EDDIE


  あの人が居なかったら
  私は今でも
  あの暗く悲しい世界を
  彷徨っていたに違いない……

     1

 当たり前のように思っていた将来の夢を、くだらない現実に壊された気がした。


 昼休憩に入り、ざわざわと騒がしい教室の中、私は席を立てずにいた。目の前の、戻ってきたばかりの適性検査結果表が、私のすべての自由を奪っている。
『あなたは典型的な文系です。』
『事務的な処理などが……』
 私の将来の夢は、幼い頃からずっと、医者になることだった。
「瑞穂、お弁当食べよっ」
 親友のメグが、紺色のお弁当袋を揺らしながらやって来た。
「あ、う、うん……」
 咄嗟に書類を机の中に突っ込んだけれど、まとわりつくような不安が私の心を覆っていく。
「ねえ、適性検査の結果、どうだった?」
「ああ……別に、大したこと書いてなかったよ」
 強張る顔を見られないように、私は少し俯いた。そのせいか、メグは私の動揺に気付く様子もなく、机に肩肘をついて眉根を寄せた。
「そっか。いいなあ、瑞穂は。私なんかさ、先生になりたいのに、『狭き門なので、他にもやりたいことを見つけてみましょう』なんて書いてあるのよ? 信じられる?」
「なに、それ」
「でしょ!? だいたいさあ、なんでこんな時期にあんな調査するのかな。私たち、もう三年だよ? 普通、一年とか、せめて二年の文理選択の時とかにやんない?」
 何度も突き刺され、穴だらけになってしまったミートボールが哀れで、私は思わず声を上げた。
「メーグ、先生も言ってたじゃん。気にすることないよ」
「わかってる。でも、ムカつくんだもん。なんだって私のことよくも知らないヤツに将来のこと口出しされなきゃいけないわけ!?」
 そうだよね。メグがムカつくのも尤もだよ。無視よ無視! 統計で他人の人生滅茶苦茶にしないで。そう、他人の人生、滅茶苦茶に……。


「まあ、聡子ちゃん、留学するの?」
 その日、家に帰ると、居間で電話する母親の声が玄関まで響いてきた。
「イギリスに……。すごいわねえ。……ええ。……そんな、大丈夫よ、お義姉さん。聡子ちゃん、強いもの。……え、瑞穂?」
 またおばさんの自慢電話か、と呆れながら階段を上りかけていた私は、ふいに登場した自分の名前に思わず足を止めた。
「……ええ、なんとか。主人の影響でちっちゃい時からずっと医者になりたいって言ってたし、きっと大丈夫でしょ」
 私は音を立てないように自分の部屋に戻ると、すぐにベッドに転がった。
 そう、ずっと思ってきた。
「父さんのような医者になりたいって……」
 目を閉じれば、夢を見つけた日のことが鮮明に思い出される。
 看護婦さんから退院する患者さんに手渡される花束。嬉しそうに輝く幾つもの笑顔。
『おじちゃん、もうお酒飲み過ぎちゃダメだよ』
『ははは、約束するよ、瑞穂ちゃん。きみのお父さんはいいお医者さんだけど、もう入院するのはイヤだからね』
 少し涙ぐみながら、何度も父さんに礼をしながら帰っていった患者さん。あんなふうに人の力になれる父さんが誇らしくて羨ましくて、誰に言われるまでもなく、医者になることを志すようになった。
 私は適性検査結果表と一緒に戻ってきた模試の結果表を鞄から引っ張り出した。もう一度ざっと目を通す。
(……確かに文系科目の方が偏差値いいけど、典型的なんてほどじゃない)
 また心が苦しくなってきて、それをごまかすように勢いよく結果表を丸めると、ゴミ箱に向かって放り投げた。
(なんだろう、このカンジ。すごく不安。すごくイライラする……)
 メグには気にすることないって言っておきながら、自分が罠にはまってしまっている。心の淵にしかけられた、『絶望』という名の罠に……。

