The story of Cipherail ― 第五章 双頭の鷹


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 新年を迎えると、サイファエールではどの地域でも大抵六日間ほど祭事や宴が行われる。六日というのは、一日に二聖官ずつ十二聖官の祭殿へ詣で、その一年の平穏と繁栄を願う故である。主神テイルハーサへは、通常、《秋宵の日》から《春暁の日》まで正式に詣でることは控えるのだが、聖官殿のない町や村では、太陽神の神殿に一日二度詣でる風習となっていた。領主の居城がある町では、新年初日や祭日最終日に領主が領民へ顔見せするところが多く、そこで振る舞われる酒やみやげを狙って、例年、多くの人々が詰めかけていた。
 しかし、この年は何と言っても新しい国王の即位の儀が王都で行われており、大きな町ともなると、新王誕生を祝う行事はひと月先までも組まれていた。勿論、テイランも例外ではない。彼の地はサイファエールの西海岸最大の港町とあって、その名誉に懸けて、大規模な催事が連日行われるのだった。
 新年三日目を迎えたその日の午後、前日に引き続き二聖官への参拝を終えたセフィアーナは、ラスティンとアリオス、そしてトゥリンクスと共に、プリスラ城の東外郭にいた。トゥリンクスとは、狼族二人が世話になっている老師へ挨拶に行った際に知り合った。以来、トゥリンクスがセフィアーナの通っている孤児院に遊びに来たり、一緒に町へ買い物に出かけたりと、親しく付き合うようになっていた。無論、未だにトゥリンクスから勝ち星を挙げられていないラスティンは、それを快く思っていないのだが。
 普段は畑や様々な備蓄庫のある東外郭だが、催事のため、領主代理のアイオールが領民に十日間ほど開放したおかげで、大変な賑わいを見せていた。各地から招かれた大商人が、訪れる人々の目を楽しませるような芸術品や珍品を展示し、また御前興行もしたことのある芸人たちが、優れた技を披露して観客の拍手喝采を浴びていた。周辺諸国の名物料理の出店の前には行列もできている。
「ねぇ見て、セラーヌ! これ、とっても素敵じゃない!? セラーヌにすごく似合いそう」
 ある宝石商の前で、トゥリンクスがセフィアーナの腕を引いた。セフィアーナが足を止めて見ると、そこには青い宝石を連ねた銀の髪留めが飾ってあった。
「わぁ……素敵ね。でも、リンにも似合うんじゃない?」
「私はダメよ。こんな髪だし」
 トゥリンクスは、肩までの淡い茶色の巻き髪をつまむと、軽く首を竦めた。
「リンは髪を伸ばさないの?」
「だって邪魔なんだもの。稽古の時、髪の端が目に入ったり、頬に当たったりするから。相手に当たるのには別にいいんだけどっ」
 トゥリンクスは後方の男二人にちらっと目を遣った後、小さく溜め息を吐いた。
「……本当は短くしたいんだけどね、それには親が反対なの」
「そうなの……。でも、クレスティナ様はとても長くしていらっしゃるわよ? それで、とてもお強いのだから――」
 すると、トゥリンクスが目をこれ以上ないくらい見開いて、セフィアーナを見た。
「えっ、セラーヌはクレスティナ様を見たことがあるの!?」
 瞬間、しまったと顔に書いたセフィアーナだった。見たことどころか護衛をしてもらったことさえある。その気安さから、ついその名が口をついて出てしまった。
 いくら仲良くしているとはいえ、セフィアーナの素性は、トゥリンクスにも秘密だった。それが新しい友人の身を守ることでもあるのだから。
「あっ、いや、あの……う、噂で……そう、噂で聞いたの」
 セフィアーナはしどろもどろで答えたが、トゥリンクスは意外にもあっさりと納得したようだった。
「なんだ、噂かぁ……」
「そ、そういうリンは、クレスティナ様のことを知っているの?」
「まさか! 私はこのテイランから出たことないもの。私も話に聞いただけ。でも、女の身で、天下の近衛兵団の小隊長をされているんだもの。きっと立派な御方なんだろうなって思って……」
 意外なところにクレスティナの心酔者がいたものだ。セフィアーナは、嬉しくなって目を細めた。
「……もしかして、リンの憧れの人?」
「うん……。でも、私なんか、全然だめだけど」
 おどけたように笑うトゥリンクスに、セフィアーナは表情を翳らせた。
「『私なんか』って言わないで」
「え?」
「……私もね、やる前から自分のことを卑下したことがあったの。でも、ある人に言われたのよ。私のことを信じてるって。だから、リンも自分のことを信じてあげて」
 それは、養母にして師匠のシュルエ・ヴォドラスから、《太陽神の巫女》に推薦すると言われた時のことである。孤児であることを恥じた少女を、シュルエ・ヴォドラスは叱咤し、そして力強い言葉で励ましてくれたのだ。そのおかげで、セフィアーナは《太陽神の巫女》に成り得たのだった。
「セラーヌ……」
 トゥリンクスが恥じたように身を正した時、露店の主人が二人に声をかけてきた。
