The story of Cipherail ― 第四章 波間に揺れる想い


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 サイファエール王宮の中でもとりわけ広く重厚な意匠の施されたその部屋は、名を光の間といったはずであったが、上座ふたつを空とした今、改めたほうがよさそうであった。
 王族としてただひとり上座に着いたトランスは、将軍たちを一周して戻ってきた書状を無言で睨み付けていた。組んだ腕の中で、隠れた方の拳はきつく握りしめられている。
 セレイラ総督ディオルト=ファーズの訃報に接したのは、つい三日前のことだ。医師の見立ての結果、脳の病による急死ということで、高齢だったこともあり、その死は悼まれつつも比較的すんなりと王都の人々に受け入れられた。幸い、彼の地には上将軍ゼオラが赴いているので混乱は最小限に抑えられるだろうが、《光道騎士団》の動向が不穏な今、現場監督の不在を長期化させてはならない。協議の末、後任と定めた人物を送り出したのは、ほんの数ディルク前のことである。それなのに、同じ地から今度はなんという凶報が届いたのか。
「トランス殿下、きっと何かの間違いでございます。閣下――ゼオラ殿下のことゆえ、きっとどこかで道草を――」
 楕円の卓の中央付近に座していた将軍ガーナが、身を乗り出して言い募る。しかし、その瞳に動揺は明らかだった。無理もない。上将軍にして王従弟、そして何万という将兵たちの厚い忠誠を一身に受けた、サイファエールの守護神たる男が忽然と姿を消したというのだから……。
 一方で、動揺を隠そうともしないのは、同僚のペストリカである。
「では、どこで道草を食っているというのだ!? 最後の宿営地から聖都まではほんの数十モワル。街道が敷かれた場所で迷子になりようもなければ、なったところで百騎が何日も姿を消しておられるものではないぞ!」
「落ち着かぬか、ペストリカ」
 いきり立ったペストリカをなだめたのは、やはり同僚のガイルザーテだった。彼はサイファエールの将軍の中でも最も思慮深い人物であった。
「閣下のことだ。きっと何かお考えあってのこと……。閣下なら、そして閣下に随行した近衛の誇る精鋭どもなら、数日、身を隠すことなどわけあるまい」
 黙ったままの近衛兵団長トルーゼを見遣りながらそう言った時、上座で声が上がった。
「……いや」
「殿下?」
 トランスは立ち上がると、顔を見合わせる将軍たちの後ろをおもむろに歩き始めた。
「ゼオラは勅書を帯びた身。いくらあやつが放蕩人でも、時と場合をわきまえぬ輩でないことは、おぬしらもよく知っておろう。国内の無法な言動に対して発せられたサイファエール国王の勅書が、秘密裏に運ばれることがあってはならぬ。ゆえに、ゼオラも到着予定を総督府へ告げているのだ。たとえ何かあったとしても、あやつなら時をおかず、姿を現すなり連絡を寄越すなりするはずだ」
「で、では、それがないということは――」
 トランスは足を止めると、組んでいた腕を解いた。
「私が行く」
 唐突な言葉に、聞き取れなかった将軍たちがざわつく。
「殿下、いま何と――」
「セレイラへは、私が行く」
 沸々と湧き起こる怒りを抑えるのに、トランスは苦心した。十二年前、上将軍の座をあっさりと従弟に譲ったのは、このような失態を演じさせるためではなかった。ゼオラを、自分の夢を手放してもいいと思わせるぐらいの為人、力量だと見込んだからこそ、そうしたのに。彼以外に、将来のサイファエールを、いったい誰が守っていくというのか。
「それはなりませんっ」
「いけません、殿下!!」
 悲鳴を上げて立ち上がる将軍たちを、トランスは眉根を寄せて見遣った。
「海軍上将軍の私に、陸のことには関わって欲しくないというか?」
 その言葉に、最初に、そして最も激したのは、ガイルザーテだった。
「何をたわけたこと・・・・・・をおっしゃるのです! この部屋の中をよくご覧下さい!」
 あちこちに胼胝たこを作った武人の大きな手が、明るくも暗い室内を指し示す。
