The story of Cipherail ― 第五章 双頭の鷹


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 王弟トランスの王宮の私室に来客があったのは、前国王の喪明けの日だった。侍従の先導で扉をくぐった人物たちを見て、トランスはわずかに目を細めた。
「これは、ワシルにツィテロではないか。久しいな」
「トランス殿下、ご無沙汰をどうぞお許し下され。領地を出るにもそれなりの覚悟が要る年齢になりまして」
 そう言って禿頭を下げたのは、今年六十二歳を迎えたユネア領主、ワシル=イーブンだった。サイファエール屈指の大貴族の当主で、王国の重鎮でもある。
 いまひとり、ツィテロ=スキームは、先だってルタリスクの侵攻を受けたモーザ城塞を領地に擁す、ペイデット領主である。ワシルよりは幾分か若いはずだが、豊かな髪はすべて白髪で、年齢差はないように見える。若い頃から血気盛んなことで知られ、王都で開かれた酒宴の席だけでも醜聞をよく聞く人物だった。
 二人とも、その昔、病弱なイージェントに代わり、快活なトランスを王位に就けようと画策した者たちである。
「おぬしらの顔を揃って見ると、昔のろくでもないことを思い出す」
 王弟のあからさまな嫌みに顔を見合わせると、大貴族の当主たちは勧められた席に座った。
「そうおっしゃられますな。我々は常にこのサイファエールのことを思っておるのでございます」
「そういうことにしておきたいならそれでもよい。それで? 今日はいったい何の用だ。存じておろうが、上将軍たる私は、国王の不在もあってなかなか忙しいのでな。手短に頼む」
 だが、老人たちの耳に「手短に」という言葉は都合良く届かなかったようである。「まさにそのことでございます」と、ずいと膝を押し出してきたのは、ツィテロの方だった。
「殿下。王太子殿下のご病状は、まさに深刻でございます」
 侍従が下がったのを良いことに、ツィテロは重大な事実を声高に言い募った。
「そのようなことは言われずとも知っている。毎朝、侍医長が直々に報告に来ておるわ」
「畏れ多くも、かつて玉座が空いたことなどございませぬ。有史始まって以来、初めてのことでございます。報告書にも記しております通り、ルタリスクの間者の数は年々増加の一途を辿っておりますれば、どうぞ一刻も早く即位の儀を行っていただきたいのです」
 トランスは溜め息を吐いた。
「そのようなことを申しても、病床の王太子の頭にどうやって王冠をかぶせると言うのだ。運の良いことにあれは双子だが、それを利用したとて、後に残るは災禍の種だけ。本人の回復を待つしかあるまい」
 その時、ずっと黙していたワシルが口を開いた。
「ご快癒が果たされなんだ場合は、いかがなりましょうや」
「いかが?」
 表情を険しくすると、トランスはワシルを睨み付けた。
「その時は王子ファンマリオが国王となるだけ。何か問題でも?」
 すると、老貴族たちは再び目を見合わせた。
「問題、と申しましょうか……」
「いったい何だ」
 トランスが鬱陶しげに続きを促すと、ワシルは今一度、周囲に人がいないことを確認してトランスを見た。
「実は、王都におります私の孫の嫁が、先日、神殿でレイミア様にお会いしまして……。――お会いした、というよりは、お見かけした、と申し上げた方が良いのかもしれませんが。というのも、レイミア様は一心不乱にお祈りをされておいでだったらしく、孫嫁は声をかけるのを断念した、と――」
 老いた人間の回りくどさは、容易にトランスを苛つかせた。しかし、そこに登場した名前が、話を遮るのをためらわせた。
