The story of Cipherail ― 第九章 血塗られた途へ


     6

 東の空に、一筋の白煙が立ち上った。
《月影殿》の管理官は自室から目を細めてそれを見遣ると、背後に控えていた光道騎士団長を振り返った。
「巫女が戻った。いつでも発てるようにしておけ」
 それにアルヴァロスは言葉を発さず一礼すると、漆黒の外套を翻して部屋を後にした。


「カイル、ありゃ何だ?」
 村の仲間とともに、聖都の市場へ名産であるシェスランの香水を卸しに来ていたカイルは、尋ねられて、木箱を抱えたまま顔を上げた。すると、市場の色とりどりの日覆いの彼方に、真っ直ぐ立ち上る白煙が見えた。
「――さあな」
 城門を守る者たちの何かの合図だろうが、カイルにその内容がわかるはずもない。気のない返事をして木箱を取引先の店先に下ろした時、大通りの方から人々のどよめくような声が聞こえてきた。何となくそちらを見ていると、五人の騎士に先導された一台の馬車が十字路に姿を現した。後方にはさらに六人の騎士が従っている。馬車は長旅用の大型なもので、黒く塗られた車体には、サイファエール王家の紋章が金色に輝いていた。
「……セフィ」
 カイルは呆然と呟くと、にわかに仲間を振り返った。
「おい、ちょっとここ頼む!」
「えっ、おい、ちょ……カイル!!」
 仲間の制止も聞かず、カイルは馬車の消えた道の方へと走り出した。
 確信はない。だが、王家の馬車は王都の方角からやって来た。時期的にも、そろそろ帰ってきて良い頃だった。
 馬車は人々の関心を集めながら《太陽の広場》へと入っていき、右手のルーフェイヤ聖山の方へと曲がっていった。
 果たして、カイルの予感は的中した。彼が麓の門に手を掛けた時、黒塗りの馬車からひとりの少女が降り立ったのだ。青い神官服を身に纏い、夏場いつもそうしていたように、蜜蝋色の巻き髪を結い上げていた。後から下りてきた女神官と一言二言交わし、嬉しそうに笑顔を浮かべる。――その笑顔は、四か月前、別れた時と何ら変わっていなかった。
 カイルは思わず吐息すると、聖域へ歩みを進めた。
 驚いたのは少女の方である。久しぶりに帰ってきた聖山を見上げ、何気なく視線を巡らせると、門の方から最も会いたかった人物のひとりが歩いて来ていたのだから。
「カイル……!」
 瑠璃色の瞳を輝かせると、セフィアーナはカイルに駆け寄った。
「カイル、すごい、どうしてここにいるの!?」
 彼女の無邪気な喜びように、カイルは少しはにかむように答えた。
「香水を卸しに来たんだ。さっき、市場であの馬車を見かけて……おまえが見えたような気がした」
 その言葉と再会の喜びを噛みしめるように、セフィアーナは一度俯いた。
「……話したいことがたくさんあるわ」
「オレも、訊きたいことがたくさんある。――とんでもない噂ばかり耳に入ってくるから」
 最後はからかうような表情のカイルに、セフィアーナは吹き出した。
「そう、とんでもないことばかりよ。いつまで聖都に居られるの?」
「明後日に発つ予定だが、ディールがヘマやって商談を長引かせれば、もうちょっとは居られると思う」
「そう……」
 奇跡的な再会も束の間であることを知って、セフィアーナは残念そうに肩を落とした。聖都へ帰ってきたばかりで、おそらく当分の間――少なくとも二日後までに、彼女に自由な時間が与えられることはないだろう。
「あの方たちがね」と、少女は護衛の騎士たちを振り返った。
「王都へお帰りになるのが五日後くらいなの。その時、私、総督府まで見送りに行くつもりだから……だから、ディールに私が会いたがってるって伝えて」
 自分の我がままのために滞在期間を延ばして欲しいとは言えない。だが、せっかく会えた機会を無駄にしたくもなかった。
 少女らしい物言いに小さく笑うと、カイルは「わかった」と頷いてやった。
「じゃあ、私、行くわ」
 青年に小さく手を振ると、セフィアーナはリエーラ・フォノイたちとともに聖なる山を上り始めた。


