The story of Cipherail ― 第九章 血塗られた途へ


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 微かに熱気をはらんだ風が咲き誇る花々を揺らし、緑をいっそう青くした。池の中では小さな魚たちが群れをなし、時折、水面を叩いて見せる。しかし、四阿の椅子に腰かけた王弟の瞳は、その生気に溢れた世界を何も映していなかった。
 あれから何日経ったであろうか、即位記念式典以来、トランスは王宮から遠離っていた。世間ではもっぱら火宵祭のことが話題になっていたが、それについて、今の彼には何の関心もなかった。――いや、この世のすべてに対してと言った方が良いかもしれない。
「いったい、何をやっていたのだ……」
 呆然とした呟きが、昔の記憶を呼び起こす。友とともに、兄に尽くそうとしていた日々。夢のために、夢を捨てた日。王子不在という時間神のもたらした夢に、夢を見た日々。そして、夢から醒めた日。
「フ……後には何も残らぬか――」
 自分がひどく滑稽に思えた。昔から自分には人並み以上の才能が備わっていると信じていたが、それを使いこなす才能が人並み以上に欠けていたのを、今さら思い知った。でなければ、今のこの状態をどう説明すればよいのか。最後にウォーレイと会った時、トランスは友を痛烈に批判したが、それが虚勢であることは、当の本人が一番よくわかっていた。
(もはや、この世のどこにも、この身の置ける場所はあるまい……)
 そう思った時、ふと視界が揺らめいて、ある人影が浮かび上がった。
『――私も陛下も、いつも執務室で殿下を待っています。それだけは忘れないでください……』
 見知った男はそう言って、穏やかな笑顔をトランスに向けてきた。
「……もはや、どうにもならぬ」
 無表情な彼に、突如、幻影が喰ってかかる。
『どうにかしました! 貴方のためなら!』
「『私が昔と違う人間であることは、おぬしが一番知っておろうが』――」
 言い返しながら、笑いたくなった。違う人間になったのではない。ただ卑屈になっただけだと気付いたからだ。
『私は、諦めません』
 その言葉に、先日は怒りと憎しみを覚えたというのに、今日はひどく哀れに思った。既にトランスは虚無の世界の住人になりつつある。そんな彼に、幻影となってまで取り縋る友がひどく哀れだった。
「いったい私にどうしろと言うのだ……」
 頭を抱えた時、
「トランス様……」
 かすれた声に顔を上げると、召使いのオーエンが面持ち硬く立っていた。
「王宮より使者が参りまして、へ、陛下がお倒れになったと……」

     ***

『兄上!』
 学院から王宮まで馬を駆り、そのままの勢いで兄の部屋に飛び込むと、寝台の傍にいた侍従長ミンタムが眉根を寄せた。
『トランス様、お静かに願います』
 室内の重苦しい雰囲気に息を呑むと、少年は今度は静かに寝台へと歩み寄った。
『兄上は……?』
『今は眠っておられます。やっと熱がお下がりになって……』
 ミンタムが空けてくれた枕元に立って、寝台に横になった兄を見下ろす。顔色は蒼白だというのに、口から漏れる息は熱っぽく、額には脂汗が滲んでいた。
『兄上……』
 膝を着き、兄の肩にそっと手を当てる。なぜ、いつも兄ばかりが辛い目に遭うのだろう? 嫌なことがあった時、いつも自分を穏やかにさせてくれる優しい兄。なぜ彼だけが独り、死神と闘わなければならないのか。祈りを込めて強く目を閉じた時、ふいに兄の唇が弱々しい声を発した。
『……トラ……ス……』
『あ、兄上……!』
 顔を上げると、疲労を色濃く浮かべた兄の顔が小さく笑っていた。
『いつも……心配をかける……』
『そのようなこと……私のことなどお気になさらず、ゆっくりお休みになってください!』
 涙で視界が滲んだ。なぜ兄は、自分が苦しい思いをしている時も、人を気遣うことができるのだろう。
『すまぬ……。だが……そなたの顔を見たら、少し……気分が良くなった……』
 髪を撫でてくれた兄の手を、少年は両手で包み込んだ。
『でしたら、ずっとおそばにおります。兄上がお元気になられるまで……!』

     ***

 その昔、何度となく襲われた焦燥感を今また覚え、王宮の廊下を行くトランスは、苛立たしげに顔をしかめた。普段は明るい廊下が、その思いを抱えた時はいつも、色を失い、邪悪に歪んで見えた。
