水鏡 揺れる
満ちた月を映して 揺れる
揺れて 揺れて
月は 私の心のように 欠ける
水鏡 揺れる
あなたの面影を映して 揺れる
揺れて 揺れて
月は 私の心のように 満ちる
風に 涙に 時にはあなたの吐息にさえ
揺れて 揺れて
私の小さな恋舟は
やがて水面に消えるでしょう
『ラクシュ、すまぬ……』
お父様、もう、お顔を上げて下さい。
確かに私、ミハイルを出たくはありませんでしたけれど、ミハイルでは見付けられなかったものを、この氷の大地で見付けたのです。
婚礼の前夜、満ちた月に故郷が懐かしくて懐かしくて、私は決心して離宮を出ました。
周囲は誰も知らない者ばかり。
言葉もろくに通じないのです。
淋しくて淋しくて、怖くて怖くて、私、必死で走りました。
婚礼を上げていない今なら、まだ間に合うと思ったのです。
けれど、それは浅はかな考えでした。
ヴァスルの王宮の庭はそれは広くて、私、迷子になってしまったのです。
どこかで靴を片方亡くしてしまった私は、途方に暮れて、小さな池のほとりの長椅子に座り込んでしまいました。
淋しくて 怖くて 悲しくて 悔しくて
涙がとうとうと頬を伝っておりました。
そんな時だったのです、あの方にお会いしたのは。
『何者だ』
あの方は最初、低い声で私に剣を向けられました。
月の光を跳ね返すそれが、とても美しかったのを憶えています。
『このような場所で何をしている』
私がおののきながらゆっくりと顔を上げると、立派な騎士の服装を纏ったあの方は、何故かひどく驚いた御様子で、金色の瞳を大きく見開かれました。
『そなたは……何者か』
私は、咄嗟に嘘を付いてしまいました。
私が明日にも王子と祝言を挙げるという姫だとわかれば、お父様に、そしてミハイルの民たちに、とても迷惑がかかるでしょう?
『た、ただの……女官にございます』
たどたどしいヴァスル語でしたけれど、あの方は、それを私が泣いていたためだと思われました。
『女官と言うなら、ここが国王の私庭であるということは知らぬはずはあるまいな』
それを聞いて、私は愕然としました。
何ということでしょう。
逃げようとして、敵の懐深くに飛び込んでしまうなんて。
治まりかけていた涙が再び溢れてきて、私は何も見えなくなってしまいました。
すると、あの方は私の隣に座り、呟くようにおっしゃいました。
『そなたがあまりに涙を落とすゆえ、月までが悲しみに震えている』
何のことだろうと私があの方を見ると、あの方は池の水面を悲しげに見つめていらっしゃいました。
『……何があったかは知らぬが、もう少しだけ、がんばれぬか?』
”もう少しだけ”?
いいえ、私は一生、この見ず知らずの国でがんばらないといけないのです。
――けれど。
もう少しも何も、私、こちらに来てから、まだ何ひとつ成していないのでございました。
『もう少し、だけ……?』
もう少しだけがんばったら、何か良いことがあるのでしょうか?
『そうだ』
あの方は力強く頷いて、優しく微笑んで下さいました。
『もしまた泣きたくなったら、ここへ来るとよい』
ふいに立ち上がったあの方は、池の水面に手布を浸されました。
そして、それで泥まみれになった私の足を丁寧に拭いて下さったのです。
『ここへは私しか来ぬから、気兼ねは要らぬ』
それから、御自分の外套を引き裂き、私の足に巻いて下さいました。
――初めてでございました。
この氷の大地へ連れてこられて、そのような優しい言葉をかけていただいたのは。
そのように優しくして下さって、私の居場所をつくって下さったのは。
今度は声を上げて泣き始めた私に、冷たい夜風に舞い上がる漆黒の髪を抑えながら、あの方はとても困った御様子でした。
お父様、ラクシュはこの地でがんばります。
あの方が、私の居場所をつくって下さったから。
たとえあの方が、私の夫のお父上であっても、私のこの想いはあの日の月のように、いつまでも輝き続けるでしょう。
たとえこの想いが実らなくてもよいのです。
私はこの想いを見付けられた、ただそれだけで、この地でがんばってゆけます。
お父様、どうか、お顔を上げて下さい。
そして、夜空をご覧になってください。
そうすれば、私の想いが真実であることがおわかりでしょうから……。
【 END 】
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