The story of Cipherail ― 第三章 混沌たる荒野


     7

 エルジャス山の道に入ってからというもの、夏だというのに鳥肌が立つような寒さで、セフィアーナは持っていた長袖の衣を重ね着しなければならなかった。鬱蒼とした木々の間から見上げれば、山の頂には霧が立ちこめており、その上の空は灰色の厚い雲で覆われている。足下は沼のごとくぬかるんでおり、道端のほとんどの石や木の幹は苔生して、まるで古から刻が止まっているかのようだった。崇める神が違うとは言っても、日が照らないわけでもないのに、故郷の山道とはまるで様子が違った。
「ラスティン、あとどれくらいで村に着くの……?」
 不安な心を落ち着けられないまま、先を行く弟に尋ねると、彼は馬上で手綱を捌くのに四苦八苦しながら答えてくれた。
「えっと、あと四ディルクくらいかなっとととと。違う、そっちじゃない。こっちだって――日が沈む前には着くよ」
「そう……」
 俯くセフィアーナの横顔を、カイルは後背から窺った。この数日、彼女の様子がおかしいことに、青年は無論、気付いていた。それは春先の憂鬱な時期と似ていて、少女が何を考えているのかは聞かなくてもわかった。カイルにも考えなければならないことがあるが、それはセフィアーナが答えを出してからのことだった。
「すごい道だろ」
 唐突にそう話しかけてきたのは、殿を行くアリオスだった。今はカイルの馬に独りで乗っている。道中でセフィアーナが彼を乗せた時、二人して落馬しかかったので、カイルがアリオスに乗り方を教え――それが恐ろしく簡単な手ほどきだったことは、誰も知らないことだが――、カイル自身はセフィアーナの馬の手綱を握ることにしたのだった。
「いつもこうなの?」
 アリオスの口振りからセフィアーナがそう尋ねると、青年は頭上の枝を避けながら笑った。
「ああ。だからオレたちが下ることはあっても、山の下の奴らが登ってくることはまずないな。内陸からの風のせいで、海から来た雲がエルジャスの方へ流れてくるんだ。だから年中、この山はこんな感じだ。まあでも、海の見える東側は、まだ陽も当たって気持ちがいいんだぜ。村もそこにある」
「村全体で狼の群れを飼うというならまだしも、なぜ一人一頭という風習になったんだ?」
 すると、アリオスは榛色の瞳を瞬かせ、そしてにやっと笑った。
「カイルがオレ様に質問とは珍しいな。いいだろう、駄賃の礼に答えてやろう――すみませんっ」
 カイルが鞭を握り直すのを見て、アリオスは慌てて間合いを取った。彼の前ではうっかり冗談も言えない。
「バカアリオスー」
 その一方で、先頭で軽口を叩いたラスティンには、報復に落ちていた栗の毬を投げておく。遠くに悲鳴を聞きながら、アリオスは真面目腐った顔をして、ひとつ咳払いした。
「オレたちの村には、白狼神の伝説というのがある。大昔、エルジャスの森に住む狼たちは、日々、熊どもと居住権を巡って争っていた……」
 ある日の戦いで、狼たちは手酷い敗退を喫した。狼のかしらは瀕死の重傷で、川原にその身を晒し、ただ死が訪れるのを待っていた。真白の毛は血でくまなく朱に染まっていた。そこへ偶然、人間の若者が通りかかった。彼は頭を見付けると、手厚く介抱してくれた。数日後、若者のおかげで回復した頭は、熊たちとの戦いに勝利した暁には、彼の望みをひとつだけ叶えてやると約束した。そして、若者の知恵を借りながら勝利を重ねていった狼たちは、ついに熊たちを森から叩き出した。頭は約束どおり、若者に望みを尋ねた。若者は言った。
『私は伴侶を探すために、旅に出た。望みは、伴侶を得ること』
 翌日、若者の前に美しい人間の娘が現れた。透き通るような真白の肌をし、髪は銀色、つぶらな瞳は金色に輝いていた。
「その娘の名前はイリューシャといった。オレのイリューシャは、毛並みが同じだからそれに因んだんだ」
