The story of Cipherail ― 王都狂騒曲


     4

 出の遅い月がやっと中天にさしかかった頃のことだった。
 既に二度目の巡回中であるクレスティナが庭の一番外れまでやって来た時、ふいに不吉な胸騒ぎを感じて立ち止まった。
(何だ……?)
 周囲には静寂が満ち、儚い月の光に照らされた景色は、先刻となんら変わった様子はないのに、なぜか妙な違和感を覚えるのだ。気のせいかとも思ったが、それでもクレスティナは、細心の注意を払いながら足を進めた。
 冬の夜の庭園は、見るに耐えぬほど物寂しい。夏まで青々と生い茂っていた草や木の葉はいつのまにか姿を消し、見ぐるみを剥がされた木々が助けを求めるように枝を広げ、石たちは地表で丸くなって鳴りを潜めている。神や英雄を称えた大理石の彫像は、不気味な様相で沈黙を守っていた。たまに北の空から風で運ばれてきた雪が舞い降りてきたが、それも地上に届いた刹那、大地に還っていった。
 と、その時、クレスティナの左側の生け垣で、何かが蠢いたように見えた。風のざわめきではない。無意識のうちに剣を抜き放ちながら、クレスティナがその方へ歩み寄ろうとした瞬間。
 流れてきた雲が月を覆い隠してできた闇の向こうで銀色の光が閃き、彼女は思わず剣を抜いて縦に薙ぎ払った。乾いた金属音がして、放たれた矢が地面に叩きつけられ、クレスティナは驚愕してそれを見つめた。が、すぐに向き直って叫ぶ。
「おのれ、何奴!」
 クレスティナは弓に矢を番えると、漆黒の霧の中に照準を合わせた。姿は見えずとも、気配で必要な情報は十分得られた。
 彼女のもとから放れた矢は、美しく銀の弧を描きながら相手の胸の中へ飛び込んだ――はずだったが、寸前で叩き落とされ、虚しく地上にその屍をさらすことになった。
 その間、クレスティナは詰め所のファンジーニに応援を求めたが、この場から遠く離れていたので、その声が届いたかどうかは疑わしい。角笛を吹こうとも試みたが、先刻、敵の矢を叩き落とした時に鏃が掠ったらしく、ひびが入っており、残念ながら音は出なかった。
 突如、闇の一部が躍り上がって、クレスティナの前に立ち塞がった。姿が見えなかったのは、決して闇のせいばかりではなかった。全身黒ずくめの男は、肩幅もあり、胸も厚く、がっしりとした体躯をしており、背はクレスティナより頭ひとつ分ほども高い。男の手にする強弓が、クレスティナの持つ松明の光を浴びて、妖しく煌めいた。
「貴様……」
 クレスティナは、紅蓮の瞳に炎を宿しながら、眼前の黒い影を睨んだ。
「いずこの手の者だ。我がサイファエール王宮に無断で立ち入り、無事に帰れると思っているのか!」
 すると、男が頭からすっぽりと被った頭巾の下から低い笑声が漏れてきて、彼女の耳を打った。
「何がおかしい!」
 クレスティナが怒鳴ると、男はぴたりと笑うのを止めた。流れるような動作で腰の大刀に手を伸ばし、それを一気に引き抜くと、ついに彼女に襲いかかってきた。
 その落雷のごとき斬撃を辛うじて避けたものの、クレスティナは足下の段に気付かずに転倒し、松明を放り出してしまった。
「くそっ」
 幸いひっくり返ったところは石畳ではなく柔らかい土の上だったので、クレスティナは、そのまま一回転して横に跳ね起きた。瞬間、男の剣が彼女の頚部の高さを水平に走ってきて、クレスティナは常軌を逸した瞬発力で身体を屈めると、地に手をついて相手の足を払った。しかし、黒い標的は、それを予期していたらしく、飛び上がってやり過ごすと、降りざまに再び斬撃を繰り出した。
 火花が散った。
 二人の剣が激突し、辺りに奇妙な摩擦音が響きわたる。だが、力と力のぶつかり合いは、無論、男の方に分があった。
 クレスティナは石畳の上に吹き飛ばされ、彫像の土台に強かに背中を打ちつけて咳込んだ。長靴が地面を蹴る音がして、クレスティナが胸を押さえながら顔を上げると、敵が迫ってくるのが見えた。
(立たなければ……!)
