The story of Cipherail ― 第五章 双頭の鷹


     10

  蒼穹に舞う孤高の翼
  鎌が風に捕らわれ斬られ
  双つ首になりにけり
  ぐとは飛べぬ意思の果て
  墜つるは西か南か中ほどか

    (ベイハール海を巡る吟遊詩人の歌)


 新年早々、セディスは悪い夢を見ているのだと思った。そうに決まっている。でなければ、どうして祭礼官長の口から、王弟の名が新国王のそれと発されるのか。どうして玉座へと延びる灰色の絨毯を、王弟トランスが妃ルアンダを従えて堂々と歩んでいるのか。
(なんの、冗談だ……)
 その思いは彼に限ったことではないようで、専ら厳粛な儀式の行われる蒼の間が、いつになくざわめいていた。そんな中、セディスは今さらながら王族席の方へ視線を走らせた。すると、そこに居たのは、トランスの息子リグストンとその妻シューリア、そして孫娘のシリルだけだった。王子二人とレイミアは言うに及ばず、王太后となるはずのメルジアや三人の王女、さらには王家の長老ラースデンの姿までもない。
「おい、セディス」
 隣から不安げに小声で話しかけてきたのは、同窓同期のエルセンだった。昔から小柄で、今でもセディスの頭ひとつ分ほど背が低い。
「一体どういうことだよ? ミール様は……?」
 それへ、セディスは吐き捨てるように答えた。情報屋として密かに名を馳せるエルセンだが、彼にとっても寝耳に水の出来事だったらしい。
「知るか。そんなことより――」
 王弟が新国王となろうとしている今、重要なのは王子二人の所在である。
(シダの奴、肝心な時に何で情報を入れないんだ! 何のための異動だ、あのクソバカ!)
 まさか昨日の友人の使い走りが、上官に疎まれたゆえのものとは思いも寄らない。彼は場内の警備に立つ王弟の親衛隊員の顔をひとつひとつ確認したが、そこにシダの姿はなかった。
(落ち着け、大丈夫だ。ミール様とマリオ様には、クレスティナ殿が付いてる。きっと、大丈夫だ……)
 彼の苛立ちや不安などにはお構いなしに、儀式は粛々と進行していく。ついに玉座へと登りつめたトランスは、縁に純白の毛皮を縫いつけてある蒼い外套を翻し、貴族と文武百官の立ち並ぶ方へと向き直った。その横で、やはり蒼い豪奢な絹服を纏ったルアンダが、切れ長の瞳に不敵な光を浮かべて場内を見下ろす。その前へ、祭礼官長のエヴェスが王冠の載った銀の飾り盆を掲げ持って進み出る。と、トランスはそれを制した。一瞬、戸惑ったような表情を浮かべたエヴェスが下がって畏まるのを見届けると、トランスは再び場内に視線を戻した。そして、セディスの並ぶ後方まではっきりと届く声を発した。
「今、私がここへ立っていることに対し、皆の者の心には、疑念と不安、そして不信の念とが渦巻いていることであろう。それもその筈、この私でさえ、このような仕儀に相成るとは、思いも寄らぬことであった」
 ふいにトランスが言葉を切る。今や場内は、人々が震える息を吐くごとに、緊迫の糸が張り巡らされていくようであった。
「つい昨晩、亡き兄王イージェント陛下の側室レイミアの大罪が明らかとなった。彼の者は、昨年六月、王族会議の持たれた鷹の間において、己の双子の息子を、畏れ多くも我がサイファエール王家の血筋との虚偽の宣誓をした。これは、レイミア本人が私の前で認めた事実である」
 蒼の間の天井に、目には見えぬ稲妻が凄まじい光を放った。そして、それは誰の心をも轟音をもって割り裂いた。