「お嬢ちゃんたち、良い話をありがとう。そのお礼と言っちゃなんだが、これ買わないかい? お安くしとくよ」
 言うなり指したのは、先ほどの銀の髪留めだった。思わず、トゥリンクスが飛びつく。
「えっ、いくら!?」
「サイファエールの銀貨なら、五十枚ってとこだな。レイスターリアのなら――」
「おじさん、私たちがお姫様に見える? いくらかわいいからって」
 銀貨五十枚など、髪留めひとつのために貴族でもない少女たちが自由にできる金額ではない。そこでトゥリンクスは、主人が客寄せの商品の前にずっと陣取っている二人を退かせるために言ったのだと、今さら気付いた。
「なら、こっちの石はどうだい? これならお嬢ちゃんたちにも買えると思うよ。種類や色の違いによって、いろんなお守りになるんだ」
 気難しい顔になったトゥリンクスの機嫌でも取るように、主人は店の端に置いてあった木箱を指した。格子状に仕切られたそこには、確かに色々な石が同じ種類ごとに収まっていた。
「え、いえ……」
 セフィアーナが断ろうと首を振った時、後方からその様子を見ていたアリオスが明るい声を発した。
「好きなの選べよ。せっかくだし、買ってやるぜ?」
「アリオス。でも……」
 遠慮しようとするセフィアーナを見て、アリオスは調子よく弟分の肩を叩いた。
「いいっていいって。なっ、ラスティン」
「えっ」
 ラスティンは迷惑げにアリオスを見たが、女二人の見ている手前、断りようがなかった。少年が言葉に詰まっている間に、アリオスは飄々とセフィアーナたちを木箱のところへ連れて行ってしまった。二人が石選びに夢中になっているのを見届けてから、ラスティンはアリオスを雑踏の方へ引きずっていった。
「おい、アリオス! おまえ、カネなんか持ってるのかよ!?」
「おまえ、持ってんだろ? 知ってるぜ、しばらく波止場で働いてたろ」
 ラスティンは、ぎょっとしてアリオスを見た。
「なっなんで……」
 カイルと出会って以来、食費等すべて彼の懐に縋っていたラスティンだが、テイランへ来てから、もともと持っていた自分の路銀――といっても、スリで稼いだわずかな額だが――をすっかり使い果たしてしまった。そこで、日雇いの仕事を探して小銭を稼いだのだが、こうやってたかられることを恐れ、アリオスには内証にしていたのだ。
「この間、グレインのところに行った時に聞いた。子分がおまえを見かけたんだと。ケチくさいこと言うなよ、いいじゃねえか。祭で女に物買ってやって何が悪いんだ」
「そういうことは、自分のカネで買ってから言え!」
 しかし、アリオスはまったく聞いていない様子で、ちょいちょいとラスティンの後方を指さした。振り返れば、女たちがこちらをじっと見ていた。
「え、えっと……あ、き、決まった?」
 結局、ラスティンは内心で盛大に不平を鳴らしながら、露店の前へと戻った。
 優しい姉に買ってやるのには何の不満もない。ただ、鼻持ちならない跳ねっ返りに自分の大切な銭子かねを使うのが嫌だったのだ。
「ラスティン、本当にいいの?」
 気遣わしげな姉の声に、ラスティンは無理矢理笑顔で応じた。
「いいっていいって。どれ?」
「えっと、私は日長石というのにしたの。色がほら、太陽みたいでしょ? リンは水晶。向上心を導くんですって」
「姉さんらしいね……」
 返しつつも、「向上心」という言葉に、否が応でも反応してしまう。自分が与えた物が、自分を打ちのめす手助けをするというのか。
(いや、そんなことさせてたまるか! 水晶でも金剛石でも、どんと来いってんだ!)
 ラスティンは財布の中の銅貨をむんずと掴むと、主人に向かって差し出した。
「毎度!」
 にっかり笑う主人の顔が忌々しい。ラスティンがさっさと踵を返した時、期せず正面に立っていたトゥリンクスと目が合った。
「あ、あの――」
「何だよ?」
 不機嫌丸出しのラスティンに一瞬、怯んだものの、トゥリンクスは小さく頭を下げた。
「これ、ありがと」
 物を買ってもらったら礼を言うのは当たり前のことなのだが、あまりにも素直に言われたため、ラスティンの方が面喰らい、そしてなぜか赤面してしまった。
「べっ別に、そんなの!」
 自分でも何が言いたいのかわからないまま、ラスティンはトゥリンクスから離れた。
「ねぇ、あっちでこれから大きな動物が芸をするんですって。行ってみましょ」
 セフィアーナが、客引きの呼び声に目を輝かせる。しかし、全身のむず痒さが、少年をへそ曲がりにした。
「オレ、いいや。アグラスが気になるし、先に城へ戻ってる」
 いつもは傍に欠かせない狼たちだが、アイオールに二頭を東外郭へ連れて行くことを禁止されてしまったため、今はその姿がない。様々な場所から人や動物が集まってきており、無用の揉め事を避けるためだった。無論、ラスティンとアリオスには面白くないことだが、居候の身分で文句は言えない。
 突然の帰宅宣言に他の三人が呆気に取られている隙に、少年は城へと渡る中跳ね橋に向かって、ひとりさっさと歩き出した。