     2

「瑞穂、最近ずっと元気ないね。どうかした?」
 体育の授業のために更衣室に向かう途中、突然メグが聞いてきた。
「ううん、別に何でもないよ?」
「そう? ならいいんだけど……」
 いつもなら何でも相談するんだけど、今回のことはなんとなく言いそびれていた。彼女も色々と忙しいし、結局は自分で解決しなければならない問題だということがわかっていたから。
「――あ、私、上靴を教室に忘れて来ちゃった。先に行ってて」
「急いでね」
 駆け足で教室に戻りながら、心の中で呟く。
(メグ、ごめんね。それと、ありがとう)
 一緒に行動するようになって、まだ一年とわずかだけど、彼女は色んな場面で私の心の支えになってくれていた。
 教室はよりにもよって四階にある。ようやく階段を上りきり、トイレの前を通って教室に入ろうとした時。
「医大!? なに、彼女、医者になりたいワケ?」
 イヤな予感がして、開いたドアからそっと中を覗くと、時間にルーズなクラスの子たちが窓際に固まって話をしている。
「知らないの? 瑞穂んち、お父さんが病院やってるから、彼女、後継ぐために医者になんなくちゃいけないのよ」
「へえ、初耳」
「志望大の調査用紙、見事に全部医学部だったよ」
「うっそー」
 本人がここにいるとも知らず、彼女たちは興味本位で喋りたてる。そのとき、机の上に座っていた一人が言った言葉に、私は心臓を鷲掴みにされた気がした。
「でも、なんかかわいそ」
「何が?」
「だって、それってさ、職業の選択の自由とかってヤツ、ないってことじゃん。明治時代じゃあるまいし」
「あ、そっかあ。かわいそー」
「うち、自営業とかじゃなくって良かったー」
 全身から力が抜けていくような感覚が襲い、私は思わず廊下の壁にもたれかかった。
(……ああ、そっか)
「なんだ、私って『かわいそう』だったんだ……」
 妙な納得が腑に落ちていく。
(夢、なんて。そういう環境に置かれていただけの話だったんだ。だから些細なきっかけで自信が保てなくなったりするのよ)
 ここ数日の心のモヤモヤが、ここに来てどんどん膨張していくのがわかる。
(そうよ。毎日毎日、父さんの白衣姿見せられて、まるで洗脳されてたようなものじゃない。私ったら、見事に引っかかっちゃって……。なんなのよ、私。すごくバカみたい。バカみたい……)


 夜の居間で、いつものように白衣姿の父さんが私を睨みつけた。
「何だ、この点は?」
 私は沈黙を保ったまま答えない。
「確かこの間のテストもこんなだったよな? おまえ、本当に勉強してるのか?」
「……ごめんなさい」
 あれ以来、どうしても勉強に集中できなくなっていた私は、全国順位を大きく落としていた。
「謝ったって知らんぞ。おまえは父さんのために勉強しているわけじゃないだろう」
 瞬間、私の頭の中で何かが弾けた。
「……じゃ、誰のために勉強してるの?」
「なに?」
「だって、そうでしょ? 私、今まで医者になりたいと思ってきたけど、それって違う。メグとか、クラスのコたちが『将来なになにになりたい』とかいうのとは違う。家が医者だから、だから医者にならなきゃいけないんでしょ? 跡を継ぐために!」
「瑞穂! 何言ってるの!?」
 父さんの後ろに立っていた母さんが、咄嗟にエプロンを握りしめて叫んだ。
「だってそうじゃない! 二人とも、今まで一度だって私に他の職業を勧めたことなかった! こんな道もあるぞって示してくれたことなかった! それって、私に医者になってもらわなきゃ困るからじゃない!」
 何が起こったのかわからなかった。頭の中でも現実でも。ガタンと音がして、長机が動いたかと思うと、父さんの平手が私の頬を音高く打った。
「自惚れもいい加減にしろ! そんな奴に、大事な病院をやれるか! 患者を預けられるか!」
 もう、最悪だった。
「な、何よ! 父さんも母さんも大っ嫌い……!」
 私は家を飛び出すと、夜道をただ闇雲に走り出した。
(どうしてよ! どうして私がこんな目に遭わなきゃいけないの!? もういや。もう、何もかもどうでもいい!)
 行く手の信号は赤だった。止まるのが面倒だったけど、辿り着いたところでちょうど青に変わったので、私はそのまま横断歩道に飛び出した。刹那、強烈なライトに照らされ、遠くで車のブレーキ音が響くのを聴いた。