「我がサイファエール王家は、――いや、我らがサイファエール王国は、父祖の大功をもって始祖クレイオスの時代より連綿と続く、伝統と格式ある大国である。その玉座に鷹の眼力を持たぬ者が就けば、王国の前に延びる途は、ひたすら滅亡へと向かうものとなるであろう。ゆえに、私がここに立つこととなった」
 呪縛の術のようなトランスの言葉は、今や臣下全員を石像へと変化させていた。即位の儀を執り行う者として先に事情を知らされており、王弟の即位を了承していたにもかかわらず、エヴェスもその類に漏れなかった。もうひとつ言えば、王の子として生まれ、先王と玉座を争っただけあって、トランスの王者としての風格は、申し分ないものだった。よくぞ今まで爪を隠していられたものだとさえ思う。そして彼は、トランスから向けられた視線で、ついにその時が訪れたことを知った。
 中央に進み出たエヴェスが恭しく掲げ持った飾り盆の枕から、階段を左右から登って来た近衛兵団長トルーゼと宰相代理エルロンが、二人がかりで王冠を持ち上げる。それは、即位の儀や、それに準ずる重要な儀式の時にしか使用されない、一国の名誉を懸けた豪奢な代物だった。金の台座を真珠が縁取りし、その内側を小さく加工された無数の宝石で鷹が蔦と雲の模様の狭間を飛び交う姿が構成されている。正面には青玉が左右対称に配され、鷹の眼のように見る者を圧倒した。さらに王冠の頂きから放射状に、大小様々な金剛石が縦に並び、古来よりの栄光の輝きを放っていた。
 誰もが胸を突く想いの果て、覚悟を決めるしかなかった。文武の長が王冠を支えたということは、レイミアの大逆は真実であり、トランスを国王と仰ぐしか途がないのだ、と。双子の王子のことは――快活で、本当に背に翼を持っていそうだった王太子コートミールのことは、もはや夢であったのだ、と。
 トランスがわずかに身を屈め、王冠を頭上に戴く。そして、再び身を起こした彼は、手に持った王錫を臣下の前に突き出し、朗々たる声を発した。
「ここに誓おう! この命尽きるまで、我がサイファエールのためにのみ生きることを! 余は、第十五代サイファエール国王トランスである!」
 その宣言に、前列から誰もが恭しく跪き、頭を垂れていく。それは重い津波のようにセディスを襲ったが、彼は身じろぎもせず突っ立っていた。慌てたエルセンに礼服の袖を思い切り引かれ、無様にも尻もちをつく。だが、体勢を整えることもできず、青年は呆然とその場に座り込んでいた。
 完全に、思考が停止していた。それにもかかわらず、手が小刻みに震え、全身は総毛立っていた。
(レ……レイミア様が、虚偽の宣誓、だと……!? ミール様と、マリオ様を、へ、陛下の御子ではないと……!? そんな、そんな馬鹿な……!!)
 セディスの狭い視界の中で、蒼の間の床が奇妙に歪んでいく。何も見えなくなった後、淡い光の中に、テフラ村での光景が断片的に浮かぶ。明らかに王都からの使者と判る自分たちに対し、息子たちを守ろうと必死で立ち向かってきたレイミア。王都へ行くことを決心した後の、一段と強くなった彼女の表情。
(イージェント陛下を、レイミア様は夫と、子の父と、あんなに愛されていたのに……!?)
 セディスはぎゅっと目を閉じると、紫根色の頭を振った。己の耳で、聴いたわけではない。むしろ、トランスこそが偽りを言っている可能性の方が高いではないか。つい昨夜まで、レイミアは王太子の生母として、コートミールとファンマリオは、サイファエールの王子として存在していたのだから!