「総司令官の席も、対の上将軍席も空いております! 王太子殿下はまだまだ幼く、この部屋にさえいらっしゃいません! それなのに、目下、王家筆頭ともいえる殿下が王都を出て、ゼオラ殿下の二の舞になったらいかがいたします!? 宰相閣下亡き今、ゼオラ殿下不明の今、どなたが国王陛下を――このサイファエールをお守りするのです!?」
 普段は仲裁役であるはずの彼の激昂に、誰もが息を呑んでいた。と、静まり返った室内に、トランスのくつくつと笑う声が響く。
「たわけたこと、か。ガイルザーテ」
 はっとして、身を正したガイルザーテは深々と低頭した。
「こ、これは、無礼を申しました……」
 怒りに、思わず言葉を選び損ねた彼だった。しかし、彼ひとりが不敬罪を背負うことにはならなかった。
「殿下、ですが我々もガイルザーテ殿と同じ意見でございます」
「我々はそのように度量の狭い人間ではございませんぞ」
 同僚の将軍たちが次々と彼を弁護してくれたのである。結局、折れるのはトランスのほうとなった。
「すまぬ。この期に及んで愚かなことを言った」
 トランスが椅子に座り直すと、それまで黙っていたトルーゼが一同を見回して言った。
「少々話が逸れましたが、ガイルザーテ殿の申されたとおり、王弟殿下にセレイラへ行っていただくわけには参りません。ゼオラ殿下と共に在る近衛の不始末もありますれば、ここは私が参ります」
 しかし、それはトランスによって却下された。近衛兵団長は国王とともに在るべきというのがその理由だった。しかも、国王は依然として意識が戻っていない。そして、そのことがさらに別の問題を引き起こしていた。ゼオラが持って行った勅書である。彼が不明ということは、勅書も不明ということだ。それには《光道騎士団》に関して重大にして重要な規制事項が記されてあり、一刻も早くセレイラの地に知らしめなければならない。しかし、原本が不明だから、国王が重篤だから、と、国王が自らしたためた命令書を、臣下が勝手に再発行することがあってはならない。
 紛糾した会議は結局、勅書に代わる命令書を政府の名の下で新たに発することとし、それを運ぶ使者として、将軍モデールと近衛兵団副長ハイネルドが選ばれたのだった。
 散会となった後、ガイルザーテ、ガーナ、トルーゼの三人はしばらく室内に留まった。
「……しかし、一個師団が何の痕跡も残さず消えることなどできるのであろうか……」
 誰に聞かせるでもなく、ガーナが呟く。
 行方不明がゼオラひとりというのならまだ理解できる。拉致されるにしても自ら姿を眩ませるにしても容易だからだ。それが騎馬百騎ともなると話は別だ。まして、その百騎は戦支度をして発ったわけではなく、一日三度の食事は街道沿いの宿舎などで済ませることになっている。つまり現地調達なのだ。そこからでもすぐに足が付きそうな話だが、セレイラ警備隊が特別編成した捜索隊は、何ひとつ手がかりを掴めていないという。
「会議中、ペストリカも言っていたが、《光道騎士団》の襲撃という可能性は――」
「まさか! 奴らにそこまでする度胸があるか? みすみす自治権を手放すような愚挙ではないか」
 ガイルザーテの言にガーナが反論し、トルーゼも続く。
「そうとも。だいたい、もしどうだとしても、連戦無敗を誇る閣下だぞ。全滅など――」
 だが、その不吉な単語に、言っている本人も思わず口を噤んでしまった。周囲は言わずもがなである。
 重苦しい沈黙の後、ガイルザーテがふと席を立った。退出するのかと他の二人は思ったが、そうではなかった。彼は会議室の扉を開けて廊下を見回した後、再び内側に自分を置いたまま閉めたのだ。
「ガイルザーテ?」
 訝しげな二人の視線を受けたガイルザーテの面持ちは、先刻よりもさらに暗く見えた。
「おぬしらに訊いておきたいことがある」
 そのいつもより低い声音に、二人は表情を硬くした。
「何だ?」
「……王弟殿下のことだ」
 思わず押し黙ったガーナとトルーゼだった。
「王弟殿下のことを、いかに思う? 私が殿下を王都にお留めしたのは、王家筆頭云々以外にも理由があるのだ」
「――どういうことだ」
 自然と声は潜められ、離れた場所にいた三人は、いつしか窓辺に集まっていた。
「もし、王弟殿下が閣下不明の黒幕だったら――」
