The story of Cipherail ― 第二章 失われた神の祈り


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 サイファエール王国の中央にあるエルミシュワ高原は、ナルガット山脈の西側から三百モワルに渡って広がる大平原である。古より幾つかの放牧民族が暮らしているが、目下、部族間の争いもなく、平和な日々が続いていた。行政区分としてはアーバン領主の支配下にあるが、そちらとの関係も至って友好的で、これまで彼らが火種として歴史の表舞台に登場したことはない。
 夕刻、黄金の海と化した草原の彼方に見慣れぬ漆黒の旗を最初に発見したのは、家々の前で遊んでいた子どもたちだった。やがて現れた騎馬の軍列に、子どもたちは一斉に炊事をしている母親たちのもとへ走り、知らせを受けた女たちは、家の中の男たちに知らせた。そうして、広場に集まった村人たちが見守る中、漆黒の軍勢は粛々と行進を続け、しばらくして彼らの目前に見事な五列縦隊を作り上げた。その数、およそ百騎。
 突然の訪問客――それも異様な装いかつ雰囲気を醸し出している――に、村人の誰もがその面持ちを硬くした。その心の隔たりを表すかのように、草原を渡ってきた風が、ふたつの集団の間を吹き抜けていく。やがて、ひとりの騎士が馬に乗ったまま進み出て叫んだ。
「村長は誰か」
「わしが族長のイヴァンだが、おまえたちはいったい何者だ」
 そう応じたのは五十代後半と思われる、背は低いが体格の良い男だった。家畜の皮をつなぎ合わせた衣服をまとい、腰には短剣と角笛がぶら下がっていた。
「口を慎め。こちらは《光道騎士団》の将アルヴァロス様の軍勢である」
 途端、村人たちがざわめく。
「《光道騎士団》……!?」
 イヴァンも顔をしかめると、再び騎士の後ろの軍勢に目を遣った。確かにそこではためいている黒地に黄金の太陽の旗は、巡礼の際、聖都で見かけたものだった。
「はて……して、そのアルヴァロス様がこのような陸の孤島に何の御用でございましょうや?」
《光道騎士団》が聖都以外の地に現れたなど、ついぞ聞いたことがない。日々、家畜を相手に穏やかな暮らしを送っているイヴァンだが、武装し、威圧するように槍を構えている黒い一団に、一族の長として、今は害獣に立ち向かう時のような表情だった。
「おぬしらに聞きたいことがあって遥々参った。この辺りの名のある部族の者を集めよ」
 もう一騎、進み出た大柄の聖騎士に、使者の聖騎士が深く礼をし、イヴァンはそれが軍勢を率いているアルヴァロスという人物だと悟った。
「それならば、丁度よい時にお越し下さった。明後日の夜は月に一度の寄り合いの日。月の出る時刻になれば、他の村から族長が参ります」
「では、揃った折りに使者をよこすように。それまで我々は村の外で野営している」
「……わかりました」
 こうして《光道騎士団》は村から少し離れた岩山の麓へ移動して行き、村人たちはとまどいながらも各々の仕事へ戻っていった。しかし、族長イヴァンと村の主立った男たちは、再び集った囲炉裏端で、不安な顔を突き合わせていた。
「《光道騎士団》など本当だろうか? 案外、どこかの盗賊が成りすましているのかもしれんぞ」
「馬鹿言え。あの甲冑がハッタリだとでも? ご丁寧に漆黒の神旗まであったぞ」
「騎士たちの動きも恐ろしいほど揃っていたしな。あの出で立ちはただ事じゃねぇ……」
「それで、アルヴァロスという御方の訊きたいこととは、いったい何じゃろうか」
「何もわしらが原因ではないかもしれんぞ。他の村の者たちも呼べとの仰せだったからの」
 不安と疑問を言い連ねるも、誰も何の解答も持ち合わせてはいない。
「……とにかく、今は待つしかあるまい。村の者たちを……特に子どもたちは、騎士団の居る場所に近寄らせぬように。何が災いしてもかなわん」
 イヴァンの言葉に誰もが頷き、一時その場を離れていった。


