The story of Cipherail ― 第六章 暗黒の谷の脈動


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 国王崩御の報を受け、ズシュール領主デルケイス=ラドウェルが聖都を通過したのは、喪明けまで残すところ六日という日のことだった。
「《月光殿》との交渉はどうなっている? 崩御の後もなお勅令を拒んでおるのか」
 王国の重鎮の問いに、勅使たる将軍モデールは面持ち硬く頷いた。
「私の不徳の致すところです」
「多少は致し方あるまいがな。前もって道筋をつけるはずの総督はおぬしらとともに来て着任したばかり、先方は常の交渉役たる月光殿管理官を欠いて、匙加減がわかっておらぬと来た。これでカルマイヤの大使まで首を突っ込んできたら、完璧な泥沼だな」
 途端、部屋の空気が一段と重くなる。デルケイスが顔をしかめると、総督ディヘルが溜め息を吐いた。
「……先日の葬礼の後、カルマイヤ側から正式に抗議がありました。将軍の部隊の存在が聖地の安全と均衡を脅かしている、と。そのうえで、即時撤退を要求してきました」
「なんとまあ」
 デルケイスは顎を手で覆い、頬肘を突いた。
「ただでさえ王都が危うい時に、聖都までこの有様か。して、ゼオラ殿下の行方も依然としてわからぬと?」
 上将軍の不明は最重要機密だが、遠方がゆえに王都との連絡を表に裏に密にしているズシュール領主が知っているのは、当然と言えば当然だった。
「申し開きのしようもございません」
 最後には近衛兵団副長のハイネルドまでが頭を下げ、デルケイスはなんとも絶望的な気分になった。
「何かできることがあるなら力を貸すが」
 突然の申し出に、失意の三人は顔を見合わせた。
「打てる手は既に打っておりますので……。このうえ、デルケイス様のお手まで患わせては……」
「……そうか。まあ、門外漢の私がでしゃばるわけにもいかぬな。だが、何かあれば、私がどこに居ようと遠慮なく言ってくれてかまわぬ。聖都ここは王国の要ゆえな」
 その後、ディヘルから補佐官のルグランを案内役に借りたデルケイスは、用意された昼食もほどほどに、聖なる山を目指した。これから向かう王都で必ずや起きるであろう争いが、少しでも規模の小さいものであるよう神に祈りに行くのだ。――とは表向きの理由で、彼自身もやっておかなければならないことがあった。
「まずは、ここだ」
 いきなり最初の聖官殿で立ち止まった大領主を、ルグランは驚きとともに振り返った。
「ミーザに御用が?」
「妻がずっと床に伏せっておるのでな。帰りでもよいが、ちと不敬であろうし、今の方がまだ幾分かは穏やかな心持ちで祈れようからな」
 月を司るミーザのもとには、血の道の病を得た女性たちがその回復祈願に訪れることで有名だった。祭壇の前で祈りを捧げる大領主の愛妻家ぶりに感心しながら、ルグランは首を傾げた。「今の方が」という言い回しが気になったからだが、その意味は《正陽殿》ですぐに知れた。
 巨大な礼拝場で一般の巡礼者たちとともに頭を垂れた後、デルケイスが向かったのは《月光殿》だった。そこで突如、月影殿管理官に会いたいと言い出した彼に、《月光殿》の神官は勿論、理由を付けて断ってきた。最近は総督でさえ面会を許されるのは稀であり、ルグランも当然のように無理だと思っていた。すると、意外にあっさりと諦めたデルケイスが次に案内させたのは、件の王廟だった。そして、事が起こった。
 王廟の入り口に鍵が掛かっており、どうにも中に入れないと知るや、大領主は家来に回廊の途中にあった鐘楼から鐘を打つための鎚を持って来させ、それで鍵穴を打ち壊したのだ。凄まじい破壊音に、神官たちが血相を変えて駆けつけて来たのは言うまでもない。この行為を異口同音に責め立て、聖騎士に不届き者を捕らえさせようとした神官たちは、相手がズシュール領主本人だと知ると、いっそう声を荒げた。
「ここは、代々のサイファエール国王の御霊を祀る場所ですぞ!? 忠臣の鑑と名高いラドウェル様の所業とはとても思えませぬ! 御乱心なさいましたか!」