     3

 どこからか今まで耳にしたことのない不気味な鳴声が聞こえてくる。
「う……」
 私は踏切の警報機のように鳴り続ける頭を抱えて起きあがった。朦朧とした意識で周囲を見回すと、またも今まで目にしたことのない不気味な景色が広がっていた。立ち並ぶ黒い樹々。黒い葉の間から時々垣間見える赤い空。その空間を埋める澱んだ灰色の空気。
(ここは……どこ……?)
 呆然と辺りを見やっていた私の手に何かが当たり、そこへ視線を落とすと、半ば腐りかけた鳥の死骸があった。
「きゃああああ!」
 驚いた勢いで背後の木に激突した私は、思わず噎せてしまった。
(な、何なのよ。ここは一体、どこなの……!?)
 その時。
「ここは《自省の森》。天命の尽きる前に、自ら命を絶った者の堕とされる場所」
 涼やかな男の人の声がして、私は忙しく首を巡らせた。
「だっ誰!? どこにいるの!?」
「ここだよ。君のすぐそばに」
「そばって……」
 けど、人影を見つけることはできなかった。
「誰も……」
 困ってふと上を見上げた時、私は信じられない光景を目にし、小さく悲鳴を上げた。
「きゃ……!」
「驚いたかい? 僕の姿に」
「あ、あなたなの? 私に話しかけているのは……」
「そうだよ。ただし口はもうあんまり動かせないから、心に直接話しかけてる」
 私はおそるおそる立ち上がると、今まで背もたれにしていた樹から少し離れて向かい合った。
「ど、どうして木の中にいるの……?」
 自分で放った言葉が信じられなかった。幹の中に、男の人が埋まっていたのだ。いや、埋まると言うより、彼そのものが木であるかのよう。頭と上半身だけが人の形をなし、腕の中程からと腰から下を木の中へ吸い込ませてしまっている。
(まるで十字架に張り付けにされたキリストみたい……)
 私が呆気にとられて立ちつくしていると、西洋の顔立ちをしたその男の人は、私をじっと見つめて言った。
「また新しい生を受けるために、木と《同化》しているんだ」
「ど、《同化》?」
 聞き慣れない言葉に、私は首を傾げた。
「言っただろう、ここは《自省の森》だって。自分の命を絶つということは、どういう理由にしろ重い罪なんだ。それを許されるのには、とても長い時間がかかる。この森で、たった独り、それまで生きていかなければならない。けど、ただ生き抜けばいいってものでもないんだ。何に生まれ変わるにせよ、ここの自然と《同化》――一体にならなければ。ただし、ここの自然は皆、意志を持ってるから、《同化》はそんなに簡単にはできない。自分の罪を理解し、もう一度太陽の下で生きたいと純粋に願って、ここの誰かに受け入れられれば《同化》することができる」
 彼はとてもゆっくり話してくれたけれど、ただでさえ自分の置かれている状況がわかっていない私には、その話の半分も理解できなかった。それでも何とか生まれた疑問を彼に尋ねてみる。
「どうしても《同化》できなかったらどうなるの?」
「……周囲を見てごらん」
 彼の視線を追って背後を振り返った私は、思わず息を呑んだ。さっきまではいなかったはずなのに、黒い木々の狭間を大勢の人々が腰を屈め、背を丸めて彷徨い歩いている。
「望んでいるのにできないということは、まだ悪しき心が残っているということだよ」
「そんな……」
 私は言葉を失った。感覚が麻痺して、夢と現実のどちらにいるのか見当がつかない。そんな私をよそに、彼はまた言葉を重ねた。
「それ相応の罪を犯したんだ。簡単に許されるわけはないよ。それが掟だ」
「《自省の森》の掟……」
 彼の言を反芻して小さく呟いた時、私はようやく重大なことに気付いた。
(え? じゃあ私、今、死んでるってこと!?)
 追い討ちをかけるように、彼が声をかけてきた。
「きみはなぜここに来たんだい?」
「わ、私は自殺なんかしてないわっ。信号を渡ろうとしたら、車が突っ込んできて、それで……」
 突然、目の前の視界が奇妙に歪んで回りだした。赤と黒のマーブル模様が五感を覆い、吐きそうになり、地面に倒れ込んでしまった。
「嘘よ……。私、死んだなんて、そんな……」
 目から溢れだした涙が頬を伝い、ぼたぼたと落ちて黒い地面に吸い込まれていく。
「悪い夢だわ。ねえ、そうでしょ!?」
 激しく振り仰ぎ、哀願するように彼を見たけれど、彼は静かに首を振るだけで、望んだ答えをくれなかった。
「……君、名前は?」
 私は血が出るほどに唇を噛みしめた。悔しいとも情けないとも惨めったらしいとも言い難い感情が心の中で渦巻いている。けれど、泣き叫んだところで状況が変わりようのないことは、頭のどこかでわかっていた。何とか心を落ち着かせると、彼に自分の名前を告げた。
「み……瑞穂。沢村瑞穂。あなたは……?」
「昔は、エドワードという名だった。しばらく呼ばれていないが」
「しばらくって……?」
 彼が遠い目をしていたので訊いてみると、とんでもない答えが返ってきた。
「四百年……近くになるかな。《同化》して五十年。完全に《同化》し終わるのに、あと二百年はかかる」
「四百年!? こんなところに四百年もいるの!?」
 仰天する私を見て、彼は苦笑したようだった。
「こんなところ、か。それでも最近は天国に見えてきたよ。外界では気付かなかったことを気付かせてくれる、ね。《同化》するための苦悩も努力もすべて、新しい生を受けるための心構えになった。同じ過ちを二度と繰り返さぬよう……」
 最後の方は笑みも消えて、自分のことを真摯に見つめる姿がそこにあった。

