The story of Cipherail ― 王都狂騒曲


     7

 ファンジーニらと別れた後、南の庭の名所となっている立体交差橋を渡り終えたクレスティナは、芝生の上を横切って詰め所へと向かった。そこでは、戸口に立ったキリアーズが、頬に松明の光を受けていた。
「キリアーズ殿!」
 劇場の役者になったつもりで疲労感を全面に出し、クレスティナは彼に近付いていった。
「クレスティナか? 遅かったではないか。副長閣下は見付かったのか?」
「はい。今は西門におられます」
「閣下の蕩児振りにも困ったものだて。麾下の者どもに示しがつかぬではないか」
 ファンジーニは、同僚の数名がフゼスマーニ捜しに奔走しているのを知り、キリアーズが派遣されてきた時、咄嗟にクレスティナ不在の理由に使ったという。おかげで不審に思われてはいないようだった。
「それで、あの、キリアーズ殿、西門の崩れた壁の修復に梯子がいるので、こちらのを持って行きたいのですが宜しいですか?」
 ここへ来る道中で考えた梯子を持ち出す理由を、クレスティナは口上した。
「こんな遠いところのを持って行かずとも、近くにないのか?」
 キリアーズの問いももっともなことで、クレスティナは、それに対する答えも用意していた。
「梯子に布をかけて崩れた岩を運んだりしておりますので、数が足りないのです」
 見てきたようなことを言って、彼女は相手の反応を待った。
「ふむ……それなら持っていくがいい」
 そこでクレスティナは詰め所の裏へ回ると、その壁に立て掛けてあった梯子を手に取った。よもや腐ってはおるまいな、と点検していると、その様子を見ていたキリアーズが怪訝そうに声を発した。
「おぬし、ひとりで持って行くつもりか? それとも、誰か後から来るのか?」
「え? いえ、私ひとりですが」
 特に危ない箇所がないのを確認すると、屋根や壁にぶつけぬよう注意しながら、クレスティナは表の石畳の上へ梯子を運び出した。
「なんと気の利かぬ輩が多いことよ。女ひとりにそんな重い物を取りに来させるとは。どれ、わしが後ろを持ってやろう」
「いえ、キリアーズ殿、私なら大丈夫です」
 口調は平静を保っていたが、内心は嵐の海のように荒れ狂っていた。キリアーズという人物を嫌っていたわけではない。ただ重大な任務の計画に水を差されそうで、ひたすら不安だった。そして、不快だった。彼は今、彼女を女扱いしたのだ。
「だが……」
「詰め所を空にするわけには参りませぬ。それに……」
 一旦、言葉を切り、乾いた唇を湿すと、クレスティナは腹に力を込めて言った。
「このくらいのこと、ひとりでやりこなせなければ、皆に笑われます。女だからといって、気を遣っていただく必要はございませぬ」
「……そうか? では、気を付けて行くがいい」
 親切を拒絶されて、無念そうな顔をするキリアーズに一礼すると、クレスティナは梯子を右肩に担いで走り出した。この時、彼女の胸中を一抹の虚しさが貫いた。自分が何をやっているのか、ふいにわからなくなったのだ。
「すべては我が身が女の性を受けた時から始まったか……」
 女でありながら女の生き方をしなかったというだけで、なんと多くの人に謗られ、特別扱いをされたことだろう。今回のリデスのことにしても、フゼスマーニが新参者いびりの標的に彼女を選んだことにしても、先刻のキリアーズの親切にしても、元を正せば、すべて彼女が女であったために起こったのだ。
「所詮、男にはなれぬのか……。だが、今さら女に戻るわけにもゆかぬ」
 今夜、彼女の自嘲気味に笑う声を聴いたのは、ただ周辺に満ちた夜気だけであった。