 しかし、打った背中はまだひどく痛み、さらに初めての出来事に、焦りで身体が思うように動かない。
「おのれ……」
 クレスティナは呻いた。多少は腕に自信のある彼女だったが、口惜しいことに、この正体不明の不埒者にはまだ到底かなわぬことを、身をもって知ったのだった。
 男は力任せにクレスティナの胸倉を掴むと、大刀を高々と振り上げた。と、その時。
 何事が生じたのか、突然、男が後ろにのけぞった。布の裂ける音とともに、男の巨体がひっくり返る。
 クレスティナが驚いて目を開けると、倒れ込んだ男の向こう側に、いくつもの小さな人影があった。彼女が目を凝らしていると、雲が切れ、彼女たちの上に月光が降り注いだ。
「――お、おぬしらは……!」
 クレスティナは、我が目を疑った。なんとそこに立ち並んでいたのは、今や彼女の良き友である、イスフェルとその仲間たちだった。
 本来なら彼らは、ここから夜目にも浮き上がって見える白い大理石の学院寮で、今頃、床に就いているはずである。こんなところにいるはずがない。しかし、現に敵を引き倒したのは彼らだった。
 クレスティナが呆気に取られている隙に、少年たちは鬨の声を上げて男に飛び乗った。男の手足を押さえ、素手で殴り蹴りつける。ところが、男はそれにびくともしない様子で地に手をつけると、五人もの少年たちを背に乗せたまま、敢然と立ち上がった。背にへばりついていた少年たちは、恐怖の声を上げながら、次々と地面に落ちた。
「こ、こいつ、化け物か……!?」
 セディスが息を呑みながら言い、クレスティナは歯軋りした。助けてくれたのはいいが、倒れた相手を五人がかりでも抑えられないのでは、かえって危険にさらすだけである。自分の身を守るだけでも精いっぱいなのに、少年たちを五人も面倒見切れない。しかし、みすみす敵の手にかかるのも癪だった。
「おぬしら、ここは私に任せて、助けを呼んで来るのだ!」
 叫んだ時には既に、クレスティナの剣は男の顔をめがけて振り下ろされていた。男は、それを水平に掲げた剣で受け止めると、力任せに横に薙ぎ払った。その後、立て続けに剣が打ち交わされる。クレスティナは、先の戦闘で敵の方が遥かに力があることを悟っていたから、できるだけまともに打ち合うのを避け、それが叶わぬ時は、剣を斜めにして男の斬撃を受け流し、鍔でそれを跳ね返した。
 突如、クレスティナの手元で何かが煌めき、男は咄嗟に身を引いた。僅かに男の顔を覆う布が裂ける。クレスティナの短剣の仕業であった。
「フフ。おぬし、なかなかやるな」
 これが今夜、初めて聞いた男の声であった。
「正攻法だけでは、貴様に勝てそうもないゆえな」
 クレスティナは毒づいた。あくまで勝つ希望は捨てぬ。だが、男は彼女の言を一笑に付すと、大きく叫んだ。
「それが女剣士の弱いところよの。しかし、そのように雑念が多くては、勝てる者にも勝てまいぞ!」
「抜かせ!」
 憤ったクレスティナは、紅蓮の瞳を燃え立たせると、再び男に向かっていった。彼女は少年たちが相変わらずこの場から離れないのを気にしていたのである。彼らにしても、このような経験は初めてであろう。恐怖と衝撃が、彼らの足を地に縫いつけてしまったらしい。
 何回ほど打ち合った後だろうか、ふいにクレスティナの剣が音高く折れ飛んでしまった。
「………!」
 クレスティナは顔をしかめた。彼女は他に、確かな武器を持ち合わせていなかったのだ。大刀相手の接近戦に弓矢や短剣では話にならない。
「さあ、どうする?」
 男は、狼狽するクレスティナを見て嘲笑すると、自分の大刀を肩に担いだ。
(万事休すか……!)
 クレスティナが唇を噛みしめながらそう思った時、何を思ったか、突然、イスフェルが丸腰のまま石畳に走り出た。
「ほお? 孺子、何のつもりだ」
 男が面白そうに彼を見やると、イスフェルは、それ以上に楽しそうに笑って言ったのだった。
「失礼ながら、貴方様に悪役は不向きかと心得ます」
「なに?」
 イスフェルの意表を突いた言葉に、その場にいる者全員が呆気に取られた。ただひとり、クレスティナだけが、その顔に怒気を漲らせた。
「何をわけのわからぬことを言っているのだ、イスフェル! そこをどけろ! 死にたいのか!」
 しかし、彼女の声に逸早く反応したのは、招かれざる客の方だった。
「イスフェル、だと……?」
 男が驚愕の声を上げ、イスフェルは、それに頷くと、彼に向かって微笑みかけた。
「はい、フゼスマーニ様」
 瞬間、声にならない声が上がる。
 フゼスマーニとは、サイファエールでも五本の指に入ると言われている強戦士で、その武勇は異国にまで知れ渡っているという。肝心なことは、彼が現近衛兵団副長、つまりクレスティナの上官であるということだ。
「……なぜ、わかった?」
 しばしの沈黙の後、男は剣を鞘に収めると、静かに言って、顔を覆う黒い布を取り払った。暗がりに、見覚えのある顔が浮かぶ。少年たちからは憧憬のこもったどよめきが上がり、クレスティナはといえば、思わず失神しそうになった。なぜ近衛兵団を取りまとめる者が、守るべき王宮の庭先で部下を襲ったりするのか。彼女が茫然自失として立ちすくんでいると、その隣でイスフェルが陽気に答えた。
「本当に陛下の御命が目的の刺客なら、見つかった以上、近衛兵といつまでも関わっているわけにはいかないでしょう。なのに貴方は、止めを刺せそうな時にもそうなさらなかったし、私たちにもわざと倒されたりして、まるで遊んでおられるかのようでした。それに私は、父に付いて近衛兵団の軍事演習を幾度か観に行ったことがあるのです。その時、いつも貴方の剣技を見させていただいていたものですから、戦い方に見覚えがあると思いまして……。あと、いつもと違う場所を警備されているクレスティナ殿のことを、よく御存知のような発言もございましたし」
「なんと、まあ」
 言って、フゼスマーニは豪快に笑い出した。まるで手の内がばれていて、爽快なほどであった。
「おぬし、噂には聞いていたが、まことに聡明な奴よの」
「お誉めに与り、恐れ入ります」
 理解できないのはクレスティナである。今回のフゼスマーニの所業は、常識で考えられる範囲をとうに逸してしまっているのだ。周囲を無視して、種明かしに笑っている場合ではない。ただ、それよりも気になることがあった。
(なぜ閣下は、イスフェルのことを知っているのだろう……?)
