The story of Cipherail ― 第六章 翻りし白銀鷹旗


     7

 翌朝、ユーセットは身支度を済ませると、すぐにイスフェルの部屋へ赴いた。昨晩、大広間を出たその足でイスフェルの部屋の扉を叩いた彼だったが、年若い友人は固く扉を閉ざしたまま、彼を室内に入れてはくれなかった。――ユーセットがイスフェルと出会って初めてのことだった。
「イスフェル? まだ寝ているのか?」
 今度もまた返事がない。しかし、ユーセットは、今日こそはイスフェルの苦悩を聞き出す気でいた。
「入るぞ」
 鍵を掛けられていなかった扉は、彼を素直に受け入れた。しかし、彼は入るなりすぐに立ち止まった。寝台に、いや部屋のどこにも、探し人の姿は見当たらない。
「どこに行ったんだ……」
 漆黒の髪を翻すと、ユーセットは再び廊下に出た。


 ユーセットがイスフェルを探し回っている頃、当の本人は城の中庭の隅にいた。彼の前に、少し古びた石碑が建っている。周囲に緑の蔦がほどよく絡まり、その奥に見える表面には『この勝利をレイミアに捧げる』と刻まれていた。
「レイミア……」
 その女性が現在も生きており、しかも現国王の落胤を儲けたことなど誰も知らないことだった。
(もう、迷わない)
 倒れたセフィアーナの傍らでリグストンを見上げた、あの瞬間、彼の揺らいでいた心は、鉄のように冷えて固まったのだった。
(コレガ、仮ニモ王太子候補ト挙ゲラレル人物ノ取ル行動ナノカ――)
(駄目ダ。コンナ人間ニ、玉座ヲ任セルコトナド、トテモ出来ナイ。父上ガ陛下ト苦労シテ築キ上ゲタ国ヲ渡スコトナド、決シテ出来ナイ)
 そして、セフィアーナの青ざめた顔が、いっそう彼の決意を強固なものにした。
(セフィ――テイルハーサから巫女を……サイファエールから安らぎを……オレから友人を奪おうとした奴を、オレは許さない。守らねばならぬ者全てがあいつの盾にならなければならないのなら、オレは敢えて争乱の種を蒔こう! まだ、その瞳を見たこともない王子に、サイファエールのこれからを託そう……!)
 幸い、少女は無事だった。真夜中、どうしても心配になって彼女の部屋の前まで行った時、ちょうど部屋から出てきたクレスティナから聞いたのだ。しかし、シダの知り合いの例もある。いつ再び、リグストンのために無為に生命を落とす者が出るかもしれない。セフィアーナを、大切な人間を失うかもしれないという恐怖を、もう二度と味わいたくなかった。
「こんな所にいやがった」
 振り返らずとも、聞き慣れた声でその正体はすぐに知れた。
「……暁を、見たかったんだ」
 イスフェルがこれからしようとしていることは、多くの人に混乱と不安と、そして憎悪をもたらすだろう。中途半端な決意では、必ず途半ばで挫折してしまう。神に誓い、けじめをつけることで、彼はいつでもこの日に立ち戻り、初心を思い出すことができるのだった。
「――で、オレは何をすればいい?」
 ユーセットの言葉に、イスフェルは初めて彼を見た。彼の緑玉の瞳は、半ば呆れたような色を浮かべている。イスフェルは苦笑した。彼が思い悩んでいることなど、ユーセットは無論承知の上だったのである。
「オレに、力を貸してくれ。持っているすべての力を」
「もとより、そのつもりだ」
 深く頷いたユーセットに、イスフェルは王都を発つ際、父ウォーレイから聞かされた話のすべてを語った。
「……ユーセット。オレは、まだ見ぬ雛鳥に、白銀鷹国の未来を賭ける」
 あまりの大事に、さすがのユーセットも終始目を見開いたままだったが、イスフェルが言い切った瞬間には、普段の淡々とした調子で年下の当主に話しかけていた。幼い頃からイスフェルを見てきた彼である。昨日の様子から、イスフェルがリグストンに見切りをつけたことは察していた。
「……きっと、大きな嵐に遭うぞ」
「覚悟の上だ」
「もしかしたら、翼をもがれ、命を落とすことになるかもしれない」
「恐れていては、前には進めない」
 毅然と言い放つイスフェルに、ユーセットはさらに何か言おうとしたが、ふいに笑みを漏らした。これはもう決まったことなのだ。もはやどう言葉を重ねても、イスフェルの決意が覆るはずもない。覆す、つもりもない。
 ユーセットはイスフェルの横に立つと、その肩に手を乗せた。
「……能い鷹匠になれ」


