The story of Cipherail ― 第六章 暗黒の谷の脈動


     3

 それからの数日間、ノルシェスタはひとり、地図づくりのために聖都の町中を彷徨っていた。聖都は半径二モワルの中に神殿群や一般の建物がひしめいており、表通りこそ直線的な道だが、一歩裏通りへ足を踏み入れると、まるで迷路のような場所が多かった。
「ああもう、頭も足もパンパンッ」
 ノルシェスタは大きな溜め息を吐くと、白大門からルーフェイヤ聖山へと続く大通りに面した露店で柘榴水を買った。背負っていた籠を地面に下ろし、それへ腰掛ける。その籠は、カイルと暮らす部屋の階下にある食料品店のものだった。そこの女将が実家の収穫の手伝いで留守にすることを聞き、臨時で雇ってもらったのだ。得意先への配達なら、通りをうろうろしていても怪しまれることはないうえ、小遣い稼ぎもでき、彼女にすれば一石二鳥だった。
 ノルシェスタが往来に行き交う人々を追いかけて北の方へ視線を転じると、ルーフェイヤ聖山の手前、《太陽の広場》に見慣れた青い巨大天幕が張られているのが見えた。ほんの数日前まで彼女が身を寄せていた、フリーダル歌謡団のものである。在籍した八年間、その舞台の中央は、たとえ高熱で瀕死の状態でも、他の団員に譲ったことはなかった。
「みんな、元気かしら……」
 既に懐かしくさえ感じる気持ちを不思議に思いながら、ノルシェスタは再び柘榴水を口に含んだ。
 姉リエーラ・フォノイの死を知った日、ノルシェスタはそれまでに感じたことのない孤独感に襲われ、苛まれた。故郷の両親は既に亡く、最愛の姉に最悪の形で先立たれ、突然、踏みしめていた大地を失ってしまったようだった。心を込めて歌っても、誰の心にも届いていないような……。彼女の退団は、歌謡団にとっては衝撃的なものであっただろうが、彼女の内では、それ以外に道がない、必然的な選択だった。そして、カイルの家へ初めて行った夜、何も考えるのが嫌で、不安と戦うのが嫌で、彼を求めた。そんな彼女を、青年は静かに受け入れてくれたのだ。
(六つも年下だっていうのに……。この恩は、必ず返さなくちゃね。それが姉さんのためにもなるんだし)
 小さく苦笑して正面を向いた時だった。いつの間にやって来たのか、彼女の足元で一匹の大きな犬が鼻を動かしていた。
「なっなに……!?」
 ノルシェスタが驚いて両足を上げると、灰色の毛並みのその犬は彼女を見上げ、少し間を取った。だが、左右に往復を繰り返しつつ、決して彼女のそばを離れようとはしない。その首元では、羽根飾りの付いた青い石が揺れていた。
「なに、私に何か用……?」
 ノルシェスタが怖々と犬の前に屈んだ時、
「ベーゼル、ここにいたのか」
 少し離れたところで男の声がして、ノルシェスタが顔を上げると、無精髭を生やした旅装の男が近付いてくるところだった。
「ベーゼル……って、これ、貴方の犬?」
「ああ、そうだが?」
 三十代半ばと思われる男は、やはり露店で買ったらしいラブマンピザを頬張りながら、その端をちぎって宙に放った。それをベーゼルが見事に口で受け止める。
「この子、私に用があるみたいなんだけど、何かしら?」
 すると、男が小さく笑った。
「きみは見た目よりずっと年寄りらしい」
「え?」
「こいつはもう十一歳になる。人間でいうところの老人だな」
「あ、そうなの? ……って、そんなことはどうでもいいのよ」
 ノルシェスタが眉根を寄せると、男は首を竦めた。
「じゃあ、きみが美人だからかな」
「あら……人間にはよく言われるけど、犬に想われたのは初めてよ。ありがとう、ベーゼル」
 ノルシェスタは空になった杯を籠の上に置くと、ベーゼルの頭や首をわしわしと撫でてやった。歌謡団には少ないながら動物もいたので、抵抗はなかった。
「ふん……だが、珍しいな。ベーゼルが他人に気を許すとは」
「そうなの? えー、嬉しい。なに、私、何か良い匂いがする?」
 ノルシェスタがベーゼルの顔を覗き込んだ時だった。
「見付けたぞ、ノーシェ!」
 今度は反対側で男の声が上がり、ノルシェスタがベーゼル越しにそちらを見ると、見知った男が息を切らせて立っていた。
「クレム……」
 ノルシェスタは、ゆっくりと立ち上がった。フリーダル歌謡団の団長で、彼女の元恋人だった。男にしては線が細いが、愛嬌のある顔立ちで、白髪交じりの鳥の巣のような頭を団員たちによくからかわれていた。
「久しぶり、ね。元気だった?」
