The story of Cipherail ― 第九章 血塗られた途へ


     7

 自室の文机に座り、リエーラ・フォノイは独り、襲い来る後悔に耐えていた。
(こんなことになるのだったら、アイゼス様に早く動いて頂くよう、お願いするのだった……!)
 今回、アイゼスが行方不明になったのは、前の《太陽神の巫女》が変死した件と何か関係があるのではと思ったのである。ラフィーヌが修行の地に選んだテティヌへは、エルミシュワ高原を通ると近い。《月光殿》の管理官を拉致したのだから、邪教を信ずる民にとって、旅の道中だった巫女も充分、敵になったことだろう。その者たちのところから命からがら逃げてきたとすれば、あの無惨な姿も納得がいく。
(アイゼス様は、ラフィーヌが亡くなったことを内密にと言われたけれど……こうなった以上、デドラス様にはお話しておかなければ……)
 これ以上、犠牲者を増やさないためには、重大な秘密を心にしまったままにしておくわけにはいかなかった。リエーラ・フォノイが大きく息を吐いた時、遠慮がちに扉が叩かれ、セフィアーナが入ってきた。
「リエーラ・フォノイ、ただいま戻りました」
「お疲れ様。久しぶりの講義はどうでしたか?」
 この日から巫女の修行がまた始まり、セフィアーナは朝から神官たちの講義を受けていた。
「この四か月、殆ど机に向かわなかったので……」
 苦笑いする少女に、リエーラ・フォノイも笑った。王都では夜のほんのひとときしか書物を開く時間がなかったのだ。
「……あの、リエーラ・フォノイ」
 ふいにセフィアーナが面持ちを硬くし、リエーラ・フォノイは近くの椅子を勧めてやった。
「――決心、したのですか?」
 機先を制され、少女の瑠璃色の瞳がわずかに見張られる。
「……はい」
 セフィアーナは椅子に腰を下ろすと、膝の上に組んだ手を見つめた。
「……私は《太陽神の巫女》です。虐げられている人々がいるのに、見て見ぬ振りはできません」
「今度のは、カイザール遠征とはわけが違いますよ。謂われのない悪意は、確実に貴女にも向けられます。もはや、何ができるか、という次元ではありません」
「……覚悟の、上です」
 言葉どおり、少女の瑠璃色の瞳には、固い意志の炎が宿っていた。
 リエーラ・フォノイは内心で吐息した。デドラスから話を聞いた時から、セフィアーナがそう選択するということは、彼女の性格からわかっていた。
「――わかりました。デドラス様にそうお伝えしましょう」
 確かにセフィアーナが一緒に行った方が、《光道騎士団》だけよりは、人々――特に王都に、必要以上の刺激を与えずに済むかもしれない。なにより、彼女の意志を尊重することが、アイゼスの導きだった。
「けれど、本当に心配です。貴女は意外と無茶をするから……」
 リエーラ・フォノイは困ったように顔を歪ませた。少女の肩に置かれた手は、わずかだが震えていた。
「……いつも、迷惑をかけてしまって……」
 セフィアーナが唇を引き結ぶと、リエーラ・フォノイは小さく笑った。
「それは言わない約束ですよ」
 王都へ向かう道中を思い出す。揺れる馬車の上で、体調を崩したリエーラ・フォノイに少女が向けた申し訳なさそうな表情――。
「――さあ、一日も早くアイゼス様をお助けし、闇に閉じこめられた者たちに再び神の御光を導かなくては」
 リエーラ・フォノイはセフィアーナに昼食を促すと、自分はデドラスに会うために《月影殿》へと向かった。
『……おそらくその根は深く暗い闇にあるのだ。神の御光も届かぬ暗黒の谷に……。下手に動いては、そなたの身まで危険が及ぶ。よいか、決して軽はずみなことはしてはならぬぞ』
 以前、アイゼスが発した警告は、もはやリエーラ・フォノイを止めることができなかった。


『……賢明な判断が、かえって仇となったな』
 リエーラ・フォノイの話を聞き終えたデドラスの第一声はこうであった。彼は最初、武術を嗜まない彼女がセフィアーナに付いてエルミシュワへ赴くことを許可しなかったが、それを聞いて、意を翻した。
『そなたの決心は固いと見える。そなたの思う通りにすればよい。巫女を頼む』
 リエーラ・フォノイは深く頭を垂れると、それでデドラスの部屋を辞した。そして今、《月影殿》の廊下を歩きながら思うことは、デドラスの印象についてだった。
(《光道騎士団》との関係が取り沙汰されて、デドラス様にはあまり良い印象がなかったけれど……さすが《月影殿》の管理官を任されていらっしゃるだけのことはおありだわ)