 彼女の問いに、セディスが瞬きしながら、あっさりと答えた。
「御存知なかったんですか? イスフェルは宰相家の後継なんです。それより、一体どういうことなんですか? 何が何だか、さっぱり……」
 説明を求める彼の声は、しかし、クレスティナの耳に届いていなかった。彼の言の前半部分の衝撃が彼女の心を動揺させ、後半を聞くゆとりを奪ってしまったのだ。
(宰相家の後継……?)
 サイファエールの宰相職は、世襲制である。ということは、つまりイスフェルは次代の宰相ということである。貴族階級でも下の方の出身のクレスティナにとって、宰相家とは、王家も同格と思えるような存在だった。実際に、今日のサイファエールの善政には、イスフェルの父ウォーレイが大きく貢献しており、イスフェルが生まれた時、それは大勢の人間が祝いに駆けつけたという。
 愕然とするクレスティナの袖を、エルセンが引っ張った。
「フ、フゼスマーニ様がお呼びですよ」
 顔を上げると、フゼスマーニが笑いながら手招きをしている。それに吸い寄せられるように、クレスティナは足を進めた。
「驚かせてすまなかったな、クレスティナ」
 特に悪気もなさそうに、フゼスマーニはあっけらかんと言い放った。こうなると、クレスティナは、ただただ腹立たしいだけであった。
「ご乱心なさいましたか、閣下。理由はどうあれ、あまりの御狼藉、このクレスティナ、笑ってすませられるほど寛大ではございませぬ」
 あまりの憤激に声を震わせながら、クレスティナは尊敬すべき戦士を睨みつけた。
「そう申すな。これは一応、抜き打ち調査でな。毎年、新参者がいざという時にどれぐらいの働きを見せるかという――」
「理由はどうあれ、と既に申し上げました。単なる新参者いびりではございませんか。私の技量を御不満にお思いなら、今すぐ罷免なさいませ。だいたい、彼らが出てきた時点で、このような戯れ事、おやめになるべきでした。真剣など、むやみやたらに振り回すものではございません!」
 フゼスマーニに弁解の余地を与えず、クレスティナはぴしゃりと言って、相変わらず持ち続けていた折れた剣を石畳に叩きつけた。戦場にて向かうところ敵なしと絶賛される強者も、クレスティナの前では形無しだった。フゼスマーニは教師に怒られる悪童のような顔をして首を竦めると、ふと少年たちを見回した。
「……時にクレスティナよ。この者たちは、いったい何だ」
 そこでクレスティナも尋常ならぬ彼らの存在を思い出して、その代表であるイスフェルを振り返った。ようやく本来の目的を口上する機会を得て、イスフェルが口を開こうとした時、右の茂みの奥から声が上がった。
「イスフェル! いたぞ! 厩舎だ!」
 騒々しく植木の小枝を折りながら現れたのは、リデスたちを探すために彷徨していたシダと、もうひとり、レステという少年だった。
「行こう!」
 少年たちが一斉に身を翻して、その場から立ち去ろうとしたので、クレスティナは慌てて側にいたエルセン少年の腕を掴んだ。
「エルセン、一体どういうことだ!?」
 師の腕から逃れようと必死に手足をばたつかせるエルセンに、クレスティナがきつく問うと、少年はおどおどと口を開いた。
「く、口止めされてたけど、もうバレちゃったから仕方がないよな。イスフェルもさっき、言おうとしてたみたいだし……」
「だから何なのだ!」
「あ、あの、リ、リデスたちが、今晩、先生に嫌がらせをしようとして、寮を抜け出したんです。ほ、ほっとくわけにもいかなかったから、消灯の後、オレたちも窓から縄を垂らして、寮を出てきて……。本当は先生に気付かれないようにする予定だったんです。迷惑かけると思って……。でも、こっちにリデスたちが来てないか見に来たら、先生が襲われてたから、それどころじゃなくなって……」
「なっ……!」
 想像を遥かに超えた出来事に、クレスティナは一瞬、時間神によって身体の時間を止められてしまった。その横で、首を傾げながらエルセンの話を聞いていたフゼスマーニだったが、王宮警備を任されている近衛兵団にとって一大事が起こっていることは明白である。このまま看過するわけにもいかないので、とにかく二人に厩舎に行くよう促した。

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