 順々に姿を現す聖官殿に祈りを捧げながら、ついに《正陽殿》へと帰ってきたセフィアーナは、その中庭の入口で立ち尽くした。百五十ピクト先の本殿の大扉まで続く芝生は、夏の日差しにその緑を濃く濃くし、周囲を巡る回廊は、その造形のままに濃く濃く影を落として、巡礼に訪れた人々に憩いの場を提供している。《尊陽祭》の聖儀で一万人の信徒を受け入れ、彼女自身が《称陽歌》を披露した《光の庭》は、季節が変わっても、やはり圧倒的な生命力を湛え続けていた。
「やっと……帰ってきましたね」
 リエーラ・フォノイの呟くような言葉に、セフィアーナは困ったように笑いながら頷いた。思えば自分のせいで、彼女にどれほどの苦労をさせてしまったことだろう。
 旅装の女神官と、王家の紋章を胸にたたえた騎士たち――巡礼に訪れた人々が不思議そうに眺める中、《正陽殿》の正面までやって来た一行は、そのまま小階段を上って中へ入った。巨大な丸天井の下、祭壇へ向かうと、その前で膝を折る。
「光と風の旅となりました。神の御加護に感謝いたします」
 女神官の言葉に合わせ、祈りを捧げる。しばらくして、誰もが立ち上がる中、依然として熱心に祈りを捧げていたセフィアーナは、リエーラ・フォノイに肩を触れられ、ようやく顔を起こした。
「巫女殿はまだ祈り足りぬ御様子ですな」
 騎士たちに笑われ、セフィアーナは容易に赤面した。なにせ旅を最初から思い返していたのだ。時間など足りるはずもない。
「さあ、セフィアーナ。早くアイゼス様に帰参の御挨拶を」
 名残惜しそうに祭壇を見上げていた少女だったが、女神官に促され、急いで皆の後を追った。無論、また後で来ることを誓って。
《月光殿》へ続く回廊へ出た時、一行は思わぬ人物と遭遇した。
「サラクード・エダル!」
 セフィアーナが顔をほころばせてその名を呼ぶと、《光道騎士団》の女聖騎士は一瞬、意外そうに浅葱色の瞳を見開き、その後、わずかに表情を和らげて礼をしてきた。
「《太陽神の巫女》、お帰りをお待ちしておりました」
 途端、ゼオラの騎士たちの間で、目配せが交わされる。主君が聖都で行った武道会のおかげで、彼らはサラクード・エダルの顔と剣の腕をよく知っているのだ。
「デドラス様にはもうお会いになられたのですか?」
「え、いえ……」
 サラクード・エダルが当然のようにデドラスの名前を出してきたことに、少女は面食らった。王都で受け取った手紙の差出人といい、《太陽神の巫女》の世話を請け負っているはずの《月光殿》の管理官は、一体どうしたというのだろう?
「サラクード・エダル、少しお伺いしたのですが……」
 そう言って進み出たのは、やはり同じ事を気にしていたリエーラ・フォノイだった。
「何でしょう?」
「貴女も御存知の通り、今年、《太陽神の巫女》は《月光殿》預かりとなっております。けれど、王都に帰参を促すお手紙を下さったのはデドラス様でした。……アイゼス様はいかがなさったのでしょう?」
 すると、女聖騎士は思いも寄らぬ事を口にした。
「御存知なかったのですか? アイゼス様は今、聖都にはいらっしゃいません」
「えっ!?」
「神殿の視察に行かれたのです。お戻りはひと月かもう少し先になると伺っております」
「――そうでしたか……」
 リエーラ・フォノイは気が抜けたように息を吐き出した。しかし、神殿の視察は本来、「内政」を取り仕切る《月影殿》の役目である。なぜ「外交」の《月光殿》の、それも長 たるアイゼスが視察団に入ることになったのか、腑に落ちないところではあった。
「なんと、アイゼス殿は御不在か。巫女殿の武勇伝を色々とお聞かせしたかったのだが」
 残念そうな護衛隊長の声に、セフィアーナは慌てて話題を反らせようとサラクード・エダルに尋ねた。
「サラクード・エダル、デドラス様は私の帰参を急かされたのですが、何か特別な事情でもあったのでしょうか……。あなたは何か御存知ですか?」
 すると、サラクード・エダルは、ちらりと騎士たちを一瞥した後、首を横に振った。
「……いえ、私は何も――」
 しかし、何か言いたげな彼女に、セフィアーナが目線で再度尋ねると、女聖騎士は多少呆れた面持ちで肩を竦めた。
「……アイゼス様は貴女の意志を尊重なさって王都行きをお許しになりましたが、王都でそちらの方々の御主君があまりに貴女を連れ回していらっしゃるので――」
