The story of Cipherail ― 第三章 混沌たる荒野


     10

「陛下の御容体は?」
「まだ意識が回復なさいません」
「そうか」
 これだけを聞けば国王を心配している者の会話のようだが、それを発したのは、国王に毒を盛るよう指示した王弟妃ルアンダと、実行したオーディス=マルドーだった。
「崩御は確実なのだろうな?」
 今度の問いはカウリス家の嫡男エルドレンから発された。オーディスはにやりと笑った。
「ええ。お食事はもはや召し上がっておられませんが、時折口に含ませる水に混ぜておりますので、遅くてもひと月以内には」
「いったいどんな手を使って」
 兄に代わって忌々しげに問い質すのは、トールイド=カウリスだった。国王毒殺計画に関して、王弟派筆頭を自負するカウリス家が蚊帳の外に置かれたのを腹立たしく思っているのだ。
「詳細は申せません。――が、『恋は盲目』とだけ申し上げておきましょう」
「……女か」
 エルドレンの呟きに、オーディスがまたしても笑う。エルドレンは、どうしてもこの男を信用する気にならなかった。中級貴族の次男という出自に将来を憂い、身分不相応に膨らんだ野心のためにルアンダの館に出入りするようになった男。野心はエルドレン自身も持ち合わせているためとやかくは言えないが、貴族というよりは間者めいているオーディスの人間性が、彼に嫌悪感を抱かせるのだった。
「ところで、ルアンダ様。トランス様のことですが……」
 エルドレンは話題を転じた。ルアンダの前でトランスの名前を出すのは内心、気が重かった。彼女は、夫の名前を聞くと、不機嫌になるのが常だったからだ。王弟夫妻の夫婦仲は、冷戦状態というよりは、そもそも真実夫婦なのかと疑いたくなるような希薄な関係だった。先日、王宮の回廊で擦れ違っているのを目撃したが、言葉を交わすどころか、足も止めず目も合わせずであった。父ラルスワードの方針の下、ずっと王弟派に属しているが、もし今の時点で無所属だったならば、決して王弟派に入ろうとはしなかっただろう。宰相殺しを請け負った今では、もはや抜けるわけにもいかない。もっとも、彼も野心のために、抜けるつもりもなかったが。
「殿下は本当に玉座に就くおつもりがあるのでしょうな」
「どういう意味だ?」
「近衛の親衛隊も付き、上将軍として御活躍されていることは大いに結構なことでございますが、その為さりようが在りし日の宰相閣下を思わせてなりません」
 つまり、王弟自身が国王派にいるのではないかと言うのだ。本来、宰相暗殺の計画を練るのは、ルアンダではなく王弟トランスとだったはずだ。王弟派という山車を引き出してみたものの、その上に載せている椅子がいつまでも空なのはいささか心許ない。傀儡にするリグストンを座らせるためには、まず父親たるトランスを座らせなければならないのだから。
「そなたが案ずるのももっともだ。夫がどういうつもりなのか、実のところ私にもわからぬ」
「ルアンダ様」
 男三人が険しい顔をするのを見て、ルアンダは切れ長の目を細めた。
「だが、ある状況に置かれれば、夫は必ず玉座に座る。必ずな。そしてひとたび手にしたものを失う気は、私にはない。――ところで、私は今、ある賭けをしておってな」
「賭け、でございますか?」
「そうだ。それに勝てば、夫が決断する時期も早まろう。負ければ……それはまた別の機会に改めてこちらが手を下さねばならぬであろうがな、この度の国王のように」
 ごくりと音を立てたのはトールイドの喉だったが、他の二人も同じ気持ちだった。
「それは、どういう……」
「年端もいかぬ王太子など、誰が怖いものか。それよりも目障りなのは、夫と同じ上将軍の任を頂く者よ」
 すなわち、王従弟ゼオラである。事実上、国軍は彼が支配している。彼の采配ひとつで、サイファエール軍は周辺諸国が恐れる強さを発揮するのだ。
「ゼオラは陛下の勅書を携えて聖都へ向かったそうじゃな」
「はい。《光道騎士団》をセレイラに封じ込めるためです」
「《光道騎士団》にはさぞ迷惑な話であろうな」
「ええ、それはまあ……」
「ゆえに、私は知り合いの神官を通じて教えてやったのじゃ。ゼオラが往くと。ゼオラが発った日取りもな。あとは向こうがどう出るかじゃな」
