The story of Cipherail ― 第三章 混沌たる荒野


     9

 昼下がり、セフィアーナは、ラスティンの家から少し離れたところにある断崖に立っていた。下方から吹き上がってくる少々湿っぽい風が、彼女の長い蜜蝋色の髪を靡かせる。その右手は、反対の手首をしっかりと握りしめていた。
 昨日一日は、朝から容態の落ち着いた母とずっと一緒にいて、いろいろな――とはいえ、もっぱらセフィアーナの暮らしぶりについてだったが――話をした。養母直伝の得意な麦粥ご馳走した。竪琴を弾いて歌も歌った。そうして穏やかな時間は流れゆき、セフィアーナにとっての神が山の稜線に沈む頃、母は静かに彼女の前から去っていった。穏やかな、優しい笑みのみを浮かべて……。
 テイルハーサ信徒の葬儀は通常、正午に行われる。しかし、白狼神を崇める狼族は、死者を早朝のうちに土に帰すのがしきたりだった。ここは異教の地、セフィアーナはついに《鎮魂歌》さえ歌えなくなってしまった。
「……セフィ」
 遠慮がちにかけられた声に振り向くと、少し離れた草むらにカイルが立っていた。冴えた碧玉の瞳が心配そうな色を浮かべている。
「カイル」
「大丈夫か?」
 肉親に縁の薄い彼ではあるが、親を失った時の喪失感には多少、覚えがある。
「私は――ええ、大丈夫よ」
 自分の気持ちを確かめるように、セフィアーナは深く頷いた。
 母が亡くなったことは無論、悲しい。しかし、弟に母が病であることを聞いてからはそれなりに覚悟もしていた。名乗り合いも果たせて、短いながらも語らう時間を持てた今となっては、思い残したことはなかった。
(うまく言えないけど……母さまとの間のことは、そういう運命だったのよ、きっと)
 擦れ違うのが定めだったのだ。最期の一瞬までは。少女が清々しい表情を浮かべているのを見て取って、青年は安堵した。そして、気になっていたことを尋ねようとして、ふと首を傾げた。
「手首を、どうかしたのか?」
「え?」
 問われて、少女は初めて自分が手首を握り続けていたことに気付いた。
「あ、うん――あ、ううん……」
「セフィ?」
 困惑するカイルに、セフィアーナも同じような表情を浮かべた。
「ちょっと、思い出したことがあって……。でも、何でもないの」
 一昨日の晩、再会した母は、おそらく彼女の手首を見て、自分の手を振り解いた。その時の異様な感覚が、《尊陽祭》の前々夜、《太陽神の巫女》の部屋に突然現れ、セフィアーナの手首を握って困惑していた少女の一件で感じたものと重なったのだ。もっとも母の場合は、病気のせいで時々幻覚があるのだと翌日に謝られたのだが。あの少女は結局、直後に亡くなってしまった。そして、そのことは決して外部に漏らさないとリエーラ・フォノイに誓わされていたので、セフィアーナは結局、カイルにも話さなかった。
「ラスティンは今、どうしてる……?」
 何かをごまかすように話題を変えられて、カイルの疑問は発される機会を失ってしまった。
「家の裏で、何かを彫ってる」
「彫る?」
 そこで二人がラスティンの様子を見に戻ると、少年は切り株に腰掛け、ちょうどアグラスが座った高さと同じくらいの大きさの丸太と向き合っていた。その上部は既に鑿で削られて、尖った角のようなものが二本ほど現れていた。
「カイル、あれって……」
「ああ」
 二人はすぐに気付いた。それが耳であることに――少年が彫っている物が、狼の佇む姿であることに。
 一昨日来、母に寄り添っていて、セフィアーナは母に狼の伴侶がいないことに気付いていた。「よそ者」――その言葉が、改めて心に突き刺さる。弟は、そんな母に最後の贈り物をするつもりなのだろう。セフィアーナは周囲に咲いていた野の花で輪冠を編むと、夕方、完成した狼の置物の首に掛けてやった。