「おい、シダとやら。どうだ、人の気配はあるか」
 無事に東の壁に到着したイスフェルたちだったが、ただクレスティナの戻りを待つというわけにはいかなかった。梯子を上って顔を出した途端、外回りの近衛兵に見付かってしまっては、洒落にならない。
「右側は……三十ピクトぐらい向こうに松明が見える……じゃなくて、見えます。数は……三つ。段々こっちに近付いてきてるみたいです。左側は……だいぶ向こうにふたつ」
 両手を壁に、両足をファンジーニの肩に預けて、シダが外の様子を報告する。
「――あの松明の高さじゃ、もしかして馬に乗ってるかもしれない……」
「厄介だな。もし見付かったら、逃げようがない……」
 ファンジーニが深く溜め息を吐くのを見て、エルセンが小柄な身体を震わせた。
「イスフェル、オレたちどうなるの……?」
「………」
 恐ろしいほど心細いのは、イスフェルも同じだった。彼は言葉では何も言わず、ただエルセンの肩を優しく叩いた。
 王宮の南側は、コロナ運河へ向かって、なだらかな丘陵地帯となっている。その中程に長く連なる森――蛇の森があり、その中を西に突っ切っていけば、学院のある丘の麓に辿り着くのである。が、頭で思うほど簡単に事が運ぶとは思えない。
「あ……!?」
 ふいにシダが小声を上げ、肩の上ということも忘れてしゃがみこんだ。突然のことに、ファンジーニは危うく少年たちの方に倒れそうになった。が、なんとか寸前で踏み留まる。
「急に動くな。危ないじゃないかっ」
「しっ。誰か来る……!」
 皆に沈黙を促すと、シダは外に向かって両耳を研ぎ澄ませた。明かりが見えるというわけではないのだが、彼の正面の闇の奥に、確かに人の息づかいが感じられるのだ。
「あ、ほら、馬車を用意して下さった方じゃないかな。厩舎の――」
 言いながら左隣の人間を見やったセディスは、次の瞬間、あからさまに首を反対側に向けた。てっきり彼の仲間がいると思っていたのに、そこにいたのはリデスだった。
「でも、こんなに広いんじゃ、その人はオレたちがどの辺りから出てくるか、わからないんじゃないか?」
 空中でシダが囁くと、ファンジーニが壁の方を向いたままの格好で言った。
「近衛をナメるな。南の庭に面した壁がどこからどこまでかなど、オレのような新米でも熟知している。こんな事になって言うのもナンだが、おぬしたちは本当に運が良かったのだ」
 反論のしようがない。近衛の警備の穴を責める権利は、それが露見していないとはいえ、大罪を犯した少年たちには砂粒ほどもないのだ。
 その時、
「待たせたな」
 凛とした声がして、彼らが振り向くと、梯子を左肩に担ぎ直したクレスティナが、僅かに息を弾ませて立っていた。
「ぐずぐずしている暇はない。すぐに出よう。外の様子は?」
 壁に梯子を立てかけながらクレスティナが言い、ファンジーニは思い出したようにシダを見上げた。
「そうだ、さっきの誰かは、まだ誰だかわからないか?」
「はい。なんせ真っ暗で――」
 言葉の途中で、再びシダが急にしゃがみこんだので、ファンジーニは今度こそ均衡を失った。背中を反らせながら後方に倒れ込む。
「だ、大丈夫か!?」
 クレスティナが慌てて二人に声をかけると、ファンジーニが尻を撫でながら立ち上がり、恨めしそうにシダを振り返った。
「だ、だからさっき言ったではないか、シダ。急に動くな、と……」
「オ、オレだって、しゃがみたくてしゃがんだわけじゃ。いてててて……。こ、これもすべて、日頃の訓練の賜で……」
「はあ……?」
 派手に転んだわりに、二人に大事がなさそうなのを見て取って、クレスティナは安堵の溜め息を漏らした。その時、ふと上方を見上げていたイスフェルが鋭い声を上げた。
「あれは……!?」
 一同がイスフェルが指し示す方向に目を遣ると、彼らから二ピクトほど離れた樹の幹に、矢が突き立っていた。
 クレスティナは、ひとり得心した。シダは、矢が夜気を切り裂く音を聴いて、咄嗟に身を伏せてしまったのだ。
「矢幹に結んであるのは、あれは文か!」
 ファンジーニが言い、樹の真下にいた少年がそれに登って、矢ごと彼に手渡した。
「『蛇の腹にて待つ』?」
 彼が手紙を開いて読むと、クレスティナの顔に笑みが浮かんだ。
「テルガー殿だ。さすがに仕事が早い」
「蛇の腹というと、ここから少し西寄りに下っていった辺りのことだな。よし、おぬしたち、この壁を越えたら、そのまま走って蛇の森に向かえ。絶対、はぐれたりするな」
 ファンジーニの厳しい声に、少年たちは無言のまま頷いた。
「よし、では最初に――」
「オレが行く」
 不機嫌そうな声とともに梯子の前に歩み出たのは、リデスであった。厩舎からここへ来る時はイスフェルが先頭を務めたので、今度は自分が行くというのである。
「……では、リデス。おぬしに任せる。頼んだぞ」
 わざと大きな音で舌打ちするシダをよそに、クレスティナは梯子の裏側に入って、両手でそれを支えた。
 梯子は壊れこそしなかったが、少年たちが足を乗せる度にギシギシと不快な音を立てた。クレスティナが少年たちの靴底を見ながら近衛兵に見付からぬよう祈っていると、ファンジーニが暗い面持ちでおずおずと言った。
「クレスティナ、きみも行くのか?」
「当たり前だ。――というか、私にはその責任があるのだ。彼らが無事に学院に帰り着くのを見届ける責任が」
「そうか……。こうまで関わった以上、オレも実はそうしたいんだが、警備を放ったらかすわけにもいかん。キリアーズ殿にも迷惑がかかるしな」
「よいのだ。おぬしには本当に迷惑をかけた。後は私がなんとかしてみせる」
 言い切ったクレスティナの様子に、妙に気負ったところがないのを見て取って、ファンジーニは微笑みながら小さく頷いた。
「健闘を祈る」
 短く言って、クレスティナと場所を替わる。今度は殿を務めることになったイスフェルの姿は、既に壁の向こうに消えていた。
「――早速、恩返しというわけではないが、いいことを教えてやろうか」
 梯子に手をかけながら、ふと思い出したことがあって、クレスティナは唇の端を擡げた。
「何だ?」
「おぬしの想い人は、真っ白なエガーナの花が好きなのだ。誰かさんに彼女を奪られたくなかったら、来月の彼女の誕生日に贈ってみてはどうだ?」
「!」
 ファンジーニが絶句している間に、同僚の女剣士は優雅に梯子を登って、ついに彼の平凡な目では見えなくなってしまった。
「な……んできみが、そんなこと知って……」
 一人残されたファンジーニは、呆然として呟いた。
 親友であるヘルニーの無責任な行動に、今夜、一番腹を立てていたのが実はファンジーニであったことを、クレスティナは知っていたのだった。

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