 だが、同時にひとつ気になることもあった。
(あのようにご立派な方なのに、アイゼス様はなぜデドラス様にラフィーヌのことをお話しされなかったのかしら……)
 重大な秘密を抱え焦っていた彼女は、デドラスを待っている間、アイゼスが既にデドラスに話しているかもしれないという可能性に遅ればせながら気付いて慌てたが、やはりデドラスは何も知らなかった。
 なぜアイゼスはデドラスに話さなかったのか。これは本来、内政の《月影殿》の管轄の問題であるのに。
(――まさか……)
 アイゼスの考えの一端に思いが触れた時、突然、背後から名を呼ばれた。
「リエーラ・フォノイ」
 驚いて振り返ると、そこには手紙を配達している神官の姿があった。彼もまた、リエーラ・フォノイの見開かれた黒い瞳に驚いていた。
「どうかなさったのですか……?」
「あ、いえ、何でもありません……」
 慌てて首を振る彼女に、神官は首を傾げながらも一通の手紙を差し出してきた。
「ちょうどお部屋にお伺いするところだったのです」
「いつもありがとうございます……」
 リエーラ・フォノイは手紙を受け取ると、おそるおそる差出人の名を見た。すると、それは《太陽神の巫女》に選ばれながら歌謡団に入り、諸国を旅している妹からの手紙だった。前回から半年ぶりになろうか。
(テティヌに出した手紙の返事かと思った……)
 王都へ発つ直前、受取人がこの世にいないことを知りながら出した手紙。あの手紙はいったいどうなったのだろう?
 リエーラ・フォノイは《月光殿》の裏庭へ行くと、木の下に置かれてある椅子に腰を下ろした。妹の手紙の内容はいつも波瀾万丈で、興奮した獅子に襲われたとか、彼女に想いを寄せる男性の求婚を断ったら天幕に火を付けられたとか、遠く離れた姉をどれだけ心配させる気なのかと腹立たしくもなった。それなのに、手紙の最後は決まって姉を心配する文句を並べるのだから、読んでいるこちらが笑いたくなるというものだ。とにかく、こうして手紙が来るのだから、元気にやっているのだろう。
『姉さんは努力家だから、身体に無理をしないか心配です。次の興行の後、サイファエールへ戻ります。聖都へも寄る予定なので、その時はぜひ……』
 リエーラ・フォノイはふと顔を上げた。
(――もし、私に何かあったら、誰があの娘を守り、そして真実を解き明かしてくれるのだろう……?)
 今回のアイゼスのように、何の手がかりも残すことなく、闇に溶けることになってしまったら。
 その時、ふっとひとりの青年の顔が脳裏をよぎった。
『彼女は、オレの命の恩人ですから――』
 総督府でセフィアーナを大切そうに見ていた青年。
(彼なら、きっと頼りになる……)
 リエーラ・フォノイは読みかけの手紙を懐にしまうと、駆けるようにして自室へ戻った。カイルの判断が間違わないよう、事実と自分の考えを分けて記し、封蝋をして部屋を出る。廊下を曲がった先で運良く先程の神官に出くわし、重要な手紙をそれとわからぬよう託した。
(デドラス様を信用しないわけではないけれど……)
 振り返れば、巫女の部屋の扉に刻まれたテイルハーサの紋章が目に入る。
(私は巫女の傍にいることを神から任された身。あの娘は、せめてあの娘だけは、私が守らなくては……)
 吸い込まれるようにして巫女の部屋に入ると、そこは無人だった。セフィアーナは午後からの講義にもう行ってしまったらしい。
 リエーラ・フォノイはゆっくりと寝台の方へ向かった。そこは、前の巫女ラフィーヌが亡くなった場所だった。
「ラフィーヌ……」
 あの時の驚愕と恐怖を再び思い出し、リエーラ・フォノイは我が身を抱えた。
(あの時、貴女はいったい何を言おうとしていたのです……?)
 ラフィーヌは掲げた手の先に何を見ていたのだろうか。実際に彼女が指した先には暖炉しかない。
(見えていたのは、きっと《光の園》の門……。優しかったあの娘が、《太陽神の巫女》まで務めあげたあの娘が、《光の園》へ行けないはずがないもの……)
 そう思った時、ふいに室内が明るくなった。雲間に隠れていた太陽が再び顔を覗かせたのだ。南の露台から夏の日差しが入り込んでくる。それを見たリエーラ・フォノイは、逆に顔を曇らせた。
(……何か、変だわ――)
 波紋のように広がる妙な違和感に、女神官は首を傾げながら辺りを見回した。そして次の瞬間、それを見た彼女の顔は、もはや石のように強張っていた。
(――なぜ、今まで気が付かなかったのだろう……?)