 アリオスが得意げに言うと、ラスティンがフンと鼻を鳴らした。
「みんな大それた名前をって言ってたよ。イリューシャは本当に賢い狼だけどね。……ん? それなのに何でアリオスの伴侶なんかやってんだろ……」
「うるさいぞ、ガキんちょ。――話に戻るが、イリューシャはとにかく不思議な娘だった」
 イリューシャは確かに人間だったが、人間の生活というものにまったく無知だった。料理をするどころか、杯を使って水を飲むことさえ知らなかった。しかし、彼女の美しさに心を奪われていた若者は、根気よく彼女に人間の方法を教えていった。中でも最も若者を驚かせたのは、出逢ってから二か月で、それも五人の赤ん坊を出産したことである。自分の子ではないのではないかと疑ったが、娘は若者の子だと言い張った。実際、育つ子は若者にもよく似ていた。
 数年が過ぎた新月のある夜のことだった。若者が寝ていると、寝相の悪い子どもに顔を蹴られた。思わず飛び起きた若者は、部屋の最奥に寝ている妻の姿を見て仰天した。そこには真白の狼が横になっていたのだ。彼のただならぬ気配を察したのか、イリューシャは目を覚まし、そして自分がしくじったことを知った。彼女は頭だった。
 正体を知られた頭は、家族から離れなければならなかった。同じ術は二度とは使えない、それが掟だったからだ。二度と、人間の姿にはなれない――。だが、頭は群れにも戻れなかった。彼女は先代の頭を夫としていたが、熊との戦いの最中、死に別れた。彼女は次の頭を決めるまでの中継ぎだった。そして、若者の望みを叶えるために人間となり、群れとは縁を切っていた。群れにはもう新しい頭がおり、彼女に帰るべき場所はなかった。
 若者は狼の姿のままでもいいから共に暮らそうと言ったが、イリューシャにはそれが受け入れられなかった。
『貴方を、そして子どもたちを、愛しています。ずっと、見守っています』
 そう言い残して、彼女はそのまま若者のもとを、家族のもとを去っていった。数日後、山中にある沼の畔で、彼女は息絶えていた。若者はそこに妻を祀る祠を建てた。
 妻の生ける形見たちは、母がいなくてもすくすくと育っていったが、年齢を重ねるごとに危ない遊びもするようになった。しかし、そのたびにどこからともなく現れた狼に助けられ、それを連れて家へと帰ってきた。やがて狼は五頭になった。兄弟たちが結婚すると、狼たちも増えた人数分、子を作り、その者たちを危険から護った。すっかり老いて長老となったかつての若者は、やがてそれが妻の残した愛だと悟った。
「――やがてイリューシャは、村の守り神、白狼神となった。そしてオレたちは、常にこいつらと共に在るってわけさ」
「素敵な伝説ね……」
 セフィアーナがほうっと吐息すると、現実主義者のカイルも穏やかな顔で言った。
「こいつらの顔を見れば、伝説の真偽もわかるってものだな」
 二人の前を泥だらけになりながら付き従っているアグラスとイリューシャは、常にラスティンとアリオスの良き友だった。セフィアーナはふと思った。「よそ者」と村中から疎外されていたという母にも、やはり狼の伴侶は与えられたのだろうか、と。


 ラスティンの家は、村のかなり外れにあるらしかった。他の家の灯火がかなり遠くで瞬いており、道中も村の中は通らなかった。セフィアーナは、双子王子の暮らしていた里を訪ねた時のことを思い出した。彼らの家も、村の外れにひっそりとあったものだ。
 石造りの小さな家の前で、一人の男が竈の側に腰を下ろしていた。伸びた栗色の髪を無造作に束ね、顎は無精髭に覆われているが、その面影は確実にラスティンの中にあった。火にかけられた鍋からは、時折湯気がそろそろと上がっている。一行が近付いていくと、訝しげな顔をしていた男は、先頭の少年を見付けるや表情を一変させた。
「……母さんが大変な時に、何処ほっつき歩いてた」
