The story of Cipherail ― 第六章 暗黒の谷の脈動


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 神聖かつ学術的な雰囲気の漂う聖都の町並みにあって、唯一、色を異にするのが、歓楽街を擁するラザ地区である。ルーフェイヤ聖山から最も離れた白大門のそば近くにあり、夜ともなれば紅や紫の硝子に囲まれた灯火が、華やかかつ妖しげな色を四方に放つ。それへ蛾のように誘われ、一筋五十ピクトほどしかない狭い通りは、物見遊山や目当ての女を探す男たちで常に溢れていた。
 その喧噪から遠ざかった運河沿いの奥まった場所に、聖都でも一、二を争う高級宿『万花館』がある。主がカルマイヤ出身ということで、その客層は自然とカルマイヤの貴族や大商人が多くなる。その晩、館の中で最高級の部屋を取っていたのも、やはりカルマイヤ貴族だった。といっても巡礼で訪れた者ではなく、常日頃から聖都に身を置き、その内情を探り、或いは《月光殿》と駆け引きをしている駐在大使である。名をグウィナス=カーといい、年齢は三十七。痩身ながら背は高く、カルマイヤ人らしく始終被っている頭巾の下からは、野心的な黒い瞳が覗いている。王宮での出世を望む輩が多い中、自ら聖都行きを志願した変わり種で、異国での生活は早五年目を迎えていた。
「今日こそは色よい返事を頂けましょうな、グウィナス殿」
 窓辺に立った貴族風の男の冴え冴えとした視線を硝子越しに受けて、グウィナスは微笑んだ。
「勿論です、デドラス様。昨日、ようやく王宮から返答がございましたゆえ」
 グウィナスは杯ふたつに葡萄酒を注ぐと、ひとつを机の端まで滑らせた。それを、歩み寄ったデドラスが受け取る。いくら秘密厳守の高級宿でも、紺色の上級神官服では目立ち過ぎるため、俗世の服装に身をやつしている月影殿管理官だった。
「それは重畳。これで貴殿の中央復帰も近付いたわけですな」
「ふふ……まあ、そういうことです」
 王都ザファルマーナを発つ際は、友人たちに人生を棒に振ったなどと言われたものだが、グウィナスは、その中の誰よりも野心家で打算的な性格だった。聖都駐在大使というのは、仕事をひとつ成すだけで、莫大な見返りを得られる役職なのだ。特にセレイラ周辺の雲行きが怪しい昨今、カルマイヤが聖都を内包するための足掛かりを作ることができたなら、ひいては最終的な段階まで持って行くことができたなら、一躍、王国の英雄として宮廷に迎えられることは間違いない。王宮で上官の顔色を窺いながら、また仲間内で足の引っ張り合いをしながら高処を目指すより、遠方でそのせせこましさを尻目に、己の速度でのし上がる方が賢いに決まっている。その実力が、彼自身にはあると信じている。
 水面に映った己の顔に微笑みかけると、グウィナスは杯を一気に呷った。
「ようやく事が走り出しました。ここへ来た頃は、まさかこのように時間がかかるとは思いも寄りませんでしたよ」
 彼の皮肉に、デドラスも口元へ笑みを浮かべた。
「その節は申し訳ないことを致しましたな」
「そうですよ。肝心要のデドラス様が長い間聖都を空けていらっしゃるのですから、お話になりません。ついのサイファエール人では言うに及ばず」
「そうおっしゃいますな。私も新たな大使が貴殿のような御方と存じておりましたなら、いま少し聖都に詰めていたでしょう。しかし、堕落した神官たちの目を醒まさせることもまた、私の重要な仕事。特に今後、そのことは必ずやお役に立つでしょう」
「ええ。神がお認めになる貴方様の行いに、無駄のあろうはずもございません」
 そこで、グウィナスは大仰に吐息した。
「此度のことも、私は本当に感服致しております。我がカルマイヤと共に歩を進めて下さる証としてとはいえ、よもや《光道騎士団》を動かし、サイファエール政府に楯突くなど……。これ以上の証明はございません」
「そのようにおっしゃって頂けると、こちらの労苦も報われるというものです。連日、蒼い軍靴が《月光殿》の床を穢して困っておりますので」
 デドラスは座っていた長椅子の上で、足を組み直した。
 未だ正体の知れぬ者に「狂言」と暴露された《光道騎士団》のエルミシュワ遠征。その内実は、聖都がカルマイヤと同盟を結ぶための持参金のようなものだったのだ。月光殿管理官アイゼスの幽閉は、それに乗じた、ルーフェイヤ聖山を掌握せんとするデドラスの策略だった。