 リエーラ・フォノイはゆっくりと暖炉に向かって歩き出した。
(……ラフィーヌが修行をしたのは、《月影殿》の部屋だった。あの部屋には、東側にしか窓がなくて……。あの娘がこの部屋に突然現れたのはなぜ? エルミシュワから逃れてきたのなら、まず最初の村に助けを求めるはず。それが、来たこともないこの部屋に突然現れたのは――)
 リエーラ・フォノイは暖炉の柱に左手を着くと、奥に向かって右手を伸ばした。わずかに残る煤が彼女の衣服を汚す。それにかまわず、壁に触れた右手に力を込めた。
 ガタンと音がして、奥の壁が動いた。黴臭い風がさらに奥の闇から吹いてくる。
『おそらくその根は深く暗い闇にあるのだ。神の御光も届かぬ暗黒の谷に……』
 ようやくアイゼスの警告を思い出した時、首筋に強い衝撃を感じ、リエーラ・フォノイは意識を手放した。


「まったく、オレたちの香水の偽物を売るたぁ、フテぇ奴らもいたもんだ!」
 ダルテーヌの谷の隊商がセフィアーナに会うのを阻んだのは、商売仲間からの親切な通報だった。
 憤慨したディールの後に続いてリーオの街の役場を出ながら、カイルは小さく笑った。
「それだけ村の香水が上物ってことだろう」
「当たり前だ! オレたちの香水は、王様にだって、いや神さまにだって献上したって恥ずかしくないものだぞ!」
 村長から隊商の頭として全権を任されているディールの香水に対する思いは、それは並々ならぬものがある。カイルはそれを焚きつけてしまったことに内心でしまったと思った。谷の香水がいかに素晴らしいものかを延々と語る彼から逃げるように、他の仲間に耳打ちする。
「じゃあ、オレ、爺さんの買い物を済ませてくるから」
「ああ、気を付けてな」
 仲間にはうらめしそうな顔をされたが、付き合っていられるほど暇ではない。カイルは市場へ行くために、役場の横の十字路を曲がった。すると、彼の足下に何か柔らかいものが触れた。意表を突かれて見下ろすと、犬にしては大型なものが悠々と通り過ぎていった。四肢が動くたび、背の黒い毛が光を跳ね返す場所を変える。その美しさに目を奪われていると、今度は少年とぶつかってしまった。
「あっと、ごめんよ」
 十二、三歳くらいの少年は、カイルに軽く手を挙げると、そのまま路地を曲がって行った。カイルが違和感を覚え、懐に手を伸ばすと、案の定、そこに在るはずの財布が消えていた。忌々しげに吐息すると、すぐにもと来た道へ戻る。すると、ちょうど後ろを振り返った少年と目がかち合った。少年はあからさまにぎくっとした表情を浮かべ、慌てて走り出した。青年は舌打ちし、すぐさま後を追った。
 少年は役場の前を走り抜けると、さらに先の十字路を曲がっていく。スリ稼業を生業としているのか、少年の逃げ足はかなり速かった。人混みの間を、まるで糸が解かれるように、するすると抜けていく。カイルも足の速さにおいては引けを取らないのだが、身体が大きい分、このような場所では不利だった。
 少年の背を再びまともに視界に捉えた時、青年は町外れまで来てしまっていた。驚いたことに、少年の足下には先程の大きな犬がぴったりとくっついている。
「グルか……」
 しかし、そんなことで怯むカイルではなかった。
 走りざま、彼は人混みが途切れたのを確認すると、近くの店先に立て掛けてあった箒を手に取り、少年に向かってそれを投じた。彼の手から離れた箒は、平面的な旋風となって標的に襲いかかった。
 何かが風を切る音がして、少年は振り返った。が、時既に遅し、何が起こったのかもわからぬまま箒に足を取られ、見事にひっくり返ってしまった。
 犬は逃げてしまったが、カイルは少年のもとに駆け寄ると、起きあがる暇を与えず、その襟首を掴んで地面に抑えつけた。
「ナメたことをしてくれたな」
 ただでさえ鋭い碧玉の瞳に怒りの色を露わにして、カイルは冷ややかに言い放った。
「な、何のことだよ」
 少年も負けじと言い返すが、威勢の欠けること甚だしい。
「しらばっくれても無駄だ。さんざん逃げ回っておきながら」
「だから、何のことだよ」
 言い訳がましく言って、少年は初めてカイルを見た。途端、それまで少年の顔を睨みつけていたカイルの表情に、ふと不審の色が滲んだ。
「……オレの財布を盗っただろうが」
 言いつつ、ますますその色を濃くしていく。
(セフィに、似ている……?)