 それへ、デルケイスは淡々と反問した。
「何を申すか。乱心しておるのは月影殿管理官の方ではないか」
「な、何ですと!?」
 無礼極まりない物言いに、神官たちが顔を強張らせる。
「では、なにゆえ月影殿管理官は、王国の臣たる私を王廟へ入れぬのだ。私が主君の父祖の御霊に会おうとするのを、なぜ邪魔立てする?」
「じゃ、邪魔立てなどと……!」
「では、月光殿管理官の代理を務めながら、なぜ私に会おうとせぬのだ。会ってさえいれば、私もこのように手荒な真似はせずに済んだ。アイゼス殿ならこのような仕儀にはなっておらぬ」
 威風堂々たるデルケイスに圧され、濃紺の聖衣をまとった上級神官たちは、顔を見合わせて口ごもった。
「それは……それこそアイゼス様がいらっしゃらず、そのうえ《月影殿》のこともせねばならず、デドラス様はお忙しいのです」
「では、兼務せねばよいだけのこと。月影殿管理官は、自分の力量もわきまえぬ愚か者か。それとも、他に《月光殿》を預かれるほどの神官がおらぬということか?」
「ラドウェル様! 御言葉が過ぎますぞ!」
 デルケイスは、憮然として神官たちに背を向けた。
「もうよい。おぬしらでは話にならぬ。月影殿管理官が来られぬなら、これ以上、私の貴重な時間を無駄にさせるな。私は王国の父祖に御病臥されている王太子殿下の守護をお祈りし、また亡き主君を快くお迎え下さるようお願いするためにここまで参ったのだ。扉を壊したことで御霊を騒がせたのならば、私自身が王家に直接お詫びするだけのこと。おぬしらにとやかく言われる筋合いはない」
 そして、部下たちに扉をこじ開けさせると、さっさと中へ入った。最初は耳障りだった外の神官たちのざわつきも、歩を進めるうちに気にならなくなった。家来たちによって灯された燭台の光が、細長い部屋の壁一面に施された装飾を浮かび上がらせる。太陽神の姿が描かれた丸天井までは、二十ピクトほどあるだろうか。祭壇正面の壁の中に初代クレイオス王の、向かって右側に偶数代、左側に奇数代の国王たちの《聖棺》が納められている。デルケイスの主君だったイージェント王は第十四代であるため、右側の末席に祀られることになる。
 一行は、デルケイスを先頭に祭壇の前で膝を折ると、王家の父祖に祈りを捧げた。
「偉大なるサイファエール王よ、どうか新王をお守り下さい。民のために尽くされた我が君の、最期の希望でございますれば……」
 落胤が見付かったという報せは、テイランへもすぐに届いた。信頼する義弟が主導する事態だということで安堵する反面、近い将来を憂えたのも事実だ。だが、立太子礼が行われる直前、臨席できないデルケイスに、国王から親書が送られてきた。それには、息子たちを得た喜びが素直に綴られており、デルケイスの長年の忠義を労った上で、幼い王太子たちも自分同様に守って欲しいと書かれてあった。後に王宮の鷹の間で臣下に言い遺した願いを、前もって託されていたのだ。西の海辺で日々の雑務に追われ、王国の重鎮たる覚悟を薄れさせていたデルケイスは、それを読んではっとしたものだ。憂える暇があるなら、王太子たちを正しい方向へ導いてやるべきだ、と。そばにいてそれができないなら、彼らが穏やかに様々なことを習得できる状況を確保してやるのが己の使命だ、と……。


 王廟を出たデルケイスを待ち受けていたのは、意外かつ最も相応しい人物だった。揺れる濃紺の神官服は、先刻まで喚いていた神官たちと同じだが、その佇まいには武を修める者特有の泰然さと、上に立つ者独特の覇気とがあり、国王以外に頭を垂れたことのないデルケイスの目にも、看過できない存在として映った。
「……デドラス殿か」
 すると、その高級神官は微かに笑みを浮かべた。
「こうして面と向かって言葉を交わすのは初めてですな、デルケイス=ラドウェル殿」
 すべてを貫くかのような蒼氷色の瞳を見返した後、デルケイスは家来たちにしばらく下がるよう指示した。先方がひとりの供も連れていなかったからだ。そんな彼を、月影殿管理官は近くの露台へと誘った。眼下には、生気を欠きつつある北西の森が広がっている。