     4

「……エドワードはどうして自殺したの?」
 こんな冷静な人が、なぜこの世界にいるのか不思議になって、私は思いつくまま尋ねた。途端、二人の間を沈黙が走り抜ける。
「あっ、ごめんなさい。私ったら……」
 とてつもない後悔が私を襲った。
(他人に訊かれたくないことぐらい誰にでもあるじゃない。だいたいさっき会ったばかりなのに、私ってホントに無神経!)
 私が落ち込んでいると、エドワードは少し慌てたように言った。
「いや、いいんだよ」
 それからしばらくの沈黙の後、エドワードは静かに語り始めた。
「……ある女性に叶わぬ恋をしたんだ。僕は当時、宮廷楽士の一人に過ぎなくて、彼女は高嶺の花だった。彼女は僕を受け入れようとしてくれたが、親に大反対されて……結果、引き離された。それから僕は酒に溺れていって、そしてある晩、自分の胸を短剣で刺した。死ぬまで続く絶望なら、と、地獄での解放感を選んだんだ。結果は……言わなくてもわかるか。それが二十六ぐらいの時だった」
「……二十六? もっと若く見える……」
 私がヘンなところで感想を言ったので、エドワードは笑い出した。
「今はきっと二十ぐらいの顔だよ。この森には『成長』という言葉はない。あるのは『退化』のみだ。《同化》すればだんだん身体の自由が利かなくなって、母親の胎内にいた時と同じ状態に還る。そして再び生を受ける」
 その日を既に約束されている彼は、嬉しそうに微笑んだ。太陽などないはずなのに、金色の髪が光っているように見える。
(綺麗……)
 咄嗟に、そう思った。
「あなたなら……きっと今度は素晴らしい生き方ができるわ」
「え?」
「エドワードは優しかったのね。その女性が傷つかないように守ろうとして、それで一番自分が害になると思って、命を絶っちゃったんだわ」
 言い終えた瞬間、私は顔どころか全身から火が出そうになった。
(恋だってまともにしたことのない人間が、なに偉そうに言ってるのよ!)
「ミズホ……」
 ほら、エドワードも呆れてる。
「ごっごめんなさい。私ったら偉そうに! さっきから、もう何やってるんだろ」
 途端、エドワードが小さく噴き出した。声を立てないように、喉を鳴らして笑っている。
(そりゃおかしいよね。会ったばっかりの、人をちゃんと好きになったこともない自殺者に共感されて。もし私だったら、木から這い出して大笑いしてるわ)
 惨めに沈黙してしまった私に、エドワードは意外な言葉をかけてきた。
「ありがとう。……嬉しいよ」
 私が驚いてエドワードを振り返ると、彼はさっきの笑顔で私に微笑みかけてくれていた。私もそれに応えようとしたけど、急にこれからのことが心配になって、途中で俯いてしまった。
「ミズホ?」
「……私、これからここの誰かと《同化》しなくちゃいけないのね」
 その重く苦しい現実が瞬間的に二人から笑みを奪っていった。
「……ああ」
 私はひとつ溜息をつくと、再びエドワードの木を背もたれに座り直した。
「今ごろ父さんたち、どうしてるんだろう……」
 見上げると、エドワードが心配そうにこちらを見下ろしている。
「ちょっとね、ケンカしちゃったの。私の将来のことで。それで家を飛び出して車に……」
「……その時、どんなことを考えてた?」
「え?」
 突然尋ねられて、私は記憶を手繰り寄せた。
 あの時、道路に飛び出す一瞬に考えたこと。
『もう、どうでもいい!』
「あ……」
 私は後悔で頭を抱え、エドワードは納得したように呟いた。
「……だからここに堕とされたんだ……」
 もう、溜息も出なかった。
「……私の父さんね、開業医なの。小さい頃から父さんの働いてる姿、ずっと見てきた。他人のために頑張って……そんな父さんがすごく誇りに思えて……それで私も医者になりたいと思ったの」
 瞬間、頭を殴られたような感じがした。
「……そうよ。そう思ったのよ。私、自分でそう思ったの!」
 突然大声を上げた私に、エドワードは困惑したようだった。
「私、バカだ。大バカだ! 父さんたちにあんなこと言うなんて……」
『家が医者だから、だから私も医者にならなきゃいけないんでしょ!? 後を継ぐために!』
 何度思い返してみても、その台詞は変わらない。なんてひどい言葉を遺してきたのだろう。
「どうしよう……!」
 でも、後悔したところでもう手遅れだった。
(なんであんなこと……。どうして、いったいなんで……!)
 再び溢れてきた涙を止めようともせず、私は膝を抱えたまま泣きじゃくった。
「ミズホ、泣かないで。僕にはもう腕がないから、撫でて慰めてあげることができない……」