 どうしてそう思ったのか、自分でも分からなかった。瞳の色も髪の色も、セフィアーナとはまるで違う。少年の瞳の色は明るい空色で、短く刈り込まれた髪は栗色のくせっ毛であった。面立ちにしても、似ていると言えば似ているし、似ていないと言えば全く似ていない。ただ、敢えて言うなら、瞳の奥にある何かが、遠く離れた少女と共通しているように思った。
 しかし、それも少年の次の言を聞いて吹き飛んだ。
「オレがそんなことするわけねえだろっ」
 往生際の悪い少年にカイルは眉をひそめると、片手は襟首を掴んだまま、もう片方の手で少年の懐中を探った。しかし、彼の望む物に触れた感はなかった。
「む……?」
 訝しみ、今度は少年の下げていた袋をひっくり返したが、そこにも青年の財布はなかった。
「ふふん。どうしたよ。オレが何を盗ったって?」
 急に鼻息を荒くする少年の前で、カイルは考え込んだ。無論、両手は彼を押さえつけたままである。その時、少年の連れが路傍の藪の中から姿を現した。組み敷かれた主人を目にして、大型犬はすぐに威嚇を始めた。
「アグラス、このバカ! あっちに行ってろっ!」
 それを聞いて、カイルはぴんと来た。彼は顔をしかめたまま溜息をつくと、少年を突き放す。意表を突かれた少年は、呆然と青年を見遣った。
 カイルはすっと立ち上がると、少年を見下ろして言った。
「いいさ、持って行くがいい」
「……え?」
 少年の瞳が、ますます丸くなった。
「ただし、これだけは忘れるな。おまえがオレから盗った銭子は、オレの爺さんが毎日毎日、朝は太陽よりも早く起き、皹割れした手で井戸水を汲み上げ、ただでさえ曲がっている腰を更に曲げて畑を耕し、長く急な坂道を家畜を従えて何度も往来し、夜は霞む目をこすりつつ村の政務をこなして稼いだものだということをな」
 少年は口をぽかっと開けたまま、ただ青年を眺めた。よくもそんなにすらすらと言えたものだ、と変なところに感心した。一方で、面倒な奴をカモにしてしまったとも思った。
 言うだけ言って立ち去る青年の後ろ姿を、少年は憮然とした面持ちで見遣っていたが、ふいに小さな溜息を漏らした。
 スリをして捕まったのは、少年にとって初めてのことである。屈辱的なことには違いないが、相手が鼻持ちならぬ大金持ちならともかく、老人が稼いだ清らかな銭子と知った以上、そのまま持ち去るわけにもいかない。この少年、良く言えば善良、悪く言えばお人好しであった。
「待てよ!」
 叫びつつ起き上がると、衣服の埃をはたいた。
 思惑が見事に当たって、カイルはほくそ笑みながら立ち止まり、何食わぬ顔で後ろを振り返った。
「悪かったよ、返せばいいんだろ、返せば。アグラス!」
 すると、アグラスと呼ばれた大型犬が、どこかに隠していた青年の財布をくわえて戻ってきた。少年はそれを受け取ると、カイルに投げて寄越した。
「ちぇっ。あんた、性格悪いな」
 ぷうと頬を膨らませる少年を、カイルはすかした顔で見下ろした。
「……おまえ、素行が悪いな」
 これには少年も返す言葉がなかった。ただ口をへの字に曲げ、踵を返す。
「行くぞ、アグラス!」
「待て」
 呼び止められて振り返った少年の視界に、小さい物が飛び込んできた。慌てて手を差し出し、それを受け止める。冷たい感触がして、掌を広げると、そこには銅貨が鈍い光を放っていた。
「昼飯代だ」
「い、いいのかい?」
 青年の意外な行動に、少年は面食らったようであった。
「それはオレが稼いだ分だ」
「……ありがと」
 微かに頬を紅潮させて少年は礼を言うと、犬とともにシリア山へ向かう出口の方へ歩いて行った。
(なぜ、あいつに似ているなどと思ったんだろう……)
 しばらくの間、その場に立ち尽くしていた青年だったが、ふと我に返った。村の仲間たちを待たせていることを思い出したのだ。少年を追い回したせいで、かなり時間を浪費してしまっていた。
「早いとこ爺さんの買い物を済ませないとな……」
 しかし、ある叫びが再び青年の足を止めた。それは、リーオの街――サイファエール全土を揺るがす叫びだった。
「宰相家のイスフェル様が、謀反を起こして捕まったらしいぞ!」

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