 その言葉に、ラスティンは心底安堵した。どうやら母の生命は、まだ灯を失っていないらしい――。しかし、口から出た言葉は、まったく別の感情だった。
「その言葉、そっくり返すよ。あんたにそんなこと言える資格ないだろ」
「………」
 剣呑な雰囲気にセフィアーナが息を呑んだ時、アリオスが場違いなほど明るい声を上げた。
「叔父貴、約束通り、連れて帰ってきたぜ」
「……ああ、すまなかったな」
 それからアリオスは、ラスティンに囁いた。
「ラスティン、オレは一度家に顔出して来る。後でうるせえから、親父には先に言っとくぞ」
「ありがと」
 暗闇の中に消えていくアリオスの背を見送った後、ラスティンは大きく深呼吸すると、セフィアーナの手を取り、父の前に引き出した。
「父さん、オレの姉さんだよ。セフィアーナっていうんだ」
 弟の強引さに驚きながら、セフィアーナはラスティンの父に向かってお辞儀した。
「あの、初めまして。こんばんは……」
 その姿を見て、ラスティンの父カルジンは目を見張った。まるで彼の妻セラーヌが立っているかのようだった。
「姉さん、ちょっとここで待っててね。母さんの様子、見てくるから」
「ええ……」
 家の中へ駆け去った弟を追うように、セフィアーナはカルジンのもとへ歩み寄っていった。姉を探しに行くというのはラスティンの単独判断であり、彼女は継父にとっては招かれざる客かもしれない。そのことを詫びようと思った。しかし、彼女より一瞬早く、カルジンの方が口を開いた。
「それは――」
 彼の視線を手元に受けて、セフィアーナは首を傾げた。
「はい……?」
「――いや、何でもない。よく、来たな」
 ぶっきらぼうな言い方ではあったが、セフィアーナは心底嬉しかった。彼女はただ頭を垂れた。その時、家の中からラスティンが飛び出してきた。
「姉さん!」
 ついに対面の瞬間が来たのだった。


 その女性は、寝台の上で半身を起こしていた。麻の夜着の上に、夏だというのに毛皮の上掛けを掛けている。まるで蝋人形のような色の白さで、肩までの栗色の髪はほつれ、どこか見覚えのある・・・・・・・・・顔の頬は痩け、ただ瑠璃色の瞳だけが湿気を帯びて、彼女が未だ生身であることを知らしめていた。
「―――」
 エルミシュワからの道中、セフィアーナはずっと考えていた。母に会ったら、まず最初に何と言おう? しかし、考えても考えても、その言葉は思い浮かばなかった。想いが大きすぎて深すぎて、言葉ではとても言い表せそうにない。会えば何とかなるかとも思ったが、実際にはやはり声を出すこともできなかった。ずっとずっと、ずっとずっとずっと会いたかった母。夢にまで見た母。毎年毎年、置き去りにされていた礼拝堂にその姿を探すほどに想い続けた母。それを今、目の前にして、少女は全身の力が抜けていくのを感じた。そして、足を前に出すこともできなくなり、ただその場に立ち尽くした。居たたまれなくなって俯いた時、いつの間にか滲んでいた涙が弾みで床に落ちた。
「姉さん……」
 ラスティンに優しく背を押され、セフィアーナは躊躇いながらもようやく病人の枕元へ立った。
「あ、あの、私……セフィと……セフィアーナといい……」
 溢れすぎた想いが、喉を詰まらせる。セフィアーナは、意識的に大きく呼吸すると、止めどもない涙を袖でぐいと拭い、自分の荷物を探った。
「あ、あの、これっ……これに見覚え、ありますか……?」
 差し出したのは、銀の竪琴だった。十六年前、自分の傍らに共に置き去りにされたもの。唯一、彼女と親とを結ぶ証。
 自分によく似たその顔を見れば、すぐに母だと判った。自分と同じその瞳の色を見れば、すぐに。だが、確信が欲しかった。物証による確信が。
 かくして、病床の女性の首は縦に振られた。
「私が……初めて愛した人から頂いた物よ……」