 想像を超えたガイルザーテの言葉に、二人は瞠目した。
「何を……!」
「しっ。あくまでひとつの可能性の話だ」
 ガイルザーテは閉じられていた窓布に指を差し入れると、外の明るさに目を細めた。
「確かに殿下は上将軍となられて以来、お人が変わったように任務に当たられている。殿下を補佐しているおぬしやイルドラからの評価も高い。しかし、だからといって、殿下が長年、狙っていたとされる玉座を諦めたと断言できるか? 王太子殿下の出現でひとたびそれはふいになったと思ったが、事態が動き出したのは、それからではないか」
「事態というと、宰相殿の死のことか」
 尋ねるトルーゼの胸中に、友を失った悲しみと怒りがぶり返す。
「それだけではない。宰相補佐官のこともしかり。そしてこの度の閣下だ。すべてあちらからしたら疎ましい存在ばかりではないか」
「それはそうだが、殿下に今日まで不審な言動は見受けられなかったぞ。トルーゼ殿、殿下の親衛隊長から何か不審な報告はありましたか?」
 困惑顔のガーナに、トルーゼは頭を振った。
「いや、今のところは何も」
 ガイルザーテは大きく吐息した。
「だから、あくまで可能性の話だ。殿下が黒幕だった場合、セレイラへ行けば、さらなる証拠隠滅を必ず図るはず。もし閣下が今もご存命だったとしても――」
 将軍の顔が歪む。願わくば、無事で生きていて欲しい。いや、そうと信じたい。しかし、次々と要人を失い、そして国王も回復の兆しが見られない中で、どうしても最悪の事態ばかり想像してしまうのだった。
「殿下が行かれた後、どうなるかはわからぬ。さらに……この先は私も我ながら考えすぎだとは思うのだが、殿下が《光道騎士団》と結託していた場合――」
「ガイルザーテ!!」
 恐ろしい形相でトルーゼがガイルザーテに詰め寄り、ガーナは慌てて二人の間に腕を差し入れた。だが、トルーゼは小声で言い募っただけだった。
「……そこまでにしておけ。私は近衛兵団長だ。先ほど、殿下は激したおぬしにすぐに謝られたであろう。そういった心を信じたい。私は、できれば、殿下を、信じたい」
「………」
 それはガイルザーテも同じである。両手を挙げてそう思えたらどれほど幸せなことか。
「……とにかく、モデールたちが行けば多少は何かわかろう。案外、着いた時には閣下が総督府で酒を飲みながら待っているやもしれんぞ」
 ガーナは言ったが、それは冗談のわりには存外重苦しい声音だった。


 王弟夫妻の本邸は、馬車で王都から西へ半日ほど行ったところにある。二人が結婚した二十四年前、緑濃いグリーヴ山の麓に、王宮と同じ白大理石を用いて造られたそれは、しかし現在、当時の華やぎは微塵もない。二十年前、夫トランスは市中に館を造築して滅多に寄りつかなくなり、その後、妻ルアンダは当てつけのように別邸を構えた。彼らの息子リグストンも結婚を機に独立したため、本邸は本邸とは名ばかりの陰気臭い住まいになっていた。
 その南側にある自室で、ルアンダは数日来、鬱として時を過ごしていた。彼女が与えた国王暗殺の密命を遂行しているオーディスの説明に反し、国王の寝室の露台には一向に喪旗のかかる気配がない。日参する彼の弁解にうんざりして王都を出てきたのだが、この館で気晴らしができるはずもなかった。
 深夜、自室で宝石箱の整理をしていると、もはや思い出せないほど久しぶりに夫が姿を見せ、彼女は大仰に目を見開いた。
「まあ、お珍しいこと。いかがなさったのです?」
「ここは私の館だ。自分の館に帰って何が悪い」
 淡々と返ってきた言葉に、ルアンダは暗く笑った。
「それは存じませんでした」
 トランスが北の館に籠もって以来、彼女は小さなリグストンをここで独りで育てた。何を今さら、というわけである。
「北の館の女性と仲違いでもなさったのです?」
 妻の思わぬ言葉に、トランスは一人用の椅子に腰かけながら、初めて無表情を崩した。
「何の話だ。向こうにそのようなものなどおらぬ」
 女どころか、執事が帰らぬ今、トランスが不在の時は無人となる館だった。
「まあ! でしたら何故、私は立ち入りを禁止されているのです?」
「この期に及んで何を言う。今さら嫉妬でもあるまい」
「……あら、そうですわね」