 サイファエールの覇権に、《光道騎士団》がどう関係あるというのか。ルアンダの真意を掴み損ねていたエルドレンは、それを聞いてようやく理解した。
《光道騎士団》がどういう思惑でエルミシュワへ出征したかは未だ謎である。しかし、長年、兵力の不穏な増大を謀っていた軍隊がようやく動いたのだ。この期に及んでセレイラから出るなという命令など、耳貸せぬものだろう。だが、勅書はゼオラの腕に抱かれて王都を出発してしまった。ならば、それを受け取ることができないように・・・・・・・・・・・・・・すればいいのだ。その結果、こちらの「目障り」も消えてくれれば、後の大事も成しやすいというものである。
「……向こうに、ゼオラ殿下を相手に出来るような強者がいればよろしゅうございますな」
 ゼオラの為人を好んでいたはずのエルドレンは、自分もその賭けに乗ることにした。


 まるで血が滲み広がったような残照に、ゼオラは馬上で顔をしかめた。剣を好む彼ではあるが、決して血を見るのが好きというわけではない。特に王都を発ってからというもの、凶報ばかりを耳にしている今は、気が滅入った。森が切れた地平にようやく見えてきた聖都の城壁さえ、黒い大蛇のように見える。
 先の《光道騎士団》のエルミシュワ遠征に関し、国王の勅命を受けて聖都を目指した彼だが、心はもはや王都へ帰っていた。チストンで遭遇したイスフェル謀殺未遂事件。そして、重体に陥った国王。王弟トランスから早馬で懇親会への出席を促された時は、すぐにでも馬首を返したかった。散々迷った末、欠席する旨を伝えた後も、何度も決断が間違っていないか悩んだ。国王が健在であったゆえ王都をのこのこと出てきたが、今は王子たちと依然として信用ならぬ従兄トランスだけなのだ。もしものことがあった時、王子たちを守れるのは自分しかいない。しかし、サイファエールの上将軍として、《光道騎士団》を放置するわけには決していかなかった。今、首根っこを掴んでおかなければ、ますます増長するだけである。
「せめて今夜くらいは巫女の歌声でも聞いてくつろぎたいものだ」
 アーバン領主からの報告書には、《太陽神の巫女》のことは記されておらず、まさかセフィアーナもまた荒野を彷徨っているなどと思いも寄らない。明日からの《光道騎士団》や神官たちとの対峙を思い、ゼオラが嘆息した時だった。
「止まれ、止まれー!」
 前方で叫び声がして、随行の騎士が聖都の方からやって来た馬車に手をかざしながら近付いていくのが見えた。ゼオラの旗印を見ても街道の中央に居座っている馬車を脇にどかせようと、さらに二、三人の騎士が続く。それを見て、ゼオラの目付役ドレジが隣で憤慨した。
「なんと不敬な! だいたい城門は既に閉まっておろうに、夏とはいえこんな時間に旅とは!」
「家族に不幸があったのかもしれんぞ。――またぞろ・・凶報ではないだろうな……」
 自分の言葉に暗くなりながら騎士たちの報告を待っていると、ひとりの騎士が取って返してきた。
「閣下、前方の馬車は、セレイラ総督からの使者でございました」
「なに、ディオルトの? 聖都で何かあったのか?」
 自分の予感が当たったのかと眉根を寄せるゼオラに、騎士は首を傾げた。
「いえ、そこまでは……。使者殿は閣下にお会いしたいと申しております」
「なぜ本人は姿を見せぬのだ!」
 ドレジの叱責を受けて、騎士は迷惑そうに顔を歪めた。
「そ、れが……どうも車酔いしておるようで……」
「たったこれだけの距離で、使者が馬に酔っただと!? ふざけるにもほどがある!」
 その時、前方の馬車の扉が開き、ひとつの人影が出てきた。と、次の瞬間、足掛けを踏み外し、地面に倒れ込む。その場に残っていた騎士たちに助け起こされたその者は、神官服を纏っていた。
「……馬に慣れていなくても頷けるわ」
 ゼオラは愚痴をこぼすと、自ら馬を進めて使者のもとへ進んでいった。
「大丈夫か?」
 ゼオラの声に上げられた顔は、意外にも若いものだった。――いや、若すぎる。まだ成人に達していないのではないだろうか。笑えば愛嬌のありそうな顔が、今は青ざめて虚ろだった。
「ゼ、ゼオラ殿下であらせられますか。見苦しいところをお見せして、申し訳ありません……。わ、私――」