 テイラン中が祝宴の酒に酔いしれている中、イスフェルの留置房がある城門棟も、新年の挨拶に訪れる地元名士たちの靴音の響きが賑やかだった。
 主人に同伴できず、ふてくされたように寝てしまった狼たちを足下に一瞥した後、イスフェルは鉄格子の向こうに見える小さな空を眺めた。東外郭のものだろうか、時折、風に乗って、祭の喧騒が聞こえる。
(……ああ、王都の祭は、どれほど華やかにやっていることだろう……)
 目を綴じれば、瞼の裏にひとつの情景が浮かび上がる。王宮の蒼の間に居並ぶ文武百官。その上座で、蒼い重厚な外套を身に纏い、臣下を見渡す少年王の姿――。
(ひと目でいい。ひと目でいいから、ミール様の国王となられたお姿を、この目で……)
 イスフェルは、再び顔を上げた。鷹が舞うにふさわしい蒼い空が、青年の心に否応なしに叶わぬ夢を抱かせる。――すこぶる、気が滅入った。
 何度悔いたところで、王都へは――コートミールとファンマリオのそばへは、二度と戻れない。戻れたところで、彼の隣にユーセットはいない。
 先だって、弟シェラードがアイオールに寄越した手紙には、チストンの谷のことが書かれてあった。王都へ着いた伯父デルケイスから、イスフェルが話した襲撃の様子を聞き、ユーセットの死に責任を感じて、その遺体を回収しようと人を遣ってくれたらしい。だが、なにぶん襲撃から日数が経っており、川が何度も雨で増水していたこともあって、遺留品のひとつも見付からなかったという。下流地域での聞き込みで死体が流れ着いたという情報は得られなかったが、敵方の死体もあったことを考えると、襲撃者の残党がすべてを埋めるなどして、証拠隠滅を図った可能性もある。――つまり、やはりユーセットは死んだということになるのだ。
(ユーセット。おまえのことを想うと、気が狂いそうだ。冤罪を晴らせたとて、おまえがそばにいないんじゃ……)
 イスフェルは背を丸め、膝の上で頭を抱えた。この上は、コートミールが善き王として成長してくれることを祈るしかない。それが通じさえすれば、少年を王都へ連れて行ったイスフェル自身やユーセットが、この世に生まれた意味もあったというものだ。
(ミール様は利発で母親思いの御子。この願いだけは、きっと叶うだろう……)
 その時、じっと伏せていたアグラスが、ふいに顔を上げた。耳を立て、廊下の先を窺う様子を見せる。
「アグラス……? ラスティンは当分戻って来ないぞ?」
 しかし、予想に反して暗い廊下に姿を見せたのは、ラスティンだった。
「どうしたんだ? ひどく早いな。セフィたちは?」
「姉さんたちなら、なんか動物の曲芸を観に行った。オレは……気分が乗らないから帰ってきた」
 鉄格子越しにアグラスの頬を撫でる少年の様子は本当に元気がなく、イスフェルは心配そうに首を傾げた。
「ラスティンが元気がないなんて珍しいな。何かあったのか?」
「別に……何かってほどのことじゃないよ」
 まさか愛狼がそばにいなかったという理由ではあるまいなとイスフェルが思った時、廊下側の窓から、竪琴の音が聞こえてきた。弾き方に癖があり、セフィアーナではないことはすぐにわかった。立ち上がったラスティンが外を見て、北堰の上に人だかりができていると言う。きっと吟遊詩人でも来ているのだろう。しばらくして聞こえてきた声は、男のものだった。風下なのか、のびやかな歌声がはっきりと二人の耳に届く。