 ようやく自分を取り戻したセディスは、素早く体勢を改めた。今はとにかく、この場で見聞きできることのすべてを吸収しようと思った。だが、青年にとっての凶報は、これに留まらなかった。蒼の間での式典終了直後、リグストンの立太子礼の日取りと、そして、双子が既に処刑された事実が発表されたのである。


 蒼の間を飛び出したセディスは、人気のない廊下を猛然と走り抜けた。出仕二年目が幸いして広間の後方に居た為、混雑を避けることは容易だった。――もっとも、青天の霹靂の事態に、蒼の間に集った人々は、しばらくそこから動けないだろうが。
 コートミールのために用意された即位の儀は、その名がトランスに置き換えられただけで滞りなく進んでいた。宮廷の混乱を最大限、避けるつもりなのだろう。とすると、今後の予定は、新国王となったトランスが馬車に乗り込み、王都に点在する十二聖官の神殿を巡りながら民衆への披露目と替え、大神殿で太陽神への宣誓をすることになっている。護衛に付いて回らねばならない近衛や武官と違い、書記官たるセディスにはわずかでも時間の余裕がある。そこで彼が向かったのは、王子たちの暮らしていた――いや、暮らす宮だった。
 全速力で駆けてきたセディスは、入口の直前で足を止め、呼吸を整えた。その後、入口の様子を伺う。そこで警備に立っていたのは、通常通り、二人の近衛兵だった。見知った顔ではないので、クレスティナの隊ではないらしい。セディスは腹に力を込めると、落ち着いた足取りでそこへ向かった。そして、いつものごとく、そこを通り抜けようとする。しかし。
 耳障りな音を立てて、自分の首元で交差する長槍に内心で深く吐息しながら、セディスは左右にゆっくりと視線を動かした。
「……王太子殿下に、お目通りを」
 しかし、二人の近衛兵は強張った表情のまま沈黙を保っていた。セディスは、たまらなくなって叫んだ。
「ミール様にお目通りを!!」
 その時だった。奥の廊下の暗がりから、人影が歩いてくるのが見えた。しかし、聞き慣れた軍靴の音が、その影の大きさが、早くもその正体が王太子ではないことをセディスに告げる。
 現れたのは、近衛兵団第一大隊長ラルードだった。
「何事だね、騒々しい」
 上官の登場で力の緩んだ長槍を押しのけると、セディスはラルードに迫った。ラルードのことは、クレスティナやシダの上官ということで、よく見聞きしていた。
「私はセディス=ガルヴォードと申します。どうぞ、王太子殿下にお取り次ぎを!」
 途端、ラルードの目がすっと細められた。彼は、セディスの書記官の礼服を訝しげに眺めた。
「……きみは、式典には出なかったのかね?」
「つい先ほど終わりました」
 それを聞いて、ラルードは曇った表情で溜息をついた。
「それでここへ飛んできたというわけかね。……宮廷人として賢い選択ではないな」
「大隊長……!」
 セディスは幻滅した。ラルードの第一大隊は、クレスティナの第三小隊を筆頭に、王太子の周辺警護を主に任されていた。ラルード本人も、王子二人には親身になっていた。それが、一夜にしてなぜこうも変心してしまえるのか。ラルードだけではない。近衛兵団長も、宰相代理も、祭礼官長も、他の主立った官僚幕僚たちも。
 セディスも愚かではないから、宮廷の恐ろしさはわかっているつもりだが、それでも今回の上層部の変心ぶりには、はらわたが冷えきる思いだった。
 その時、ふいにラルードの手が、セディスの胸元に伸びてきた。避ける間もなく、その無骨な手に首の自由を奪われる。ラルードが、セディスの首から下がっていた物を掴んだのだ。それに視線を落とした後、セディスははっとしてそれを取り戻し、身を引いた。礼服の内側に入れておいたのが、走った時に出てきてしまったらしい。その、ほのかに色づいた白い貝殻を、セディスはきゅっと握りしめた。
「……セディスと言ったね」
 ラルードの穏やかな呼びかけに、セディスは緊張した面持ちで顔を上げた。
「残念だが、王子を名乗っていた少年たちは、もうここにはいないよ。きみと共にテフラ村へ行ったクレスティナも」
「え……!?」