 既に天幕を張るのも慣れてしまったセフィアーナが、作業を終えて小さな欠伸を漏らした時、本陣の方からサラクード・エダルがやって来た。慌てて口を押さえたが、女聖騎士には関心がなかったようである。
「お見せしたいものがありますので、私に付いて来て下さい」
 言うことだけ言ってさっさと踵を返す彼女に、セフィアーナは小さく吐息した。昨日の失態以来、少女に対するサラクード・エダルの態度は、いっそう硬化していた。
「いったいどこへ行くんですか……?」
 追いすがりながら声をかけるも、返事などは無論、ない。野営地から離れ、岩山を取り巻く森へ入って歩くこと十数分、二人の仲は沈黙によって取り持たれた。
「ここです」
 ようやくサラクード・エダルが向き直ったのは、岩山の岩肌にぽっかりと空いた洞窟の前だった。見張り役なのか、入口には聖騎士が二名ほど立っている。
「……この中に、何があるんですか……?」
「付いて来て頂ければわかります。ですが、決して大きな声をお出しにならないように」
 持っていた手燈に手早く火を灯すと、サラクード・エダルは再び歩き出した。夏とはいえ、夕方の高原である。森の中はひんやりとした風が時折吹いていたが、洞窟の中はそれ以上で、鳥肌が立つようだった。かなり昔に掘られたものらしく、天井や壁を補強する板は朽ちて足下に散乱しており、途中からは巨大な蛇の巣穴を行くようだった。
「……巫女殿は、闇の聖官のことを御存知ですか」
 唐突に発された女聖騎士の問いに、周囲をきょろきょろしていたセフィアーナは瑠璃色の瞳を瞬かせた。
「え、ええ、多少のことは巫女の修行の折りに……」
 闇の聖官ヴォドクロスは、太陽神テイルハーサに最も早く仕えた神官だとされている。しかし、その強大な力ゆえに身を滅ぼし、月の聖官ミーザに取って代わられた。現在は、一般にはよこしまな存在として伝わり、神官さえ忌み嫌っている。
「今回、アイゼス様を襲ったのは、そのヴォドクロスを崇拝する一団です」
「ヴォドクロスを……!?」
「ヴォドクロスはテイルハーサに背き、幽閉された身。それを信仰し、あまつさえ主神の僕に害を加えるなど、許されることではありません。――着きました」
 案内されたのは、岩で造られた露台のような場所だった。眼下には巨大な空間が広がっている。促されるままにそこを覗き込んだセフィアーナは、思わず息を呑んだ。
「あ、あれは……!」
 そこに在ったのは、《正陽殿》の本殿だった。いや、洞窟内にあるため、大きさこそ実物に比べてやや劣るが、それ以外の装飾や佇まいはまるで同じだった。ただ、中央の扉の上方に刻まれた紋章は、太陽神のものではなく、ヴォドクロスのそれであったが。洞窟の通常の入口から神殿内へと続く道には石が敷き詰められており、それを挟むように篝火台が置かれてあったが、今は火を宿していない。代わりに、神殿を取り囲む細い水路に浮かべられた皿から、蝋燭の明かりが壁を照らしながら緩やかに流れ、ひどく神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「お察しのとおり、あれは邪教徒どもが建てたヴォドクロスの祭殿です」
「まさか、こんなものがこんな洞窟の中に……!?」
 現物を目にしてさえ信じられぬほどに、それは壮麗なものだった。
「おそらく、代々密かに受け継がれてきたのでしょう。そして、このような場所だからこそ、私たちも気付かなかった。朽ち果てているならいざ知らず……煌々と照る蝋燭の灯火が彼らの邪教信仰の決定的な証拠です」
 この時、セフィアーナは重要なことを思い出した。
「――ア、アイゼス様は!? アイゼス様はこのどこかにいらっしゃるのですか!?」
「しっ! 巫女殿、声が大きい」
 上から見る限り人の姿はないが、明かりが灯っているということは、洞窟内に邪教信仰者がいると考えてもいい。サラクード・エダルの注意に慌てて息を潜めた少女だが、興奮を抑えることはできなかった。アイゼスの無事が一刻も早く知りたかった。