 途端、王都の騎士たちが顔をしかめる。
「『連れ回す』とは人聞きの悪い」
「では、なぜ王都へ行ったはずの巫女殿の噂が、遥か東のカイザールから聞こえてきたりしたのです?」
 これには、もともとゼオラの親衛隊である面々には返す言葉もない。押し黙ってしまった彼らを見て、セフィアーナが困ったようにサラクード・エダルを宥めた。
「サラクード・エダル、誤解しないで下さい。ゼオラ様は一度だって私に無理強いなどなさいませんでした」
 しかし、そんなことは、女聖騎士にはどうでもいいことだったようである。彼女は少女の言葉を遮るように話題を元へ戻した。
「――とにかく、アイゼス様が御不在の間に書状のひとつでも出しておかないと、貴女が《秋宵の日》まで戻ってこないのではないかという危惧があったからではありませんか? 実際に信徒たちからもそういった声が上がっていたようですし」
「そ、そうなんですか……?」
 思わぬ事に、セフィアーナは言葉を失った。確かに、もともと彼女を《太陽神の巫女》に押し上げてくれたのは、聖都の人々である。彼らに何の挨拶もなく王都へ発ってしまった自分が恥ずかしかった。
 そんな彼女の内心はつゆ知らず、王都の騎士たちは自分たちの都合で話を進めた。
「ふん……確かに、巫女殿を《秋宵の日》までお返ししたくなかったが」
「だが、それはもうどうでもいいことではないか。巫女殿は《秋宵の日》の後、再び王都へ来て下さる」
「――どういうことです?」
 眉根を寄せるサラクード・エダルに、セフィアーナはいっそう表情を苦いものとした。
「その……《秋宵の日》の後、王都で神官の修行ができたら、と……」
「私がそのように進言したのです」
 弱気な少女に対して、リエーラ・フォノイは強気だった。巫女が自ら進路を決めることは、別段、おかしなことではない。何より、サラクード・エダルの態度が気になった。
「そのようなことを勝手に」
 咎めるような口調のサラクード・エダルを、女神官は逆に咎めた。
「勝手? かつて《太陽神の巫女》の将来が束縛されたことはありませんが」
 しかし、言いながら、自らの言葉が心にずしりとのしかかるのを感じた。
(なのにあの娘は……ラフィーヌは、神の宮で死の束縛を受けた……)
《祈りの日》の前夜、彼女の腕の中で息絶えた前年の《太陽神の巫女》。西方テティヌで修行していたはずの彼女が、なぜ見るも無惨な姿で現れたのか。潰された喉で必死に伝えようとしたいたことはいったい何だったのか――。
(やっと聖都へ帰って来られた。必ず真実を突き止めなければ……)
 しかし、同時にセフィアーナの身も守らねばならない彼女にとって、アイゼスの不在はあまりにも心許ない状況だった。
「セフィアーナは特別です。彼女の歌声が聞けなくなるなど、聖都の民が許すはずはありません」
「サラクード・エダルとやら。テイルハーサの子は、聖都の民だけではないぞ」
 淡々と切り返す女聖騎士に護衛隊のひとりが言葉を返すと、彼女はあからさまに眉根を寄せた。それを見て、護衛隊長がにわかに吹き出す。
「なにやら昔のクレスティナを思い出すな」
 思わぬ名前の登場に、セフィアーナは驚いて騎士を振り返った。
「クレスティナ様?」
「ええ……あれも近衛兵団に入り立ての頃は扱いにくい女だったのです。今は随分と丸くなりました。――何がそうさせたのかは、誰も知らぬことですが」
 意外だった。セフィアーナと相対した時のクレスティナは凛とした中にも柔和さを感じさせる女性だった。
『男の真似をしている間は、強くはなれぬ』
 ふと、セフィアーナは、遠征初日の天幕で初めて女騎士と会った時、彼女が言ったことを思い出した。
「無理もないですよ。男ばかりの世界で生きていくには、眉間にしわのひとつも寄るというもの」
「失敬な……」
 軽口を叩いた騎士に、サラクード・エダルはいっそう表情を厳しくした。見ず知らずの人間と比較された挙げ句、侮辱されたのだから、それも無理のないことだった。
「セフィアーナ。いずれにしても、デドラス様は貴女が戻られるのをお待ちでした。速やかに帰参の御挨拶に行かれるが宜しいでしょう」