「これからどうするつもりだ?」
 カルジンのその問いに、ただでさえ静まり返っていた夕食の席はいっそう静かになった。継父の視線を受けて、セフィアーナは匙を置いた。
「私――」
 その時、突然、ラスティンが父親に向かって叫んだ。
「何言ってんだよ、父さん! 姉さんは母さんの娘なんだぞ! どうするもこうするもないよ!」
 そして、身を乗り出すように、セフィアーナの方に顔を向けてきた。
「姉さん、父さんの言うことなんか気にしないでいいからね。姉さんはずっとここにいていいんだよっ」
 ラスティンの明るい空色の瞳が必死で、セフィアーナは困ったように微笑んだ。母を失ったばかりで心細いのだろう。不仲の父と二人きりになるのが嫌なのもあるかもしれない。もちろん、姉のことを思い遣ってくれているのもわかっているが。
「ラスティン、ありがとう。とても嬉しいわ。でも、私……明日にでもここを発とうと思うの」
 想像もしていなかった姉の答えに、ラスティンは音を立てて立ち上がった。その向かい側で、カイルもまた驚いていた。昼間、青年が彼女に聞きたかったのは、まさにカルジンが発したものと同じだったのだが。
 カイルは養父に頼まれて、セフィアーナをエルジャスまで連れてきた。養父は、セフィアーナがエルジャスで暮らすと決めた時のために、少女を大切に想っているカイルを同行させたのだ。しかし、当の青年は、自分を救ってくれたダルテーヌの谷で生涯暮らすことを決めている。母を失いはしたが、まだ弟のいるエルジャスでセフィアーナが暮らしたいと言うなら、数日こそ滞在しても、彼は谷へ帰ろうと思っていたのだ。それが、セフィアーナがまさか明日にも第二の故郷を発とうと考えていたとは。
「どっどうしてさ! まだ、来たばかりじゃないかっ。たっ確かに、母さんはいなくッ……いなくなっちゃったけど、だけど!」
「ラスティン、落ち着いて――」
 しかし、ラスティンはさらに声を荒げた。
「ダメだよ! だって、姉さん、ただでさえ《光道騎士団》の変な奴らに目を付けられてるのに、帰ったらどうなることか! や、やっと会えたのに……!」
 年甲斐もなく大粒の涙をこぼす弟の手を握ると、セフィアーナは語りかけるように静かに言った。
「だからよ」
「え……?」
「私が《太陽神の巫女》だから、行くの」
 セフィアーナは深く吐息した。今日一日、ずっと考えていたことだった。
「あなたが私を見付けて、母さまのもとに導いてくれたことには本当に感謝してるわ。私のたったひとりの弟……。もし、何もなければ――私が《太陽神の巫女》でなかったら、母さまが健在だったら、あるいはこの村で暮らすこともあったかもしれないけど……でも、私は《太陽神の巫女》なの。巫女としての普段の務めも、今回の遠征の務めも途中で放り出したまま、ここで暮らすことはできない。《秋宵の日》までは、ちゃんと務めを果たさないと」
「そんな、だって、戻ったら、こっ殺されるかもしれないんだよ!?」
 沈黙するセフィアーナに代わってそれに答えたのは、カイルだった。「務め」とは言っているが、少女が本当に気になっているのは、月光殿管理官や宰相補佐官のことなのだろう。
「ラスティン。白狼神に守られたこの山は、太陽神の娘の居る場所ではないんだ」
「カイルまで何言ってるんだよ! そんな、そんなの……」
 ラスティンは拳を握りしめると、声を絞り出すように叫んだ。
「何が神だ! 白狼神も太陽神も、母さんには何もしてくれなかったじゃないか! もういいよ! みんな、いなくなればいい!」
「ラスティン!」
 外に飛び出していった弟を、しかし、セフィアーナは追うことができなかった。


