The story of Cipherail ― 第二章 太陽神の巫女


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「三日間、本当にありがとうございました」
 夕刻、居並ぶ神官たちに向かって、セフィアーナは深々と頭を垂れた。
「セフィアーナ、貴女は本当によくがんばりました。願わくは、その心に蒔いた種で見事な花を咲かせんことを。万人を包む大輪の花を……」
 少女は励ましの言葉に深く頷いた。この三日間にあったことが、次々と心を過ぎる。質問に答えられず、悔しい思いをしたこと。所作がなっていないと何度もやり直しをさせられたこと。よくできたと誉められたこと。広い礼拝場で思いのままに歌の練習をしたこと……。
(とても厳しかったけれど、あっという間だった……。きっと、この経験は宝物になる)
 心に灯った小さな蝋燭の火を、少女はいつまでも消さずにいたいと思った。
「いよいよ明日は《祈りの日》です。本当の意味で《太陽神の巫女》のお務めが始まります。今日は早めに休んで、明日、真っ新な気持ちで神前に臨むように」
「はい」
 その後、セフィアーナは真っ直ぐ《月光殿》の自室へと戻った。大事を控えた身で、宛もなく外を歩こうなどとは思いも寄らない。少女は部屋に入り扉を閉めると、そのままそこに寄りかかった。
(いよいよ、明後日が聖儀……)
 途端、身震いがセフィアーナを襲う。しかし、彼女の顔に曇った部分はない。心細い点は多々あるが、大好きな歌を愛する神の前で歌うために、彼女は今、ここに在る。むしろ、武者震いに近いものがあった。
 ふと、視界に薄紅色の花が映った。連日、厳しい修行に堪えている少女のために、リエーラ・フォノイが生けてくれたものだ。目を細めてそれを眺めると、セフィアーナはその花瓶を持って、《光の庭》に面した窓辺に立った。その先に見える対の部屋――彼女が訪れるより遙か昔から、巫女たちの成長を見つめてきた場所。彼女たちの辛さや苦しみや、そして喜びが、あの部屋には詰まっているのだ。
「……みんな、乗り越えてきたのね」
 今なお、《太陽神の巫女》の栄光は続いている。これは、先人の誰も、厳しい修行に屈しなかったという証である。無論、彼女自身も。その時、ふいに彼女は思った。
「……きっと、始まりなんて関係ないんだわ」
 聖都を訪れてから、神殿に潜む闇の部分をたくさん見た。《太陽神の巫女》にさえ、それは付きまとい、野心のためにその座を嘱望する者もいた。しかし、始まりが何であれ、周囲がどうであれ、ひとたび巫女の座に就いた乙女に、俗世の欲にかまっている暇などない。絶えず襲い来る精神的圧力にたった独りで立ち向かわなければならないのだ。それまで持っていた自信など、その巨大な力の前には何の役にも立たない。幾度となく挫けそうになりながら、それでも何とか持ちこたえている間に、彼女たちは――自分たちは気付いていくのだ。何をするために自分はここに在るのか、ということに――。
「辿り着いた答えは、私もきっと皆と同じ。歌いたいの。伝えたいの。神様は傍にいるって。私の声で伝えたい……」
《太陽神の巫女》が勝ち取る栄光とは、周囲の敬意でも神の加護でもなく、もしかすると自分との闘いに勝ったという自信なのかもしれなかった。


「セフィ、いる……?」
 扉は遠慮がちに叩かれたが、そこに寄りかかって物思いに耽っていたセフィアーナは、飛び上がるほど驚いてしまった。
「はい……?」
 大きく深呼吸して扉を開けると、そこには聖都でできた友人エルティスが立っていた。
「エルティス!」
 セフィアーナが嬉しそうな声を上げると、エルティスは軽く微笑を浮かべた。
「ごめんね、急に来たりして」
「ううん、そんなこと。どうぞ、入って」
 しかし、黒い頭が横に揺れる。
「大切な日の前だもの。入ると長居してしまいそうだから。それより、これ……」