 瞬間的にこめかみが冷えたような感じがして、セディスは凝然と大隊長の顔を見つめた。
 王子たちは処刑されたと発表された。クレスティナは、昨夜は夜警だと言っていた。二人をかばって、まさか彼女までもが死に神に連れて行かれてしまったのだろうか。――しかし、それはセディスの考えすぎだった。
「彼女は昨晩のうちに近衛を辞めた」
 次のラルードの言葉に、セディスは彼には珍しく、あからさまに安堵の吐息をついた。今さらながら、心臓が早鐘を打つ。しかし、結局、クレスティナまでがいなくなってしまったことに変わりはない。そして、次には苛立ちの思いも募ってくる。そんな重大事を――王子たちに関係した政変を、なぜ彼女は自分に知らせてくれなかったのだろうか。昨晩のうちに王宮を出たなら、鷹巣下りの仲間に対し、伝言のひとつ、手紙のひとつあっても良かったはずだ。
「そ、んな……」
「おかげで、我が第三小隊が消滅した。よもや部下の者たちにあれほど好かれていたとは……。いや、あれはもはや『愛』だな」
 忘我する青年の前で、ラルードはぶつぶつと言い募った。
『大切に育てていた部下を……すまぬな』
 昨晩、そう近衛兵団長に謝られた後、ラルードは王弟親衛隊の動向を探り、クレスティナに情報を与えた。その後、自分の執務室に戻った彼のもとに、第三小隊の者たちが大挙して押し寄せてきたのである。とりわけパウルスのラルードに対する追及は執拗で、結局、ラルードは、双子の護送先をそれとなくでも教える羽目になってしまった。その後、彼らは一斉に出て行ってしまったが、彼らが出ていった先で何をしたかは、夜明け直前に闇の中から戻ってきたかつての同僚、フレイの姿を見れば明らかだった。フレイは肩を脱臼した挙げ句、足の骨を折っていた。
 フレイから、クレスティナの部隊による襲撃の報告を受けた王弟は、双子を処刑したと発表することに決定したという。双子が逃亡したと公表すれば、真実の追究を諦めきれない王太子派の者たち――例えば眼前の青年のような――を決起させるからであろう。既にこの世にいないと告げれば、新国王に反感は持てども反抗はできず、双子への忠義心に対しても、不可抗力だと変心の罪悪感を覚えさせずに済む。あとは時間が解決してくれるというわけだ。ちなみに、クレスティナの襲撃は退団後であったため、ラルードの監督責任が問われることはなかった。彼女の部下の二十九名については、彼らは退団するとも何とも言わず出ていったのだが、彼らとその家族の身を守るため、ラルードは勝手に退団の処理を行った。
 漏れ聞いたところでは、クレスティナが花火師に持たせた書状には、『無知を愛し、博識を憎む』とのみ書かれてあったという。サイファエールの歴史書に書かれている一文で、ある時代の宰相の為人について記述したものである。私は何も知らぬ花火師たちを利用し、すべてを知る貴方に牙を剥く――今回の政変に関し、彼女はそれを痛烈な皮肉として王弟に宛てたのだろう。無論、花火師たちの身柄を守るためでもあったのだろうが。それに目を通した王弟は、口の端に笑みを浮かべたのみで、花火師たちを帰宅させたという。だが、その裏で、逃げ延びた王子たちに追っ手を放っていないとは言い切れないのだった。
 このような王国の重大事に、「愛」などと意味のわからぬことを口走るラルードを、セディスは少々不審げに見つめた。そんな彼の様子に気付き、ラルードが小さく苦笑する。それからラルードは、セディスに対して忠告を発した。
「気を付けたまえ。今やその貝がきみに呼び寄せるのは、悪運だ」
 そうして、踵を返し、奥へと戻っていく。その、幾分精彩の欠いた背を呆然と見送ると、セディスもまたゆっくりと来た道を戻り始めた。しばらく行ったところで、ふと握り締めたままだった首飾りを見つめ、足を止める。
(――そうだ、これは王太子派の証……)
 今後、国王となったトランスがその陣営をどう扱うかは、同じことの繰り返したる宮廷史が既に語っていることである。セディスはふいにおかしくなって、口の端に笑みを浮かべた。
(はてさて、今夜帰ったら、父上はどんな反応を見せることやら)