(……なぜ払拭できぬ。もはやあの頃とは何もかも変わってしまったというのに――)
 もしかしたら、これは起死回生の最後の好機なのかもしれない。しかし、そんな野心以上に湧き起こった不安――そう、兄を失ってしまうかもしれないという不安が、彼の心を暗く覆っていた。
「トランス様!」
 扉のない近侍の控室の前を通り過ぎた時、彼の姿を目撃した侍従長が衣を翻らせて追ってきた。
「トランス様、お越し下さったのですか!」
 その声には喜びが滲んでおり、トランスはいっそう眉根を寄せた。
「王弟の義務だ」
 短く言い、近衛兵の立つ突き当たりの扉へ歩調を強める。ひとつには認めたくなかったのだ。気付いたら馬車に乗っていた、などと――。
「それで、陛下の御容態は」
 扉をくぐり、短い廊下を歩むと、広い居間に辿り着いた。配された調度品はすべて、パゴニアという家具職人の町で作られた最高級の物である。丸みを持たせた木製家具がイージェントの好みだった。南側には緩やかな階段があり、その先は小さな中庭となっている。室内と庭を仕切るのは白い薄布のみ、今はそれを風が優しく靡かせていた。庭の四角い池に艶やかな紅い花が一輪咲いているのが布越しに見えた。
「侍医長の診断では、全治二十日のお怪我だと。先程、意識が戻られて、今は――」
 てっきり体の調子を悪くしたのだと思っていたので、トランスは思わず歩みを止めた。
「怪我だと?」
「はい。今朝方、寝室で転倒なさって……。その、陛下がおっしゃるには、夜着の裾を踏んでしまったと……。けれど、倒れられた先に椅子がございまして、その角に頭を……」
「なんと……」
 腹立たしさのあまり、トランスは叫びたくなった。彼に二度も夢を諦めさせておきながら、これからという時に床に伏せ、心配して来てみれば、不注意で夜着を踏みつけたという。ひとを馬鹿にするのもいい加減にしてもらいたかった。
「……トランス様。意識が戻られた時、陛下は貴方様のお姿をお探しでした」
「黙れ!」
 トランスは声を殺して怒鳴ると、踵を返した。
(なぜ捨てられぬ!? 長きに渡ってあれほど憎んだものを、なぜ今さら心配に思う!? なぜ、まだ……どうして……)
 彼が大望を成し得なかった根本の原因がそこにある。トランスは、陰謀を企て、兄の生命を奪ってまで、玉座を手中にしようとは思っていなかった。いくら王位継承者の不在が長引き、望むものが自動的に手に入ろうとしていたとは言え、それはお人好しに過ぎるというものである。
 トランスがそのまま部屋を出ようとした時、廊下の向こうから子どもの笑い声が聞こえてきた。ぎこちなくそちらへ視線を転じると、ミンタムが遠慮がちに口を開いた。
「今、コートミール様とファンマリオ様がいらっしゃっているのです」
 どういうわけか、自分でもわからなかった。トランスは再び踵を返すと、ゆっくりと寝室の戸口に立った。ミンタムが王弟の来訪を伝えようとするのを制し、その光景を眺める。
 額に王冠ではなく包帯を巻いた姿で、国王イージェントは広い寝台に半身を起こしていた。その両脇に王子たちが座り込み、おそらく久しぶりなのだろう、父と過ごすひとときに満面の笑みを浮かべている。
「ねえ、父さん。クイルったらおかしいんだよ」
 コートミールは、話す前から自分だけくすくすと笑った。
「蛙を小箱に閉じこめてね。開けた人をビックリさせるってイタズラを教えてくれたんだけどね。次の日、自分で開けて自分でビックリしてるんだよ」
 それを聞いたイージェントが、おかしそうに口元を歪めた。
「それなら、余もよくやったぞ。――いや、よくやられたと言うべきか」
「えー、誰に?」
「そなたたちの叔父のトランスにだ」
 身を乗り出していたファンマリオの頭を撫でて笑うイージェントに、思わぬところで自分の名を耳にしたトランスは身を固くしたが、それは双子も同じ思いだったようである。顔を見合わせ、唇を噛みしめるのが見えた。
「どうした?」
 父の問いかけに、コートミールが幼い顔をしかめ、彼の上掛けを握りしめた。
「父さん。叔父上はオレたちのこと嫌いなんだね」
「……なぜそう思う?」
「だって、初めて会った日、オレたちのこと、ずっとにらんでたもん。オレたち、なんか悪いことしたのかな……」