「……それで、セイゼルド王は具体的には何と?」
 その問いに、グウィナスは伏し目がちに微笑んだ。
「……サイファエールなどに妨げられることなく、神に拝謁する――。聖都の独立は、我々にとっても悲願であり大願です。失礼ながら、もとはカルマイヤ人でいらっしゃった貴方様なら御存知のことでしょう。ゆえに、すべての面において、惜しみない協力を確約致します。まずは、セレイラ近郊に控えているサイファエール軍を引かせましょう」
「それは頼もしいことですな」
 そもそも聖都とカルマイヤとが同盟を結ぶという話は、カルマイヤ側からもたらされたことであり、持参金を持ってくるべきはカルマイヤの方だった。だが、聖都の独立という大望に機を計っていたデドラスにとって、カルマイヤ側からの申し入れは、まさに天恵だった。これを逃せば、一から百まですべてのことを聖都で負担しなければならなくなる。下手をすれば、聖都対サイファエール・カルマイヤ連合という最悪の状況にもなりかねない。そこで、もともとカルマイヤを動かす予定だったデドラスは、その方向へ誘導していくことにしたのだ。
 聖都の独立はカルマイヤの悲願だとグウィナスは言うが、それが建前であり、その奥の本音を、それこそかつてカルマイヤから出てきたデドラスは承知している。カルマイヤは聖都を独立国にしたいのではない。かつての歴史がそうだったように、ただ自国の版図に組み入れたいだけなのだ。神の恩恵だけではなく、重要な商業都市でもあるセレイラの富をも手にするために。だが、せっかくカルマイヤが乗り気になってくれたのだ。それなら、とことん調子づかせてしまえばいい――我を忘れるまで。そこでデドラスは、聖都として大袈裟に尾を振って見せた。その結果、カルマイヤは、さも事の主導権が自分たちにあるかのように勘違いしたのだ。
 その後、しばらく会談を続けた二人だが、最初の酒瓶が空になったところでデドラスは立ち上がった。いくら花街とはいえ、夜が更けての移動は、最近昼夜なく徘徊している警備隊の目を引く恐れがあるからだ。それを察し、グウィナスは立ち上がってデドラスを追った。
「デドラス様。宜しければ今宵、こちらに泊まって行かれてはいかがでしょう?」
 瞳の奥を覗くように、グウィナスがデドラスを見つめる。微かに滲む微笑みに、しかし、デドラスは無表情で応じた。
「有り難いお申し出ですが、私は仮にも聖職を司る身。本来居るべきでない場所からは、出来る限り早く退散することと致しましょう」
「さようですか」
 さして意外そうな素振りも見せぬグウィナスに、デドラスは軽く一礼した。
「それではまた、近いうちに」
「――ああ、お待ち下さい。あとひとつ。バーゼリックの状況がわかりましたら、こちらにも是非」
 それを聞いて、デドラスは内心で蒼氷色の瞳を細めた。早くも聖都側がカルマイヤへサイファエールの偽りの情報を流すのを牽制しているのだろうか。
「……あちらにも間者を放っておられましょうに、我々からも情報を得ようとは欲張りな御方ですね」
 互いに同じカルマイヤの出身でありながら、異国人に対する時のように接しているのには幾つか理由がある。テイルハーサ教の聖職に就いた場合、その者は、サイファエールとカルマイヤ、その他信仰地域において、国籍を持たぬ身となる。つまり、まさに異国人となるわけである。カルマイヤ人が聖都へ巡礼に行く場合、国境で出入国手続きをしなけれはならないが、カルマイヤ出身の神官は、何の手続きもせずに国境を越えることが可能なのだ。ゆえに、もともと「カルマイヤに聖都を取り戻さん!」と勢い込んで神官になった者も、その特権ゆえに次第に大志がなおざりになり、また神官としての出世の方に傾倒することから、カルマイヤの聖都奪回が進まない一因だと言われている。そして面倒なことに、上級神官になればなるほど、「もとはカルマイヤ人なのだから、カルマイヤの聖都奪回に協力しろ」という理論が通じなくなる。国籍を排して久しい者にそのようなことを言えば、大変な侮辱にあたるとされているのだ。ゆえに、グウィナスもデドラスと一線を画して接するのだった。
「昨今あちらの守りがなかなか固いので、少々楽をしようかと。ルアンダ様が元々の務めを果たして下さるといいのですが、すっかり白銀鷹家の方になられた御様子で」