「『元気だった?』じゃないだろう! 散々捜させて……。どれだけ心配したと思ってるんだ。さあ、私と一緒に帰ろう」
 ずいと差し出された腕の中で、何度愛を語らったことだろう。しかし、今のノルシェスタに、そこへ戻ることはできない。また、未練もない。
「クレム、私はもう歌えないの。説明したでしょう? やらなきゃいけないことができたって」
「お姉さんが亡くなったことは、確かにつらいことだ。だが、その悲しみを乗り越えた時、また新しいおまえが――」
 それを遮るように、ノルシェスタは静かに首を振った。
「新しい私なら、もうここにいるわ。私、新しい仕事を見付けて、もう働いてるの。しばらく聖都に――姉さんのそばにいるつもりよ」
「何を言ってるんだ。聖都へは、おまえの凱旋も兼ねて来てるんだぞ? なのに、肝心のおまえがいなかったら……」
「パーラやウィアルーナがいるじゃない。あの娘たちなら――」
「おまえじゃなきゃ、駄目なんだ!」
 ノルシェスタは眉根を寄せた。男が今、元恋人として話をしているのか、それとも歌謡団の団長としてなのか、量りかねたのだ。こんなに激高した彼を、初めて見た。
「クレム、そう思ってるのは貴方だけよ。ねえ、お願い。団長として、ちゃんとあの娘たちの可能性を見てあげて。私は、もう、フリーダルを辞めたの。違約金が要るというなら、後から持って行くわ」
 すると、クレムの表情がいっぺんに剣呑なものへと変わった。
「違約金……? 違約金だと!? おまえはそんなもので私とのことを……!」
 飛びかかって来ようとするクレムに、ノルシェスタは息を呑んで身を引いた。背後の籠につまずいて転びそうになるところを、あわやのところで免れたのは、二人の間に人影が入ってくれたおかげだった。
「まあ、待った待った」
 ベーゼルの主人が、修羅場には不相応なのんびりとした声を上げる。当然、クレムは彼の胸ぐらを掴んだ。
「なんだ、貴様!」
「彼女のことが大切なのはわかるが、端から見てると、少々みっともないぞ」
「みっともないだと?」
「二回り近く年下の娘に未練たらたらで、こんな往来で喚いてる」
「きっさま……!」
 クレムの振り上げられた拳を見て、ノルシェスタは悲鳴を上げた。
「クレム、お願い、やめて!」
「ノーシェ! まさかおまえ、この男にたぶらかされて!」
 渾身の力で心を叩かれたような衝撃だったが、それがノルシェスタをかえって冷静にさせた。全身の血が、冷たくなっていく。
(あんなに愛して愛されたのに、こんな最後になるなんて、恋ってなんて残酷なの……)
 ひどく、虚しかった。そんな彼女へ、クレムの腕を掴んだままの男が囁くように言った。
「きみはもう行った方が良い」
「え……?」
「さあ、早く」
 無精髭の男の瞳に、何か悟っているような光があり、ノルシェスタは素直に頷いた。
「ごめんなさい。ありがとう」
 それを聞いて、クレムの抵抗がいっそう激しくなる。
「ノーシェ! きさま、この手をどけろ! ノーシェ! ノルシェスタ!!」
 しかし、籠を背負ったノルシェスタは、クレムを振り返らず、そのまま路地裏へ姿を消した。


 カイルが部屋の扉を開けた瞬間、何かが空を切る音がした。咄嗟に身を引くと、扉の桟に小刀が突き刺さる。途端、女の慌てた声がした。
「やだっ、ごめんなさい。大丈夫だった!?」
「ノーシェ……」
 カイルが冴えた碧玉の瞳でノルシェスタを睨み付けると、彼女は縮こまった。
「ごめんなさい。久しぶりだったから、腕が鈍ってて……」
「久しぶり、だと?」
 すると、ノルシェスタは扉の内側を指さした。カイルが扉を閉めると、そこには出かけるまでなかった、小さな木製の的がぶらさがっていた。
「ちょうど釘が出てたものだから、そこに掛けて……。さっきね、みんながどうしてるかと思って、ちょっと歌謡団に寄ってきたの。これは、私の忘れ物」
「……あんたは歌姫じゃなかったのか?」
 青年の訝しげな声に、ノルシェスタは大きく頷いた。
「ええ、そうよ。でも、昔、ひどい風邪を引いて、声が出なくなったことがあって。その時に歌を歌えなくなっても歌謡団に居られるようにって、小刀投げを練習したの」
「なぜ歌謡団で小刀投げなんだ。雑技団ならともかく」
 カイルが呆れたように顔をしかめると、ノルシェスタは黒い瞳を瞬かせた。
「……それもそうね。なんで小刀投げだったのかしら」
 しばらく腕組みをして考えていた彼女だが、結局、真相を思い出すことはできず、ごまかすように小さく笑った。