「王太子殿下のご快癒が遅れておることもありますし、お祈りはそのためだろうと、孫嫁はその場を立ち去ろうとしたらしいのですが、その寸前、レイミア様がおっしゃった言葉を漏れ聞いてしまったのです。『どうぞ、お許し下さい』と……」
「許す? いったい何を」
「怪訝に思った孫嫁がその場に留まっていると、レイミア様はさらにおっしゃったそうでございます。『卑しい私がかいた愚かな欲の結果ならば』と。……殿下には、この場合の『愚かな欲』が、いったい何のことを指すとお思いでしょうや?」
 突如わき出た不穏な黒雲にトランスが沈黙を保っていると、顔を強張らせたツィテロが重々しく言った。
「我々は、先ほど殿下がおっしゃられた王位の継承順位が、よもや変わるものではないかと危惧しておるのでございます」
 つまり、双子は亡き国王イージェントの子ではなく、レイミアは王家と王国を欺いているのではないか。次に国王となるべきはトランスなのではないか、ということである。
「何を馬鹿な。レイミア殿は、鷹の間で王太子兄弟を亡き陛下の御子だと誓ったのだぞ」
「しかし、証人として呼ばれた者たちも、証拠とされた日記も、偽装偽造しようと思えばいくらでもできます。確たるものではありませぬ」
「確たるものでないことは確かだが、いったい誰が何のために偽装など? ――ああ、先に言っておくが、『宰相』などという愚かしい答えは聞かぬぞ」
「殿下」
「私はあの男を嫌なほど知っている――いや、今や『知っていた』と言う方が正しかろうがな。もし王太子たちの存在がこの世になく、もしくは明るみにならず、私が次代の王になることが決まっていれば、あれはそれに静かに従う男だ。それで私が暴政を行えば、首を刎ねられるのを覚悟で諫める男よ。あれの陰謀などではありえぬ」
 老人たちは溜め息を吐いた。二十年前の王位争いの時も、亡くなった宰相には手を焼かされたが、彼は死してなお、王弟と老人たちとの間に立ちはだかって邪魔をする気らしい。
「……ともかく、我々は一刻も早く、正当な、そして強い王に玉座へ就いて頂きたいだけ」
「このままでは、王太子殿下のご快癒が成ったあかつきにも、素直に喜べそうにありませんな」
 ワシルとツィテロはそう言い残すと、不快げなトランスを独り残し、部屋を出て行った。
「……『遅かれ早かれ、王弟という人間は無用になる』、か……。叔父上もうまく言ったものだ。だが、今や『無用』は『有害』になりつつあるらしい」
 トランスは拳に力を入れると、そのまま肘置きを殴りつけた。


 晴れた青空の下、弓弦の響きを聞きながら、クレスティナはふと周囲を見回した。ピブリミカの木陰、先日まで喪旗が翻っていた回廊、宮殿の窓辺に掛かる薄布の向こう……。ざあっと吹いてきた秋風が、彼女の漆黒の長い髪を宙に舞い上げた。
(どうして、いらっしゃらないのだろう……)
 公私ともに決して暇ではないはずなのに、その男は、王子たちの武術の時間には大抵、姿を見せていた。それが聖都直前で忽然と姿を消してから早二か月。公には伏せられているその事実を、彼女は近衛の小隊長という地位から無論、知っている。だが、してやったりと笑む顔しか思い出せぬ男は、いつものようにどこぞからふらりと現れそうで、クレスティナには彼がいなくなったことがまだ夢のようにしか思えないのだった。
 ふいに、その男の親友で、かつてクレスティナが愛した男の顔が浮かんだ。
(……居なくなるなら居なくなり方というものがあろうに、まったくおぬしといい、おぬしの親友といい……!)