 午前中、ゼオラは自室にふたりの人物を時間をおいて呼び出した。最初にやって来たのはクレスティナである。セフィアーナの容態を告げ、用件を尋ねてくる彼女を、上将軍は肘掛けに頬肘を付いたまま、普段とは異なった冷ややかな視線で見遣った。
「……余程、長衣を着るのが嫌と見える」
「は?」
「だから手中同然の手柄さえ手放したのではないのか?」
 クレスティナは瞬時に目を細くした。
「……どういう意味でしょうか。私にとっての手柄とは、王家の方々をお護りしてこそのもの。それを手放すということは、裏切り、或いは見殺しにするということです。それを御承知の上での仰せならば、このクレスティナ、黙ってはおれませぬ」
 クレスティナがわざと陰惨な単語を並べたにも関わらず、ゼオラはそれを一蹴した。
「違うのか? おぬしは皆に恥よりもひどい嫌悪感を抱かせたのだぞ、リグストンに対して」
「閣下!」
 クレスティナは唇を噛んだ。
「……確かに昨夜のやり方は手ぬるかったと反省いたしております。結果として閣下の仰せの通りになり、またリグストン殿下を危険な目に遭わせてしまったのですから……。その責めは負います。ですが、それをわざとと思われるのは心外です。心外の極み――いえ、侮辱です。忠誠心を疑われるなど……」
 俯いて見えなくなった顔の代わりに、震える肩が彼女の心情を物語っている。
「この罪、死を以て贖いましょう」
 言うなり、鋭い音を立てて腰に佩いた剣が抜かれた。ゼオラが慌てて腰を浮かせる。このあたり、お人好しな性格が彼を厳格に徹しきれなくさせるのだろう。
「待て、落ち着け、クレスティナ! 別におぬしの忠誠心を疑うておるのではない。落ち着くのだ! この部屋を血で汚すのは許さぬぞ! だからといって出ていくのも許さぬ!」
 一気に喚いて、ゼオラはクレスティナの様子を窺った。彼女はどうすることもできず、ただ恨めしそうに彼を見つめ返している。
「……まぁ座れ」
 クレスティナを椅子へと促し、自ら紅茶を入れる。
「飲め」
 クレスティナはすっかり意気消沈して、上将軍の言われるがままであった。ゼオラが何と取り繕おうと、彼女は忠誠心を疑われたのだ。もはや彼女の存在価値はない。そんな彼女の内心を知ってか知らずか、ゼオラは存外落ち着いた様子で、再び軽口を叩いてみせた。
「まったく、おぬしは冷静なのか情熱的なのかわからんな」
 しかし、すぐに悪びれたふうに肩を竦めた。
「そうだな、私も言い過ぎた。私が言うべき科白ではなかった。それは謝ろう。だが、私がなぜおぬしを呼んだかについても考えてもらいたい」
 クレスティナがようやく顔を上げ、ゼオラは安堵したように息をついた。
「……憎むべき対象がリグストンであると判った以上、おぬしはあのような無骨者にあれ以上喋らせるべきではなかった。……違うか?」
 苦々しい面持ちで、クレスティナは頷いた。
「……仰せの通りにございます」
「そして、普段のおぬしなら、きっとそうしていたと思うのだ」
「それは……」
 言葉がなかった。ある考えが彼女の心に浮かび上がる。
「結果論ではあるが、近衛のおぬしが、おそらく王太子となるリグストンの、ただでさえ悪い評判を更に貶めて、一体どうしようというのかと思ったのだ」
「そんな……閣下のお考え過ぎにございます。今回の件は、偏に私の力量が足りなかったばかりに起こったこと。閣下のお考え過ぎにございます」
「そうなのか?」
「……はい」
 ゼオラは急に歯切れの悪くなった女騎士を一瞥すると、窓辺に歩み寄って言った。
「おぬしに、二十日間の謹慎を言い渡す。我々は明日、王都に発つが、おぬしはセフィアーナの様子を見て帰参するように」
 それは謹慎とは名ばかりの、少女の身体に対する配慮だった。クレスティナは跪くと、深く頭を垂れた。
「寛大なご処置、恐れ入ります。閣下が凱旋門をくぐられる前には、必ず《太陽神の巫女》をお連れ致します」
 準上将軍――将来の国王と見なされる人間が《太陽神の巫女》を死の盾にしたなどと、とんだ醜聞である。それを口外しないよう現場にいた人々に言い聞かせても、王都に帰った時、セフィアーナがいなければ、詮索の標的になってしまう。しかし、無理をしてセフィアーナを連れて帰ることもできない。そんなゼオラの苦い決断を、クレスティナは汲み取った。
「……それでは、失礼いたします」
 しかし、扉を閉めても、彼女はしばらくその前に立ち尽くしていた。
『普段のおぬしなら、きっとそうしていたと思うのだ』
 先程のゼオラの言葉に、クレスティナは自分の心が冷えていくのを感じた。
(私は、ゲルドを煽ったのだろうか……)
 リグストンに対する失望が、無意識のうちに、彼女の言動に影響を及ぼしたのだろうか。
(失望、か……)
 彼女は歯を噛みしめた。失望だけで、彼女は近衛の任務を放り出したりしない。しかし、彼女は知っていた。失望などを大きく上回るものが存在することを。リグストンの抗えない運命が、イスフェルの手で開かれようとしていることを。出立前夜、王妃に聞かされた国王や宰相たちの思惑を、彼女は憂いつつも喜んでしまった。
(私は、近衛失格だな……)
 悄然としてその思いを噛みしめた時、奇妙な足音が聞こえてきた。顔を上げると、目下の頭痛の種が廊下の向こうから杖を使って歩いてくるところだった。
「準上将軍閣下……」
 彼の傍らに侍従たちがいないのを不審に思いながら、クレスティナはその場に跪いた。
「この度は、私の不手際で閣下を危険な目に――」
 しかし、やって来たリグストンは、彼女の垂れた頭部を叩き割るような視線で見下ろした。
「私が上将軍であったならば、おまえの命はないところだ。命拾いしたな」
 吐き捨てるように言い、彼はゼオラの部屋の中へ消えていった。クレスティナは、しばらくその場から立ち上がることができなかった。