  昔 風が吹いていた
  葉を分け 野を走り
  村に辿り着いた
  風はそこで恋をした
  金の髪 白い肌 海のような瞳
  ああ 自分が人間であったなら
  ああ 娘と一緒にいられるのに

  風は為す術もなく吹き続けた
  募る想い 荒む心
  ただ孤独に耐えた
  ある日 娘が風に気付いた
  囁く声 雨の涙 あなたは誰?
  ああ 独りではなかった
  ああ きみが愛おしい

  風は娘のまわりを吹き続けた
  靡く髪 舞う衣
  きみしか欲しくない

「ねえ、イスフェル」
 ふいにラスティンが沈黙を破り、歌に耳を傾けていたイスフェルは、びくっとして顔を上げた。
「ああ……何だ?」
「テイラン警備隊って、そんなに入るの難しいの?」
「え……なぜだ?」
 唐突な話題に、イスフェルは藍玉の瞳を瞬かせた。
「道場のナンディってヤツがさ、今年こそは絶対に入隊するんだって、ケル……何とかっていう戦いの神様の神殿に、年明けてから毎日通ってるんだって。ナンディはウチの道場でも一、二を争う強者なのに、そんなヤツでも入るの大変なのかと思って」
 通常、六日かけて十二聖官の祭殿を巡るものだが、例えば官吏の試験に合格したいなどという大願のある者の中には、その成就のため、十二度連続で同じ聖官殿へ詣でる者もいるのだった。
「ケルストレスだな。ああ……まぁ、平時の補充はそう多くないからな。大昔にアイオールから聞いた話では、多くて五人……普通で二、三人らしいぞ」
「そんな少ないんだ! 試験の時には、希望者がいろんなところから集まってくるんだろ? そっか……それでみんな、あんなに必死なんだ……」
 ラスティンがテイランへやって来て、もう三月が経つ。少年なりに色々と思うことも出てきたのだろう。先行きが読めなくて、不安なのかもしれない。もっともそれはイスフェルも同じだが。
「なんなら、ラスティンも一度、入隊試験を受けてみたらどうだ?」
「えー、やだよ。アイオールがオレを入れるわけないし、万一受かったとして、アイツに顎でこき使われるなんて」
「はは、そうだな。――ああ、それに、それよりもまず、例の娘に勝たなくてはな」
 すると、ラスティンは一瞬で笑顔を凍り付かせ、下を向いて震え始めたかと思うと、いきなり鉄格子をゆすって暴れ出した。
「もう、イスフェルまで! アイツの話はやめてくれよ!」
 どうも禁句を言ってしまったらしい。耳障りな金属音を嫌い、狼たちは房の隅に退き、イスフェルは寝台の上で耳を塞いだ。
「そ、そんなに嫌がらなくても……。セフィの話では、気の良い娘らしいじゃないか」
「どっ、どっ、どこがっ!? 少なくともオレには最低だよ! 女のくせにオレを見下すんだぜ!?」
 本気で腹を立てている様子の少年を見て、イスフェルも笑みを引っ込めた。
「……見下してるのはどっちかな」
「え?」
「王立学院に通っていた時の友だちにいたよ。臨時で来た女の剣術師範を毛嫌いした奴が。そいつがとんでもない行動に出たおかげで、オレも仲間も、まぁ大変な目に遭った」
 そう言って溜め息を吐いたイスフェルを、ラスティンは怪訝そうに見ている。
「その時の先生は、今や押しも押されぬ近衛兵団の小隊長だ。三日前までは、王太子殿下付きだったはずだ」
「え。女なのに……?」
 心の底から疑っているような少年の眼差しに、イスフェルは思わず苦笑した。
「なあ、ラスティン。男とか女とかじゃなくて……ひとりの人間として優れた者が、努力した者が、それに見合った場所に居ることがきっと良いんだ。トゥリンクスは、強くなろうと努力していないのか? スプラ先生の孫であることを鼻にかけたりするとか?」
「そんなことは、ない、けど……」
「ラスティンがそうやって毛嫌いしているから、向こうもそれを感じて反発してくるのかもしれないぞ?」
 これには返す言葉がない少年だった。確かに、初めて会った日のトゥリンクスは、彼とアリオスに対して好意的だったのだ。それが一変したのは、そもそも自分の『女のくせに』という発言が原因だった。