 彼女の恋人は、彼女の目の前で――いや、彼女をかばって敵の矢を受け、そのまま海中に没した。結局、遺体は見付からず、そのせいで、クレスティナは今も心に割り切れぬ想いを抱えている。そこへ、今回の件である。彼女が苛立ちを覚えるのも無理のないことだった。その時、
「ああ、居た居た」
 突然、背後で低い男の声がして、クレスティナはびくりとして振り返った。一瞬、目に入った陽光が、相手の顔を見えなくする。
「久しいな、クレスティナ」
 何度かの瞬きの後、クレスティナは、額にかざしていた手をおもむろに下ろした。
「こ、れは、デルケイス様……!」
 物思いの果てに期待した人物ではなかったが、現れた壮年の男も、彼女たち――王子たちが心待ちにしていた人物だった。
「ファンマリオ殿下が私に会いたいとおっしゃって下さっているというのを聞いて、図々しくこちらから押しかけてしまったのだが、紹介してもらえるか」
「はい、それは勿論でございます。お待ち申し上げておりました……!」
 クレスティナは身を翻すと、蚊の的に向かっている王子のもとへ足早に歩いていった。
 ズシュール領主たるデルケイスが一介の近衛士官たるクレスティナを知っているのは、彼女がデルケイスの妻と知り合いのためである。現在、テイランで病床にある奥方に、お見舞いの書状を送ったこともある。実は、デルケイスの息子アイオールとも、王立学院の同期という繋がりがあるのだが、所属の組が違ったうえ、アイオールが年の半分しか学院に通わなかったため、顔は知っていても言葉を交わしたことはなかった。
「マリオ様、ついに待ち人がいらっしゃいましたよ」
 矢が外れ口をへの字にしている王子に声をかけると、少年は怪訝そうな顔をして生け垣の間に立つ男を振り返った。
「ズシュール領主のデルケイス=ラドウェ――」
 しかし、クレスティナが言い終わるのを、少年は待ってなどいなかった。風のように待ち人に向かった彼を、クレスティナは部下たちとともに微笑みながら見つめた。それほどに、この王子はデルケイスの到着を待ちわびていたのだ――が。
「あなたがイスフェルの伯父さん!?」
 開口一番、王子が叫んだ言葉に、近衛も侍従も目を剥いた。先だって、兄コートミールが亡き名宰相を「イスフェルの父さん」呼ばわりしたことがあったが、あの時はまだ王宮に入って日が浅かった。半年近くの宮廷生活を経た今、彼に基本的なところで庶民の子のように振る舞われては、立つ瀬がないというものである。王太子となったコートミールに比べ、ファンマリオは特にそういうことが多かった。
「さようでございます、ファンマリオ殿下。お初にお目にかかります」
「ボク、ずっと待ってたんだっ。あなたが王都に来るって聞いてからずっと!」
 衣服に掴みかからんばかりの王子を見て、デルケイスはすっと目を細めた。
「そのお言葉、大変嬉しゅうございますが、殿下。後ろの者たちが何やら物申したげですよ」
「え?」
 ファンマリオが振り返ろうとした瞬間、突然、身体が浮き上がった。彼の両脇を双子侍従が抱え上げたのだ。そのままずるずると少し離れたところまで引きずられる。
「サウスにクイル。痛いよ、何するのさ」
 すると、サウスが頬の肉をひくひくとさせながら、小声で怒鳴った。
「『何』じゃありませんよ、『何』じゃ! イ、『イスフェルの伯父さん』って……。確かにマリオ様の方が王子として身分は上ですが、何々々度も申し上げましたが、年上の方には敬意を払うのが世の習いですっ。しかも、デルケイス様は王国の名だたる貴族のご出身で、王国に大変な功をいただいている方なんですよ。それを先ほどのようにお呼びしては失礼ですよっ」
「ああ、そっか……」
「マリオ様、頼みますよぉ。マリオ様の失敗は私たちの失敗でもあるんですから。でないと、イスフェルさんに会わせる顔がないですよ。それこそイスフェルさんの伯父上なんですから」
「ご、ごめん、二人とも……」
 それからしばらくひそひそと話していた三人は、クレスティナの咳払いで我に返ると、そろそろとデルケイスのもとに戻ってきた。サウスに促されて、ファンマリオがもごもごと言い募る。