 今さらも何も、新婚時代から既に互いに無干渉の夫婦だった。
 深夜に会いたくもない妻のもとをわざわざ訪れたのには無論、理由がある。それを切り出そうとした時、召使いが茶を持って来たため、トランスは背もたれに寄りかかった。そして、妻の手元を眺め、怪訝そうに眉根を寄せる。
「何をしている」
 夫の問いに、ルアンダはまた意外そうに振り返ると、持っていた物を胸の前にかざして見せた。
「これですか? 真珠を磨いているのです」
「そなたがそのようなことをするのか」
「他の物なら侍女にさせますけれど、これは特別なんですの」
 特別も特別、宰相を死に至らしめた立役者だった。まさかそうとも知らないトランスは、「たかが真珠ではないか」と呟くと、身を起こした。給仕が下がったのである。
「今日、セレイラから急使が来た」
「あら、あちらでまた何かありましたの? 総督が亡くなったことは存じておりましてよ」
 再び視線を落として真珠磨きを始めた妻の横顔を、トランスは注意深く窺った。海軍新設に加え、病床にある国王の代理としての仕事も増え、本当は王都を離れている場合ではないのだが、それを押して夜の街道をやって来たのは、直接、妻の反応を見たかったからだった。
「勅書を持って行ったゼオラが行方知れずとなった」
 果たして、ルアンダは手を止めようとはせず、それどころか鼻で笑った。
「貴方のお従弟殿は、何というか、昔から本当に無礼ですこと」
「無礼?」
「そうですよ。立てるべき年上の貴方から上将軍の座を奪うわ、勅書を持った身でありながら行方を眩ますわ」
 ふと十二年前のことを思い出して、トランスは内心で笑った。彼が上将軍の座を逸した時、ルアンダはこの館にあった壺という壺を叩き割ったのだった。
「そなたはあれのことを嫌っておったのだったな」
「ええ。けれど、それはあちらの方も同じでしょう」
 真珠を片付けると、ルアンダはようやく夫の横の長椅子に腰を下ろし、茶杯に口を付けた。
「それで、この後、どうするおつもりですの? ゼオラ殿の行方はまったくわからないのです?」
「さてさてな」
 トランスがはぐらかすと、ルアンダは切れ長の黒い瞳を細めた。
「……貴方、この期に及んで、また上将軍の座を逃すつもりではないでしょうね」
「何を言う。私は既に上将軍だ」
 すると、ルアンダはさっと茶杯を置き、夫に向き直った。
「海軍など、陸の戦に何の役に立つというのです。陛下がご病気の今、ゼオラ殿の行方が知れぬ今、貴方が国軍を治めずして誰が治めるのです」
「そなたは陸で戦が起こると思うのか?」
 意味深長な夫の笑みに、ルアンダは苛立った。
「そもそも、私が出しゃばらずとも、陸の軍には準上将軍として我らが息子リグストンがおるではないか。――時にあやつの足は治ったのか?」
「ええ、とっくに!」
 叩きつけるように言うと、ルアンダは再び茶杯を手に取った。
「私には貴方という人が本当にわかりませぬ。私が貴方だったら、その才を無駄にはしませんのに」
 それを聞いて、トランスは笑った。
「なんと……結婚以来、初めてそなたに褒められたような気がするが」
 くつくつと笑い続けるトランスを一瞥すると、ルアンダは卓の縁に彫られた蔦を見つめて呟いた。それは複雑に絡み合っていた。
「……たった一人の伴侶とこのような会話しかできぬなど、私たちは本当に不幸ですわね」
 トランスは、妻と初めて意見の一致を見た気がした。
「……そうだな」
 トランスにも無論、結婚生活に夢はあった。王族という立場から政略結婚は仕方がないとしても、自分なりに妃を愛し、良き友だった宰相夫婦のように穏やかな家庭を築きたい、とそう思っていたのだ。しかし、現実はそんなに甘くなかった。彼のもとへやって来たのは、気性が激しく、人一倍野心の強い娘だった。聞けば、当時、カルマイヤの実権を握っていた家臣の政敵だったという。そして、さらにある出来事が、彼のルアンダに対する不信感を決定的なものにした。ゆえに彼は北の館を建て、彼女とは極力距離を置くようにしたのだ。美しい庭で友と家族ぐるみの付き合いを望みながら、その一方で妻子を締め出す――彼はずっと理想と現実の狭間で苦しんできたのだった。