 とはいえ、カルマイヤ国内で、王弟妃からサイファエールの情報を取ろうと思っている輩は居ないに等しい。その昔、彼女が家臣の奸計に陥った結果、サイファエールに嫁ぐことになったのは公然の秘密だからだ。
「なんと、そのようなことで大丈夫でしょうな? いつかはバーゼリックにも協力者が必要です。新たに国境線を設けるのですから」
「いえ、御心配には及びませんよ。我がカルマイヤ王国が全面的にお助けするのです。船頭は少ない方が宜しいかと」
 グウィナスは、デドラスを送り出すため、手ずから扉を開いた。
「すべては自由なる聖都のため」
 こちらは深く頭を垂れた大使を、デドラスは冷ややかな視線で見下ろした。


『万花館』を出たデドラスは、セレイラ警備隊が「《光道騎士団》は地下水路を利用して暗躍している」と睨んでいる通り、最寄りの地下水路へ入った。それから歩き続けること数ディルク、手燈も持たずに探り当てたのは、未だ秘されている隠し扉だった。それを押し開いた先には、さらに地下へと潜る螺旋階段が続いている。それを三階分ほど最下階まで降りると、そこには幾つもの太い柱が立ち並ぶ、巨大な空洞が広がっていた。その中央を、直上の水路を水源とした今ひとつの水路が、ルーフェイヤ聖山の方へ向かって静かに流れている。
 デドラスがそちらへ歩いていくと、ひとりの聖騎士が音もなく歩み寄って来、水路に浮かべられた小舟の漕ぎ手となった。
「お出しします」
 聖騎士はデドラスが腰を下ろすのを確認すると、感情の消えた声とともに櫂を漕いだ。小舟が小さく揺れ、水面を滑るように走り出す。
「――自由なる聖都のため、か……フフ、おもしろい。その願い、聞き届けようぞ」
 デドラスは不敵に笑うと、等間隔に灯された松明だけではとても照らしきれぬ天井の闇を見上げた。そこには《聖典》を基にした無数の絵画が描かれているはずだったが、いま目にすることができるのは、柱の中途からの彫刻だけだった。――いにしえの王家の大広間として造られたこの場所に、かつての栄華はない。
(今にここも光で溢れさせてやろう……)
 しばらく目を閉じて思案に耽っていたデドラスだが、櫂の不規則な音に、《正陽殿》の地下へと辿り着いたことを教えられた。舟を下りた後、篝火が焚かれている間を進み、さらに隧道の奥の小さな四角い部屋へと入る。すると、木の軋む音がし、床が水平に持ち上がった。ゆっくりと五階分ほど上ったところでそれは止まり、デドラスは見慣れた廊下を進んだ。彼は『地下』にも私室を持っており、向かったのはそこだった。
 部屋に帰り着いたデドラスが俗世の服装を解いていると、程なくして、ひとりの少女が酒杯の載った盆を持って現れた。逃亡したセフィアーナの代わりに《太陽神の巫女》を務めさせているエルティスだった。
「おかえりなさいませ、デドラス様」
 丁寧な一礼の際、緩く結い上げてあった漆黒の長い髪が、肩口から零れ落ちた。目下、日中は金色のかつらの下に隠されている代物だ。それから、寝台そばの机へと向かい、そつなく杯を置く。地下ゆえに数本だけの頼りない蝋燭の明かりが、彼女の黒い薄絹の夜着から覗く白磁のような肌を艶めかしく照らし出した。
「フ……このデドラスに、俗世の、それも娼婦なぞをあてがおうというか」
 先刻の横柄なカルマイヤ大使の申し出を思い出して、寝台に腰掛けたデドラスは小さく笑った。
「デドラス様、何か……?」
 怪訝そうな表情の少女に、彼は自分のもとへ来るよう目線で指し示した。
「夜伽を」
 それへ彼女が返したのは、薔薇のように艶やかで柔らかな微笑みだった。
「……御意」
 月影殿管理官の眼前に立ったエルティスは、纏っていた夜着の帯を自らの手で解いた。すると、羽毛のように柔らかくも儚いふくらみや、幾分丸みの少ない腰、薄い茂みが露わになる。それらを恥じらう素振りも見せず、夜着を完全に脱ぎ落とすと、彼女は華奢な身体をデドラスの両膝の間に跪かせた。
「エルティス、そなたは大役を果たし続ける立派な娘だ。そなたこそ真実の巫女。神に愛されし乙女」
 妖しく蠢く少女の頭に手を乗せ、襲い来る甘美な愉悦に身を委ねながら言い諭すと、少女が感極まった表情で顔を上げた。
「嬉しゅうございます、デドラス様。我が《聖王》陛下……」
 その言葉に、デドラスは禍々しいほどの笑みで口元を歪ませた。
(そうとも、それこそが私の存在意義……!)