「……テイランを固く守っておいでの貴方とは、いつかお話ししたいと思っておりましたが、それがこのような状況でとは不本意極まりありませんな」
 そして、デドラスは露台の手すりの上に何かを置いた。
「王廟の鍵です」
 言うなり、デルケイスが確認する間もなく手で払い、それは鈍く輝きながら階下へと落ちていった。
「貴方のおかげで無用になりました。ズシュール領主は忠義の徒と聞き及んでおりましたが、大逆罪に問われた者を匿い、今日は王廟を汚し……。変心なさったのですか?」
 あからさまな言葉に、デルケイスはくつくつと笑った。
「さて、テイルハーサの神官が政に口を出したことが、かつてあったか」
「月光殿管理官はその急先鋒だと思っておりますが。《正陽殿》にある王廟は、その管理を《月光殿》が王家から直接任されております。それを、どんな理由があれ、一介の臣に過ぎない貴方が蔑ろにしていいはずなどありません」
 正論を並び立てるデドラスに、デルケイスは首を竦めた。
「――で、どうされる? 私の所業を王宮に告発なさるか?」
 したり顔のズシュール領主に、デドラスは眉を顰めた。
「……本来ならそうすべきところですが、いまサイファエールには国王がいらっしゃいません。このうえ不安の種を撒き散らすのは憚られます。今回は、こちらの不手際もありましたので」
 先刻、デルケイスが神官たちに放った言葉を伝え聞いたのだろう。月影殿管理官の殊勝な対応に、デルケイスはほくそ笑んだ。そんな彼を、デドラスが横目で見る。
「もうじきイージェント王の《聖棺》が納められますのに、修理が間に合いますかどうか」
「ふむ……間に合わないとなると、結局、私の咎が王都に知れてしまうというわけか。まあ、その辺は貴殿の手腕でうまく誤魔化してくれると有り難いですな」
 再び喉の奥を鳴らして笑うと、デルケイスは手すりに寄りかかった。
「ところで、総督府では訊くに訊けなんだで、貴殿にお尋ねするのだが」
「貴方ほどの御方が遠慮を? 何でしょう」
「アイゼス殿の消息だ。その後、貴殿の方でも何も掴めておられぬのか?」
 デドラスは小さく溜め息を吐くと、デルケイスから視線を外して地平を見つめた。
「……掴めていれば、先ほど、貴方が扉を壊すこともなかったでしょう。エルミシュワの民がみな息絶えてしまったので、手掛かりも途絶えてしまいました。方々手を尽くしておりますが、未だに」
「そうか……」
 無論、デルケイスは、イスフェルから《光道騎士団》のエルミシュワ遠征が狂言の可能性があることを聞いている。だからこそ、月影殿管理官本人の口から真偽はともかく言質を取っておきたかった。
「早く見付かってくれねば困る。貴殿とディヘルとでは反りが合わぬようだからな。――部外者の私が言うのも何だが、御多忙なようであるし、例えば聖官殿長のどなたかにでも月光殿管理官の任をお任せしてはいかがか?」
《月光殿》の兼務については、聖官殿長らから要請があったのですよ。長老たるイーヴィス様の申し出を無下にはできませんし、それを差し置いて名乗りを上げる者もおりませんでしたので」
「だが、いつまでも今のやり方で勅令を無視できるとは思っておられぬであろう?」
 ふいに張り巡らされた緊迫の糸を、森を渡ってきた風が激しく揺らす。だが、動じた様子もなく、デドラスは口の端に笑みを滲ませた。
「貴方まで『無視』などと……。こちらは言葉を尽くしておりますのに」
 剣を打ち合うように視線を交わしていた二人だが、先に諦めたのはデルケイスだった。回廊の先で、ルグランが心配そうにこちらの様子を窺っているのを見付けたのだ。既に勅令が出ている案件であり、そもそも譲歩できる条件もない。端からこの場で決着を付けられるとは思っておらず、デルケイスは、これが潮時とばかりに踵を返した。
「――ああ」
 ふと立ち止まって、デルケイスは最後にデドラスを見た。
「私は隣人のように鷹揚ではない。ゆえに、《光道騎士団》にむやみに聖クパロ河を渡らせぬよう願いたい」
 そう言うと、デドラスを露台に残し、デルケイスは来た道を戻った。柱の陰から、ルグランが慌てて飛び出してくる。