 少年たちの気落ちした姿に、トランスは思わず視線を伏せた。鷹の間で彼に出生を疑われた少年たちの強張った表情が脳裏に浮かんだ。
「コートミール……」
 兄の声に顔を上げると、イージェントは両側で下を向いて縮こまってしまった息子たちの背を撫でていた。
「そなたたちは何も悪くない。何も悪くないぞ」
「でも……」
「悪いのは、この父だ」
「え……?」
 彼らにとっては意外な言葉だったのだろう、不思議そうな表情の双子に、彼らの父親はおどけたように笑って見せた。
「そなたたちを迎えに行くのがあまりにも遅かったから、それをトランスは怒っておるのだ」
「そ、そうなの……?」
「トランスは父のたったひとりの弟だ。そなたたちが互いを心配するように、トランスも父のことを心配してくれていただけなのだ」
「そっか……なんだ、それならよかったぁ」
 鏡に映したかのように安堵の吐息をつく子どもたち。それを見つめる兄が安堵とは程遠い表情で吐息するのを見て、トランスは息の詰まる思いだった。彼にそんな顔をさせているのは、おそらく自分だったから。しかし、彼は素直になることができなかった。今度こそ踵を返した時、彼とは意を異にしたミンタムが室内に向かって声を発した。
「陛下、トランス様がお越し下さいました」
 忌々しげに侍従長を見遣ると、彼より二回りも年上の老人は、深々と礼をして見せた。
「あー! 叔父上!!」
「叔父上、こんにちは!」
 先刻とは打って変わって明るい笑顔で寝台から飛び降りてきた双子に、トランスは内心で息を呑んだ。たったあれだけの言葉で、「自分たちを嫌っている叔父上」は、「父を大切に思う叔父上」に変わってしまったのだ。
 双子に両の手を取られ、引っ張って行かれた先で、トランスは小さく礼をした。
「陛下、お加減は……」
 そう遠慮がちに尋ねてくる弟の顔色こそあまり良くなかったが、イージェントは彼の姿を見られただけで嬉しかった。半月前の式典以来、王宮に姿を見せていなかった彼が気がかりでならなかったのだ。
「騒がせてすまぬな。あのように派手に転んだのは、さて一体いつ振りのことか」
 額の包帯に軽く手を添えてイージェントが笑うと、途端、双子が眉間にしわを寄せた。
「父さん、笑い事じゃないよ! 打ち所が悪かったらお命に関わりましたぞってお医者さんが言ってたじゃないか!」
「そうだよ! 血もいっぱい出てた! おかげで母さん、ビックリして倒れちゃったんだから!」
 子どもたちに喰ってかかられ、イージェントは思わずうろたえた。
「す、すまぬ。だが、頭は小さな怪我でも血がたくさん出るものなのだ」
「そんなこと知ってるよ! もう、オレたちだってホントに心配したんだから!」
 今朝方、侍従たちの騒ぎを聞きつけ、双子が父の寝室に入った時、父は既に寝台の上に寝かされて手当を受けていた。しかし、頭部を打ち付けたために意識がなく、そこから流れ出た血が衣服は勿論、彼らの足下の絨毯をも紅く染めていたのだ。やっと出会えた父親をもう失ってしまうのかと、少年たちは気が気ではなかったというのに。
「……二人とも、お父上はお怪我をなさっているのだ。大きな声を出すものではない」
 初めて声をかけてくれた叔父に、少年たちは一瞬、呆然としたが、すぐに素直に頷いて見せた。そこへ、隣室に控えていたカレサスが姿を見せた。
「ミール様、マリオ様、そろそろ剣舞の稽古のお時間です」
「あ! そうだった!」
 コートミールが嬉々とした表情を浮かべる一方、ファンマリオは父の上布団に顔を突っ込んだ。
「えー、ボク、もうからだがボロボロだよ……。ゼオラおじ上もクレスティナ殿も、ぜんぜん手加減してくれないんだもん……」
 そんなファンマリオの頭を、イージェントは布団ごと撫でた。
「ファンマリオ、男が弱音を吐くものではない。余も火宵祭までには包帯が取れるよう努力するゆえ、そなたもコートミールとともに稽古に励め。そなたたちの勇姿を、皆が楽しみに待っているのだ」
「……はい」
 おずおずと布団から顔を出したファンマリオは、コートミールに半ば引きずられるように部屋を出て行った。礼をして退がっていこうとするカレサスに、トランスの厳しい声がかかる。
