The story of Cipherail ― 第六章 暗黒の谷の脈動


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 平和と友好の女神シャーレーンは、十二聖官の中で最も力が強いと言われ、その聖官殿はルーフェイヤの頂近く、《正陽殿》への最後の砦のごとく、十二番目に建っている。
 秀麗な面立ちに、すらりとした長身を鎧兜で覆った絵画や彫像が多く残されている彼女だが、その性格は冷酷であったというのが通説になっている。というのも、戦争を司るケルストレスの一途な愛を拒み続け、「その使命ゆえに愛を解さぬ女」との同僚ホレスティアの言が《聖典》に記されているからである。それゆえに、この世界から愚かな争いが絶えず、平和も束の間でしかないという学者もいるほどだった。
 聖官殿の入口をくぐろうとして感じた刺すような視線に、カイルは振り返った。見上げれば、石造りの尖塔の上、一羽の鳥が石の瞳で睨み付けるようにこちらを見下ろしている。シャーレーンの愛鳥ティユーである。邪な巡礼者がいないか、主人とともに見張っているのだ。善人はその視線を感じないと言われているのを思い出し、カイルは軽く首を竦めた。
「……本家本元もオレが気に入らないらしい」
 由来する名を付けられた人狩鳥からも、セフィアーナを巡って敵愾心を燃やされている彼だった。
 聖官殿内の暗がりに一瞬奪われた視界を取り戻した後、カイルは前方から歩いてきた女神官に、リエーラ・フォノイの所在を尋ねようとした。が、
「あの、すみません!」
 にわかに隣に駆け込んできた若い女に女神官を横取りされてしまった。むっとした彼だったが、彼女の口から飛び出した言葉は、青年を大いに驚かせた。
「リエーラ・フォノイに逢いたいんですけどっ……」
 豊かな黒髪の奥から発される、なぜか嬉しさが滲み出ている声とは対照的に、女神官の表情が困惑に歪む。
「リエーラ・フォノイ、ですか……?」
 すると、そのやり取りを漏れ聞いて、近くにいた別の女神官が、二人のもとへと歩み寄ってきた。
「失礼ですが、貴女は?」
「私、ノルシェスタっていいます。リエーラ・フォノイの妹です」
 それに女神官たちは驚いたように顔を見合わせ、小さく頷き合うと、再び女に視線を戻した。
「お話があります。とりあえずあちらへ……」
 女神官たちが指し示したのは、彼女たちの詰め所だった。それへ、ノルシェスタは怪訝そうな面持ちで付いていく。残されたカイルは、仕方なくティユー像の袂で彼女が出てくるのを待った。
 それから半ディルクほど経った頃だろうか、女神官たちとともにノルシェスタが出てきた。見失わずに済んでよかったと小さく吐息して、カイルは一歩を踏み出したが、彼女の表情を見て、その足を止めた。伏せがちな顔からは生気が失われ、褐色の肌は土気色のようになっていた。両手で両腕を抱え込み、背を丸めて歩く姿は、先ほど勢いよく走ってきた彼女と同一人物とはとても思えず、青年は息を呑んだ。
『神官の説明では、事故で亡くなったと』
 ヒースの声が脳裏で蘇る。彼女もきっと、同じ説明を受けたのだろう。
 女神官たちは見送るために出てきたわけではないらしい。ノルシェスタと共に聖なる山を下って行くのを、カイルは少し間隔を開けて付いて行った。しかし、麓で一行は馬車に乗ってしまい、青年は馬がないことに舌打ちしながら、走って追いかけた。大通りを東に曲がったことから、行き先の見当は付いた。


 カイルがタリス山の墓地に辿り着いた時、その一角で、女の悲鳴が上がった。見れば、ノルシェスタが墓標の前へ崩れ落ちたところだった。
「こんなのって……姉さん! ああ、姉さん、姉さん……!」
 ノルシェスタの悲痛な声が、辺りに響き渡る。
