唇を噛んだ。
「これ以上、イスフェルを悪く言うなら、オレの拳が黙っちゃいないぜ!」
「そうだ、そうだ!」
「な、何だ、おまえら。イスフェルがいないと何もできないくせに、デカい口叩くんじゃねえよ!」
 元気をなくしたリデスの代わりに、他の少年が対抗するが、もはやセディスらの優勢勝ちを覆すことは不可能のようであった。クレスティナは、それを感じて、穏やかに口を開いた。
「皆、もうやめろ」
「女は引っ込んでろ!」
「てめえ!」
 暴言を吐いた少年に殴りかかろうとするシダを抑えて、クレスティナは横に首を振った。
「けど……!」
「いいのだ。この者たちが腹立たしいのも、わからないでもないから」
 言い切ったクレスティナの瞳の奥に、ついに受け入れてもらえなかった人間の悲しみと居直りの影を見付けて、シダは少し息を呑むと、それ以上の反論を断念した。彼の物わかりの良さに感謝しながら、クレスティナはリデスに一瞥をくれると、何を思ったか、模擬剣の掛けてある壁に向かって歩き出した。少年たちがそれを目で追っていくと、彼らの師は、そのうちの一本を手に取り、再び彼らのもとへ戻って来た。そして、右手に掴んだ模擬剣をリデスの前に差し出し、言ったのだ。
「リデス、これを取れ」
 瞬間、リデスは眉尻を吊り上げた。クレスティナは苦笑した。
「何も稽古をしようというのではない」
「どうしろってんだよ」
「リデス、この模擬剣を私の手から引き抜いてみよ。見事、それが成された暁には、私は二度とここには来ない」
 刹那、少年たちの息を飲む気配が辺りに満ちた。シダやセディスが目を剥いて抗議しようとしたが、その機先を制して、クレスティナの口が動いた。
「その代わり、もし引き抜くことができなんだら、おぬしの抜き身の心剣を鞘にしまってくれ。さあ、どうだ。やるか?」
 他人に強制的に嫌いな人間と仲良くしろと言われても、クレスティナ自身、従う気にもなれないが、平行線を辿ってばかりもいられない。
「今の言葉、忘れんなよ」
 絶対に模擬剣を引き抜けるという自信があるのか、リデスの顔には既に勝利を確信したような表情がある。
「……女に二言はない」
 クレスティナは、負ける気もないようだが、勝つ気もないように、静かに言い放った。
 成り行きを沈黙と共に見守っていたエルセンは、苦しくなって、大きく深呼吸をした。年の差、力の差はあるにせよ、棒を引き抜くなど、あまりにも簡単なことのように思われたのだ。クレスティナは利き手ではない左手で、ただ端を掴んでいるだけである。たった一瞬で、勝負は決するかのように思われた。
(ここにイスフェルがいてくれたら、きっとどうにかしてくれるのに……!)
 ところが、彼の手を煩わせる必要はなかったようである。いくら引っ張っても、リデスは一向に模擬剣を引き抜くことができなかったのだ。しまいには、彼は両手で引っ張り始めたが、眼前の女剣士はうんともすんとも動じなかった。
 突然、リデス少年の身体が一転して床に叩きつけられた。彼がついに模擬剣を引き抜いた、のではない。もしそうなら、リデスは後方に尻もちをついたはずである。模擬剣は依然としてクレスティナの手中にあった。
 少年たちは何事が生じたのか理解できず、唖然として床に転がるリデスを見た。ただ、本人だけが事を理解していた。クレスティナが模擬剣を持つ方の手首を捻り、彼はそれに逆らえずにひっくり返ったのだ。
「……女が本気で牙を剥くと、男も適わぬ時があるのだ。よく覚えておくがいい」
 静かに言って、クレスティナは弟子の腕を取り、その場に立たせた。
「オレは、負けたのか……」
 放心したように呟くリデスに、クレスティナは笑いかけた。
「そう思う必要はない。おぬしと私とでは、年齢も経験も違いすぎる。おぬしがもうひとつふたつ年が上であれば、どうなっていたか」
 リデスの衣服に着いた埃を払ってやりながら、彼女はしみじみと言った。
「おぬしのような弟がひとりでもいたら、私も美しい衣が着れたのだがな……」
 それを聞いて、リデスはクレスティナが着飾っているところを想像し、思わず呟いてしまった。
「――に、似合わないような……」
 慌てて口を押さえたが、もう後の祭りである。
 ようやくリデスの辞書に「失礼」という言葉が載ったのであろうか、彼の意外な反応に、クレスティナは呆気にとられたが、すぐに声を立てて笑い出した。
「おのれ、どこまでも無礼な奴」
 しかし、自分でもそう思っていたので、腹は立たなかった。
「剣は持つな絹服は着るな、では、私は一体、どうしたらよいのだ?」
 突如、周囲で二人の様子を見守っていた少年のひとりが大声で叫んだ。
「リデスは、正直の上に何かがくっついてんだ!」
「なんだとお!」
 リデスが顔を真っ赤にして言い返した時、シダがからかうように口を開いた。
「誰も馬鹿がつくとは言ってないぜ」
 さっきのお返しである。怒りに身を震わせたリデスだったが、あいにく彼の乏しい語彙力では反撃の狼煙を上げることも叶わず、虚しく口をぱくぱくさせるだけであった。
「リデス」
 不意にオレンズ少年が輪から出て来、左手をリデスの肩に乗せた。リデスが横を向くと、オレンズは真一文字に結んだ口に、微かな笑みを浮かべて佇んでいた。
「……うるせえな。わかってるよっ」
 オレンズの手をぶっきらぼうに払いのけながら、リデスは吐き捨てるように言った。オレンズが彼の面目を保とうとしてくれているのはわかったが、それに笑顔で応じられるほど、彼は素直ではなかったのだ。
 一方、クレスティナは、この時、リデスの目の縁がほんのりと紅く染まるのを見逃さなかった。これこそ、彼女が心の底から待ち望んだ瞬間であった。
「さあ、もう時間がない。今日は乱打戦を行うぞ。対抗試合まで日がないのだから、各自、心してかかれ!」
 これ以上、縺れた糸を解く必要性を、クレスティナは認めなかった。何もないより、少しぐらい縺れ合った関係の方がずっといい。
 彼女の声は雷鳴のごとく少年たちの耳を打ち、彼ら全員が急いで稽古の支度に取りかかった。
 ……その日の稽古で、リデスは合計三つの青痣をつくった。そのうちのふたつは、彼の師によって作られたものであった。

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