「デルケイス様、ただ事ではない雰囲気に肝を冷やしました。けれど、まさか月影殿管理官が直に出てくるとは……」
「ふん、私も愚息の無茶を責められぬな」
「はい?」
「いや、何でもない」
 デルケイスは、ズシュール領内の神殿の動きを見張らせる必要性を感じた。そして、いまひとつ、デドラスに訊くか否か迷って、妙な気を引かないために思い留まったことを、代わりにルグランに尋ねる。
「……時におぬし、今年の《太陽神の巫女》を知っておるか? 稀代の声音だと聞いたが」
「はい、勿論。《尊陽祭》の時は《光の庭》におりましたし、宴でも何度かお見かけしました。それはもう、私が父に付いてこちらに赴いてから、一番の歌い手ではないかと思います」
「そうか……」
 そうであろうとも、と、デルケイスは内心で頷いた。プリスラ城内の礼拝堂で聴いたセフィアーナの歌声は、デルケイスが今までに聴いた数多の歌い手の中でも、最も心を洗うものだった。
「あの、それが何か……?」
「いや、な。噂には聞いていたが、そこまでの歌声なら、テイランに来て頂きたいと思ってな。《秋宵の日》は過ぎてしまったが、今はどうしておられるのだ?」
「……あ! デルケイス様、奥様に聴かせて差し上げたいのですね!?」
 ルグランが満面の笑みで言う。何か誤解されているようだったが、別段、正す必要もなかったので、デルケイスはそのまま黙っておいた。
「今年の巫女殿は、珍しく神官にはなられませんでした。けれど、今もまだ《月光殿》に留まり、時折《光の庭》で歌っておいでのようです。まあ、神官になったらそのようなことはできませんから、あの歌声をいつまでも聴きたいと思っている我々には良かったのですが。……私も久しぶりに聴きに行きたいのですが、状況が状況ですので、なかなか……」
 ズシュール領主相手に最後は半ば愚痴のようだったが、デルケイスはそれに引っかかった。
「久しぶり、とは?」
「あ、はい。御存知とは思いますが、今年の巫女殿は本当に精力的で、あまり聖都に留まっていらっしゃいませんでしたので、私も《尊陽祭》以来、お見かけしていないのです。先日の葬礼も、出張ってきた神官の中にはいらっしゃいませんでした。王都で巫女殿にお会いしているモデール将軍は、巫女殿の人柄から、神殿で静かに陛下をお見送りして下さっているのだろう、と」
「ふん……」
 デルケイスは、内心で首を傾げた。彼は領地に真物の《太陽神の巫女》を預かっており、いま《月光殿》にいるらしい《太陽神の巫女》が偽者であることを知っている。けれど、ルグランの様子を見ると、彼は《光の庭》で歌っているのが偽巫女であるとは疑いもしていない。《光道騎士団》のエルミシュワ遠征が狂言である可能性を示唆したのは、現地に行ったセレイラ警備隊であり、それが総督府に伝わっていないはずもないのに、一体どういうことなのだろうか。それとも、ディヘルがルグランに伝えていないだけなのか。
(……この者はセレイラの状況を把握している貴重な人材。だからディヘルも彼を都へ帰さなかった。そんな彼に、現状を読み誤るような重大な事実の可能性を伝えないはずはない……)
 その時、デルケイスは、或るとんでもなく馬鹿馬鹿しい考えに行き当たって、眉根を寄せた。
「……おぬし、先ほど、巫女殿の歌を聴きに行きたいと申したか」
「えっ。は、はい……。こっこのような時に、申し訳ありません……!」
 己の失言に今ごろ気付いて、ルグランは恐縮した。だが、ズシュール領主は機嫌を損ねた様子もなく、奇妙なことを尋ねてきた。
「なぜ行かぬ?」
「な、なぜって……そんな、デルケイス様も御存知のはずです。父が亡くなり、上将軍閣下も未だ……。勅令の件も難儀しておりますし、挙げ句の果てに、聖都の外では盗賊騒ぎも起きております。補佐官たる私が悠々と歌を聴きに行っている場合ではございませんっ」
 ルグランが必死で弁解しているのを聞いて、デドラスは溜め息を吐いた。
(なんと愚かなことだ。重なった難事凶事に、突き詰めねばならぬ事柄が埋もれてしまっているではないか!)