 叩きつけるように言い置いて、サラクード・エダルは足早に《正陽殿》の方へと去っていった。少女がとりつく島もない。首を竦める男たちに吐息すると、セフィアーナはゆっくりと《月光殿》を見上げた。
(アイゼス様、いらっしゃらないなんて……)
 その後、騎士たちと五日後の再会を約束して別れたセフィアーナは、懐かしの部屋へ帰って身支度を整えると、リエーラ・フォノイとともにデドラスの部屋へと向かった。しかし、《月影殿》の管理官はあいにく部屋を空けており、彼女たちは、彼の傍に仕える神官から、「デドラス様のお気遣いです」と、王都の護衛隊が発つ日までの休息を言い渡されてしまった。手紙の内容とは裏腹なデドラスの言動に困惑したセフィアーナだったが、その一方で、カイルたちに会いに行けることが嬉しかった。


「それで、具合はもう良いのか?」
 心配顔のカイルに、セフィアーナは頭を下げた。王都の護衛隊を見送った後、総督府の中庭でのことである。
「忙しいのに、迷惑をかけてごめんね」
 期せずして手に入れた休暇に喜んだのも束の間、気の緩みからか、彼女は翌日から二日間、熱を発し、床に伏せってしまったのだ。三日目には熱は下がったものの、依然として気怠さが残っていたため、結局、四日間、殆ど部屋を出ることができなかった。カイルたちに会うどころの話ではない。
「皆にも会いたかったな……」
「ディールたちもおまえに会いたがってた」
 セフィアーナに会えるとあって、他の村人も再会を楽しみにしていたのだが、次の卸し先で問題が発生したため、先にリーオの街へ発ってしまったのだ。
「先生や村の皆は元気?」
「相変わらずさ。――ああ、この間、ローアンとエーリが結婚した」
「まあ、本当に? ローアン、やっと言ったのね。おめでとうって伝えて」
「わかった。それより、旅はどうだった? おまえの話を聞いて帰らないと、皆に怒られる」
「まあ」
 セフィアーナはくすくす笑うと、「そうね……」と記憶の糸をたぐり寄せた。――どこまでも続く街道、見知らぬ街並み、王都の見上げるほどの建造物。出会った人々。彼らを結ぶ絆、或いはもつれた糸。初めて聞いた刃鳴り、傷付いた兵士たちの呻き。夢を追いかける者たちの煌めき――たったひと月前まで傍らに感じていたものが、今はやけに遠く感じる。
「……歌を歌いに行ったはずなのに、戦へ行ったり、王子殿下のお迎えに行ったり……」
 長い旅の中で一番の旅は、やはりテフラ村へ赴いた時かもしれない。それまで、万事をうまくこなしていたイスフェルが初めて見せた弱さ。それを補おうとする仲間たち。彼らに共感して、レイミアの説得を買って出た自分。今思えば、冷静さを欠き、自分の感情を撒き散らしただけなのだが、イスフェルはそんな彼女を認めてくれた。彼女の迷いを消してくれた。
(ひとに必要とされることが、こんなにも心を温かくさせるなんて……)
 未だに温もりを保ち続ける心を、セフィアーナは内心でしっかりと抱きしめた。
「あっ、それからね、船にも乗ったのよ。海を見るのも初めてだったのに! 潮風がとても気持ち良かった……」
 王都に着いてからのことを一通り話し終えると、少女は深く息を吐いた。
「世界って本当に広いのね……。私、知らないことばかりだった。でも、皆が私を認めてくれたから、私、がんばることができたわ」
 キュッと左手首の腕輪を握りしめる。《太陽神の巫女》として、できる限りのことはした。後悔はなにひとつない。
「カイル、王都の朝陽が綺麗だって、手紙で教えてくれたでしょ? 王都を発つ日の朝、オデッサの砂浜まで日の出を見に行ったの。本当に、綺麗だった……」
「そうか……」
 微笑みを浮かべて少女の話に頷いていた青年だったが、セフィアーナは、ずっとカイルの表情に複雑な色が滲んでいることに気付いていた。青年にとって、王都は家族を失った土地だったからだ。
「――あ、それから……イスフェルのことだけど……」
 青年の顔を見ていると、なかなか言い出しにくい話題だったが、きっと気にしているだろうと、セフィアーナは慎重に言葉を紡ぎ出した。
「彼、あなたのこと気にしていたけど、その……テイランにいたってことには気付いてなかったわ」
「そうか……命拾いしたな」