「私たちと致しましても、あのように些細なことで、本当に惜しい人を亡くしました」
 祈りを捧げた後、女神官がそう述べるのを、カイルは少し離れた墓に参る振りをして聞いていた。
「わざわざ送って下さって……ありがとうございました。私はしばらくここに居たいと思いますので、どうぞ皆さんはお戻り下さい。本当に……ありがとうございました」
 ノルシェスタの気丈な言葉に、女神官たちは気遣わしい表情を浮かべながらも、素直に従った。彼女たちが引き返してくるのを墓標の陰でやり過ごすと、カイルは泣き伏せているノルシェスタのもとへ向かった。
「うっ……ふっ……姉さん……どうして……」
 ノルシェスタの嗚咽に、カイルはぎりっと唇を噛んだ。何の故か殺されて山中に埋められた神官がいる一方で、丁重に墓へ埋葬されたらしいリエーラ・フォノイ。セフィアーナをはじめ、後から訪ねて来る人間がいることを想定したのだろうか。
(そして、万が一、墓を掘り返されてもいいように、その中には確実に遺体が入っているはずだ。真物の、遺体が……)
 カイルの脳裏に、セフィアーナの顔が浮かんだ。彼女にこの事実をいかに伝えるか、今の彼には適切な言葉が思い浮かばなかった。
 その時、カイルの足音に気付いて、ノルシェスタが顔を上げた。カイルは彼女の横で膝を折ると、墓地の外で見付けてきた白い山百合を手向けた。
「誰……?」
 泣き濡れた顔のノルシェスタを見ず、カイルは墓標を見つめたまま口を開いた。
「神殿で、あんたがリエーラ・フォノイの妹だと言っているのを聞いて、尾けてきた」
「え……?」
「オレは、カイルという。あんたの姉さんの知り合いだ。あんたに少し訊きたいことがあるんだが、いいか?」
 すると、ノルシェスタが嘲笑うように呟いた。
「見ればわかるでしょ。またにしてよ……」
 それへ一度、視線を遣った後、カイルは再び墓標を見つめた。
「……リエーラ・フォノイは、殺されたのかもしれないと言っても?」
「な……何を!」
 姉を侮辱されたと思ったのか、ノルシェスタは猛然と立ち上がると、カイルを睨み付けてきた。
「あなた、何! 何なの!? 私の姉さんは、リエーラ・フォノイという神官は、素晴らしい人間よ! どうして殺されなきゃいけないのよっ!」
「素晴らしいからこそだ」
「話にならないわ……!」
 おもむろに首を振ると、ノルシェスタはそのまま神殿の方へ戻り始めてしまった。
「待ってくれ。話を――」
 大股で追いかけたカイルはノルシェスタの細腕を掴んだが、突き飛ばすように解かれてしまった。そして、神殿の前でちょうど客を降ろした馬車で去られてしまう。カイルは大きく溜め息を吐くと、リエーラ・フォノイの墓に戻った。懐から、彼女からの最初にして最後の手紙を取り出す。

『信頼なるカイルへ
 もしもの時のために、この手紙を貴方へ託します。その時はどうか、あの娘たちのために真実を突き止めてください。』

 文面が、胸に痛い。
「……リエーラ・フォノイ。必ずオレが、真実を突き止めます。さっきの彼女のためにも、そしてセフィのためにも……!」
 翌早朝から、カイルはリエーラ・フォノイの墓の前で、ノルシェスタを待った。リエーラ・フォノイからもセフィアーナからも、これまでノルシェスタのことを聞いたことがなく、彼女がどこで何をしている人間なのかは皆目見当が付かない。しかし、昨日、ノルシェスタの心に打った楔が、必ず彼女の足を再びここへ運ばせるはずだとカイルは信じた。そして、それは報われた。夕暮れ時になって、ノルシェスタが姿を現したのだ。
「本当に、いるなんて……」
 ノルシェスタがぽつりと呟く。彼女の内でも何か賭をしていたらしい。持っていた大きな花束を墓前に供え、祈りを捧げると、横目でカイルを見た。
「――何が知りたいの?」
「リエーラ・フォノイの、死因について」