「さ、先ほどは失礼した。あなたが南の守護者、ズ……ズシュールのデルケイス=……ラドウェルか」
 途端、爆発したのはデルケイスの笑声だった。
「え、え……?」
 困惑顔の少年に、デルケイスは口元を押さえて何とか笑いを堪えると、その膝を折った。
「これは失礼を。ですが、何と申しましょうか……おかげさまで、長旅の疲れが吹き飛びました」
「えっ、そ、それは……よかった……の、かな……?」
「色々とございましたが、宮廷が暗くならずに済んでいるのは、ひとえに殿下のおかげなのでしょうね」
 ちらりとデルケイスに視線を投げられ、ファンマリオの発言に赤面していたクレスティナは、小さく頷いてみせた。デルケイスの言うとおり、ファンマリオの存在があるからこそ、要人たちが次々といなくなっていく中で、彼女たちはかろうじて笑っていられるのだ。
「デルケイス様。王太子殿下のところへはもうお運びに?」
 クレスティナが尋ねると、デルケイスは大きく頷いた。
「無論だ。それが目的の上京なのだからな」
「えっ、ミールに会ったの!?」
 突然、縋り付いてきた王子を怪訝そうに見遣るデルケイスに、クレスティナは侍医長がファンマリオの面会要請を断っていることを告げた。
「ミール、どんな様子だった!? ボク、ミールが倒れてから本当に一度も会ってないんだ……」
「そうでしたか……。エイベストス殿の判断は確かに正しいですが、殿下におかれましては、生まれてからずっとご一緒だった唯一の兄君。ご心痛お察しいたします」
「ううん、ボクのことはいいんだ。苦しいのはミールなんだから……」
 そこで唇を引き結んだ少年に、デルケイスは再び目を細めた。
「……伺っていたとおり、殿下は優しい御方ですね。私めも、その御胸の貝が欲しゅうございます」
 それを聞いて、その場にいた者たちははっと息を呑んだ。鷹巣下りに参加した者だけが持っているボロドン貝の首飾り。ファンマリオが言い出して、コートミールと二人、友誼の証と感謝を込めて手作りした代物である。近衛や侍従の間で多少噂になりはしたが、王都から遠く離れた場所にいたデルケイスがそのことをどうして知っているのか。
 ファンマリオは、ふいに込み上げてきたものを何度も瞬きしてやり過ごすと、祖父ほども歳の離れた男の顔をまっすぐに見つめた。
「ボク……あなたに訊きたいことがあるんだ」
「なんなりと」
「あなたに……ボクのことを話ッ……話したのは、……イスフェル……?」
「はい」
「……イス……イスフェルは、げん……元気、だった……?」
 少年の努力もここまでだった。見る間に盛り上がった涙が、列を成して頬を伝う。テイランに連行されてきたイスフェルが、王子たちへの詫びを口にせぬ日はなかったが、王子たちもまた、イスフェルを助けられなかった悔恨の念を幼心に抱えていたことを知り、デルケイスは内心で運命の残酷さを呪った。
「……殿下、あれは元気にしております。不肖の甥ではございますが、なかなかどうして、悪運も強いようでございます。己の短慮で殿下方のおそばにいられなくなったことを、今の殿下のように涙して悔いておりました」
「うっ……ううぅ、うえぇ……イスフェル……」
「大逆の罪が赦されるはずもありませんが、あれに代わりまして、そして縁者と致しましても、殿下にお詫び申し上げます」
 言うなり突然、地にひれ伏したデルケイスに、誰もが言葉を失った。
「マ、マリオ様――」
 周囲にファンマリオしかいないのならいざ知らず、王国の重鎮たるデルケイスに、これ以上、自分たちの前で土下座させたままにしておくわけにはいかない。クレスティナは慌ててファンマリオに声をかけようとしたが、それより一瞬早く、少年が動いた。ファンマリオは、デルケイスの前に立つと、その首に優しく腕を回したのである。
「デルケイス。遠いところを来てくれて、本当にありがとう……」
「で、殿下……」
 ふと、デルケイスの胸に、亡き国王のことがよぎった。イージェントもまた、臣下に対して感謝の言葉を惜しまぬ男だった。
 小さな手によって立たされた後、デルケイスがファンマリオの顔を見ると、少年はじっと地面を見つめていた。何を考えているのだろうと思った時、ふいに顔を上げたファンマリオが「よしっ」と叫ぶ。