 遠くの立ち木を見つめたまま呟くように言うカイルの手に、セフィアーナは自分の手を重ねた。
「ねえ、カイル。もし――」
 冴えた碧玉の瞳が、怪訝そうに彼女を見遣る。
「もしいつか、あなたが過去の罪を責められることがあっても、私がきっと守るから」
「セフィ……?」
「きっと、守るから」
 死を望んでいた青年の心の傷は、どれほど癒されたのだろう? もし、彼女がイスフェルからもらった温もりを、カイルにも同じようにあげることができたら、彼の心は今よりももっと楽になるだろうか。
(焦ってはいけないのだけれど……)
 しかし、彼女の想いはちゃんとカイルに届いた。
「……ありがとう」
 セフィアーナの頬が薔薇色に上気する。青年の言葉が「すまない」ではなく「ありがとう」だったことが、彼女には何より嬉しかった。
「ちょっと、セフィ!!」
 突然の金切り声に二人が顔を上げると、彼らから少し離れたところに、総督の孫娘フィオナが仁王立ちになっていた。その後ろに、リエーラ・フォノイが困ったように立ち尽くしている。
「フィオナ様――」
「もう! フィオナのところに一番に挨拶に来ないってどういうこと!?」
 相変わらず大人びた態度に、思わず口の端がほころぶ。
「ごめんなさい。旅疲れをしてしまって。ああ、そうだわ。フィオナ様におみやげがあるんです。王都で頂いた絵本――」
 セフィアーナがフィオナのもとへ行き、それと入れ替わるようにリエーラ・フォノイがカイルのもとへやって来た。
「……貴方がカイルですね。あの娘からよく貴方の話を聞かされて、一度お会いしたいと思っていました」
 女神官は丁寧に自分の名前を名乗ったが、セフィアーナから話を聞いた後だったので、カイルには彼女がどういう人間なのかすぐにわかった。
「セフィがかなり迷惑をかけたようで……」
 すると、リエーラ・フォノイはおかしそうに笑った。
「いいえ。私の方が足手まといでした」
 その言は、かえってセフィアーナの奔放な行動を思わせ、カイルは肩を竦めた。
「それで、あいつ、貴女にオレのことを何て?」
 まさか元盗賊とは言っていないだろうが、それ以外となると、自分にそれほど話題性があるとも思えない。――無論、そう思っているのは彼だけなのだが。
「色々ですよ。けれど、決まって最後には、いつも自分を大切にしてくれるのだ、と」
 すると、青年が自嘲するように笑った。
「……彼女は、オレの命の恩人ですから。セフィがいなかったら、オレは絶望を友に死んでた」
「――そうだったのですか……」
 一瞬、驚いた表情を浮かべたリエーラ・フォノイだったが、カイルのどこか一線を画すような雰囲気に、理解できないこともなかった。
「リエーラ・フォノイ、これからもセフィのことを宜しく頼みます。あいつはあれで無鉄砲なところがあるから……いえ、もう御存知でしょうが」
「ええ……」
 リエーラ・フォノイがカイルの言葉に深く頷いた時、門の方から喧噪が聞こえてきた。四人集まって中庭を出ると、警備兵たちが数人、門扉の前に集まっている。
「何かあったのかしら……」
 その時、途切れた人垣の向こうに、黒装束の騎士がひとり、佇んでいるのが見えた。
「あれは……」
 セフィアーナとリエーラ・フォノイは顔を見合わせると、早足で門へと向かった。
「サラクード・エダル!」
 巫女たちの登場に、兵士たちが道を開ける。
「こんなところで、どうしたのです?」
 すると、《光道騎士団》の女聖騎士は、《太陽神の巫女》に向かって恭しく礼を施した。
「貴女をお迎えに上がったのです」
「え?」
「デドラス様がお呼びです。《月影殿》までお送りしますので、どうぞこちらへ」
 そう言ってサラクード・エダルが指し示した先には、テイルハーサの紋章を光らせた馬車があった。突然のことにセフィアーナが口ごもっていると、《光道騎士団》を敵視している警備兵たちが再び騒ぎ始めた。その中のひとりが女聖騎士の前に立ちはだかる。
「ちょっと待て! 《光道騎士団》のおまえが、なぜ《月影殿》の管理官の指示で動いているんだ!」
 噛みつくように叫ぶ警備兵に、サラクード・エダルは浅葱色の瞳を細くした。