「あの言葉遣いをどうにかしろ。サイファエール国王を一介の平民の父親のように……。陛下が良いとおっしゃっても、臣下に示しが付かぬ。ミンタム、このようなこと、おぬしが気付くべきであろうが」
「……申し訳ございませぬ」
 ミンタムの恨めしそうな視線を受け、イージェントは弟の背後で首を竦めた。それは再三、侍従長が彼に口上していたことだった。
 侍従たちが寝室を出て行った後、イージェントはトランスに椅子を勧めると、ためらいながら席に着いた弟に向かって、大きく息を吐き出した。
「認めて、くれるのだな?」
「……何をです?」
 わざと知らぬ振りをする彼に、イージェントは苦笑を滲ませた。
「『二人とも、お父上はお怪我をなさっているのだ』。『サイファエール国王を一介の平民の父親のように』。……余を、あの者たちの父と認めてくれるのだな」
 すると、トランスは視線を伏せたまま首を振った。
「違います。あの者たちを、陛下の御子と認めるのです」
「トランス……」
「勘違いをなさらないでください。認めたくて認めるわけではありません。ひとたび国王の口から発せられたこと、私ごときが覆せるものではありません。我がサイファエール王家の権威を自ら失墜させるような真似ができますか」
 その声は至って冷ややかなものだったが、イージェントは笑みを禁じ得なかった。
「……このところそなたの姿が見えぬので案じておった。怪我の功名とはまさにこのことだな」
 瞬間、トランスの表情が険しく歪む。
「……陛下はサイファエールの国王でいらっしゃいます。陛下のお召しとあらば、何時でもお伺いしましょうものを」
 イージェントは吐息すると、組んだ手を見つめた。
「余は国王だが、そなたの兄でもある。兄たる余は、弟たるそなたに、権威における支配を望まぬ」
 では何を望むのか――それを尋ねることは、トランスにはできなかった。訊いたところで兄の口から発される言葉は、友のものと同じだとわかりきっていた。これ以上、戯れ言を聞きたくはなかった。
「……そなた、これからどうするつもりだ?」
 その問いはふいに発され、トランスは真意を掴み損ねて首を傾げた。
「どう、とは……?」
「ウォーレイに色々と言ったようだが」
「……お聞きになったのですか」
 イージェントはふっと笑った。
「聞かずともわかる。余が力及ばぬばかりに、あれには頼り切りになっておる。何から何まで――我ら兄弟のことまでな」
 そして、弟に向かって身を乗り出した。
「戻ってきてくれぬか。今さらだが、遅いとは思わぬ。我々はまだ生きて、こうして話ができるのだから」
 どうやら長居をし過ぎたようである。トランスは静かに椅子から立ち上がった。
「陛下、いま思い出しましたが、私は以前、神に誓いを立てたのです。弟は最初からいなかったものと、お考えをお改め下さい」
 十二年前、先の王弟ラースデンに連れられて赴いた神殿で、確かに彼は神の前で膝を折り、そう誓ったのだ。このうえは、それこそ今さらであるが、その誓いに縋るしかなかった。王弟は、今の王家には紛れもなく無用のものだった。
 トランスの後ろ姿が戸口の向こうに消えると、イージェントは傍らに置いてあった王冠を鷲掴みにした。傍の壁に向かって投げつけようとして、寸でのところで思い止まる。
「なんと愚かな……」
 その小さな輪が、サイファエールという国のすべてを束ねている。何をおいても守り通さなければならないもの――しかし、それを被る彼は小さな人間だった。弟と我が子、腹をくくって選べぬ国王――それがイージェントという人間だった。


 国王の私室に続く廊下を歩いていたイスフェルは、反対側から思わぬ人物がやって来るのを見付け、足を止めた。
「トランス殿下……」
 彼を見るのは随分と久しぶりだったが、王弟の険しい表情が早速、青年の心中を騒がせた。おそらく見舞いに来たのだろうが、怪我をしている国王に、いったい何を言ったのだろうか。
 周囲に放たれた厳しい視線がふいに青年の上で止まる。しかし、それは一瞬のことであった。礼を施すイスフェルの前を、トランスは無言のまま行きすぎた。
「殿下」
 イスフェルは深呼吸すると、振り返りはしないが足を止めてくれた王弟に向かって頭を下げた。
「先日はシオクラスをありがとうございました。お礼を申し上げるのが遅くなりましたこと、どうぞお許し下さい」
 すると、王弟は首だけでイスフェルの方を向くと、陰気な面持ちで笑った。