 セディスの父ゼローグは、権力欲の強い男だった。自分の代でガルヴォード家を大きくしたと強烈な自負のある彼は、それをさらに大きくすることを、生まれたばかりのセディスにも望んだ。ゆえに、王立学院へ入る前まで、セディスは父の帝王学をひたすら聞かされて育ったのだ。
 セディスが宰相家の嫡男であったイスフェルと友人になったと聞いた時、コートミールが王太子に立った時、ゼローグは狂喜していた。だが、すべて甘い幻想となってしまった今、王子と仰いだ少年からもらった首飾りを下げた息子に、彼は何と言うのだろうか。おおかた「今すぐ外して捨てろ」とでも言ってくるに違いない。そして、王立学院に入るまでの狭量なセディス少年であれば、それを当然と従っていただろう。
(だが、今のオレに、それはできない。――そうだろう、イスフェル……)
 イスフェルがいない今、処刑されたと発表されたとはいえ、誰もが王子たちを見捨ててしまった今、セディスが真実を突き止めなくて誰が突き止めるのか。その時、彼は、ふいに先ほどのラルードの言葉を思い出した。
「あ……? 待てよ、そう言えば――」
 ボロドン貝の首飾りを掴まれ狼狽した彼に、ラルードは何と言ったのだったか。
『残念だが、王子を名乗っていた少年たちは、もうここにはいないよ』
 二人が処刑されたのが事実なら、ラルードは、「ここにはいない」ではなく「この世にはいない」と言うべきだったのではないのか。青年の瞳に、わずかながら希望の光が滲む。
「『ここにはいない』……もしそれが真実なら、お二人は今、どこに――」
 だが、それは大して考えずともわかることだった。いや、無論、正確な場所までわかるわけはないが、誰の側にいるか・・・・・・・ ということならわかる。
(『消滅』などと。脱退・・の間違いではないのか)
 クレスティナには失礼な言い分になるが、彼女が辞めただけで、家族や恋人のある麾下の者たちが、揃いも揃って全員、後を追うはずがない。中には、先頃、結婚したばかりの者、子どもが生まれたばかりの者もいるのだから。
「きっとそうだ……。お二人はまだ生きて、この国のどこかにいらっしゃる……!」
 ラルードは、きっと変心したわけではないのだ。でなければ、セディスに幾つもの暗示を与えてくれたはずがない。
 外廊下の中央に突っ立ったまま、セディスはさらに蒼の間でのことを思い返した。すると、いくつか腑に落ちぬ点があることに気が付いた。
(下っ端のシダがいないのにはまだ納得がいく。どうせ別の場所の警備でもやっているのだろうし。だが、隊長のフレイ殿のお姿がなかった……)
 そして、他の王族たちのことだ。レイミアの大逆というなら、なぜメルジアたちは即位の儀に姿を見せなかったのか。
 その時だった。
「セディス様、セディス様」
 ひそやかな女の声が自分を呼ぶのに気付き、セディスははっとして辺りを見回した。往来の真ん中で物思いに耽るなど、平時でもすべきことではない。鷹巣下りに参加した彼の身は、今やいつ拘束されてもおかしくないのだ。ラルードの忠告を、彼は改めて肝に銘じた。
「セディス様、ここです」
 今一度呼ばれて、見知った女官が桃色の大輪の花を咲かせた生け垣の間に立っているのを、セディスはようやく見付けた。
「アーデリア。こんなところで何をしている?」
 アーデリアは、セディスよりひとつ年上の、第一王女エウリーヤ付きの侍女だった。セディスが王子たちの部屋へ行った際、何度かエウリーヤが遊びに来ていたことがあって、その時、彼女と知り合ったのだ。アーデリアは、エウリーヤに仕えるようになって既に六年も経っており、王宮内のことにも詳しい。一応、恋仲ではあるが、書記官たるセディスにしてみれば、アーデリアは、いつか来る王女たちの輿入れに備えての情報源だった。
 周囲に人影がないか確認して彼女のもとまで行くと、セディスはアーデリアの明るい茶色の瞳を見た。いつもはあまり動揺を見せない彼女のそれが今、いつになく揺れている。
「セディス様、どうぞ私の後に付いてきて下さい」
「なに?」
「貴方様にお会いしたいという御方がいらっしゃるのです」