「――最後にひとつ、訊いておこうか」
 扉の方に向かいかけて、トランスはふと足を止めた。
「ゼオラがいなくなって一番得をするのは誰だと思う?」
 ルアンダは、落ちてきた長い前髪を掻き上げようともせず、そのまま答えた。
「貴方だったらいいと、私は思います」
 それを聞いて、トランスは無言のまま部屋を出て行った。残されたルアンダも無言だったが、茶に映った彼女の唇は、恐ろしいほどの笑みをたたえていた。


 翌朝、トランスが北の館に帰った時、門の前に一台の馬車が止まっていた。門番をしていた近衛兵が告げた名に、トランスは思わず目を見張った。二台連なって玄関まで向かうと、トランスは、後から降り立った客人に深く一礼した。
「これは叔父上、ようこそいらっしゃいました」
 先王の実弟にしてゼオラの父ラースデンだった。
「朝早くにすまぬな。愚息のことで来た」
 それに無言で頷くと、トランスはラースデンを南側の露台に面した居間に案内し、自ら茶を注いだ。その様子を見て、ラースデンが眉根を寄せる。
「実は昨晩も来たのだが、この館には家人がおらぬのか」
「いえ、ひとりおりますが、今は使いに出しておりまして」
 差し出された茶杯を受け取ると、ラースデンはさらに眉間のしわを深めた。
「ひとり? 私邸とはいえ、王弟の館に家人がひとりだと?」
「気の付く者ゆえ、ひとりで十分なのです。それに、私は騒々しいのを好みませぬゆえ」
 トランスは露台への硝子扉を開け放つと、叔父の向かい側に腰を下ろした。
「わざわざお越しいただいて申し訳ありませぬ。今日にでも、こちらからお伺いしようと思っていたのですが」
 すると、ラースデンは杯を下ろし、溜め息を吐いた。
「いや、それをさせまいと、昨夜のうちに王都へ来たのだ」
 ラースデンの深刻な様子に、トランスは怪訝そうに首を傾げた。
「何かあったのですか?」
「ふむ……サラーナがな、知らせを聞いてまた倒れたのだ」
「叔母上が……」
「この春にも調子を崩しておったし、もう年齢も年齢じゃからの。だが、おぬしが来たら、また床から起き出して自ら身体に障るようなことをしでかしそうゆえ、私が先に出てきたのよ」
「そうでしたか……」
「それよりも、じゃ」
 椅子に深く腰かけていたラースデンは身を起こすと、トランスにセレイラからの報告の詳細を目で求め、トランスはそれに応じた。
「……報告では、ゼオラは総督府へ、五日前の晩に到着するとその日の朝に知らせてきたそうです。しかし、それを最後に消息を絶って今日に至ります。ゼオラの到着を待っていた総督が倒れ、そのことをゼオラに知らせるために早馬を出したそうですが、行けども行けども隊列に出くわさず、結局、前日の宿営地まで行ってしまったとか。けれど、そこの責任者は間違いなく朝に出立したと言い、宿営帳にもゼオラの印が確かに残されていたそうです。使者は即座に取って返したそうですが、やはり聖都まで誰にも会うことはなく……。警備隊長がすぐに捜索隊を遣ったようですが、なにぶん夜ということもあって手がかりは掴めず、翌日から改めて範囲も広げて捜索したそうですが、今のところ何も……」
「……四日目にして報告というのは、やはりあやつのせいか」
 苦々しげに言葉を発する叔父を、トランスは少々気の毒そうに見遣った。
「……ゼオラの性分や武の才からして、何かの間違いだという気分が警備隊にあったのでしょう。総督も不在で、かなり混乱しているものと思われます」
 すると、ラースデンが拳で卓を打った。
「まったく、だから大概にしろと言い聞かせたに、不肖の息子めが!」
「なれど、無敗を誇るサイファエールの上将軍です。将軍たちにも動揺が広がっております。ある者は、《光道騎士団》の仕業ではないかと」
 その不吉な固有名詞に、ラースデンは容易に不快げな表情を浮かべた。
「《光道騎士団》だと? 遠征の制裁を恐れて暴挙に出たというのか? 馬鹿馬鹿しい。あちらにしてみれば、利点より損失の方が遥かに大きいと思うがな。おぬしはどう思うのだ」
 問われて、トランスは風に揺れる窓布に視線を遣った。
「……私は《光道騎士団》がエルミシュワへ行った理由が引っかかるのです」