「指示ではない。私はデドラス様に頼まれただけだ」
「頼まれただと? ハッ、《月影殿》の犬が笑わせてくれる」
「なに?」
 一気に険悪化した雰囲気にカイルが口の端を擡げた時、彼の耳元で何者かが囁いた。
「あれが噂の女暗殺者だよ、カイル」
 驚いた青年が枯葉色の髪で頬を打つほど激しく振り返ると、そこにはセレイラ警備隊の副長ヒース=ガルドが立っていた。武術に秀でるカイルが、まったく彼の気配を感じ取れなかった。
「元気だったか? 《尊陽祭》の時はよくも私に濡れ衣を着せてくれたな。それからもずっと私を避けて」
 警備隊一の優男は、その頬に妙な薄笑いを湛えた。
「……身から出た錆だろう」
 そんな彼に苦し紛れの言い訳をして、カイルは再びサラクード・エダルに視線を戻した。
「云年前からずっと追っかけてたんだろ。今が捕まえる好機じゃないのか?」
 ある神官が殺された現場に女聖騎士がいたということを、カイルは警備隊に勧誘された時に聞かされていた。
「証拠がない。それに、今はまだその時ではない」
 うそぶくように言って、ヒースはセフィアーナたちの方へ近付いていった。
「巫女殿、お帰りをお待ちしておりました。ご無事で何よりです」
 突然現れた副長に、女たちの反応は真っ二つに分かれた。
「ヒース様!」
 笑顔のセフィアーナに対し、サラクード・エダルはすっかり無表情を装っていた。
「サラクード・エダル。聞けばデドラス殿は、今日まで巫女殿の休暇をお許しになったとか。それをわざわざ馬車で迎えに来るとは、神の宮で何か急を要することでも?」
「遠方より来られていた方々が今日聖都を発たれるのだ。巫女殿が床から離れられたと聞いて、是非帰る前にお会いしたいと」
 淡々と言って、サラクード・エダルは再びセフィアーナを馬車へ促した。
「セフィアーナ、これは《太陽神の巫女》の義務です」
 言外に含みがあるのを、リエーラ・フォノイは敏感に感じ取った。サラクード・エダルは――或いは彼女の周辺もか、アイゼスの《太陽神の巫女》の扱いに少なからず不満があるようだった。かつてセフィアーナほどに伸び伸びと動き回った巫女はいない。
「……わかりました。さあ、セフィ。《月影殿》へ参りましょう」
「はい」
 もとよりセフィアーナに否やを唱える理由などない。五日間の休暇も、体調を崩していなければ、長すぎるものだ。
「それでは皆さん、お名残惜しいですけれど、これで失礼させていただきます」
 セフィアーナは頭を下げると、歩き出しながらカイルを見た。彼が深く頷くのを励ましと受け取って馬車に乗り込む。それが実は姿を変えた牢獄であることに、彼女はまだ気付いていなかった。


 サラクード・エダルに案内されて入った部屋は、《月影殿》三階の階段横にある応接室だった。肘掛けの付いた椅子に座るよう促され、セフィアーナは落ち着かぬ様子で浅く腰を下ろした。リエーラ・フォノイの方は、緊張した面持ちをしているものの、《太陽神の巫女》の世話役を仰せつかっているだけあって、その所作に動揺は見られなかった。
「デドラス様をお呼びしますので、しばしお待ちを」
 女聖騎士が一時退出し、二人きりになると、セフィアーナは総督府で聞いたことについてリエーラ・フォノイに尋ねた。
「リエーラ・フォノイ。先程、兵士の方がおっしゃっていた、《光道騎士団》が《月影殿》の犬とはどういうことですか?」
「それは……」
 そこでリエーラ・フォノイは、その答えを説明することが意外と難しいことに気付いた。デドラスは前の光道騎士団長であり、確かに《光道騎士団》との関わりは深い。今の光道騎士団長アルヴァロスとの信頼関係も厚いと聞いている。しかし、だからといって、デドラスが力を付けた《光道騎士団》の武力を恣にしたことは一度もない。――表立っては。
(……あの警備隊の反発は、ただごとではないわ。すべて彼らが正しいというわけではないとしても、《光道騎士団》が何かをしているということもきっと事実――)
 その時、重々しい音とともに、部屋の扉が開かれた。その後、複数の足音が続く。セフィアーナとリエーラ・フォノイが立ち上がって礼をする中、三人の神官とそしてデドラスが着席した。