 王女付きの侍女が発するのだから、その「御方」というのは推して知るべしである。ある意味、悪運試しだった。
「……わかった。案内してくれ」
 セディスはもう一度辺りを見回すと、アーデリアとともに生け垣の中へ姿を消した。


 道中、二人が通ったのは、近衛兵らが立っている表廊下ではなく、おそらく王族しか知り得ない、秘密の通路だった。案内された先は、思った通り、エウリーヤの私室の居間だったが、セディスを待っていたのは、彼女だけではなかった。
「急に呼び立ててすみませんね」
 間に紗を隔てるわけでもなく、セディスの真正面に立った王妃――いや、王太后メルジアに、青年は瞠目し、慌てて膝を折った。彼の視界の上方で、黒い絹服が揺れる。
おもてを上げなさい、セディス=ガルヴォード。今は礼など気にしなくともよい。今はとにかく時間が惜しいのです」
 そこで、セディスはゆっくりと立ち上がった。
「王太后陛下におかれましては、私に何をお望みでしょうか」
 メルジアの向こうでは、王女たちが三人揃って長椅子に腰を下ろし、こちらを見ていた。他に室内にいるのは、アーデリアと、メルジア付きの侍女と思われる中年の女ひとりだけだった。
「『王太后』。では、やはりもう即位の儀は終わってしまったのですね」
「はい。……皆様方が何故いらっしゃらないのかと、僭越ながら案じておりました。御無事で何よりです」
 セディスが小さく頭を下げると、第三王女のシャルラが険しい表情で立ち上がった。
「無事なんかじゃないわ!」
「シャルラ、静かになさい。外に聞こえてしまうわ」
 慌てて妹を宥めたのは、第二王女のダリアである。
「外に……近衛以外、誰かいるのですか?」
 セディスたちが入ったのは、隣室の飾り棚の裏からだった。本来の出入り口である大きな扉を振り返りながら青年が尋ねると、エウリーヤがそれに応じた。
「いるのは近衛じゃないわ。叔父上の親衛隊よ。私たち、軟禁されているの」
「軟禁……!?」
「そう。だから、王子たちの宮に最初にやって来た忠義者を連れてくるよう、アーデリアに言ったの。私たちを助けて欲しくて」
 ――やはり、ボロドン貝が引き寄せるのは、今や悪運らしい。あまりのことにセディスが言葉を失っていると、そばの円卓の椅子に着いたメルジアが、深く吐息を漏らした。
「昨晩……といっても、夜明けの直前のことですが、何やら騒がしいと思っていたら、急にトランス殿がおいでになって、レイミア殿に大逆の罪有りとおっしゃったのです。おまけに、自分が王となることに素直に従って欲しい、と。私は彼の言い分がとても信じられず、レイミア殿に会わせるよう言いましたが、彼女は既にいずこかへ連れ去られた後でした」
「信じられるわけ――従えるわけがないわ。あの子たちが王子ではなかったなんて……! けれど、叔父上は容赦なかった。従えぬのなら仕方がないとばかりに私たちを閉じこめて、さっさと行ってしまったのよ」
 声を抑えている分、口調にはエウリーヤの怒りが滲み出ていた。彼女はいつの間にかセディスの前――母のいた場所に立ち、青年を見据えていた。
「『閉じこめて』と言っても、貴方ももうわかっているでしょうけど、外に出るのは簡単なことよ。けれど、状況が判らないのに私たちが下手に動いたら、大変なことになるわ。お父様が最後まで愛された国ですもの。いくら相手が憎くても……」
 皆まで言わないエウリーヤの気持ちは、セディスには十二分にわかった。今、メルジアがトランスをなじれば、サイファエールはあっという間に内乱に突入するだろう。聖都や北西の国境の状況が不安定な今、それは絶対に避けなければならない事態なのだ。
「おっしゃる……通りです」
「だから貴方に来てもらったの。アーデリアは本当に運が良いわ。鷹巣下りの参加者に出遇うなんて」
 エウリーヤの微笑みに続いて、セディスの後方で衣擦れの音がした。アーデリアが一礼でもしたのだろう。内心で溜め息を吐く彼に、エウリーヤは真っ直ぐと言った。
「お願いよ、セディス。貴方が知っているすべてを、私たちに教えて頂戴」