 翌朝になっても、ラスティンは戻ってこなかった。
「あいつを待っていると、いつまでも帰れないぞ」
 それが狙いなのだから、とカルジンに促され、旅支度を整えたセフィアーナだったが、やはり顔を見るまでは出立しがたかった。カルジンの狼の遠吠えにアグラスが応えたので、遠くへは行っていないらしいのだが。
「『この山は、太陽神の娘の居る場所ではない』、か……」
 家の前で弟の帰りを待っている少女の背を見て、カルジンはぽつりと呟いた。それが自分の発した言であることに気付いたカイルが振り返ると、カルジンが伴侶に干し肉をやりながら訊いてきた。
「……おまえは、セフィアーナの恋人か?」
 唐突な問いに目を瞬かせると、カイルは小さく笑った。
「いいや、そんなものじゃない」
 それを聞いたカルジンは、しばらくの沈黙の後、また口を開いた。
「おまえは、オレと同じ匂いがするな」
「……それは、どういう?」
 尋ね返しながらも、カイルには何となくわかっていた。家族から逃れ、大切な人間からも逃れていた二人だったから。しかし、彼はもう逃げることをやめたのだ。
「あんたこそ、これからどうするつもりだ?」
 カルジンの答えを待たず質問を次いできた青年に、男はふっと笑って応じただけだった。
 結局、セフィアーナとカイルの二人は昼前、カルジンだけに見送られて村を発った。セフィアーナは《秋宵の日》の後、また母の墓前に花を供えに来ることをカルジンと約束した。
 再び延々とした霧の坂道を下り、夕方近く、やっと麓の村の屋根が見えてきた頃だった。馬の足下を黒い影が素早くすり抜け、二人の前方で嬉しそうに往来を繰り返した。その姿を見て、セフィアーナは慌てて手綱を引くと、驚愕の声を上げた。
「ア、アグラス!?」
 すると、カイルが呆れた声を上げた。
「もう一頭いるぞ」
 その声にセフィアーナが振り返ると、カイルとの馬の間に真白の毛並みを泥で汚したイリューシャが、馬上の人間たちを交互に見ていた。
 ひとりが期待のこもった目で、もうひとりが幾分投げやりに見守る中、霧の中から現れたのは、一頭の馬に跨るあまりにも騒々しい二人の若者だった。
「やっと追いついた!」
「ちょっと姉さんたち、ひどいじゃないか! オレに何も言わないで行っちゃうなんて!」
「おまえが拗ねて隠れてるからいけないんだろ。それよりも、このオレ様にまで挨拶なしってのはどういうことだよ」
「別に拗ねてなんかないよ! だって姉さんが昨日の今日でもう帰るって言うから!」
「痛い! 鞍が小せぇんだから暴れんな!」
「じゃあ、アリオスは走ればいいだろ! これはもともとオレが借り受けた馬なんだから!」
「何だと、このガキ!」
 狭い場所でいがみ合っているラスティンとアリオスを見て、カイルは黙らせるために口を開いた。
「なんだ、わざわざ貸した銭子を返しに来たのか。意外と律儀なところがあるんだな。悪かったな、今まで散々いびって」
「やっ、そ、それは……だな、何というか……」
 たちまち馬上で小さくなったアリオスだった。それでようやく落ち着いたラスティンが、おずおずと馬を進めた。
「姉さん、昨夜は……ごめんね。心ないことを言って……」
 申し訳なさそうに頭を垂れた弟に、セフィアーナは首を横に振った。
「ラスティンの気持ちはわかっているから、気にしないで」
「そ、そう?」
 安堵したように吐息すると、ラスティンは「それなら」と眉根を寄せた。
「村に居てくれたらいいのに……」
「おまえ、許してもらった早々だろうが。調子に乗りすぎだぞ」
 アリオスの注意にも口を尖らせているラスティンに、セフィアーナは困ったように笑った。
「もしもの時、村の人たちには迷惑かけられないでしょ」
「もしもの時って……え?」
 後追い組が首を傾げている中、カイルだけがその意味を察し、目を見張った。
「セフィ……」
 少女は、《光道騎士団》にエルジャス山にいるところを見付かった時のことも考えていたのだ。偽りとはいえ邪教徒征伐に乗り出した彼らのことだ。異教徒たるエルジャスの人々をどう扱うか、火を見るよりも明らかだった。
「そんな、姉さん……!」
 カイルから簡単に説明された後、ラスティンは姉の気遣いに感動して涙を滲ませていたが、エルミシュワでのことを知らないアリオスには今ひとつ理解できないようだった。
「なのに、こんな優しい姉さんを追い出すなんて、あのクソ親父!」
 再び悪態をつき始めたラスティンに、セフィアーナは困ったように視線を向けた。
「別に追い出されたわけじゃ……。もう。たった一人の親でしょ。そんなふうに悪く言わないの」
「だって!」
 ラスティンは、またしても口に火が付いたようにまくし立てた。
「どこにいるかはこいつら使えばわかるんだから、オレのこと呼びに来てくれればいいのにそれもないだろ!? 腹が減って家に帰ってみれば、姉さんたち、もう行っちゃった後で……オレが追っかけようとしたら、姉さんが追われてるのは本当かとか聞いて来だして、それなら居させた方がよかったかとか言い出して! 姉さん、もう行っちゃったっての! 挙げ句の果てに、自分はしばらくフィーユラルの方へ行くとか言い出したんだよ! なーんでオレが母さんの墓守を独りでしながら父さんの帰りを待たないといけないんだよ! だから、オレ、先に出てきたんだ!」
「え、『先に出てきた』って――」
「オレ、姉さんが落ち着くまで、傍にいるから!」
「ええ!?」
 それきり言葉を失って固まっているセフィアーナに、アリオスが「心配するな」と声をかけた。
「このことは叔父貴も了承済みだ。ついでにオレも行くぜ。なんだか面白そうだからな」
「なに!? アリオス、おまえ、父さんの間者か! この裏切り者! せっかく馬に乗せてやったのに!」
 そしてまた始まった不毛な口げんかに、さすがのセフィアーナも顔をしかめた。
「ラスティン。継父さま、フィーユラルへ行くって言ったの? どうして?」
「そんなの知らないよ。色んなところを彷徨いてるらしいからね、たまたま今回がそうだったんじゃないの。父さんのことはもう聞かないでよ。『何かあったら訪ねてこい』なんて、誰が頼るかっての!」
「………」
 自分が帰ると言っている場所へ、カルジンもやって来る――それは偶然なのだろうか。セフィアーナは、彼ともっと話をしておくべきだったと後悔した。
「それにしても、カイルにはびっくりだよ」
「何が」
 びっくりというよりは怒っている口振りで、ラスティンはカイルを睨み付けた。
「エルミシュワへ行く時も行ってからも、命がけで姉さんのこと守ってたのに、《光道騎士団》のうじゃうじゃいるフィーユラルへ戻ることを止めないなんてさ。エルジャスに居れば、少しは時間が稼げるのに。姉さんが危険な目に遭ってもいいの!?」
「オレはセフィの意志を尊重しただけだ」
 それでもまだ御託を並べる少年に、カイルは冴えた碧玉の瞳を冷ややかに光らせた。
「で? 今度こそ、もろもろの代金は自分たちで払うんだろうな」

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