 すると、ノルシェスタは怪訝そうな表情でカイルを仰ぎ見た。
「あなた、知らないの……?」
 カイルが頷いてみせると、ノルシェスタは吐息した。
「……昨日の神官たちは、姉さんは《正陽殿》の階段から落ちて、打ち所が悪くて亡くなったと言ってたわ。巡礼者とすれ違った時に、ぶつかったそうよ。それなのに、殺されたかもしれないなんて、あなた、本気で言ってるの?」
「ああ」
「根拠は?」
「リエーラ・フォノイから手紙をもらった。もしもの時は、真実を突き止めて欲しい、と」
 それを聞いて、ノルシェスタが絶句する。
「それに、《正陽殿》は、一階の礼拝場以外は巡礼者は立ち入り禁止だ。そもそも、巫女付きを外されたリエーラ・フォノイに、《正陽殿》での用はないはずだ」
 死因の説明を聞いて、カイルは確信した。リエーラ・フォノイは、間違いなく殺されたのだ。
「外された……!?」
「当の巫女が言っていた」
 すると、まるでとどめを刺されたように、ノルシェスタは強く目を綴じた。それから、静かに墓標を見つめる。
「……今日、またここであなたに会ったのも、姉さんの遺志かしら」
「きっと」
「……あなた、私より若そうだけど、本当に真実を突き止められるの?」
「必ず」
 青年の毅然とした口調に、ノルシェスタは、姉が彼に布石を打った理由が少しわかった気がした。
「……私、仕事を辞めてきたの」
「え?」
 ノルシェスタはゆっくりと立ち上がると、カイルを見据えた。
「足手まといにはならない。私もあなたと一緒に行かせてもらうわ。――カイル」
 一瞬、驚いたカイルだったが、今後のことを考えると、女手があった方が何かと便利なのは明白だった。誰かに頼むにしても、覚悟のない人間に危険で過酷な状況をかいくぐることはできない。その点、ノルシェスタはうってつけだった。
「……よろしく頼む」
 その後、街への帰りすがら、カイルはノルシェスタの荷物を持ち、ノルシェスタはその後方から少し間を置いて付いてきた。
「あなたは……姉さんとはどういう知り合いなの?」
 それへ、カイルは眼下に広がる聖都の町並みを見ながら答えた。
「オレの命の恩人が、今年の《太陽神の巫女》なんだ」
「ああ、それでさっき……」
 姉が《太陽神の巫女》の担当を外されたという情報を、巫女本人から聞いたと青年は言った。だが、巫女と直接、接触することは、一般信徒には非常に困難なことであり、少々疑問に思っていた彼女だった。
「今年の巫女は、すごい娘らしいじゃない。旅先で何度も噂を聞いたわ。聖儀のことだけじゃなくて、王都どころか戦地までも行って、戦を早く終わらせたとかって」
 セフィアーナのことを褒められて嬉しくないはずのないカイルだったが、彼の注意は別の言葉に向いていた。
「旅先とは?」
「え? ――ああ。私、流しの歌謡団にいたの。今回、聖都へも興行で寄ったのよ。まさか、こんなことになってるとは夢にも思わずね……」
 その後、無言を保ち続けた二人がカイルの家へ辿り着いたのは、家庭の夕食の皿が洗われる時分だった。カイルは玄関扉の横にノルシェスタの荷物を下ろすと、戸口で室内を見渡しているノルシェスタを振り返った。
「ここがオレの家だ。あんたの家は、明日探そう。知り合いに頼めばすぐに見付かる。今夜はとりあえず近所の宿に――」
「ここに置いてくれないの?」
「なに?」
 目を見張っているカイルに向かって、ノルシェスタは軽く首を竦めた。
「ちょっと狭いけど、二人くらいなら大丈夫よ」
「だが――」
「別々に住んで、連絡が付かなくなったら大変でしょ? いざという時のために、お金は取っておいた方がいいし。――あ、それとも、巫女に悪いかしら。彼女、あなたの恋人?」
「違う」
「なら決まり! そうと決まれば、さっ、早く夕ご飯にしましょ。私、お腹ぺこぺこ」