「遠征の理由?」
「行方知れずとなった月光殿管理官の捜索です。かの御仁も不明のまま……。もっとも、遠征は《光道騎士団》の狂言という報告もありましたが、真相は未だ藪の中――」
「今回の件と、つながりがあると思うのか」
「あくまで、想像ですが……」
 すると、急にラースデンが黙り込んでしまった。トランスが声をかけると、彼は茶を口に含んだ後、大きく吐息して言った。
「……おぬし、少し変わったか」
 老人ゆえか、急な話題の転換に、トランスは目を瞬かせた。
「何をおっしゃるのです? 私はもう四十八ですよ」
「人間、変わるに年齢など関係ない」
 言って、ラースデンは宙を見つめた。
「……十二年前のことを憶えているか?」
「……勿論です。叔父上は私に上将軍の座を諦めろとおっしゃった。王弟たるの分をわきまえよ、と」
 忘れたくても忘れられぬ。トランスにとって、それまでの人生のすべてを捨てた日だった。
「だが、十二年経って、おぬしはその座に就き、……そして、私の息子は消えた。十二年前の私の所業が、このような形で跳ね返ってくるとはな」
「叔父上!」
 叔父の不穏当な言葉に、トランスは思わず叫んでいた。それを言いたいがために、わざわざ自分を訪ねてきたのだと、今さら悟る。
「私は、誓いを破ってはおりません」
 しかし、それに対するラースデンの返事はなかった。
「朝から長居をしてしまったな」
 ラースデンはゆっくりと立ち上がると、扉へ向かった。一瞬、扉が開くのを待ち、家人がいないことを思い出して、自ら開ける。そこで、ふいに立ち止まった。
「たとえ愚息でも、――いや、愚かだからこそ愛しい息子だ。おぬしにもリグストンがおるのだからわかろう? 本当なら今すぐにでもセレイラへと発ちたいところだが、私が行くと周囲が迷惑しよう。ゼオラのこと、くれぐれも頼んだぞ」
 その老いた背を呆然と見送った後、トランスの内心に沸き上がった怒りは、しかし、あまりにも虚しいものだった。
(こんな日は、オーエンの茶が飲みたいがな……)
 だが、腹心の老人からは依然として連絡がない。彼を諦めるわけではないが、政務で館に帰れぬ日も増えてきて、庭の手入れも行き届かなくなってきた。いつまでも無人のまま放っておくわけにもいかない。しかし、後任といって、オーエンとまではいかなくても、彼に準ずる才を持った人物など、そう易々と見付かるはずもない。単純ながら意外と面倒な問題に嘆息した時、トランスの視界に妙なものがちらついた。暖炉の煙突から落ちてきた煤だった。
 トランスは別室から火種を持って来ると、傍の卓にあった油をまず暖炉へ放った。
「何処の手の者かは知らぬが、火あぶりになりたくなかったら出てくることだな」
 すると、意外にも容易に観念した吐息が聞こえ、と同時に煤煙が室内に舞った。
「……お初にお目にかかります、王弟殿下」
 煤とともに現れたのは、紫がかった赤い髪の青年だった。


「何処の手の者だ」
 詰問しながら、トランスは恭しく跪いてみせた青年の頭に別の卓から取った油を滴らせた。その上で、皿の上の火種を弄ぶ。
「……誰かに使われるのは嫌いなもんで」
 青年は顔が汚れるのを厭わず、上目遣いでトランスを見てきた。ぽたぽたと、油が床の上等な絨毯を汚す。
 無精髭を生やしてはいたが、年齢は若く、二十歳前後のようだった。常に歪んだ笑みを浮かべた口元は、初対面の人間には悪印象しか抱かせないように思った。
「別に名乗るに吝かではないんですが、友のように死罪あるいは流罪になるのは御免被りたい」
「友だと?」
 傲岸不遜な物言いとその内容にトランスが顔をしかめると、青年は余裕綽々といった体で首を竦めた。
「殿下の特赦を受けながら逃亡したヤツですよ」
 思わず押し黙ったトランスだった。それは後にも先にもひとりしかいない。その友というなら、彼の前に現れた理由は、意趣返ししかない。
「……それでこの館に忍び込んだのか。私を殺そうと」
「あわよくば」
 物盗りだとか何とか弁解することもできるだろうに、青年は否定しなかった。
「しかし、さっきの会話を聞いて、考えが変わりました」
 居間の暖炉の中にいたのだから、古今の王弟の会話はさぞよく聞こえたことだろう。トランスは笑った。