 四つの瑠璃色の瞳から、同時に銀の波が伝った。
「か……さま……!」
 セフィアーナは想いの丈をぶちまけるように、母の傍らに突っ伏した。嗚咽し、激しく揺れる背中に、母の痩せ細った手が当てられる。それは雪のように白かったが、思っていた通り、春の日溜まりのように温かいものだった。
「ごめんなさい……ごめんなさいね……」
 セフィアーナが泣いている間、母はずっと謝罪の言葉を繰り返していた。しかし、母は今、死の床に就いているのだ――そのことを思い出して、彼女は慌てて涙を拭った。母に謝ってもらうために、ここまで来たのではない。泣いてなど、いられない。深呼吸して顔を上げると、セフィアーナは自分を撫でてくれていた母の手を取り、渾身の笑顔を浮かべた。
「母さま、謝らないで。こうして会えたから……もういいの。もう、何も言わないで」
「ああ、セフィアーナ……」
 それは、初めて実の母に名前を呼んでもらった瞬間だった。彼女の内で、十六年に渡るしこりが霧のように消えていく。
 確かに聞きたいことは山ほどある。しかし、出会えた今は重要なことではない。過去はどうあがいても変えられず、未来に向かって歩いていくしかないのだから。だから、せめて。
(神さま、お願いです……。母さまの灯を、まだ消さないで……)
 セフィアーナは、母の手を握る手に祈りを込めた――それが、いけなかったというのか。
「ヒッ……!」
 突如、短い悲鳴を上げた母が、セフィアーナの両手を振り払うように、自分の手を引き抜いた。驚いた彼女が母の顔を見ると、それはもはや血の通わぬ色となって、石のようにそこにあった。光を失った瞳は、ただ、セフィアーナの手を締め付けるかのように凝視していた。
「母さま……?」
 セフィアーナがおそるおそる母に触れようとした瞬間だった。
「いやあ……!!」
 母の口から、絶叫がほとばしった。そして次の瞬間、胸を押さえて苦しみ始めたのだった。ばたばたと、足音がセフィアーナの周りを取り囲んだ。母娘の再会に水を差してはならぬと、家の外に出ていたラスティンたちだった。
「母さん!? 母さん、どうしたの!?」
「セラーヌ!」
 ラスティンとカルジンの間で、セフィアーナはよろよろと後ずさった。背後の家具につまずいて倒れそうになったところを、カイルに助けられる。
「セフィ、大丈夫か!?」
 今や、少女の顔も真っ青になっていた。
(母さまは今、私を拒絶したの……?)
 しかし、その問いには今なら「否」と答えが出せる。だが、彼女の「何か」が、母にあの恐怖の表情をさせたのは間違いない。では、いったい何が?
 その時、カルジンが恐ろしい形相でセフィアーナを振り返った。
「出て行ってくれ……」
「父さん!」
 姉が母に酷いことをするはずがない。ラスティンは二人の間に割って入ろうとしたが、逆に父に突き飛ばされてしまった。
「おまえもだ、ラスティン! みんな、出て行け!」
 その殺気立った剣幕に、カイルは姉弟を引きずるように家から出た。ラスティンは父に掴みかからん勢いで、病人の傍らで争わせるわけにはいかない。
 外に出た三人を、まとわりつくような闇が包んだ。

     ***

 若い男女の重なった手首から溢れ出した血は、混ざり合いながら腕を伝い、肘から地面へと落ちていった。
『セラーヌ、きみを愛してる』
『私もよ、アイゼス・ホンテール――いえ、ランバルト・・・・・
 永遠の愛を誓い、そして二人は強く抱き合った。聖衣を纏う恋人が、その腕の中で幸福に浸っているセラーヌの耳に囁く。
『白大門の近くに「白蛇亭」という宿屋がある。明日、《正陽殿》を辞したら、そこで待っておいで。必ず後から行くから』
『わかったわ。……あまり遅くならないで』
『心配しないで。すぐに行くよ』
 アイゼス・ホンテールは優しげな灰色の瞳を細めると、セラーヌの額に口付けした。