 言うなり、ノルシェスタは道中で買った夕食を小さな円卓の上に広げた。肉や野菜を炒めたものが挟まった面包が香ばしい匂いを放つ。葡萄酒の瓶を食器棚の台の上に見付けた彼女は、手際よく栓を開けると杯に注いだ。
 一度しか会ったことはないが、あの理知的な姉とはまるで雰囲気の違う妹だった。カイルは大きく息を吐き出すと、仕方なく円卓に着いた。
 夕食の席は、聖都の街の様子など、たわいもない話で時間が流れていった。疲れていたのだろう、酒が入ったこともあり、席に着いたまま舟を漕ぎ始めたノルシェスタを寝台へ寝かしつけると、カイルは独り、杯と向き合った。そして、思いも寄らぬ展開に、小さな溜め息を漏らす。
(寝室がふたつあるならともかく、やはり家は探すべきだな。リエーラ・フォノイのことは警備隊にも責任があるんだし、家賃はヒース持ちでいいか)
 他人の給金を勝手に当てにして、カイルは酒杯を呷った。
(しかし、これからどうするか……。墓を暴くのは、いくら実妹の要請でも難しいだろうな。《光道騎士団》の奴らに嗅ぎ付けられても困るし、何よりノルシェスタ自身が背信行為に納得できないだろう……)
 その時、低い呻き声がカイルの耳を打った。それは隣室から聞こえて来、カイルが覗くと、額に玉のような汗をかいて、ノルシェスタが魘されていた。
「おい、あんた、大丈夫かっ。ノルシェスタ!」
 カイルがノルシェスタの肩をゆすると、彼女はかっと目を見開いて飛び起きた。激しい動悸に襲われているようで、苦しそうに俯いているのを見て、カイルは隣室から水を持ってきてやった。ノルシェスタはそれを震える手で受け取ると、一度二度と口に含んだ。
「……少しは落ち着いたか?」
 カイルが受け取った杯を戻してこようと身を翻した時、突然、ノルシェスタがカイルの腕を掴んで叫んだ。
「行かないで! ここにいて!」
「ノルシェ――」
 こぼれた水で手を濡らしたカイルが振り向くのと、ノルシェスタが彼に抱きつくのが同時だった。
「お願い、独りにしないで。お願いよ……」
 その震えるか細い声を聞きながら、カイルはふと母を失った遠い日のことを思い出していた。


 翌朝、眩いほどの光に瞼を灼かれ、カイルがゆっくりと目を開けると、寝台の中央で何かが銀色に光っているのが見えた。朝陽をまともに反射する光量に耐えかねて頭の位置をずらすと、その正体は女の細い手首に嵌められた腕輪と知れた。と、青年の眉間にしわが寄る。
(――どこかで……)
 そう思った瞬間、脳裏で火花が散り、カイルは飛び起きた。そのままの勢いで、腕輪の嵌った左手を取る。が、
「痛っ……」
 うつ伏せの状態で伸ばした腕を急に引き上げられた方はたまらない。ノルシェスタは、寝惚けた顔をしかめながら、カイルを見上げてきた。
「な、なに……?」
「これ――この腕輪は……!」
「え……?」
 ノルシェスタは、のろのろと半身を起こした。窓布の端から漏れる陽光が、彼女の美しい裸身を白く縁取っていく。
「ああ……ええ、そうよ。《太陽神の巫女》の証。――この腕輪のことまで知ってるなんて、さすがね」
 カイルは、呆然とノルシェスタを見た。
「あんた、巫女だったのか……!?」
「……あら、言ってなかったかしら? ええ、そうよ。えっと……十五の時だから、今から九年前ね。あなたの恩人の、セフィだっけ。彼女には負けるけど、フリーダル歌謡団の歌姫ノルシェスタっていえば、美声は勿論、巫女出身ってことでも結構有名なのよ。御存じなくて残念だわ」
 ノルシェスタは冗談めかして言ったが、カイルはそれどころではなかった。絶句したままの彼を、ノルシェスタは心配そうに覗き込んだ。
「カイル、どうしたの……?」
「あ、いや……あんたは、神官にはならなかったんだな」
「ええ。私が興味あるのは歌うことだけだもの。――あ、わかった。神の寵愛を受けた娘が、出会ったばかりの男の家に転がり込んだ挙げ句、自分から誘ったりしたから驚いてるんでしょ」