「すみません。そ、それで、アイゼス様は……」
「まだ判りません。先遣隊も、そこまでは突き止められなかったようです」
「そうですか……。これから、アルヴァロス様はどうなさるおつもりなのですか?」
 表情に落胆の色を露わにした少女だが、サラクード・エダルの次の言葉が彼女に力を与えた。
「……明後日の夜、邪教徒どもの寄り合いがあるそうです。すべてはそこから――」
「その時、私はその場に立ち会えますか?」
 少女の突然の申し出にサラクード・エダルが怪訝そうに口を閉ざすと、彼女は慎重に言葉を紡ぎ出した。
「先ほどアルヴァロス様は村の人々に会って来られたのでしょう? 私は貴女に止められましたが……」
「それは貴女をみすみす危険な目に遭わせないためです」
「ですが、デドラス様は私に、私――《太陽神の巫女》が行くことで、人々が安心するかもしれないとおっしゃいました。ずっと遠く離れた安全な場所にいたのでは、私がエルミシュワまで来た意味がありません」
「………」
「サラクード・エダル、お願いです。どうか私も寄り合いの場に立ち会わせて下さい。アイゼス様をお助けしたいのです。虐げられているという人たちに、私の歌で力を与えてあげることができるのなら、そうしたいのです。お願いします……!」
《太陽神の巫女》の懇願を受け、サラクード・エダルは大きく吐息した。
「貴女という人は……」
《尊陽祭》の武道会での振る舞いといい、マラホーマ遠征での活躍といい、今年の《太陽神の巫女》は歌以外でもとにかく非凡であるようだった。
「私が応というわけには参りません。ですが……アルヴァロス様に頼んでみましょう」
「ありがとうございます!」
 安堵の表情で礼を言うセフィアーナに、サラクード・エダルは頭を振った。
(もとよりそのつもりだというのに、無邪気なものだ。『すべてはそこから』と言った意味が、まるでわかってないらしい――)
 どこか不安げにヴォドクロスの祭殿を眺める少女の横顔を、女聖騎士は冷めた目で見つめていた。


 約束の日の晩、村の至る所では篝火が焚かれ、月に一度の寄り合いが行われることを村人に知らせた。空が群青色に染まった頃、近隣の村から長たちが集まり始め、集会所を兼ねているイヴァンの家には、先日よりその数を三倍にした二十一名の顔が並んだ。その表情が一様に暗いのは無論、《光道騎士団》の訪問を聞かされたためである。
「わしらの村かて、《光道騎士団》を呼び寄せるような真似などしておらぬ」
「本当に真物の《光道騎士団》なのか? 確かめる術などないではないか」
 ここでも発される疑問は先日と大して変わりはなかった。
 イヴァンは全員が揃ったことを確かめると、息子ザイスに《光道騎士団》への使いを頼んだ。
「とにかく、アルヴァロス様のお話を聞いてみることじゃ。案外、杞憂に終わるかもしれぬぞ」
 しかし、杞憂などで終わるはずがなかった。重苦しい雰囲気の中、アルヴァロスの到着を待っていると、突然、荒々しい軍靴の音とともに武装した聖騎士が数人入ってきた。先導しているはずのザイスの姿がないのにイヴァンが眉間を寄せた時、輪になった一同の中央に放り込まれたものがある。
 ザイスの生首だった。
「………!!」
 誰もが息を呑み、言葉を失った。その時、再び軍靴の音がして、漆黒の外套を翻らせたアルヴァロスが部屋の中へ入ってきた。
「アルヴァロス様、これはどういう……!!」
 イヴァンの怒りと憎しみを絞り出すような声が響き渡る。しかし、土間に立つアルヴァロスの表情は、何の感情も浮かべてはいなかった。
「きさまらの罪だ」
 その短い言葉に、族長たちがいきり立った。
「罪だと!?」
「我らがいったい何をしたというのだ!!」
 しかし、入口に近いところに座っていた者たちの首が聖騎士によって一斉に刎ね飛ばされ、彼らは否応なしに沈黙させられた。