 デドラスの心に、突如、暴力的なほどの衝動が突き上げた。彼の大腿にきつく添えられていた少女の左手首で、淡い光を放っていた銀の腕輪。それを掴むと、力任せに寝台へ引きずり上げ、そのまま折れそうなほど細い身体を割り裂く。世の敬愛を集める《太陽神の巫女》の歓喜の絶叫が、ついには蝋燭の炎をかき消しても、デドラスは闇に影を浮き上がらせながら、神官たるの罪を犯し続けた。


 昼下がりにもかかわらず窓布が閉め切られた部屋は薄暗く、円柱の台座に載せられた金色の鬘は、本来の輝きを発揮できないでいる。その様子を、寝台の上で膝を抱え、エルティスはぼんやりと眺めていた。
「エルティス、入りますよ」
 凛とした声に我に返ると、不慮の事故で亡くなったリエーラ・フォノイの後を引き継ぎ、《太陽神の巫女》の世話役となったエヴィーナ・ラゼルが扉から姿を見せた。
「例の薬を持ってきました」
「あ、はい……」
 エルティスがゆっくり寝台を降りると、エヴィーナ・ラゼルは心配そうに眉根を寄せた。
「大丈夫ですか? 顔色が優れぬようですが」
「いえ、そんなことは」
「……まあ、でも、無理もありませんね。《秋宵の日》からこちら、三日と空けずのお召しなのですから」
 その言葉に頬を染めるエルティスへ向けて、女神官は円卓の上に置いた小さな紙包みを滑らせた。
「だからこそ、この薬を飲むのを忘れてはいけませんよ。子を成すのは、貴女の若すぎる身体にはまだ重荷なのですから」
「……はい」
 実家が薬問屋だったエルティスである。その効能は熟知しており、ゆえに飲み忘れなど有り得ない。そんなことをしてデドラスのそばに居られなくなるのは嫌だった。
 エルティスは、受け取った紙包みを寝台脇の小物入れへ大切に仕舞った。そして、小さく吐息する。
「……エヴィーナ・ラゼル」
「はい?」
 再び女神官に向き直った少女は、思い詰めたような表情を浮かべていた。
「エヴィーナ・ラゼルは、その……平気、なのですか? 私と、デドラス様が……」
 脳裏に甦る光景がある。ひと月前、エルティスがまだ《太陽神の巫女》として周辺地域で奉仕活動をしていた頃のことだ。久しぶりに聖都へ戻った彼女をデドラスが呼んでいるというので、彼の部屋まで会いに行った。入れ違いになった神官に応接間で待つよう言われたものの、長く待たされているうちに、奥の部屋から聞こえてくるくぐもった声を不審に思い、その扉をそっと開けてみた。そして、見てしまったのだ。床に落ち、乱れた大神旗の狭間で、一糸纏わぬ姿で睦み合うエヴィーナ・ラゼルと、そしてデドラスの姿を。頭にかっと血が上り、慌ててその場を離れたため、扉は二人に気付かれるに充分な音を立てた……。
「エルティス、勘違いしないで下さい」
 エルティスを再び寝台の縁に腰掛けさせると、エヴィーナ・ラゼルは毅然とした面持ちで口を開いた。
「私がデドラス様のお相手を務めさせて頂いたのは、エリシア聖官殿の女神官の秘されし務めだからです。下賤の女のように恋だの愛だのと騒ぎ、嫉妬に狂うことなどあり得ません」