 小さな包みを載せた手が、セフィアーナの前に差し出された。不思議そうに受け取った彼女が包みを解くと、中から薄紫の小さな壺が現れた。
「これは……?」
「お香よ」
「お香?」
 瞬きするセフィアーナの前で、エルティスはその蓋を取ると、中の粉末を指に付けてみせた。
「寝る時に焚いてみて。心がとっても落ち着くの。これのおかげで私、ツァーレンでの試験を突破できたのよ」
「エルティス……」
 セフィアーナは香炉を胸に抱きしめると、エルティスを見つめた。
「ありがとう。ええ、今夜使わせてもらうわ」
「良かった。……じゃあ、帰るわ。明日から、頑張ってね」
 その言葉ひとつひとつに秘めた想いが滲み出るのを、セフィアーナはひしひしと感じていた。本当ならエルティス自身が《称陽歌》を謳いたかったはずである。セフィアーナは彼女のためにも、またその他の候補者たちのためにも、選ばれた者として務めを全うしなければならないのだった。
 エルティスを回廊の向こうに見送った後、セフィアーナは早速、枕元にその香炉を置いた。


 回廊の角を曲がった途端、エルティスは立ち止まった。ゆっくりと首だけを動かして後ろを顧みる。
(……本当に神の御加護があるのなら、こんなこと何でもないはずよ)
 今し方セフィアーナに贈った香は、エルティスがツァーレンで愛用していた物であり、確かに心を落ち着かせる効果がある。しかし、彼女は今回、それにさらに別の香を加えていた。それを嗅いだ者を深い深い眠りの世界へと誘い、下手をすると三日三晩、昏睡させるという代物である。実家が薬の大店である彼女が、偶然生み出した物だった。
 再び正面に向き直ると、エルティスは浅く息を吐き出した。
(我ながら馬鹿な真似をしているわね、エルティス。セフィアーナは《太陽神の巫女》なのよ。告げ口しか能のない使用人たちとは違うのに……)
 その時、前方にひとりの神官が姿を現した。神殿を抜け出してきているエルティスは、内心で呼び止められるのを恐れながら、再び歩き出した。擦れ違いざま会釈をすると、相手も軽く礼を返してきたが声をかけられることはなく、エルティスはさらに歩調を速めて階段へと向かった。従って神官の呟きが彼女の耳に届くことはなかった。
「……聖なる山にも女狐はいるか」
 聖職者にしては鋭すぎる視線を背後に放つと、神官は再び歩を進めた。やがて突き当たりの扉にテイルハーサの紋章を象った銀の意匠が嵌め込まれているのを認めると、半ば駆け足で回廊を過ぎった。周囲を窺いながらその戸を叩くと、室内で応える声がする。
 扉が開くと同時に、神官は室内に滑り込んだ。その強引さに、部屋の主である少女が瑠璃色の瞳を見開く。
「あのっ……」
 困ったように声を上げるところで、神官は目深に被っていた頭巾を手で払った。そこから顕れた枯葉色の長い髪は後ろでひとつに束ねられていたが、布に当てられていたせいか、多少のほつれが見られた。
「やれやれ、やっと着いた」
 言いつつ、部屋の中央へと歩を進める。驚いたのは少女の方である。
「カ、カイル!? カイルなの!?」
 セフィアーナは慌てて青年に駆け寄ると、その正面に立った。
「カイル、まぁ、あなた、どうして……」
 突然のことに言葉がうまく出てこない様子の彼女に、カイルは思わず噴き出した。
「修行の成果はどうした? ちっとも変わってないな」
 しかし、少女の耳にそんな言葉は届かない。セフィアーナは急に声を低くした。
「カイル、《月光殿》は今、一般の信徒は立入禁止なのよ? 見つかったら、どんなことになるか……」
「ここは神の宮で、神官の宮じゃないぜ。立入禁止になんかして、何企むつもりだよ」
 平然とうそぶくカイルに、セフィアーナは溜息をついた。
「もういいわ。来てくれたことは……私も嬉しいから」
 ようやく久しぶりの笑顔を見せた少女に、カイルの冴えた碧玉の瞳も和らいだ。
「オレと院長は今、デスターラ神殿にいるんだが、おまえの様子が全然伝わって来ないから、いったいどうしてるのかと思って」