 エドワードの切なそうな声が聞こえ、私がハッとして顔をあげると、案の定、彼の顔は苦渋で歪んでいた。
「エドワード……」
「エディだよ。親しい人は皆、そう呼んでくれてた……」
「エディ……」
 エディは少し考え事をしていたように見えた。けれどすぐに私の方を見ると、穏やかな表情で言った。
「ミズホ、きみはお父さんのようないい医者になるよ」
「え?」
「さっき、僕の罪を優しさとして評価してくれただろう? それはなかなかできることじゃない。きみはきっといい医者になる」
 生きていたときに言われていたら、死ぬほど嬉しい言葉だったに違いない。
「……ありがとう。でも私、死んじゃったもの、もう……」
(私に死んだという現実を突きつけたのはエディなのに、それを必死で受け入れようとしている私にそんなこと言うなんて……)
 ますます落ち込む私に、エディは淡々と言い放った。
「大丈夫だよ。僕が元の世界に戻してあげる」
「え……え!?」
 一瞬、何を言われたのかわからず、私は呆然と彼を見上げた。
「ミズホは別に死のうとしてたわけじゃない。誰もが陥る投げやりな気持ちに、運悪く事故が重なっただけだ。そんな風にして違う世界に迷い込む人々は、稀にいる。彼らを元の世界に戻すには、何でも強い感情を作って、それを向こうの世界と呼応させればいい」
「強い、感情……?」
「そうだ。ミズホ、どんな時も一番大切なのは気持ちだ。気持ちさえしっかりしていれば、どんなことがあってもやっていける。いつでも自分の人生をやりなおすことができる」
「気持ちさえ、しっかりしていれば……」
 彼の後悔は、貫けなかった愛だろうか。持てなかった勇気だろうか。結ばれるにしても別れるにしても、もっと違うやり方があったはず。死さえ選ばなければ、こんなところに堕とされず、或いは彼女と結ばれていたかもしれないのに。でも、何にせよ彼は立ち直った。立ち直って見付け出した魂の答えで、私を導いてくれようとしている。
 私は深く頷いた。
「僕はそれまでミズホの背中を押してやるだけだ。さあ、ミズホ。きみはどんな感情がいい? とにかく、できるだけ早く元の世界に戻らないと、ミズホはミズホの輝きを永遠に失ってしまう。それだけは僕も嫌だからね」
「……どうして……?」
「え?」
「どうして会ったばかりの私に、そんなに優しくしてくれるの……?」
 エディがいなかったら、私は今ごろどうしていただろう。泣き叫んで、暴れて、《同化》という言葉も知らぬまま、暗闇の中をたくさんの人々と共に彷徨い歩いていたに違いない。
「……君の笑顔は、この世界には似合わない。人は自分の生きる場所で生きなきゃ」
(エディ……)
 心が温かい気持ちでいっぱいになる。それを素直に告げた。
「……家に帰りたい。父さんたちに謝って、夢を現実にするために」
「わかった。じゃあ目を綴じて。帰りたいって強く願うんだ。いい?」
「うん……」
「よし。じゃあやってみよう」
 目を綴じて、強く願う。あの暖かい場所に帰りたい。皆がいる、あの世界へ。
 どのくらいそうしていたかわからないけれど、暗かった瞼の奥に、突然小さな光が生まれた。
それは次第に大きくなって、私を包み込むほどになる。
「――今だ! 行けっ、ミズホ!」
 エディが耳元で叫び、背中を押そうとしたその時、私の脳裏にある考えが浮かんだ。
(でも、私が帰ったらまたエディが独りになっちゃうわ……)
「ミズホ! 余計なこと考えちゃダメだ!」
(エディの方が、また太陽の下に還る日を待ちわびてるのに!)
 それは言い訳かもしれなかった。私は、彼と離れたくないだけなのかもしれなかった。
「僕は大丈夫だ! 今までだって待って……努力してこれた! これからだってきっと大丈夫だ! 行くんだ、ミズホ!」
 彼は思わぬ事態にひどく焦っているようだった。けれど私は、彼の好意をムダにする気はない。
(大丈夫、ちゃんと帰るわ。でも私、まだあなたに『ありがとう』も言ってない……)
「そんなの……」
 私はゆっくりと振り返ると、エディの頬にキスをした。
「ミズ……?」
「エディがちゃんと生まれ変われますように」
 エディは驚いたように目を見開いている。
「あなたが欲しかった女性の愛には全然足りないけど、でもエディのこと、寂しくないようにあっちでちゃんと想ってるから。絶対、忘れないから」
「ミズホ……ありがとう……」
 その言葉を最後に、あまりの光の量でエディの姿は見えなくなってしまった。でも、少しも心細くなんてない。だって私は最後に見たの。光の中、エディの背に翼があったのを。きっと、もっと早く生まれ変わることができるように神様がくれたのね。
 さようなら、私の天使……。