 顔を上げて、リエーラ・フォノイは黒い瞳をわずかに見開いた。サラクード・エダルが言っていた遠方の神官たちかと思っていたら、顔を見たことのある者ばかりだったからである。彼女の向かいにアレン聖官殿長ナシオン。その隣にケルストレス聖官殿長クベス。セフィアーナの向かいに座ったのは、システィ聖官殿長イーヴィスだった。全員、聖都の大神官である。
 ナシオンは年齢は五十代後半で、その頭は既に禿げ上がっていた。五十代前半と思われるクベスは、ケルストレスの剣のように鋭い目つきをしており、彼らの中で最年長七十二歳のイーヴィスは、まるで神の権化のように堂々とした居ずまいだった。
「腰を下ろすがいい」
 言われるまま呆然と椅子に座った二人だったが、リエーラ・フォノイはすぐ我に返って挨拶を述べた。
「先日、長旅より帰って参りました。皆様にはお待たせをしてしまい、大変申し訳ありませんでした」
「よい。こちらこそ、せっかくの休みに呼び立ててしまってすまぬな」
「い、いえ……」
 ナシオンの気遣いにセフィアーナが慌てて首を振った時、上座からデドラスが言葉を発した。
「《太陽神の巫女》、王都での務めを無事に果たしたそうだな。何よりであった」
「……恐れ入ります」
「して、王都はいかがであった?」
 それからしばらくの間、談笑が続いたが、給仕の神官が下がった途端、クベスが鋭く目を光らせた。
「ところで、先程も少し出たデドラス殿の手紙の話だが、わざわざそなたの帰参を急がせたのは他でもない。今後のことで、そなたに急を要する相談があるからだ」
「わ、私にですか……?」
 ふいに張りつめた神官たちの雰囲気に、セフィアーナは息を呑んだ。それまで穏やかな笑みを絶やさなかったイーヴィスでさえ、表情を消し、その視線を伏せがちにしていた。
「それはどのようなことでございますか……?」
 セフィアーナがおそるおそる尋ねた時、横でリエーラ・フォノイが慌てたように声を上げる。
「お、お待ち下さい。御無礼を承知でお伺い致します。今年、《太陽神の巫女》は《月光殿》預かりのはず。このことを、管理官のアイゼス様は御存知なのでしょうか?」
 いくらアイゼスが不在だからといって、正式に《月影殿》への移籍を言い渡されていない以上、《太陽神の巫女》の身を他の神殿の者がどうこうすることは決してできないはずだ。
「……その物言い、まるで我々が何かを企んでいるようだな」
 しかし、クベスの物言いこそ剣呑このうえなく、そう取られても仕方がなかった。
「二人は事情を知らぬのだ。致し方あるまい」
 ナシオンは横からクベスを宥めると、少女と女神官の顔を見比べながら、深刻な面持ちで言った。
「アイゼス様は御存知ない。お知りようもないのだ」
「どういう……ことです?」
 神官たちの張りつめたものが、ここに極まった。立ち上がったデドラスが窓辺で振り返る。逆光が彼の表情を消し、その影を浮き立たせた。
「……アイゼスは、ひと月前から行方不明だ」
「ええっ!?」
 愕然として、身じろぎだにしない二人を、デドラスは蒼氷色の瞳で貫いた。
「エルミシュワの暗き民に捕らわれた可能性がある」
 エルミシュワとは、聖都の北西、ナルガット山脈の西に広がる高原地域の名である。そこには古からいくつかの小さな部族が放牧をして暮らしているという。
「……以前より、エルミシュワの民には邪神信仰の疑いがあった。それが最近になって、一部の狂信的な輩が、純粋な太陽の民たちを迫害していると報告があったのだ。神官信徒の指導は《月影殿》の務め。しかし、アイゼス様はデドラス様が聖都を出られることを良しとされなかった。聖都におけるデドラス様の不在が引き起こす問題に目を向けられたのだ」
 そして代わりにアイゼスが発ち、聖クパロ河を越えたところで消息を発ってしまったのだという。捜索に赴いた者たちが、アイゼスに同行した神官の遺体を発見し、そこに邪神の証を見たのだという。
「な、なんという……」
「アイゼス様……!」
 椅子の上で、セフィアーナとリエーラ・フォノイは蒼白となった。彼女たちがアイゼスから与えられた自由を謳歌している間に、当の本人が囚われの身になっていたとは!