「そう……。私は元気よ。修行も今日、終わったの」
 セフィアーナはカイルに長椅子を勧めると、この三日間にあった出来事を話した。カイルはそのすべてに頷き、少女が立派に修行を成し遂げたことを知って安堵した。
「いよいよ、明後日だな。明後日、万民がおまえの歌によって、神の愛を知る」
 すると、セフィアーナは瑠璃色の瞳を大きく見開いた。
「そう、なれるといいけど……」
 少女は立ち上がると、南側の露台に向かった。
「……院長先生は元気?」
「ああ。毎日、祭の準備の手伝いで大わらわだ。だが、夜になるといつもこの山を見上げて祈ってる」
 何を祈っているかは訊くまでもない。セフィアーナは、麓に見えるデスターラ神殿の屋根を見つめた。
(お養母様……)
 たとえ五日間とはいえ、今まで一時もシュルエ・ヴォドラスと離れたことのなかったセフィアーナである。そばに養母のいない寂しさが、胸に募った。
「大丈夫か?」
 カイルが来、落ち込む彼女の背中にそっと手を当てる。
「……うん、ごめんね。ダメね、私。こんなことでめそめそして」
 ひとつには、カイルが訪ねてきてくれて安心したのだった。
「ねえ、カイルはこの三日間、何をしてたの?」
 そこでカイルは、ケルストレス祭に参加することを少女に告げた。
「優勝すれば、あのボロ小屋を建て直せる」
 セフィアーナは顔面蒼白になった。
「カイル、そんな、危ないわ。いくらなんでも無理よ」
 青年は天井を仰いだ。
「おまえまでそんなことを言うのか? 大丈夫さ」
 確かにカイルの狩りの腕は一品だった。しかし、相手が人間とあっては話は別である。
「怪我でもしたら、いったい誰が介抱してくれるの? ああ、心配だわ。私も見に行きたい……」
 しかし、《尊陽祭》の主役とも言うべき《太陽神の巫女》に、そんな暇などない。カイルは少女の狼狽ぶりに憮然としながらも言った。
「試合は明々後日だ。明々後日の夜、結果報告にまた来る」
「怪我したら来られないじゃない」
「そんなヘマはしないさ。だいたい、神前試合で殺し合いじゃないんだ」
 セフィアーナは驚き呆れたようにカイルを見た。当たり前である。聖祭の最中に、殺し合いなどしていいわけがないではないか。
「……わかったわ。じゃあ明々後日、必ず報告に来てね。見つからないように」
「あぁ」
 カイルは内心で溜息を付いた。セフィアーナにこんな話をするべきではなかった。今度からは事後報告にしよう、とカイルは思った。
「さて、そろそろ神殿に戻るか。帰りが遅いと院長がうるさいんだ」
「うるさいだなんて……」
 セフィアーナは首を竦めた。二人は部屋の扉に向かった。
「来てくれて本当にありがとう。私、頑張るから、院長先生にもそう伝えて」
「ああ。……あ」
 再び頭巾を被りながら、カイルは先刻、回廊で擦れ違った少女のことを思いだした。
「どうしたの?」
「いや、来る途中、すぐそこでおまえぐらいの女と擦れ違ったんだが、あれって確か……」
 セフィアーナはすぐに了解した。
「ああ、うん、ジャネスト神殿にいた子よ。エルティスっていうの。私たち、お友だちになったのよ」
「友だち?」
「ええ。さっきはね、今夜、ゆっくり眠れるようにって、お香を持ってきてくれたの」
「香だって?」
 カイルは顔をしかめた。
「セフィ、慣れないことをすると、かえって眠れなくなるぞ。気持ちだけ受け取っとけ」
「でも、せっかく持ってきてくれたのに……」
 セフィアーナが渋るのを見て、カイルは軽く首を傾げた。
「オレは谷の香りが一番落ち着くがな」
 谷の香りとは、シェスランの香水のことである。高価なうえ商品なので、セフィアーナたちが好んで付けるようなことはなかったが、それを作る作業を長年続けているうちに、その匂いが身体に染み込んでしまっている。
「じゃあ、もう行く。おまえに神の栄光が与えられんことを」
 暗がりに消えていくカイルの背を見送りながら、セフィアーナは呟いた。
「谷の香り……」