「せいぜい大切にしておくんだな」
 思えばこの言葉こそが、イスフェルの悪夢の始まりだった。


「陛下、書類を頂きに参りました――」
 イスフェルが寝室の戸口をくぐった時、国王は寝台から降りようとしているところだった。
「陛下! お身体の方は……」
 心配そうな宰相補佐官に、イージェントはゆっくりと首を振って見せた。
「身体は大事ないが、書類が大事だ。すまぬ、まだ目を通せておらぬのだ」
 首を振るウォーレイに無理に持ってこさせた書類だったが、気分が優れなかったのと王子たちの来訪によって、印を捺せたのは最初の数枚だけであった。
「このような時も陛下がお休み下さらないので、宰相閣下が心配しておられました。書記官長などは陛下のお休みを法律で定めたらどうかと」
「なんだ、それは。して、その愉快な法律を犯した場合、余はいかなる罰を受けるのだ」
 おかしそうに口元を歪める国王の前で、イスフェルは困ったようにこめかみを掻いた。
「……やはり、休暇でしょうか」
「フ……堂々巡りだな。――すまぬが、肩を貸してくれるか。ずっと寝ていたので、少し身体を伸ばしたい」
 転倒したときに古傷を痛めたものか、足にあまり力が入らなかった。
「あまり御無理をなさいませぬよう……。王子方もとても心配なさっていらっしゃいました」
 イスフェルは国王の右腕を肩に回すと、窓辺の長椅子に彼を連れて行った。
「うむ、わかっておる」
 水底へゆっくりと石が落ちていくように、イージェントの心を小さな不安が降りていく。今朝、転倒したのは、夜着を踏んだからではなかった。全身を覆っていた倦怠感を振り払うように身を起こし、軽いしびれを起こしていた手を動かしながら寝台から降りた時、突如、視界が暗転したのだ。椅子に頭部を強打したことは、目を覚ましてから知ったことである。それでも宰相に仕事を持ってこさせたのは、ただ横になっていると、湧き起こる不安に呑まれそうになるからだった。
 長椅子の上でひとつ伸びをすると、イージェントは何かを思い出したようにイスフェルを見た。
「イスフェル、弟のシェラードは元気にしておるのか?」
 唐突な話題であったが、廊下であった人物を思えば、納得がいった。
「陛下の口から自分の名前が出たと知れば、さぞ喜ぶことでしょう。弟とは私の成人の儀以来会ってはおりませんが、先日、王子殿下の侍従から、元気にしていると聞きました」
「あの双子侍従か。そなたも存外、物好きなことよな。ゼオラの影響か?」
 我が子の侍従を推薦した者を、国王は知っていたのだ。イスフェルは赤面して顔を伏せた。
「出過ぎた真似を致しました」
「責めているのではない。王子たちは喜んでおる」
 国王はしばらく喉を鳴らして笑っていたが、ふと真顔に戻り、窓の外に視線を転じた。
「……もし、シェラードがそなたから離れていったら、そなたはどうする?」
 よく考えると、今までに考えたことがないことだった。いつも自分を慕ってくれる弟シェラード。彼が、トランスがイージェントから離れていったように、青年から離れていくようなことがあるのだろうか。しかし、物事に絶対ということがないことを、彼は身をもってよく知っている。人の繋がりなど、ほんの些細なことから綻んでいってしまうのだ。
「私は……」
 ゆっくりと口を開いたイスフェルを見つめる国王の天色の瞳は、切実な色を露わにしていた。
「許される限り、追いかけます。自分からは諦めてしまわないように。最後の最後で頼れるのは、きっと彼でしょうから……」
 イージェントは目を閉じると、青年の言葉を噛みしめた。
「……ありがとう」
 父たちが万難を排して眼前の男に尽くそうとするのがよくわかった。イージェントは、国王でありながら、臣下に対して、何のためらいもなく礼を述べるのだ。そんな彼のもとで働けることを、イスフェルはとても誇りに思った。
 このまま座椅子に居たいと言う国王に膝掛けをかけると、イスフェルは寝室を後にした。深く息を吐き出し、手に持っていた書類を見る。一番上に置かれてあったのは、海軍の拠点とする港を選定するものだった。イスフェルの足が止まるのと、「あ」と声が漏れるのが同時だった。

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