 新しい国王が立ったことを既に告げてあるのに、鷹巣下りの参加者というだけで青年の変心を疑わぬ王女の天色の瞳に、セディスの心を覆っていた厚く暗い雲が切れ、数条の陽光が差した心地だった。彼は頷くと、今朝、登城してからのことを包み隠さず語った。だが、さすがに王子たちの処分について口にするのは気が重かった。案の定、シャルラがわっと泣き出し、ダリアが自らもはらはらと涙を落としながら、妹の背を撫でてやっていた。
「叔父上……!!」
 怒りで目を真っ赤にするエウリーヤの陰で、メルジアも無言ながら両の拳を握りしめていた。
「――ですが、聞いて下さい。あくまで私の想像ですが、お二人はまだ生きていらっしゃると思うのです」
 セディスの言葉に、八つの瞳が一斉に彼に向かう。セディスは一度、唾を飲み下した後、近衛を去ったというクレスティナとその部下たちのことを話した。すると、メルジアが大きく頷いてみせた。
「そなたも知っての通り、私もクレスティナのことはよく存じております。ええ、確かに彼女は私から見ても魅力ある人間。ですが、王子付きだったことによって将来がなくなったという理由だけで、栄誉ある近衛の職を放り出してしまえるほど、麾下の者たちの考えは甘くないでしょう。おそらく、王子たちを助けるためにこそ……」
「もしそうだとしましたら、クレスティナ殿のことです。きっとしばらくは綺麗に行方を眩ますと思います」
「それでよいのです。でないと、今度は本当に殺されてしまう……。ところで、レイミア殿の話がありませんでしたが、それは何も発表がなかったということですか?」
「はい。レイミア様の処遇については、何の発表もありませんでした。王弟殿下に――陛下に捕らえられたということでしたら、どこかに幽閉されていらっしゃるのでしょうが……」
「私は、どうしても信じられませぬ。コートミールとファンマリオが、亡き陛下の御子ではなかったなどと。それを確かめるためにも、どうにかしてレイミア殿の居場所を探し出し、密かに接触しなければ……」
 そこで、メルジアはセディスを見た。青年に、否やはなかった。
「不肖の身ではございますが、そのお役目、私にお任せ頂きとうございます。必ずやレイミア様の居場所を探し出して参ります」
「宜しく頼みます。私も不自由な身ですが、王太后としてできるだけのことをします」
 新国王に軟禁された身であり、重臣たちの訪問もひどく制限されることだろう。だが、王太后のその言葉は真摯で、セディスは彼女の手足になろうと覚悟を決めた。
 早速、踵を返したセディスを、エウリーヤが呼び止めた。
「私たちも、徳高きイージェントの娘よ。この国のためなら、いつでも喉を突いて死ぬ覚悟があるわ。けれど、あの三人は、まだ王都へ来たばかりで……。セディス、どうか、真実の翼を捕まえて」
 エウリーヤは最初、「私たちを助けて」と言ったが、それは己の身を愛するがゆえのものでは決してなかった。
「この命にかえましても」
 セディスは拳を胸に当て礼をすると、秘密の通路を陰謀の渦巻く世界へと戻っていった。


 新年最初の一日は、太陽が一度も顔を覗かせない、それは寒いものとなった。あっという間に夜の帳が降りる中、シダは呆然と冷たい石床の上に座っていた。その頬は青く腫れ、唇の端は切れて血が滲んでいる。
 昨日昼、フレイに私用を頼まれたシダは、何の疑いもなくレイミアの母ルイザのいるドナス神殿へとやって来た。神官長にフレイの手紙を渡した後、許されてルイザに目通りした。二ディルクほどの滞在の後、親衛隊の詰め所へ帰ろうとしたシダだが、神官長にあれこれと雑用を頼まれ、気が付けば城門の閉まる時刻となっていた。神官長があまりに調子が良いので問い詰めたところ、フレイの手紙に若い男手は貴重だろうから好きなように使って欲しいと書かれてあったという。平時ならともかく、翌日は万感の想いで待ち焦がれたコートミールの即位の儀である。「冗談じゃない」とシダは王都へ帰ろうとしたが、またしても神官長に阻まれてしまった。
『ルイザ様に、どうしても王太子殿下の晴れ姿を見て頂きたいのだ』