「何が『よし』なのですか?」
 尋ねると、ファンマリオは鼻の穴を大きくして息を吐いた。
「今日という今日は、ミールに会わせてもらう!」
「は……」
「だって、父上だって、イスフェルのことを聞いて目を覚ましたもん! だから、ミールだって絶対、元気になると思うんだ!」
 かくしてファンマリオは、実に二十日振りに兄コートミールと対面した。侍医長にデルケイスがかけ合ってくれ、天蓋の仕切り越しにという条件で、病室の扉を開けさせたのだ。
 意識なく寝台に横たわるコートミール、その落ち窪んだ目と痩けた頬に、ファンマリオは思わず悲鳴を上げそうになった。母の裾子を掴むことで何とか堪えると、薄布越しに分身の耳にそっと囁く。
「ミール。イスフェルが、ミールがよくなるのを待ってるって。早く元気になってよ。ね、ミール……」


 先日来、ワシルとツィテロは連日、トランスのもとへ顔を見せるようになった。二人揃ってということは初日以外なかったが、まったく重なりもせず訪問してくるところを見ると、二人が裏で謀っていることは火を見るよりも明らかだった。おまけに間者の青年の話では、老領主たちは妃ルアンダのもとにも足繁く通っているという。
「……ウォーレイめ、禍根を残しおって。兄上の玉座を守りたいなら、ついでにあやつらを抹殺しておいてくれればよかったものを」
 二十年以上前の宮廷内の対立が、今また新たな噴出口を見いだして蒸気を上げているかのようだった。相変わらず山積みな書類の間でひとりごちた時、
「殿下。ズシュール領主デルケイス=ラドウェル様が、殿下にお会いしたいとお越しになっております」
 うっかり親友の名などを口にしたからだろうか。縁の者の来訪に、一瞬、ぎょっとしたトランスだった。
「北の次は南か……。よい、通せ」
 侍従が一礼して出ていった後、しばらくして衣擦れの音とともに入ってきた壮年の男を、トランスは無表情で見遣った。
「来るとは聞き及んでいたが、まさか手ぶら・・・とはな」
 挨拶する間もなくぶつけられた言葉に、デルケイスは一瞬、面喰らったが、すぐにその意味を察し、深く頭を垂れた。
「トランス殿下。殿下と、そして王家に大逆の罪を犯した者は、確かに私がお預かりしております。この度、王都へ上がるに際して、共に連れ行くことも考えましたが、いま最も重要なことは、王太子殿下のご快癒にございます。いたずらに罪人を連れ回した結果、世を騒がせるようなことになっては、お苦しみになっているコートミール様と、そして亡きイージェント陛下に申し訳が立ちませぬ。ゆえに、私がひとりで参りました。独断で事を運んだこと、そして殿下にご不快の念をお与えしてしまいましたこと、深くお詫び申し上げます。誠に申し訳ございませぬ」
 デルケイスがイスフェルを連行しなかった理由はいくつかある。だが、口にするのは無論、最も体のよいものだけである。
 ズシュール領主の長い口上の間、肘掛けにもたれかかっていたトランスは、大きく息を吐き出した。
「まったく不愉快だな。あれは公衆の面前で王族たる私に剣を向けたうえに、かけてやった情けに刑務官らの血で応えてきたのだぞ」
「ですが、チストンでの件は、未だ捜査中でございます。お聞き及びとは思いますが、罪人はツァーレンでも襲撃に遭いました。まだ冤罪という可能性も――」
 ツァーレン監獄襲撃炎上事件の首謀者が誰であるかは勿論、承知の上でのデルケイスの言だった。
「失望したな。賢人と名高いおぬしも、しょせん身内には甘いのか?」
「殿下、そのようなことは」
「亡き陛下も、あれの所業に呆れ果て、追捕隊を放ったのだぞ。私には親衛隊まで付けて」
「存じております。追捕隊には、こちらへ来る際、領内で遇いました。隊長のシールズには、私が戻るまでしっかりと見張っておくように頼んでおきました」
 トランスは小さく笑った。彼にはデルケイスの魂胆がわかっていた。デルケイスは、イスフェルを来たるべき時の武器にしたいのだ。王弟派・・・が本性を現した時のために――。
「おぬしが戻るまで? なんなら今すぐ厄介払いしてやってもいいのだぞ。シールズには私から連絡するゆえ」