 今の総督府は、いかに月影殿管理官に勅書を受け取らせるかに腐心しており、その原因となった《光道騎士団》のエルミシュワ遠征、その狂言の可能性については、調査が疎かになってしまっている。ましてや《太陽神の巫女》の真偽や所在確認など、二の次三の次どころか、十の次にも入っていないだろう。
「あ、あの、デルケイス様……?」
 恐る恐る声をかけてくるルグランに、デルケイスは何食わぬ顔をして言った。セフィアーナをテイランで匿っていることを、この聖都滞在中に明かすのは時期尚早であり、苦肉の策だった。
「確かに状況が状況だが、あまり根を詰めては周りが見えなくなるぞ。今度、《光の庭》で巫女殿が歌う日があったら、家族と共に気分転換に行け。そのうえで、やはり素晴らしき声音であったら、私に知らせてくれ。テイランにお招きすることを真面目に考えよう――私の妻のためにな」
「さ、さようですか! それでしたら、私も妻と娘を連れて、近いうちまたここへ来ることに致します」
 面目ができてほくほく顔の総督補佐官を尻目に、デルケイスは坂を下りながら、次に向かう東の門の先を静かに見つめた。


「お呼びでしょうか、デドラス様」
 長身を優雅に屈めて礼を施した青年神官を振り返りもせず、デドラスは重厚な椅子に身体を沈み込ませたまま、呟くように言った。
「とんだ不意打ちを喰らったものだ」
「……本当にこのまま王都に報告なさらないのですか?」
 その場に居たわけでも、説明を受けたわけでもなく、それでも事情を知っているのは、この者の務めが諜報だからである。
「今はまだ、ズシュール領主に分があるゆえな」
 このまま何もなく無事に王太子が即位すれば、宰相派だったデルケイスは国王派の筆頭となる。新国王は政権の安定のために彼の後見を是が非でも欲するであろうから、訴えたところで不問に付されるのは火を見るよりも明らかだった。
(それにしても……)
 納棺の儀を行わせない切り札としていた鍵を、賢人としても名高いデルケイスに破壊されたことで、最初はこちらの思惑に気付かれたかと思ったが、先方の話しぶりからして、ただデドラスを一度見てみたかっただけなのだろう――彼自身がそう思っていたように。デドラスが目的を遂げるためには、サイファエールで大きな影響力を持つデルケイスの動向は絶対に押さえておかなければならず、デルケイスの訪問自体は、実は歓迎すべきことだった。
「納棺の儀ですが……王廟の口が開いたままでは、先方に易々と事を成し遂げられてしまいます。返答を迫られた場合、どうなさるのですか?」
「……《白影》」
 初めて、デドラスが青年神官を見つめる。
「それはそなたが気にすることではない」
「……申し訳ありません」
 今度は深く頭を垂れた《白影》だった。
「ところで、《蒼影》はどうした? あれも呼んだはずだが」
「《蒼影》は今、ボトールに呼ばれて出ております」
「またか。……そろそろ潮時かもしれんな」
 その時、《白影》がずいと踏み出し、デドラスは横目で彼を見た。
「デドラス様、私は何を致しましょう」
 青年神官は無表情を装っていたが、その言葉の端々には焦りが滲み出ており、デドラスは小さく笑った。
「何かしていなければ不安か。まあよい。王都から戻ったばかりだが、そなたにはもう少ししたらテイランへ行ってもらう」
 その言葉に、《白影》の目が一瞬、游ぐ。それをデドラスが見逃すはずもなく、月影殿管理官は、今度は真っ直ぐ彼を見た。
「不服か?」
「いえ……」
 しかし、《白影》の動揺は明らかだった。
「王都の情勢が不安定な今、やはり王弟派に対する者には誰かが付いておらねばならぬ。宰相派を見ておったそなたなら、まだ入り込みやすかろう」
「は……」
「《紫影》は」
 その名に、今度こそ《白影》の身体がびくりと動く。デドラスには、《白影》の魂胆は見え透いていた。間者の中で最も年長である彼は、功に逸り、デドラスのそばにいたがっており、それゆえに、失態を犯してもなお聖都に留まっている《紫影》を目の仇にしているのだ。
「――あれは今、聖都からは出せぬ。エルミシュワでの失態もあるが、あれは私に何か隠しているようだ。だが、そなたは違う。そなたは信頼に値する。《白影》、いずれそなたが《金炎》を手に入れるため、テイランの闇に溶けよ」
 もう反論は許されない。しかし、デドラスの言葉に、《白影》はその必要をまったく認めなかった。彼は片膝を付いて深く頭を垂れると、柔らかな風のごとく静かに部屋を出て行った。

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