 翌日、春からの重責を無事に果たし、ルーフェイヤ聖山を下りたセラーヌは、言われた通りに白蛇亭へと向かった。荷物は鞄がひとつと銀の竪琴――恋人からの初めての贈り物だった――、それから大きな希望。宿に着いたセラーヌは、部屋の窓辺で愛する人が迎えに来てくれるのを待った。
 不安がまったくないわけではなかった。恋人は優秀な神官で、彼の師はそんな彼を易々と手放そうとはしないだろう。セラーヌ自身も最初は反対したくらいだ。しかし、それでも彼は彼女を、彼女と生きる道を選んでくれた。いつもそばにいると約束してくれた。彼を愛していたから、最後にはセラーヌも信じるしかなかった。
 秋の日暮れは早かった。神の下端が街並みにかかり、セラーヌの心の灯さえ頼りなげになり始めた頃、ようやく部屋の戸が開いた。
『ランバルト……』
 入ってきた男に向かって、セラーヌは安堵しながら微笑んだ。しかし、漆黒の頭巾の下から覗いたのは、愛する灰色の瞳ではなく、見る者すべてを貫くかのような蒼氷色の瞳だった。おもむろに闇の一部が切り取られ、彼女に向かって伸びてきた……。


「いやっ……!」
 振り払おうと必死でもがく手を、誰かに掴まれた。
「セラーヌ!」
 呼ばれてゆっくりと目を開くと、夫カルジンが心配そうに彼女を覗き込んでいた。
「――カルジン、私……?」
「いつもの、発作だ」
「ああ……」
 セラーヌは吐息すると、目に入ってきた髪の毛を瞬きだけで外に追い出した。手で払う力は、今の彼女にはなかった。
「嫌な、夢を……」
 その言葉に、カルジンは眉根を寄せた。娘が訪ねてきたことを、夢だと思っているのだろうか。もしそうなら、「嫌な夢」のままで終わらせてやりたかった。しかし、そうではなかった。
「子どもたちは……?」
 複数形で尋ねられたことに、カルジンのほうが複雑だった。
「アリオスのところだ。……呼ぶか?」
 セラーヌは首を横に振って応じた。子どもたちの姿がないことに、彼女はかえって安堵していた。発作の直前の出来事を、彼女ははっきりと憶えている。彼らの前で、呪わしい過去の一端を覗かせてしまった自分。今はどんな顔をして会えばいいのか、彼女にはわからなかった。
 カルジンが渡してくれた水を口に含むと、セラーヌは宙に視線を放って呟いた。
は、やっぱり最後まで私をお許しにはならないのね……」
 それがこの山の守護神を指していないことを、カルジンは察した。昨晩の、セフィアーナの姿を思い浮かべる。それは、出逢った頃の妻そのものだった。
「――では、やはりあの腕輪は……」
「気付いてたの……」
 わずかに瞠目した後、セラーヌは自嘲気味に笑った。
「そうよね。あの腕輪を割ってくれたのは、貴方だものね」
 そして、沼に沈むような溜め息を吐く。
「哀しい……哀しいわ。まさか同じ運命を辿っているなんて……あの娘と私、本当に母娘なのね……」
 視線の先には、左の手首があった。薄紅色に生々しく浮き上がる、十字の傷痕。それからコホ、コホと、乾いた咳をする。
「セラーヌ、今はまだ無理をしないがいい」
 上掛けをかけ直してくれる夫の腕に、セラーヌはやっとの思いで持ち上げた自分の手を重ねた。
「ねえ、カルジン。私、まだ生きてるわ……」
 怪訝そうな表情の彼に、セラーヌは微笑みかけた。それは胸を突く、哀しい、哀しいものだった。
「さっき、あの娘の腕輪を見た時はもう心臓が止まるかと思った……。でも私、まだ生きてる。きっと、最期の時間なんだわ。神が下さった、最期の……」
「セラーヌ」
「カルジン、お願い。聞いて欲しいことがあるの……」
 最期の一日の始まりに、セラーヌは十三年間連れ添ってきた夫に初めて自分の呪われた過去を語った。

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