「世の中、誰とでも仲良くできるほど単純ではないし、トゥリンクスが男だったとしても感じる反発ならもう仕方がないが、そうではないのなら、少し考え方を変えてみるのもいいかもしれないぞ」
「………」
 廊下の床に座り込んだラスティンの前に、アグラスがやって来た。鉄格子から鼻先を出して、心配そうにこちらを見ている。ラスティンは手を伸ばし、アグラスの頭や頬を撫でてやった。そして、ふとエルジャス山での暮らしのことを思い出した。他の子どもたちによく「呪われた子」「よそ者」と蔑まれ、嫌な思いをしたものだった。自分が今、トゥリンクスに抱いている感情は、あの子どもたちと同じ種類のものなのだろうか。そうだとしたら、自分が許せない。
「どうするかな」
「え?」
 イスフェルの言葉に、ラスティンは答えを迫られたのかと思って顔を上げた。だが、青年はにこりとして別のことを言った。
「アグラスたちさ。このまま、ずっとここに居るわけにもいかないだろう? だが、この時間、アイオールは忙しいだろうしな……」
 独房の鍵は階下の兵士が持っているが、無論、領主かアイオールの命令がないと解錠できないので、アイオールが来るまで相棒を外に出すことはできないのだった。
「いいよ、アリオスが戻ってくるまで、オレもここにいる」
「いつになることやら」
「あはは。言えてる」
 しかし、ここでもまたイスフェルの予想は大きく外れた。イリューシャが鉄格子に寄ったかと思った瞬間、セフィアーナが血相を変えて廊下を走ってきたのである。その後ろには、アリオスとトゥリンクスと思われる少女の姿があった。
「どうし――」
「どういうことなの、イスフェル!?」
 セフィアーナはなだれ込むように鉄格子を掴むと、イスフェルに向かって叫んだ。
「新しい国王はトランス様だってお城の人が触れ回ってて――ミール様は!? どうしてミール様じゃないの!?」
「な、に……」
 イスフェルが顔を強張らせた時だった。
 乾いた靴音がして、廊下の先からアイオールが歩いてきた。
「……城内に私の許可なく部外者を連れ込むとは、恐れ入ったな」
 アイオールの視線に貫かれ、トゥリンクスが息を呑む。
「あの、すみません! 私――」
「トゥリンクスだよ、アンタが贔屓してる。スプラ先生の孫なんだから、悪いことしやしないよ」
 ラスティンの不機嫌な声に、アイオールは目を瞬かせると、「なら、いいが」と眉間のしわを緩めた。
「だが、金輪際、勝手な真似は赦さないぞ」
「わかったわかった、悪かったよ。なんか成り行きで連れてきちまって。それよか、えーっと、新しい王様のことで、イスフェルが話があるらしい、ぞ……?」
 話の矛先を無理矢理イスフェルへと向けるアリオスを一瞥したものの、アイオールは何も言わなかった。そのまま、イスフェルの独房の前へ立つ。
「囚人のくせに耳が早いことだな」
 しかし、イスフェルはその軽口には応じなかった。応じられなかった、と言った方がいいかもしれない。
 年下の青年の憐れなほど険しい表情に、アイオールは王宮の早馬が知らせてきた内容を告げた。


 王都へ赴いている領主デルケイスからの待ちに待った知らせが届いたのは、凶報から実に十日後のことだった。処刑されたと思っていた王子二人が生存している可能性があるという報告に、セフィアーナは安堵のあまり泣き崩れてしまった。一方のイスフェルは、連日、誰をもそばへ近付けず鬱々と時を過ごしていたが――本来、囚人とはそういうものだが――、アイオールから伯父の書状の内容を聞くなり、その目を不死鳥のごとくぎらつかせると、追捕隊のシールズを留置房へ呼びつけた。
「オレは出る!」
「は?」
 呆気に取られるアイオールとシールズへ向かって、イスフェルは城門棟内に響き渡るほど大きな声で叫んだ。
「シールズ、オレを王都へ連れて行け! おまえの持っている権限を今、行使するんだ!」
 王位に座する者が代わっても変わらぬ祭の喧噪が、立ち尽くす三人の男たちのまわりから一気に遠ざかっていった。

【 第五章 了 】


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