「あ……私、そんなつもりじゃ……。申し訳ありません」
 悪気はなかったものの、エヴィーナ・ラゼルを侮辱してしまったことに気付き、エルティスは膝の上で両の拳を握りしめた。
「私、今すごく満ち足りていて……こういうのを、『幸せ』と言うのでしょうか……。でも、それなのに、なぜかすごく不安で……」
《太陽神の巫女》となるまで、エルティスは孤独だった。男児誕生を願っていた父には生まれながらに見放され、母は自分から遠ざけてしまった。聖都へ来てからも、大願だった巫女になることは叶わず、神官となっても目標を見い出せず、鬱々とした日々を送っていたのだ。しかし、ある日突然、彼女を取り巻く状況が一変した。巫女であり、友でもあった少女が、聖都から消えたのだ。聞けば、巫女の重責に堪えられず出奔したのだという。悲願の邪魔をした挙げ句、熱く語っていた神官となることへの夢も嘘だった――エルティスは、ただ怒りに震えた。そんな彼女に、思いも寄らぬ人物が声を掛けてきた。それが、デドラスだった。
『やはり、由緒ある神殿から参ったそなたこそ、巫女となるべきであったのだな』
 そう言ってくれたデドラスのために、エルティスは、神から戴いたばかりの《複名》を捨て、友だった者の髪を模した金色の鬘を被ることを決めた。そもそも、巫女の推薦試験の時、デドラスは不在だったのだ。彼には何の責任もない。それからは、目を掛けてくれるデドラスのために、巫女としての務めを完璧に果たしてみせた。行く先々、会う人会う人に裏切られた友の名で呼ばれようとも、神の御威光を守るためなら――普段は冷たいデドラスの蒼氷色の瞳が一瞬でも和むのを見るためなら、彼女は何でも我慢できた。――自分でも不思議なほどに。それゆえ、デドラスとエヴィーナ・ラゼルの関係を知った時、全身から力が抜けるほどの衝撃を受けた。神官が――それも、最上級の――禁忌を犯していた事実にではなく、ただ、また裏切られた、と。そして、ようやく気付いた。自分がデドラスを恋い慕っていることに。
 再び心の拠り所を失い、打ちのめされたエルティスを救ってくれたのは、意外にもエヴィーナ・ラゼルだった。彼女は、泣きやつれたエルティスに教えてくれたのだ。デドラスから愛される為の唯一の方法を。その大前提が《太陽神の巫女》であることを聞いて、エルティスは、神官のエヴィーナ・ラゼルではなく、自分こそデドラスの相手に相応しいと思うようになった。
 失われかけた初恋は不死鳥のごとく甦り、その想いをますます燃え上がらせた。その後、エヴィーナ・ラゼルから、デドラスの嗜好や閨での振る舞いなどを熱心に学んだエルティスは、《秋宵の日》の夜、ついにデドラスの寵愛を受けることに成功した。
 初めてデドラスと二人きりになった時は、さすがに愛しさより恐ろしさが勝ったが、愛する男の腕の中で、愛される悦びを知るにつけ、ようやく辿り着いた自分の居るべき場所に、ただただ涙したものだ。
(――そう、私は間違いなく手に入れたの。デドラス様の愛を。それなのに、どうしてこんなに不安なの……?)