「そのようなことを……。僭越ながら、殿下には、あれの処罰をお急ぎになる理由でもおありで?」
 挑発をわざとにじみ出すようなデルケイスの問いに、トランスは大仰に眉根を寄せてみせた。
「何だと?」
 二人の会話は、もはや王宮に住まう狐と狸の化かし合いのような様相を呈してきた。
「でなければ、王太子殿下が即位されるまではお待ち下さい。私は中央街道を通って参りました。一罪人の処遇より、今は重要なことがおありかと」
「……ゼオラの件か。聖都の将軍らから、何か言付かってきたのか?」
「いえ、何も。将軍たちは、すべて殿下にご報告している、と」
「つまり、何の進展もないということか」
「ゼオラ殿下のこともありますが、勅書を拒否するなど……。殿下は今後、聖都をどうなさるおつもりですか?」
 トランスは再び口元に笑みを浮かべた。
「おかしなことを訊くものだな。私は上将軍であって国王ではない。王太子の年齢を考えるなら、今後の方針は会議で決するものであり、最終的に決定するのは国王となった王太子であろうが」
 それを聞いて、デルケイスも笑んだ。
「――これは、勘違いを申しました」
「とにかく、王太子が回復せぬことには、我々は赤っ恥をかき続けるというわけだ」
 すなわち、神官に国内をかき回されている恥、蒸発した上将軍を見付けられぬ恥、前代未聞の空位を許している恥、である。
「あとふた月もすれば、新しい年を迎えてしまいます。年内に決着が付けばよろしゅうございます」
「無論、私もそう願っている」
 礼をして下がろうとしたデルケイスを、トランスは今一度呼び止めた。
「おぬし、王子たちにはもう会ったのか」
「無論でございます」
 きっぱりと言い切ったズシュール領主に、トランスは肩を竦めた。
「城内に蚊がうようよいるようだ。せいぜい刺されぬよう気をつけることだな」
 再び礼をしたデルケイスの顔に、もはや笑みはなかった。


 慣れない手つきで茶を注ぐと、リデスはその琥珀色の水面をじっと見つめた。湯気とともに清々しい香りが鼻を掠める。大きく息を吐き出すと、覚悟を決めてそれを主人の前に差し出した。
「……所作が洗練されていないのはともかく、味は多少まともになってきたな」
 しばらくして聞こえてきた声に、リデスは内心では安堵しながら眉根を寄せた。
「こんなこと、ボワールかユリンにさせて下さい。何のために雇ったんですか」
 まだ階下で働いている家人の老夫婦を床越しに指す青年に、彼の主人――王弟トランスは涼しい顔をして言った。
「密談をあれらに聞かせるわけにはいくまい」
「密談……?」
「ここのところ、私の周囲が少々騒がしいであろう」
 それを聞いたリデスは、くだらないと言った体で首を竦めた。
「また北の領主たちが雁首そろえて押しかけてきたんですか?」
「ああ、それもあるが、今日来たのは南の領主だ」
「南の、って……まさか」
 一瞬にして表情を改めた青年を、トランスはおもしろそうに見遣った。
「ズシュール領主のデルケイスだ」
「じゃあ、アイツも――イスフェルも、戻ってきたんですか?」
 今や宮廷で禁忌の烙印を押された名を、リデスは剣を向けられた当人の前で、何のためらいもなく口にした。
「だとしたら、さぞおもしろいことになっていただろうがな」
 イスフェルの護送隊を惨殺した真犯人は、トランスの妻ルアンダである。イスフェルの凱旋・・した姿に彼女がまた家財を破壊する様子を思い浮かべ、トランスは口の端を擡げた。
「王太子重篤の今は、時機が悪いと判断したのだろう。そもそも目をかけていた甥っ子だ。むざむざ毒蛇の巣の中に放り込むような真似はせぬだろうよ」
 一度は済んだ反逆者の処分について、後ろ盾の弱いこの時期に蒸し返すより、まず次代の王国の基礎を固めんと、デルケイスが遠路はるばるやって来たことは、トランスにも理解できることだった。
「しかし、ということはズシュール領主は、チストンの犯人が他にいると考えているということですね。まあ、ツァーレンの監獄が襲撃されたことからしても、そう考えるしかありませんが」
 いつにも増して仏頂面な青年を、トランスは怪訝そうに見遣った。
「不満そうだな」