 踵を返し、寝台の枕元に置いたエルティスの香炉を手に取った。
(これは、エルティスの、ツァーレンの香りなんだわ。……それにしても)
 セフィアーナはくすっと笑った。
(カイルがあんなこと言うなんて。もう本当に、すっかり村に馴染んでいる証拠ね)
 その時、再び軽く扉が叩かれ、今度はリエーラ・フォノイが入ってきた。その手には、夕飯の膳が載っている。
「お疲れさま。三日間、本当に良く頑張りましたね」
 リエーラ・フォノイの労いの言葉に、セフィアーナは首を横に振った。
「まだ終わってはいません。明日と、そして大切な明後日があります」
「そうですね。……ふふ、頼もしいこと」
 二人は向かい合って座ると、しばらく祈りを捧げ、それから質素な夕食を沈黙とともに食した。
「……明日の儀式は、夜明け前にこの部屋を出るときから始まりますから、もう今日はすぐお休みなさい」
 食べ終わって一息ついた後、女神官が言い、少女は頷いた。
「それから、今夜は私は隣の部屋にいますから、何かあったらすぐに呼びなさいね」
「はい」
 その時、セフィアーナはリエーラ・フォノイが少し疲れているように見えた。
「リエーラ・フォノイ?」
 呼びかけに顔を上げた女神官の黒い瞳が、やはり僅かに翳っている。
「何か……あったんですか?」
「え……」
 心中の不安に気付かれて、リエーラ・フォノイは内心、驚いた。
「……いえ、それがね、車輪が壊れたのですって」
「え?」
 なぞなぞのような言葉に、セフィアーナは首を傾げた。
「デドラス様の話ですよ。聖都を目前にしながら、馬車の車輪が壊れたのですって。それでアイゼス様も呆れられて」
「そうなんですか……」
「でも、そんな深刻な話ではないのですよ。準備は万端なのですから。ただ、巫女の教育係を仰せつかった私としては、《祈りの日》の前に、貴女をデドラス様に見ていただきたかったんです。自慢の巫女殿を」
 リエーラ・フォノイが軽く微笑み、セフィアーナは瞬きした後、恥ずかしそうに俯いた。
「さあ、お喋りはおしまい。二人で寝坊したら、それこそどんな深刻な事態になるか」
 笑いながら席を立つと、リエーラ・フォノイは膳をまとめた。
「それでは明日」
 リエーラ・フォノイが出ていった後、セフィアーナは急いで休む支度を整えると寝台に潜り込んだ。
「……あ」
 その時、枕元の香炉に目が留まった。
(……少し焚いてみて、ダメそうだったらやめればいいわね)
 再び布団から這い出ると、セフィアーナは取ってきた火種を香に点けた。すると、仄かに甘く清々しい匂いが辺りに漂い始めた。
「……これなら大丈夫だわ。うん、好い香り」
 幼い頃から香水の作業場で奉仕していた少女だから、匂いには強い方である。セフィアーナは今度こそ寝ようと寝台に横になった。
 しかし、《太陽神の巫女》の部屋への訪問客は、まだ終わったわけではなかった。
 どのくらい経った頃だろうか、セフィアーナが規則正しい寝息を立て始めた頃、突然ガタンと音がして、火の気のない暖炉の奥の壁が動いた。いや、正確には扉のように開いたのである。そこから現れたひとつの人影は、最初大きく肩で息をしていたが、やがて身体を起こすと、ゆっくりと室内を見回した。そして、寝台で寝ているセフィアーナを見付けたのである。
 その人影は大股で寝ている少女に近付くと、おそるおそる手を伸ばし、その肩を軽く揺さぶった。しかし、彼女の眠りは深く、それだけでは目を醒まさなかった。無論、その人物は傍らの香炉のことなど知りようもない。今度は狂ったように激しく、彼女の身体を揺さぶった。
「う、う……」
 少女は僅かに声を漏らしたが、それでも起きない。その人物は、いきなり彼女の頬に手の平を叩き付けた。
「………!?」
 驚いたのはセフィアーナである。条件反射で腕を構えながら、その奥で瑠璃色の瞳をこぼれ落ちそうなほど大きく見開いた。が、脳がまだ半分寝ている状態なので、何が起こったのかどころか、今が夢なのか現実なのか、その判別さえできないでいた。