「私が無実だと信じるのか?」
 おそらく、ゼオラの失踪の黒幕をトランスと考える輩は多いだろう。自分でも、過去の夢が亡霊となって事を起こしているような気がして、寒気を覚えるほどだ。
「少なくともその可能性はある、と」
 いったいどういう素性なのか、若輩なうえ、王族相手に幾重の罪を犯しながら飄々と答える青年に、トランスは興味を持った。
「おぬし、名は何と言う?」
「………」
「取って食いはせぬ」
 すると、青年は観念したように口を開いた。
「……リデスと申します」
 それに満足げに大きく頷くと、トランスはいきなり前言を撤回した。
「リデス、交換条件を出そう。不法侵入と暗殺未遂の罪を取り消してやるゆえ、私の間者となるのだ」
「か、間者……!?」
 文字通り仰天したリデスが王弟を仰ぎ見ると、トランスは不敵な笑みを浮かべて両手を掲げた。
「見ての通り、この館は人手が足りぬのでな。ちょうど探しておったのよ」
「………」
「おぬしは飼われるのが嫌いらしいが、まあ、運が悪かったと思って諦めるのだな。さて、リデス。まずこの煤と油を掃除してもらおうか。その後、最初の仕事だ」
 傲岸不遜な青年も、王弟の冗談には敵わなかった。


 一日の勤めを終え、王宮を辞したシダは、リオドゥルクの丘を下ったところで大きく吐息した。東に長く伸びた自分の影の背が丸まっていることに気付くと、さらに溜め息を吐く。
 この日、ゼオラ一団の失踪を知った。公には伏せられているが、偶然、近衛兵団長と副長の会話を立ち聞きしてしまったのだ。一緒にいた者とともにきつく口止めされたが、その者が混乱し嘆きの声を上げる一方、シダ自身はそれどころではなかった。もはや心をどこかに落としてしまったかのようで、何をする気にもなれなかった。上将軍ゼオラは、彼の渇仰の対象だったのだ。
 絶対にどこかで生きている――それはわかっている。しかし、親友を失った今、自ら志願したこととはいえ王太子の傍を離れたばかりの今、ゼオラの不明はシダの心に自分でも理解できないほどの衝撃を与え、その志を挫いていた。
 三度目、シダはまた空虚な息吹を吐いた。真っ直ぐ家に帰るか、はたまた自棄酒を飲みに街に出るか、それすらも決められない。このままこの場に倒れ込み、風に吹かれて砂のように散り散りになりたい気分だった。その時、
「おい」
 荒っぽく声をかけられて振り返った先に、王都にいるはずもない天敵の姿を見付けて、シダは馬から落ちそうになった。
「――おっおまっおまえっ、リデス……!?」
「久しぶりだな」
「久しぶりって……おまえ、何だってこんなところに――」
 二人は王立学院の同期だったが、リデスがイスフェルを目の敵にしていたことから、シダはリデスのことをずっと毛嫌いしていた。卒業する際、王都での出仕を望まぬ者はいないというのに、このリデスだけは最初から辺境警備隊に志願書を出し、周囲を驚かせたものだ。その配属先と決まったデラス砦は、サイファエールの最北端、隣国マラホーマとの空白地帯に在った。シダとしては、リデスの顔を見なくてすむので、清々していたのだが。
「……ははぁ、わかったぞ。さては警備隊をクビになったんだな。そうだろ」
 すると、リデスは鼻を鳴らして笑った。
「相変わらずおまえは馬鹿っぽいな」
「何だと!?」
「そういうおまえは王太子の側付きを蹴って、王弟の親衛隊に入ったらしいな」
「……よく知っているな」
 まだ互いに出仕を始めて八か月しか経っていないのに、王都の事情に詳しいということは、解雇されたのはそれほど前ということなのか。シダが少々気の毒に思った瞬間、
「やっぱり大した友情じゃなかったんだな、おまえら」
 リデス節が炸裂し、シダは容易に青筋を浮かべた。
「てめぇ……ブッ殺されたいのか」
「やれるもんならやってみろよ。さあ」
 大袈裟に手を広げてみせるリデスに気を削がれ、シダはもはや神でさえ把握できぬ回数の溜め息を吐いた。そもそも、この時、彼にリデスを相手にする気力などなかったのだ。
「おまえなんぞ、このシダ様の剣の錆びにもしたくないわ」
 呟くように言うと、手綱を振るった。しかし、リデスは食い下がった。