 過去、何度となく不遇に陥った経緯が、自分の心から安らぎという感情を消し去ってしまったのだろうか。だとしたら、なんと弱く、愚かで忌々しいことか。すると、その思いを叱咤激励するかのように、エヴィーナ・ラゼルが口を開いた。
「何を弱気なことを言うのです、エルティス。そのような心配は無用ですよ。デドラス様は、貴女に大変ご執心です。その証拠に、今は誰も呼ばなくなってしまった貴女の名を、デドラス様だけはお呼び下さるではありませんか」
 エヴィーナ・ラゼルはエルティスの手に自分の手を重ねると、そっと力を込めた。
「貴女はデドラス様を窮地から救いました。貴女が替わりの巫女になってくれなければ、デドラス様は責任を取って管理官の職を辞さねばならなかったでしょう。その恩を、けれど貴女は盾に取ろうとはしなかった。まだ若いのに、自らを磨く心を忘れずに……。そのように謙虚な貴女だからこそ、デドラス様は頻繁にお通い下さるのだと私は思いますよ」
「エヴィーナ・ラゼル……」
 エヴィーナ・ラゼルはにこりと応えると、そのままエルティスの手を引っ張って立たせた。
「さあ、そろそろ身支度をしなければ。《秋宵の日》は過ぎたというのに、貴女の歌を聴きに、朝晩たくさんの人々が《光の庭》にいらして下さるのですから」
 その言葉にはっとして、エルティスは顔を輝かせた。
「デドラス様もいらっしゃいますか?」
「残念ですが、今宵はお忙しいそうで、お渡りもありません」
「そうですか……」
「エルティス」
 あからさまに落胆する少女に、エヴィーナ・ラゼルが着替えを手伝っていた手を止めると、彼女はゆっくりと首を振った。
「いえ、承知しています。私は私のすべきことをして、デドラス様の――あの尊き御方の小さな支えになって差し上げるだけ」
「貴女は……本当にデドラス様を愛しているのですね」
 エヴィーナ・ラゼルはエルティスの漆黒の髪を手際良く結い上げると、最後に台座から取ってきた金色の鬘を被せた。
「憶えておきなさい。デドラス様は、貴女の本来の髪の色がお好きだそうですよ。すべてを優しく包み込む、漆黒の闇の色が」
 それを聞いたエルティスの薔薇のような微笑みには、もはやわずかな翳りもありはしなかった。


「愚かな娘です」
 剥き出しの白い背中を仰け反らせると、エヴィーナ・ラゼルは熱い吐息とともにデドラスの耳朶に囁いた。
「私がいつデドラス様のお言葉を聞いたかも知らず」
「愚か? 結構ではないか」
 エヴィーナ・ラゼルのくびれた腰を支えながら、デドラスは事も無げに言った。
「傀儡は愚かに限る」
「まぁ……エルティスは盲目的に貴方様を慕っておりますのに」
 つい今し方とは逆のことを言って、エヴィーナ・ラゼルはゆらりと腰をくねらせる。
「その点については、そなたの手腕を高く評価せねばならぬな。あの自尊心の高さだけが取り柄のような娘が、よくぞあそこまで」
「私は何も。御存知の通り、あの娘には元々、愛されなかった実の父親に認められたいという強烈な願望がありましたから」
 その余り余った思慕を、父親と共通点の多いデドラスに向けさせるのは、エルティス自身の若さも手伝って、ひどく簡単なことだった。
 エヴィーナ・ラゼルは、これが止めと初心うぶな娘に自分たちのまぐわう姿を見せ付けた時の興奮を思い出し、それを再び追い求めようと、デドラスの胸に蛇のごとく舌を這わせた。
「当面の心配は無いだろうが、決してあの娘から目を離すな。その盲目さゆえに、思わぬことをしでかすこともある」
《秋宵の日》も過ぎ、代理の巫女としてさえ価値のなくなったエルティスを手元に置き続けるのは、ひとえにわずかな情報の漏洩も許さぬためだった。
 少しずつ掠れ始めたデドラスの声に満足しながら頷きかけて、エヴィーナ・ラゼルはあることに思い至った。
「……それは、《紫影》のこともおっしゃっているのですね。《金炎》は、まだ見付からぬのですか?」
 すると、デドラスの蒼氷色の瞳がすっと細められた。
「必ず見付け出す。あの者こそ真の巫女――《聖王妃》となる娘ゆえな」
《尊陽祭》の聖儀で万人を恍惚とさせた以外にも、あの娘――セフィアーナには、何か惹き付けられるものを感じているデドラスだった。
「ところで、エルティスにはあれを飲ませているだろうな」
 尋ねつつ、今度はデドラスがエヴィーナ・ラゼルの尖りきった胸の蕾を口に含む。女神官は目も眩む快感に天井を仰ぐと、そこに描かれた神を瞳に映し、反射的にその化身たる男の頭を抱きしめた。
「勿論でございます。巫女でもない女に、《聖王》陛下の御子を身ごもる資格はありませぬ。毎朝、私とともに飲むお茶に混ぜてございますれば」
 エルティスにも薬を渡してはいるものの、万一の事態を防ぐため、念には念をの策だった。
「……そなた自身は、身体がつらくないか」
「御心配下さるのですか? もしそのようなことになりましたら、すぐ他の者とお役目を替わりますゆえ、御安心下さい。貴方様の悦びが私の歓び。さあ、デドラス様。そうなる前に、早く私に務めを果たさせて下さいませ」
 エルティスとは比べものにならないほど妖艶な微笑みを浮かべると、エヴィーナ・ラゼルはデドラスの唇をしっとりと塞いだ。

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