 理由の半分を言い当てられて、カイルは居心地悪そうに息を吐いた。それを見て、ノルシェスタがくすくすと笑う。
「歌謡団に八年もいたのよ? 町の有力者と一夜を共にしないと、興行させてもらえないことさえあった。――もう、酸いも甘いも知り尽くしたわ」
 たったひとつ知り得なかった、天涯孤独という絶望すら、今や手に入れてしまった彼女だった。
「……歌が好きなだけで入った世界だろうに、よく逃げ出さなかったな」
「団長を愛してたし、愛されてたから」
 その言葉に、カイルは顔をしかめた。
「辞めてきて、良かったのか?」
「そろそろ潮時だったのよ。団長、奥さんいるし。それに、巫女出身の歌姫がいるとはいえ、そろそろ若い子を売り出していかないと、これから先、団は立ち行かなくなっちゃうもの」
「………」
「あ、誤解しないでよ。私だってまだ二十四だもの。歌も、身体だって若い子に負けない自信はあるわ。でも、姉さんのことを、言わば他人のあなたにだけ押しつけることはできない。リエーラ・フォノイは、私の尊敬する姉だもの」
 はっきりと断言するノルシェスタを見て、カイルは口元に微笑を浮かべた。
「……仲の良い姉妹だったんだな」
「ええ、とっても。姉さんは昔から優しくて、頭が良くて……私の自慢だった。私が《太陽神の巫女》になりたいって言ったのは、姉さんのためでもあったのよ。私と一緒に聖都へ行けば、どこかの神殿が必ず姉さんのことを拾ってくれるって思ったの。そして、その通りに――」
 次の瞬間、急にノルシェスタが膝を抱え、顔を突っ伏して震え始めた。
「ノルシェスタ?」
「……姉さんを殺したのは、私ね。私が姉さんを聖都なんかに連れてきたから……」
「ノルシェスタ……」
 すると、ノルシェスタは首を振った。
「……ノーシェよ」
「え?」
「団のみんなには、ノーシェ姐さんって呼ばれてた」
 急に何を言い出すのかと思ったが、カイルはその通りに呼んでやった。女には無駄に逆らわない方がいいことは、これまでの経験でわかっている。
「……ノーシェ。殺されたのは、リエーラ・フォノイだけじゃない。去年の巫女も瀕死の状態で見付かって、リエーラ・フォノイの腕の中で亡くなったらしい」
「え……?」
「だからリエーラ・フォノイは、今年の巫女であるセフィまで巻き込まれないようにと動いていて――」
「敵の秘密を知ってしまった……!?」
「おそらく」
 すると、ノルシェスタは不安そうに手を揉んだ。
「ねえ、カイル。まだ……完全には信じられないんだけど、敵ってつまり……神官、ってことなんでしょう? これからどうするの……?」
 それに、カイルは沈黙した。
 確かに彼は、《光道騎士団》のエルミシュワ遠征が狂言だという事実を、直接耳にした。エルミシュワの民を騙った聖騎士を、《光道騎士団》の上層部が弔う場に潜んでいたのだ。だが、だからといって、《光道騎士団》の――月影殿管理官の最終的な目的を掴んだわけではない。
 エルミシュワ遠征に従った《光道騎士団》はだいたい五百人前後。そんな人数が動くとなれば、いろいろと根回しや準備が必要であり、それを調べていけば、何か掴めるかも知れない。だが、神官のどれほどが《光道騎士団》の闇に毒されているかわからないのが問題だった。神官全員が敵ならば、いっそ話は早いのだが。
「――そうだ。ねぇ私、一度セフィと会ってみたいんだけど、ダメかしら?」
 ノルシェスタの声に我に返ると、カイルは首を振った。
「それは、できない」
「どうして?」
「セフィは、聖都にはいない」
《太陽神の巫女》出身のノルシェスタは、大仰に黒い瞳を見開いた。
「何を言ってるの? もう二十日もすれば《秋宵の日》なのに、巫女が聖都にいないわけない――」