 が、吐きそうになって、少年神官は大きく喘いだ。ゼオラは吐息した。何故このような者をディオルトが使者に立てたのか、まずもって理解できない。しかし、今夜総督府へ到着することは、知らせが行って、ディオルトも承知しているはずだ。それでも使者を送ってきたのは、何か火急の件があったからに違いない。
「話せるか?」
 ゼオラが首を傾げて促すと、少年神官は小刻みに息を吐き出しながら首を振った。
「こちらではちょっと……。お人払いをして頂けたら……」
「では、おぬしの馬車を借りよう」
「こ、このような狭苦しい馬車でよろしいのですか?」
 少年神官が隊列の最後尾にある巨大な馬車をちらと見たので、ゼオラは笑った。
「残念だが、あれは百人分の荷物でいっぱいなのだ。私とて乗ったことはない」
 仮にも王族だというのに、ゼオラは馬の背で風に吹かれるのが好きなのだった。そこで、少年神官はよたよたとまた自分の馬車の中へ戻った。後にゼオラも続く。十名の騎士たちが馬車から適度な距離を保って円陣を組み、その後方では足止めを喰った九十騎が石像のように突っ立っていた。夜の帳が降り始めた街道に、奇妙な光景が浮き上がった。
「で、ディオルトは何と?」
 低い天井に髪を擦らせながら腰を下ろすと、ゼオラは早速、口を開いた。そんな彼に、少年神官はおずおずと書簡を差し出してきた。
「総督閣下より、手紙を預かって参りました」
 人は、自分がいつ今生に別れを告げるかなど、想像しているようでしていない。武人として戦場で散りたい、それが駄目なら美女の隣で、などと考えながら、結局、自分だけは無事に生を全うし、老いてから死ぬのだと少なからず思っているのだ。ゆえに、まさか荒野の馬車の中で、車酔いした少年神官に胸をひと突きにされるとは、――刺された今でも信じられなかった。
「き、さま……」
 白紙の紙の上にごふっと血潮を噴きだして、ゼオラは滲んできた視界の中で使者を睨み付けた。今や眼前の男は、少年という仮面も神官という仮面も脱ぎ捨てて、死に神のように薄笑いを浮かべて立っていた。隠し持っていた短剣は、書簡の下から繰り出された。ゼオラが防げなかったのは、殺気を感じなかったからだ。真の暗殺者――その言葉が、歪みながらゼオラの脳裏に浮かんだ。
「サイファエールの上将軍が、まあ無様な姿だね。油断禁物って言葉、知らないの?」
 先刻までとは打って変わった少年神官の嘲り笑う声に、ゼオラは短剣を突き立てたままの彼の腕を渾身の力で掴んだ。骨が軋む音がしても、少年は顔色ひとつ変えなかった。
「まだ、名を聞いていなかったな……」
「いいよ。冥土のみやげに特別に教えてあげる。レン・ソーザ。すぐ、『レン』になる予定だけどね」
 驚愕に、ゼオラは血走った目を見開いた。
「神官……!?」
「そうだよ。じゃあ、さよなら」
 レン・ソーザと名乗った少年は、ゼオラに腕を掴まれたまま、手中の短剣を回した。肉を抉る音だけが、車中に響く。そして引き抜くと同時に、大量の鮮血が少年にかかった。
 ……ゼオラの眼前に、何か、影のようなものがちらついていた。溢れる光の中で、それはやがて両親の姿になり、戯れた女たちの姿になり、主君と慕った従兄になり、先に逝った友の姿になり、共に剣を手にし馬を駆った将兵たちになり、剣舞を楽しんだ幼い王子たちになり……、そして最後にひとりの女性の後ろ姿になった。
『上将軍ともあろう御方が、なんと情けない』
 肩越しに紅蓮の瞳を細める彼女にゼオラは反論しようとしたが、返す言葉を見付けることができなかった。そして、サイファエールの稀代の上将軍は、人知れず《光の園》へ旅立っていった。計り知れぬ無念だけを遺して……。
 ゼオラの黒い瞳が光を失うのを見届けると、レン・ソーザは初めて表情を消した。
「《金炎》に手を出そうとするからさ。順番抜かしは御法度だよ。ただでさえ巡ってくるのが遅いのに」
 そして、返り血を浴びた頬を神官服で拭うと、御者側の壁を叩いた。それが合図だった。
 突如、走り出した馬車に十人の騎士が一斉に振り向いた時、彼らはお互いの肩越しに黒い無数の小さな点が近付いてくるのを見た。しかし、それが何かも解らぬまま、ばたばたと地面に斃れ伏した。転がった彼らの額には、一様に黒い矢が刺さっていた。死の雨を受けたのは、隊列前方だけではなかった。それは分け隔てなく後方の騎士たちにも執拗に降り注ぎ、あちらこちらで絶命の悲鳴が上がる。こうしてわずか千を数えない間に、サイファエールの精鋭百騎は全滅した。