 しばらくの間、瞬きを何度も繰り返していたセフィアーナだが、ふと横に人の気配を感じて顔を上げた。すると、ひとつの人影が彼女を見下ろしているではないか。それも、輪郭で見る限り、見知らぬ人物である。セフィアーナは弾かれたように起きあがると、反対側の壁に背中を押しつけた。
「だっ、誰!? 誰なの……!?」
 しかし、その人物は答えない。答えない代わりに、寝台に身を乗り出し、セフィアーナの右手を強引に取ると、自分の左手首を握らせた。思わず悲鳴を上げそうになったセフィアーナだが、そこに金属製の物が嵌められているのを感じて視線を落とした。
「なに、腕輪……?」
 すると、その人物は大きく頷いて見せた。そして、今度はセフィアーナの左手首を取る。が、
「………!?」
 執拗に何度も触り、そこに何もないとわかると、その人物は愕然としたように宙を見つめた。
「な、なに……? 私の左手がどうかしたの……?」
 しかし、やはり返答はなかった。ふと、その人物と目があった。セフィアーナは息を呑んだ。泣いているのだ。双眸から溢れた銀の波が、頬を伝って布団を濡らしていた。
「なに、いったいどうしたというの……!?」
 セフィアーナも恐怖と混乱で半泣きの状態だった。その時、再びその人物はセフィアーナの手を取り、自分の口元に持っていった。
「………?」
 その人物は、一生懸命顎を動かし、何かを喋ろうとしている。
「――まさか、あなた、口が利けないの……?」
 すると、その人物は大きく頷いた。
「なに、何が言いたいの……?」
 何度も同じ単語を繰り返しているようだが、セフィアーナにはどうしても読みとることができない。
「そ、そうだわ。紙と筆があれば……」
 セフィアーナは寝台から飛び降りて、机に向かった。その時、突然、その人物が咳き込み、寝台の下に倒れ込んだ。拍子に、エルティスからもらった香炉がひっくり返る。身体をくの字にして激しく咳込むその人物に、セフィアーナは驚き、慌てて駆け寄った。
「だ、大丈夫!?」
 ふいにその人物が何か呟いた。
「……今度はわかったわ。お水ね。すぐに持ってくるから!」
 言うなり立ち上がると、セフィアーナは部屋を飛び出した。途端、ちょうど部屋から出てきたリエーラ・フォノイと出会った。
「やはりまだ起きていたのですね。先程から何か物音がしているようだけれど……」
「リエーラ・フォノイ!」
 セフィアーナはリエーラ・フォノイに飛びついた。
「私、水を汲んできます。リエーラ・フォノイは中の人に付いていてあげてください!」
 それだけを言って、台所に向かう。
「な、中の人……?」
 リエーラ・フォノイは眉根を寄せると、巫女の部屋の扉を開けた。中は暗く、静まり返っている。彼女は廊下の松明の火を手燈に移すと、部屋の中に入った。
「どこに……」
 と、その時、寝台の向こうに足が伸びているのが見えた。リエーラ・フォノイは僅かに息を呑むと、そこへゆっくりと近付いていった。
「誰なんです……?」
 その声に、寝台に寄りかかっていた人物が驚いたように顔を上げる。頼りない手燈の光に浮かび上がった顔を見て、リエーラ・フォノイは背中が縮み上がるのを感じた。
「エル・ティーサ!!」
 リエーラ・フォノイは我が目を疑った。その人物は、昨年彼女が初めて世話をした《太陽神の巫女》だったのである。ぼさぼさの栗色の髪、痩せこけ汚れた顔、襤褸布のような衣服、何も履かず血の滲んだ足。彼女のあまりの変貌に、女神官はその場にへたり込んだ。それを見て、エル・ティーサと呼ばれた少女が手を伸ばす。
「………! ………!」
「な……に、貴女、声は……。あの声はどうしたのです!?」
 悲鳴のような声をあげて、リエーラ・フォノイはエル・ティーサのもとへ這っていくと、その細い肩を抱きしめた。
「いったい何が……どうしてこんな……」