 すると、リデスは思い切り眉根を寄せてトランスの正面に立った。
「当たり前ですよ。先日、殿下は私におっしゃいましたよね。宰相を殺した犯人の名を」
 それは、間者になってしばらくのことだった。宮廷の情勢からしても十分推測できる相手だったが、実際にそうだと聞かされると、意外なほどの衝撃があった。
「……ああ」
「失礼な言い方ですが、オレは間抜けと連座する気はありません。監獄襲撃なんて余計なことを……」
 トランスの告白が真実ならば、宰相親子の暗殺を徹底して陰で操っていた王弟妃は、なぜそれをすべて水泡と帰すような監獄襲撃などを行ったのか。単なる欲狂いか、それとも、そうまでしても公にされたくない重大な事柄を、イスフェルに握られていたのか――。
 その時、真剣に考え込んでいたリデスの前で、いきなりトランスが笑い始めた。
「な、何がおかしいんですか」
「フ、フ。前から訊いてみたかったのだが、イスフェルの友人でありながら、その仇たる王弟トランスの間者となったリデス=クーハンは、いったいどこに辿り着きたいのだ」
「……殿下がそれをおっしゃいますかね」
 イスフェルの友人と知りながら、リデスを間者に誘ったのは、トランス自身だというのに。
「オレには別に望む到達点があるわけじゃありません。昔から、遠いところを見ながら歩けるほど器用じゃないんで。今この瞬間、自分が自分らしくさえあれば」
 その答えに、トランスは口元に微かな笑みを浮かべただけだった。
「……オレも、伺っていいですか」
「何をだ?」
「殿下が先ほどおっしゃった通り、オレはイスフェルの友人です。まあ、仲は悪かったですが。オレが殿下を裏切るとは思わないんですか?」
「まったく、おぬしは面白いことを言う。仲の悪い友人のために、私を裏切るのか? そもそも、仲が悪いのを友人と言えるのか?」
 くつくつと笑う主人に、リデスは思わず赤面した。
「え、だから、それは……つまり、オレも殿下の辿り着きたい場所が知りたいというか――」
「《光の園》だ」
 さらっと言われた答えに、リデスは目を瞬かせた。
「え……」
「《光の園》だ」
 再び言って、トランスは茶杯を口に運んだ。それが真実なのか冗談なのか、その表情からリデスが判断することは難しかった。
「――それで、デルケイスの件だが」
 トランス本人は、リデスのようにツァーレン監獄襲撃をルアンダの差し金と断定しているわけではない。そうするには、ルアンダ側に利益より不利益の方が圧倒的に多いからである。そして、イスフェルにとっては起死回生ともいえる好機だったからだ。
「絶好の生け贄を抱えていながら、それを献上せぬということは、デルケイスは私の側に付く気はさらさらないということだ」
「……そうですね」
 昼間のデルケイスとの腹の探り合いを思い出して、トランスは内心で笑った。
(それでいい。対峙の筆頭がおぬしなら、私も賭け甲斐があるというものだ)
 そして、リデスを見る。
「時におぬし、イスフェルの友人だというなら、ゼオラのことも多少は存じておろうな」
「え、ああ、はあ……そのせいで、よく王宮での競射会にも呼び出されましたから」
「あやつ、そんなことまでしておったのか」
 トランスは呆れたように吐息すると、少し首を傾げた。
「おぬしは、あやつが生きていると思うか」
 問われて、リデスはいま一人の上将軍の勇姿を脳裏に思い浮かべた。しかし、それは何の故か、どんどんと薄くなっていく。彼の実力からしても、二か月も不明ということはまさに異常だった。
「いえ、おそらく、もう……」
 リデスの答えに、トランスは茶杯の底を見た。枯れかけた泉のようになっている茶の残りに、ルアンダや北の領主たち、王弟派を支持する者たちの顔が次々と浮かび、サイファエールの行く末を暗示しているように思った。
(――たとえ『有害』でも、いや、それこそが私の存在意義なのだ。この道こそは、極めてみせる……!)
 腹に力を込めると、トランスはついに立ち上がった。
「リデス。仕事だ」
 その声は低く重く、リデスは身体が強張るのを感じた。

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