 しばらくの静寂の後、森の中から馬具の擦れあう音だけを発しながら現れたのは、漆黒の軍団――《光道騎士団》だった。その数、五百騎。彼らは手にしていた弓を剣に持ち替えると、鐙を鳴らして馬を下りた。
「止めを刺した順に荷車に乗せるのだ。証拠をひとつも残してはならぬ。急げ」
 指示を飛ばす隊長に、悠然と戻ってきた馬車からレン・ソーザが声をかけた。
「こっちの死体もお忘れなく。勅書は? あった?」
「いえ、まだ捜索中です」
 その時、少年は死体を運ぶ騎士たちの向こうに見知った顔を見付け、にこりと微笑んだ。馬車から降りて近付いていくと、相手にはひどく嫌そうな顔をされたが、かまわず話しかけた。
「やあ、《紫影》。よくもまあ、無事で」
「黙れ、《紅影》」
《紫影》は少年を睨み付けた。少年は彼がエルミシュワで《太陽神の巫女》を奪還できなかったことをあげつらっているのだ。
「こんな場所で何してるの?」
 本当はその答えを知っていたが、一匹狼を気取る年上の仲間の反応が見たくてわざと尋ねる。彼はデドラスの命で、少年の後方支援に来たのだ。それが分かってか、《紫影》は瞳に剣呑な光をたたえた。
「《紅影》、貴様……」
「もしかして、私の手伝いに来たの? だけど、見ての通り、やることなんかないよ。私は失敗などしないか、らッ」
 寸でのところで、短剣の軌跡から首を反らせる。それでも《紅影》は口を閉ざそうとはしなかった。
「危ないなあ。こんな場所で斃れたら・・・・、間違えて運ばれちゃうよ?」
 少年のあからさまな挑発に、《紫影》は大きく息を吐き出すと、隊長のもとへ向かった。
 鬱憤晴らしに《紅影》と剣を交えたとして、何になろう。今よりもなお、デドラスの覚えが悪くなるだけである。エルミシュワから帰った彼を、デドラスは最初、無視した。それは失望されるよりも恐ろしいことだった。死を覚悟した時、デドラスから下された命令は、年下の《紅影》の手伝いだった。屈辱的だったが、与えられた挽回の機会はどんなものでも活用しなくてはならないことは彼にも分かっていた。
「勅書はまだ見付からないのか」
「ただいま調べさせておりますが、荷が多いため、時間がかかりそうです」
 すると、《紫影》の後を追いかけてきた《紅影》が口を挟んだ。
「百人分の荷物を乗っけてるって、死ぬ前に上将軍が言ってたよ」
「なら、場所を移したほうがいいな。死体とともに『死者の村』まで運んでいけ――」
 その時、《紅影》の馬車から引きずり下ろされたゼオラの遺体が《紫影》の視界に入った。筋骨隆々とした身体が、今や血にまみれている。しかし、《紫影》が気にしたのはそんなことではなかった。寝かされたその上半身が、不自然に反っていたのだ。運ぼうとする騎士たちを制すと、《紫影》はゼオラの背中に手を回した。すると、剣帯に縫いつけられた長細い革袋の中から、美しい装飾の黒い木箱が出てきた。開けてみると、まさにそこにサイファエール国王の勅書が入っていた。
「さすが武人というべきか」
「でも、死んじゃあね。良かったね、《紫影》。勅書発見! 名誉挽回だね!」
《紫影》が《紅影》を睨み付けると、《紅影》は軽く首を竦め、今や空の色と一体化しつつある聖都の城壁を眺めた。
「さて、あとは《蒼影》がうまくやってるといいけど」


 王族の歓待準備で騒々しい総督府の建物から出たフィオナは、門のところに祖父の姿を見付けて駆け寄った。
「おじい様、ゼオラ殿下はまだお着きにならないの?」
 着飾った孫娘の姿を見て、セレイラ総督たるディオルト=ファーズは目を細めた。
「殿下は気まぐれな御方だが、約束は守られる。少し遅れておるのだろう」
 その時、通りを一台の馬車が近付いてきた。
「あれかしら?」
 通りに飛び出そうとするフィオナの手を、ディオルトは慌てて掴まえた。
「ゼオラ殿下は馬がお好きなので、馬車には乗られまいよ。春にいらした時もそうだったから。危ないから下がりなさい」
「はぁい」
 フィオナが門の内側まで戻った時、先ほどの馬車が門の前をがらがらと通り過ぎていった。