 喚くリエーラ・フォノイの頬に、エル・ティーサはそっと細い手を当てた。リエーラ・フォノイが少女の顔を見遣ると、少女は目に涙をいっぱい溜めて微笑んだ。
「エル・ティーサ……?」
 やがて少女の視線が宙を彷徨い始め、リエーラ・フォノイは恐ろしくなって彼女を強く揺さぶった。
「エル・ティーサ……ラフィーヌ! しっかりしなさい、ラフィーヌ!」
 まだ洗礼を受ける前、《太陽神の巫女》の頃の呼び名を、リエーラ・フォノイは大きく叫んだ。エル・ティーサの左手が、ゆっくりとどこかを指そうと持ち上がる。
「なに……何が言いたいのです……!?」
 しかし、もはや少女にその力は残されていなかった。伸ばしかけた手が突然、糸が切れたように床に落ちた。
「ラ、ラフィーヌ?」
 リエーラ・フォノイが驚いてエル・ティーサの顔を覗き込むと、少女はリエーラ・フォノイの腕の中で、永遠の眠りに落ちていた。辺りに満ちた甘く清々しい匂いが、そんな二人をそっと包んでいた……。


 セフィアーナが部屋に戻ってきた時、その人物は長椅子に横たえられていた。
「リエーラ・フォノイ、その方に水を……」
 傍らに突っ伏した女神官に声をかけたが、返事がない。
「リエーラ・フォノイ?」
 リエーラ・フォノイは考えていた。この死んでしまった少女が、昨年神の栄光を分け与えられた乙女だったことを、セフィアーナに伝えるべきかどうか。
「リエーラ・フォノイ、どうかしたのですか……?」
 彼女の横についてそっと背中を撫でてくれる少女に、これから大事を控えたセフィアーナに、そんなことを言えるわけがなかった。リエーラ・フォノイはゆっくりと顔を上げた。
「……祈っていたのです。この哀れな魂が、迷わずに《光の園》に行けるように」
「えっ……」
 セフィアーナは驚いて長椅子の上の人物に目を落とした。
「《光の園》って、え……うそ、そんな……」
「セフィアーナ、よく聞いてください。このことは、決して口外してはなりません」
「えっ!?」
 驚き見開かれた瑠璃色の瞳に、リエーラ・フォノイは冷静に諭して聞かせた。
「こんな、《祈りの日》の前日に、《太陽神の巫女》の部屋で死に人が出たとなれば、大騒ぎになります。下手をすると《尊陽祭》が中止ということにもなりかねません。そんなことがあっては決してならないのです。折りを見て私からアイゼス様に申し上げますから、貴女は口を閉ざしているように。宜しいですね?」
「で、でも、そうしたら、この方はどうするのですか……?」
「明日、私がどうにかして埋葬します。そのかわり……っ」
 突然、嗚咽を漏らし始めた女神官に、セフィアーナはどう声をかけていいかわからず、再び背中を撫でてやった。
「……あ、明日、私、この方のために祈ります。私は、この方が私に伝えようとしていた言葉を聞き取ることができませんでした。この方の、最期の言葉だったのに……。だから、私、明日、この方のために祈ります。この方の魂が、聖日の、最初の一条の光で神様の下に還るように」
「セフィアーナ……」
 少女の心温まる言葉に、リエーラ・フォノイは涙しながら彼女の髪を撫でた。
 もう一人の巫女に何が起こったのか、今のリエーラ・フォノイには知る術もない。しかし、あの可愛らしく優しい子にいったい何があったのか、このまま放っておくわけにもいかなかった。彼女が巫女ゆえに起きた悲劇なら、もしかしたらセフィアーナにも同じ事が起きるかもしれないのだから。


 翌日、まだ世界が月の女神ミーザの支配下にある頃、セフィアーナは漆黒の聖衣に身を包み、迎えに来た神官らと共に列をなして、《祈りの塔》へ向かった。
 一日、そこで祈りを捧げ心身を浄めた後、いよいよ《太陽神の巫女》となった乙女は、《称陽歌》を奏でるために人々の前に姿を現す。この、陽が届く世界すべてに、神の存在を知らせ、その愛を伝えるために……。

【 第二章 了 】


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