     5

  ありがとう、エディ。
  私、今はただ頑張ってみる。


「瑞穂っ。瑞穂!」
「瑞穂! わかるか、父さんだぞ!?」
「とう……?」
「瑞穂……よかっ……」
「かあさ……も……」
(私、助かったんだ……)
 それが判った瞬間、目の奥から熱い熱い涙が溢れてきた。
「ごめ……ごめんなさ……」
 ひどい言葉を浴びせたうえ、絶対にさせたくなかった心配までかけてしまった。
「瑞穂、何を謝るの……」
 私の髪を撫でながら、母さんが同じように涙で濡れた顔で言う。
「だって……あんなこと……」
「いいのよ。母さんたちも悪かったわ。当然のように思いすぎてた」
「いいの……。だって、当然のことだもの……」
 母さんたちは他の職業を勧めなかったんじゃない、勧められなかったのよ。私が最初から医者になるって言い張っていたから……。
「私……決めたの……。絶対、医者になる……て……。父さんのよ……な……」
 母さんの横に立っている父さんを見上げると、父さんは奇妙に顔を歪ませた。
「瑞穂……」
 久しぶりに見たような気がする。父さんの白衣を着ていない姿。だからかな。少し年を取ったように見えるよ。
 ふいに部屋の中が明るくなって、私は窓の外に視線をやった。そこから見える空は、どこまでもどこまでも青く澄んでいる。
(エディ……私、ここで頑張るわ。あなたが思い出させてくれた夢、必ず叶えてみせる。だから、私のこと、ずっと見守っていて……)

【 END 】

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