 そう言う神官長を捨て置くなど、王子たちに忠誠を誓っているシダにはできぬ相談だった。幸い、ルイザの病はほぼ完治しており、暖かくしていけば外に出ても大丈夫だろうと医者からも言われたという。一生に一度の誉れの日をルイザに見せてやらないわけにはいかない。そこで、シダは一晩、神殿で過ごすことにした。彼は固くも温かい寝台の中で、明日はどの道を通ったら王宮へ早いだろうかと物思いに耽っていた。まさか、その王子たちが暖かさから無縁の場所にいるとは思いもよらずに。
 異変が起こったのは、深夜も深夜のことだった。嵐の音に混じって聞こえた複数の馬の嘶きに、シダが様子を見に外へ出ると、そこに物々しい姿を晒していたのは、王都の詰め所にいるはずの彼の同僚たちだった。そして、闇に溶けるように止まっていた黒檻車から引きずり下ろされたのは――レイミアだった。
 前夜祭の時に着ていたのだろうか、艶やかな絹服のままのレイミアだったが、無言のまま俯き、後ろ手に縄で縛られていた。王家の人間――それも王太子の生母に対するあまりの非礼に、シダは事情を問いただすのも忘れ、その護送の列に飛び込んだ。同僚たちの怒号や制止の声が飛ぶ中、是が非でもレイミアを解放しようとし、結果、同僚に殴り飛ばされてしまった。青年が冷たい地面に抑え込まれている間に、レイミアは神殿の北側に立つ、三十ピクトはあろうかという高い塔へと連れて行かれてしまった。そして、シダ自身も、もと居た神殿の部屋に閉じこめられてしまったのだ。
 その後、王宮で何があったかは、レイミアを護送してきた、親衛隊で同じ小隊に身を置くレンボルトが教えてくれた。が、その内容は無論、シダには到底理解できぬものだった。王弟の親衛隊でありながら主を罵る言葉を吐いたシダを、レンボルトは再び平手で打った。数ディルク後には国王になろうかという人間に対する不敬である。しかも、シダもレンボルトも、もとは王家を守る近衛である。私情は決して挟まぬ強さが必要なのだ。
『おぬしはやはり、親衛隊へ来るべきではなかった』
 レンボルトが去り際に残した言葉を思い出し、シダはいま一度強く唇を噛みしめた。乾きかけていた血がまた滲む。
 彼が第一連隊の第一大隊から第四大隊へ移籍した上で親衛隊に異動したことは、既に周知の事実だった。王太子のお気に入りから王弟の懐へと飛び込んだ彼に対し、同僚は良くも悪くも様々に言ったが、シダは気にしなかった。王子たちのためなら火の中水の中である。だが、今、彼の内で巨大に膨れあがるのは、ただ自分への悔恨の念だけだった。この日を未然に防ぐためだけに、シダはセディスに罵声を浴びせられてまで、親衛隊への異動を果たしたのだ。それなのに、王子たちに氷のように冷たい嵐の夜を味わわせてしまった。それにも勝る死への恐怖で、今ごろ小さく震えているに違いない。
 シダはのそりと起き上がると、北側の窓から外を見た。そびえ立つ漆黒の影の上方に、薄ぼんやりと明かりが灯っているのが見えた。
(そんなわけはない……。レイミア様がお認めになったわけが……)
 やがて再びふつふつと湧いてきた怒りを、シダは両の拳に握りしめた。今さらながらに気付いたことも、それに拍車をかけた。フレイと神官長は、おそらくぐる・・だったのだ。シダが王都にいたのでは、どうしても親衛隊の動きを近衛に知られてしまう。ゆえに、彼は放逐された。生命を懸けて働く場所で仲間に信用されず、それどころか裏切られ、シダはひどく矜持を傷つけられた。
(許さねぇ……。絶対に、このままでは済まさねぇからな……!!)
 猛吹雪の夜に護送して来たということは、世間にはここにレイミアがいるということは隠しているのかもしれない。もしそうなら、この事実を一刻も早く近衛に知らせなければならない。新国王が誕生した今、もたもたしていれば確実に、王太子派だった人間の忠誠の先は変わってしまうのだから。
(そうだ……。セディスが、オレがここに来たことを知っている。あいつが、オレがいないことに気付いてさえくれれば……!)
 しかし、友ばかりを当てにしてもいられない。シダはまず、今の部屋を出られるよう努めることを腹に決めた。

inserted by FC2 system