「ねえ、おじい様。この薄桃色の服、ゼオラ殿下は褒めて下さるかしら? この間、薄桃色が似合うと言ってくださったのよ。カイルもだけど、ゼオラ殿下も私の話をよく聞いて下さるから大好き――」
 その時、突然、フィオナは右手を下方に引っ張られた。その手を祖父に握られていたため、うまく受け身が取れず、肘をしたたかに地面に打ち付けてしまった。
「いったーい……」
 何が起こったのかと涙目になりながら顔を巡らせると、隣では祖父が俯せに倒れていた。
「え……お、おじい様……?」
 フィオナはおそるおそる祖父の身体を揺さぶった。
「おじい様、どうしたの?」
 しかし、ディオルトは何の反応も示さなかった。
「閣下!?」
 異変に気付いた門番が駆け寄った時には既に、ディオルトは呼吸をしていなかった。
「大変だ! 医者を、医者を呼べ! 上に報告だ!」
 にわかに周囲が慌ただしくなる中、フィオナは祖父の傍らに呆然と座り込んでいた。
「おじ……おじい様……」
 浅く呼吸を繰り返すフィオナの耳に、なぜか遠離っていく馬車の音だけが響いていた。


「デドラス様。《蒼影》、只今戻りました」
 跪いて頭を垂れた青年に、デドラスは書物に落としていた視線を移した。褐色の肌の青年は、照明のあまりない部屋では神官服だけが浮かんでいるように見えた。
「首尾は」
「万事ぬかりなく。これから総督府はしばらく混乱するでしょう」
「客も着かず、頭もおらず、な。そなたの毒礫はよく効くことだ。土の上では証拠も残らぬで便利よな」
「お褒めにあずかり光栄にございます」
 無表情を装っていた《蒼影》の口元がわずかに綻んだ。
 フィオナがゼオラのものと間違えた馬車には、彼が乗っていたのだ。彼が馬車から猛毒を塗った礫を吹き放ち、総督を死に至らしめた。本来の計画では、ゼオラの到着に迎えに出た瞬間を狙う予定だったが、ディオルトが早々に、それも独りで門前に姿を現したので、その好機を逃さなかったのだ。
「それで、《紅影》たちの方はいかがなりましたでしょうか」
「先ほど知らせの鳥が来た。あちらもうまくいったようだ」
「さようですか。それはよろしゅうございました……」
 そこで口を閉ざした《蒼影》だったが、まだ物言いたそうなのがありありと窺え、デドラスは目だけで続きを促してやった。
「その……まさか上将軍のお命まで奪られるとは思いませんでした」
「勅書だけ奪ったとて、単なる時間稼ぎにしかならぬ。それに、上将軍はその勅書を背負っておったそうな。あれでは殺して奪うしかない」
「そうでしたか」
「生かしておいて、軍を率いて聖都を囲まれてもかなわぬ。それに、『巫女に会わせろ』と騒がれても面倒なのでな」
「身代わりの乙女――エルティス、でしたか。群衆は騙せても、巫女と懇意にしていた上将軍までは無理でしょうからね」
 そこでデドラスは体を起こすと、《蒼影》の前に一通の書状を放った。
「悪いがそれをそこの火で燃やしておいてくれ」
「はい」
 それが勅書だと思っていた《蒼影》は、炎にくべようとして浮かび上がった書状の文字を読んで思わず手を止めた。それは勅書ではなく、王弟妃ルアンダからの密書だった。彼の様子に気付いたデドラスが、大した興味も無さそうに口を開く。
「それは王都の女狐からの手紙だ。《緑影》の使いが持ってきた。もっとも、女狐は《緑影》の知り合いの神官が直接、私であることは知らぬがな」
 ルアンダは世間話のついでにゼオラの出立を文面で知らせていたが、その魂胆は見え透いたものだった。
「……あちらは恩を着せたつもりになりませんでしょうか」
 許しを得て文面にざっと目を通した《蒼影》が尋ねると、デドラスはちらと《蒼影》を見てから書物の頁を繰った。
「東の思惑など知ったことではない。《光道騎士団》を動かした結果、どうなるかはわかっていたのだからな。有能な将を消すことは目的のひとつだ。それが上将軍だったのは幸運だった」
「つまらぬことを申しました」
 しずしずと頭を垂れた《蒼影》から視線を転じると、デドラスは窓の外を見た。そこではいくつかの星が輝き始めていた。
「愚かな女よ。駒となりうることを、自ら告白しおった」
 その呟きは小さく、《蒼影》の耳には届かなかった。

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