「でも、結構はまっちゃって。不埒者を追い払う時にも役に立ったし。的に向かう時って、ほら、こう……無心になれるでしょ?」
 カイルは買ってきた物を机の上に置くと、ノルシェスタの方を向いて机に寄りかかった。
「つまり、無心になりたいことがあったってわけだ」
 カイルの真っ直ぐな視線を受けて、ノルシェスタは身体を強張らせた。
「歌謡団に行った時、何かあったのか?」
「………」
「言いたくないなら、別にいい」
 その穏やかな声音に、ノルシェスタは安堵した。恋人と別れた直後にカイルと一夜を共にしておきながら、また恋人のいる場所に顔を出してきたという彼女を青年が詰るかと思ったのだが、そうではなかったからだ。
 ノルシェスタは扉へ歩み寄り、的や桟に刺さった小刀を引き抜くと、カイルを振り返った。
「昼間……ね、配達の後、休憩してたら、偶然、団長と出くわしたの。聖都中、私を捜し回ってたみたいで、今さら退団したことを詰られたわ」
「……それで?」
「彼の様子が普通じゃなかったから――通りすがりの人に助けてもらったくらいなのよ。だから、ちょっと気になって、こっそり団の子を呼び出したの。……ははっ、バカなことしちゃった。訊かなきゃ良かった」
 ノルシェスタは小刀を革布にくるむと、机の上に静かに置いた。
「……団長の奥さん、ね。もう何年も前から病気で、そんな身体に旅はきついからって、故郷にいたのよ。で、一昨日、亡くなったって知らせが来たらしいの」
「団に……団長のところに戻りたいのか?」
 カイルがノルシェスタを見下ろすと、彼女は憔悴した表情で首を横に振った。
「違うわ。その逆。クレムが……彼が、愛するあまり、私を捜し回ってくれたんじゃないってことがわかっちゃったから……。私と同じで、独りになるのが嫌だったのよ、彼は」
「ノーシェ」
 カイルがノルシェスタの黒髪を梳くと、彼女は青年の腕に頭をすり寄せてきた。
「ごめんね、カイル……。ありがとう、そばにいてくれて」
 家族の死は、いつも共にいなくても、思いがけず魂の一部を奪っていくものだ。決して恥じるものではない。
「オレでも……案外、役に立つものだな」
「え? なに?」
「いや、何でもない。腹が減った。夕食にしよう。ラブマンを買ってきた」
「えっ」
 ノルシェスタは、驚いてカイルを見上げた。
「どうした?」
「あ、うん。例の、昼間助けてくれた人が食べてて、ちょっと美味しそうだなって思って――あ、そうだ。私ね、初めて会った犬にも好かれるのよ。さすがノルシェスタ様よね」
「何の話だ。助けてくれたのは犬なのか?」
「違う違う、そうじゃなくて」
 ノルシェスタは作っておいた野菜煮込みを皿に盛って食卓へ戻ると、カイルの向かいに座り、灰色の毛並みの愛すべき犬について語った。
「歌謡団にいたのはキャンキャンうるさい犬だったから、なんか新鮮だったわ。ベーゼルっていってね、これがまた私に懐いて――」
 カイルは思わず匙を止め、ノルシェスタを見つめた。
「ベーゼル……?」
「ええ、ベーゼル。おじいちゃん犬なのが残念なところね。――って、何が残念なんだかよくわからないけど」
 しかし、カイルはノルシェスタのおしゃべりなど聞いていなかった。
「飼い主は? ベーゼルの飼い主はどんな奴だった!?」
「えっ? えっと、四十前の男の人よ。無精髭で、あなたみたいに髪を後ろで結んでたけど」
 カイルは確信した。ラスティンの父、カルジンだ。彼は、近く聖都へ行く予定だったというから、間違いない。
 微かに笑みの浮かんだ青年の顔を、ノルシェスタが覗き込んできた。
「え、まさか、知り合い、とか……?」
「ああ、そうだ。セフィの――継父だ」
「継父って……彼女もいろいろ複雑みたいね。――って、えっ、なに……ああ……何だ、そういうことか! ああ、何だぁ……つまらない」
 急に仰け反ったノルシェスタを、カイルは不審げに見遣った。
「何だ?」
「だから、ベーゼルよ。ベーゼルが私に懐いてくれたのは、私からカイル、あなたの匂いがしたからよ、きっと」
「――そうか……」
 カイルも納得した。ノルシェスタとカルジンが出会ったのは、偶然ではないのだ。
(ならば、そのうちきっと会えるな)
 そしてその時は、妻を亡くしたばかりのカルジンが、弔いもそこそこに、なぜ聖都へ来ることにしたのかを是非尋ねたいと思った。

inserted by FC2 system