「おい、待てよ。待てって言ってんだろ。おまえにちょっと頼みがあるんだ」
 シダは、自分の堪忍袋の緒が切れた音を聞いた気がした。
「頼みぃ!? てめえ、ふざけンのも大概にしろよ! それが人に頼み事する態度か! おまけに、何でオレ様がてめぇの頼みなんか聞かないといけないんだよ!!」
 そんなシダに、リデスは涼しい顔で言ったものだった。
「おまえなら、町のことに詳しいだろうから」


 シダは王都で生まれ育った。学院生活が始まっても、休日には仲間たちと町や港に繰り出したものだ。
「――で、何だよ、頼みって」
 実家の近所の酒場に腰を落ち着けると、シダは眼前の天敵を胡散臭そうに見遣った。「詳しい」と褒められたからには、聞いてやらないわけにはいかない――それが理由だったが、てっきり士官の口利きを頼まれると思っていたリデスの返答は存外、普通で、しかし彼にはそぐわないものだった。
「下働きできる人材を探してる。教養があって、家事全般は勿論、庭仕事や馬の世話までできるような」
 あんぐりと口を開けて聞いていたシダは、仕切直しに酒を飲もうとして、「ああ」と思い付いた。
「おまえの実家が王都に屋敷でも構えるのか?」
 リデスの実家は、マルカス地方でも有数の商家だったのだ。ちなみに彼は、その長男だった。
「そんなもん、とっくにある」
「じゃ、なんで」
 力のある実家に頼まないのは、やはり跡目を継ぐことを放棄したことで揉めているのだろう。リデスが警備隊を解雇されたと思い込んでいるシダは、彼が王都で新たに家を構えようとでも思っているのかと心配になった。無職で、使用人の給料どころか家賃さえどうやって払うというのか。
「オレも頼まれたんだ。忙しい御方でな。宛がないなら他を当たるから別に構わない」
「おい、ちょっと待て。ないとは言ってないだろ」
 天敵相手にお人好しなシダだった。彼のもう一人の友人がこの場を見たら、何と言うことか。
「なになに、教養に家事に庭仕事……あ? あと何かあったっけ?」
「……馬の世話だ」
 シダは憮然としてリデスを見た。
「まさかひとりとは言わないだろうな」
「無理か?」
「おまえならやれるか?」
 その問いに、思わず息を呑んだリデスだった。
「……無理だ」
「だろうが」
 円卓を指で叩いていたシダは、何かを思い付いたように立ち上がると、「ちょっとここで待ってろ」と言い置いて、店を出て行ってしまった。シダの溜め息が伝染したように、リデスは吐息した。
 王弟ゼオラの間者としての最初の仕事は、家人を雇うことだった。リデスがすべてをやるのが一番いいと王弟は言ったが、青年に茶を注ぐ芸当などできるはずもない。庭の草花は枯れるのが目に見えている。
「オレが、王弟トランスの間者、か……」
 リデスは酒杯を指で弾いた。こんなことになるなど、思いも寄らなかった。
 デラス砦の武術試合で三位に入賞したのは、ひと月前のことである。褒美に故郷への休暇を強制的に取らされたのだが、実家を出奔したリデスに行く当てはない。そこへ宰相家浮沈の一報が耳に入り、八か月振りに王都へ戻ってきたのだ。王弟の館に潜入したのは、ほんの好奇心だった。あのイスフェルを追い落とした人間がどんな輩か、自分の目で確かめてみたかった。それだけだったのだが。
 デラス砦での生活は、リデスの性分によく合っていた。媚びを知らない豪放な上官たち、気の置けない荒くれ兵士たち、容赦ない自然の仕打ち――。今ではもう戻れぬ場所だが、なぜか寂しいとも思わなかった。罪を犯した身で言えることではないが、もし間者になるかどうかを選ばせてもらえたとしても、彼はきっと選んでいた。間者となることを。それは、おそらく、ずっと夢を追っていながら散ってしまった友のためだった。
 シダが戻ってきたのは、リデスが酒をさらに二杯空けた時だった。シダの母親のつながりで、先だって亡くなった老貴族に仕えていた老夫婦を紹介してくれるという。とりあえず人心地ついたリデスは、素直に礼を言ってシダの目を丸めさせると、王弟の待つ北の館へ帰った。

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