「二人とも、気持ちは分かるが、落ち着くのだ」
 イーヴィスのしゃがれた声に二人は顔を見合わせると、話を続けようとするナシオンに視線を戻した。
「――さすが稀代の《太陽神の巫女》。リエーラ・フォノイも、アイゼス様の信任を得ただけのことはある」
 ナシオンはわずかに表情を緩めてそう言うと、再び面持ちを硬くした。
「そこで、我々はアイゼス様を探し出すことは勿論、エルミシュワのテイルハーサの民を取り戻すため、《光道騎士団》を派遣することに決定したのだ」
「《光道騎士団》を!?」
 つい先程までその話をしていただけに、驚きは大きい。
「さよう。そして、そなたらには、彼らとともにエルミシュワへ発ってもらいたいのだ」
「えっ……」
「先日の異教徒との戦いで、そなたはサイファエールに勝利をもたらした。その力を、エルミシュワの民のためにも使って欲しいのだ」
 セフィアーナは、彼らの中に大きな誤解があると思い、息を呑んだ。
「わ、私は別に何も……戦に勝ったのは、上将軍閣下をはじめとする――」
 しかし、クベスが手をかざして彼女を制した。
「王都の勲功は、我らの関知するところではない」
「!」
「セフィアーナ、無論、行ってくれるだろうな」
「《太陽神の巫女》」
 高圧的な態度のクベスはともかく、ナシオンにも期待のこもった目で見つめられ、セフィアーナは言葉を失った。
(――あの時は、イスフェルやゼオラ殿下やクレスティナ様が居てくれたから……)
 しかし、今回の《光道騎士団》は、神官たちでさえ距離を置いている集団である。彼女が知っているのも、サラクード・エダルひとりだった。それに何より、邪教の徒という得体の知れない存在が心をざわつかせる。
 唇を引き結んでしまったセフィアーナに助け船を出したのは、意外にもデドラスだった。
「……二人とも、そう迫るでない」
 デドラスはクベスとナシオンに小さく首を振ってみせると、再び席に戻った。
「セフィアーナ、《光道騎士団》の派遣までは今しばらく日がある。行くか行かぬかはそなたが決めよ」
 途端、クベスが眉根を寄せて叫ぶ。
「デドラス様、何を――!」
「それがアイゼスのやり方であった。――そうであろう?」
 デドラスに真っ直ぐと見据えられ、セフィアーナはこくりと頷いた。
「エルミシュワが危険な地と知れた以上、我々もそなたをそこへ遣るのは心苦しいのだ。だが、《光道騎士団》だけでは、彼の地に過剰な刺激を与えてしまおう。古以来、表立って動いたことがないだけにな。そなたは先の《尊陽祭》で、彼方の地までその美声を響かせた巫女。そなたが行けば、或いは虐げられた太陽の民たちを救えるかもしれぬ」
 得体が知れぬと恐れられている《月影殿》の管理官だが、その存外、優しい言葉に、セフィアーナは瑠璃色の瞳を見張った。そして、やっと落ち着いて彼の言うことに耳を傾け始めていた。
「虐げられた……」
「そうだ。一部の者の恐ろしき力に抑えつけられ、我らが神の光を浴びることさえ許されぬ」
「そんなひどいことが……」
 デドラスが強く頷くのを見て、セフィアーナは俯いた。
(邪教とはいったいどんな教えを説いているのかしら……。私は他の神さまを信じる人を憎いとは思わないし、自分の神さまを他の人に強制するようなこともしたくない。でも、テイルハーサの人々が困っているのを見過ごすわけにもいかない……)
「……セフィ」
 リエーラ・フォノイに小さく呼ばれ、セフィアーナははっとして顔を上げた。その先では、デドラスが彼女を見ていた。
「故郷を発って以来、そなたは旅尽くし。今しばらく休んで、従軍のことを考えるとよい」
「お気遣い、ありがとうございます」
 セフィアーナがぎこちなく微笑むのを見て、デドラスは腰を上げた。衣擦れの音を立てながら、退出していく。後に続こうとしたナシオンが、ふと二人を振り返った。
「……このことはくれぐれも内密に。《月光殿》の管理官が行方知れずとわかれば、いたずらに世が乱れる」
 神殿の様子を見れば、誰もその重大な事実を知らないことは明らかである。口止めされなくても、言えるはずがなかった。
「とんだことになりましたね……」
 しばらくの間、二人は席を立つことができなかった。

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