「いないんだ」
 そこで、カイルは《光道騎士団》のエルミシュワ遠征について話した。無論、アイゼスが行方不明のままであることも。
「そんなことが……。私が考えているより随分、事態は深刻みたいね。――え、じゃあ、セフィは今どこに?」
「それは、言えない」
「まだ私のことが信用できない? まあ、会ったのは一昨日だけど……」
 カイルは小さく笑った。
「そうじゃない。もしもの時のためにも、知らない方がいい」
「もしもの時って……昨日、必ず真実を突き止めるって言ったじゃない」
「オレじゃない。あんたが捕まって拷問にかけられたとしても、知らなきゃ口の割りようがないだろ」
「そんなヘマしないわ!」
「だと良いが」
 軽くあしらわれて、ノルシェスタはむくれたが、次には不審そうに眉根を寄せた。
「カイルって……年いくつ?」
「十八だが、それが?」
「……ひどく場数を踏んでるのね。あなたも、酸いも甘いも知り尽くしてるってわけなんだ」
 しかし、それには答えず、カイルは立ち上がった。――答えなかったことが、答えたことになるとは彼にもよくわかっていたが。
 カイルは服を着ながら隣室で水を呷ると、重要なことを聞き忘れていたと踵を返した。
「ノーシェ、『フラエージュ』という言葉を知っているか?」
「フラエージュ……? いいえ、知らないわ」
「そうか……」
 唯一の手がかりは、真実の鍵のように難題らしい。八方塞がりのカイルが溜め息を吐くと、下着を着けたノルシェスタが顔を覗き込んできた。
「なに? 何かの手がかり?」
「……セフィのことを、そう呼んだヤツがいたんだ。《太陽神の巫女》と、何か関係があるのかと思ってな。――まぁセフィも、何のことかわからないって言っていたが」
 ノルシェスタはくびれた腰に手を当てると、呆れたように笑った。
「恋人じゃないと言ったくせに、カイルは本当にセフィのことが大切なのね」
「ああ」
「好きなんでしょ?」
 カイルは首を竦めた。
「……そういう存在ではない気がする」
「じゃあ、どういう存在?」
 その時、窓から差し込む朝陽が青年の顔を照らした。――ありきたりだが、初めて納得する答えが出たように思った。
「……希望、だな」
 しかし、その答えに、ノルシェスタは不満そうな表情を浮かべ、昨晩の残りの果物を摘んだ。
「カイルは、今までに本気で誰かを愛したことはないの? 女を抱いたの、初めてじゃないでしょ?」
「……オレは、いつか天罰が下る身だ。愛さないと言うよりは、愛せないと言った方がいいかもな」
「天罰って……。まだ十八なのに、もう世捨て人?」
 カイルは、やれやれと内心で首を竦めた。このまま話し続けていると、やっとの思いでセフィアーナに打ち明けた過去を、芋づる式に喋る羽目になると思ったのだ。
「いいから、早く食べろ。出かけるぞ」
「え、どこに?」
「とりあえず、聖都を独りで彷徨けるようにならないと、何にもならないだろう」
 ノルシェスタに地理を把握させるためにも、聖都の地図を作らせることを思い付くと、カイルは乾いて固くなった面包を葡萄酒で流し込んだ。
「ついでに、その腕輪は外しておいた方がいい」
「でも、外せないようになってるわ」
「じゃあ、布か何かで覆うんだ。あと、これからはノーシェと名乗るようにしろ。元《太陽神の巫女》と知れたら、いろいろと面倒なことになる」
 すると、ノルシェスタはうんざりしたように天井を仰いだ。
「今までもずっと面倒だったわ。箔が付いたのは良かったけど」
「《太陽神の巫女》の台詞じゃないな」
「あら、セフィなら絶対に言わない?」
「ああ」
 案の定のカイルの返事にくつくつと笑うと、ノルシェスタは再び果物に手を伸ばした。

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