「ひとつ忠告をしておこう」
 二人目の客の顔を見るなり、ゼオラは言った。
「おぬし、欲しいものを手に入れたいのなら、少しは媚びるということを覚えることだな」
 サイファエール屈指の強戦士たる上将軍と媚び。その最も不自然な取り合わせに、リグストンは顔をしかめた。
「終始、毛を逆立てている猫をかわいがる者などいない」
「……私に、周囲の人間の機嫌を取れと?」
 リグストンは訝しげな声を発した。彼にとって、機嫌は取られるものであって取るものではない。
「貴方はそうなさったのですか。……上将軍の座を手に入れた時」
 リグストンにとって、ゼオラは父トランスを権力の座から遠ざけた仇のようなものかもしれない。無論、それは理不尽な考えではあるが。
「ああ、媚びた。それは、媚びに媚びたぞ。私の生きる道は、剣しかないからな」
「しかし、私は媚びずとも、いずれ欲しいものを手にできる」
 リグストンは斬り返すように答えると、口元に薄い笑みをたたえた。
「その時、貴方は今度は『誰に』媚びるのです?」
 ゼオラの顔から、普段の陽気さが吹き飛んだ。愛嬌のある黒い瞳も、今は獲物を狙う獣のように、危険な光を漂わせている。
「その時は、神に媚びよう。我が愛しのサイファエールに、光を賜れるように」
 今度はリグストンが笑みを消す番であった。


 一刻も早く王子を迎えに行くために、イスフェルは残っていた宰相代理の命題を次々と片付けていった。
 まず、城内に避難していた周辺の村の住人を帰宅させ、損害に応じて見舞金を与えた。それから出入国の事務処理のためにたまたま居合わせた隊商で、マラホーマのものには国外強制退去を命じ、サイファエールのものにはカイザールからの出国を禁止して、近くの貿易港からマラホーマ以外の国に限り出国を認めた。無論、こちらにも見舞金を支払うことを忘れない。さらに、サイファエールの負傷した将兵たちの帰郷の段取りを付け、最後に、一昨日から地下牢に閉じ込めておいたマラホーマの将兵たちを、手みやげをたくさん持たせて解放した。即ち同胞の生首の入った壺と、白銀鷹の紋章が施された書簡である。その書簡の中で、イスフェルはマラホーマにマラホーマ金貨二十四万枚の賠償金を請求し、それが支払われない限り、サイファエールはマラホーマとの国交を回復しないと記した。サイファエールとしても陸上交易が断たれるのは痛いが、幸いにも現在、海上交易の方がめざましい発展を遂げている。不満は出るだろうが、陸上商人の富をうまく海へ流せば、そこまで大きな損害にはならないはずだ。この措置でマラホーマ唯一の港町であるゼキーロは廃れるだろうが、マラホーマの国庫がゼキーロの富を当てにしている以上、それも一時のことだ。
「ジージェイルの国王は喜ぶだろうな。ゼキーロに上がるはずの利益が自分のところに転がり込んでくるのだから」
 ゼキーロから東に百五十モワル行くと、そこはもうマラホーマとジージェイルとの国境になる。マラホーマにはゼキーロはやっと手に入れた唯一の港だが、サイファエールにとっては数多くある港のひとつに過ぎない。マラホーマとの交易路はもうひとつ、北から陸路で国都に向かうものもあるが、盗賊の横行で、もともとそちらからサイファエールの隊商が出国することはあまりない。だからこそ、サイファエール隊商のマラホーマ出国も禁止できるのだった。
「どうせなら、ゼキーロを渡せと言ってみるのはどうだ?」
 セディスの言を、ユーセットが笑う。
「バカ言え。ゼキーロのわずかな富のためにジージェイルと隣人になれと?」
 古くにはそんな時代もあった。しかし、歴史書が語るに、その間は富の奪い合いで、両国にとってまことに不幸の時代であった。
「海に無知なマラホーマが間に入ってくれたおかげで、オレたちはお互いに幸せでいられるのさ。ゼキーロに攻め入らないあたり、ジージェイルもそれをよくわかっているとみえる」
 その時、ふたりの前で机に向かっていたイスフェルが筆を置いた。
「さて、そろそろ帰郷の準備をしてくれよ」
 セディスはそれを言葉どおりの意味合いで受け取ったが、ユーセットは緑玉の瞳をイスフェルの背後の壁にかかる白銀鷹旗に向けて頷いた。

【 第六章 了 】


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