「何をしたかわからぬか。では教えてやろう」
 そう言ってアルヴァロスが聖騎士に掲げさせたのは、闇の聖官ヴォドクロスの紋章が刻まれた聖杯だった。
「そ、それは……!」
「どうやら見覚えがあるようだな」
 アルヴァロスの瞳に危険な光が閃くのを見て、イヴァンは腰を浮かせた。なぜ《光道騎士団》がこの地へやって来たのか、彼はやっと悟った。
「アルヴァロス様、お待ちを! 確かにその杯は裏山の祭殿でお祀りしているヴォドクロス様のもの! ですが、我らは決してその教えに傾倒しているわけでは――太陽神に代わって、かの聖官の哀れな御霊をお祀りしているだけのこと!」
 エルミシュワにはひとつの古い伝説があった。《聖典》には、テイルハーサに背いたヴォドクロスは、《光の園》に幽閉されたとあるが、そもそも《光の園》とは生を全うした信徒たちの安らぎの場である。そこへ大罪を犯したヴォドクロスが居ることに危機感を抱いた他の聖官たちによって、ヴォドクロスは地上の岩山へ移されたというのだ。その岩山というのが、彼らの住む場所の裏手にある山であり、彼らは聖官たちの行いを密かに許した太陽神によって、ヴォドクロスを祀る役を受けたというのだった。以降、先祖代々、満月の夜に鎮魂祭を行ってきた。彼らにとって、ヴォドクロスを祀ることはもはや生活の一部になっていたが、だからといって、太陽神をないがしろにしたことなど一度もない。彼らがヴォドクロスの祭殿の存在をひた隠しにしていたのも、それが一般には畏怖の対象となっており、何より彼らにヴォドクロスを第一とする思想がなかったためである。
「……太陽神に代わって、だと?」
 しかし、イヴァンの必死の訴えは、アルヴァロスには届かなかった。
「そのような教義がどこに存在するというのだ、邪教徒ども・・・・・め」
「………!!」
 言い切られて、もはや族長たちに逃げ道はなかった。確かにそれは伝説であって、教義として正当化されているわけではない。しかし。神に最も忠誠を尽くしながら、一方的に崇められ、一方的に棄てられた聖官ヴォドクロス。長きに渡って祀ってきながら、初めてその孤独な存在を思い知ったように誰もが思った。
「……我らに過ちはない!」
「太陽神テイルハーサよ、どうか我らをお導き下され……!!」
 腰元から抜き放たれた短剣が、蝋燭の灯を受けて哀しい光を放った。


 それは、セフィアーナが寄り合いに向かおうと、サラクード・エダルとともに天幕を出た時だった。なにやら焦臭い風が鼻先を掠め、周囲を見回すと、岩山の向こう、村がある方の空が真っ赤に染まっていた。
「え、なに、火事……!?」
 セフィアーナが驚きの声を上げた時、村の方から走ってきた聖騎士が参集の指示を出していた。
「巫女殿はこちらで――」
「いいえ! 私も行きます!」
 サラクード・エダルに皆まで言わせず、少女は走り出した。もし火事なら、規模から見て、怪我人がたくさん出ているはずである。天幕でじっとしてなどいられない!
 山裾を回り込み、息せき切って村の入口へと急ぐ。しかし、昨日までそこにあったはずの木製の門は今や炎に包まれ、それどころか奥に立ち並んでいた家々からも火の手が上がっていた。
「いったいどうして……!」
 降り注ぐ火の粉を外套で振り払いながら、セフィアーナはどうにか村の中へ入った。
「セフィアーナ、集会所はあそこです」
 サラクード・エダルが指し示すひときわ大きな建物を見ると、その入り口付近にはアルヴァロスを始め、主立った隊の長が集まっていた。
「アルヴァロス様、いったい何があったのですか!?」
 動揺の色を露わにしている《太陽神の巫女》に、アルヴァロスの隣にいた隊長が口を開いた。
「邪教の証を見せられた狂信者どもが、自暴自棄になって火を付けて回ったのだ。アルヴァロス様も襲われ、聖騎士たちにも怪我人が出た」
 説明しながら彼が集会所の中を目で指し示し、セフィアーナがその中をそっと覗くと、そこに広がっていたのは地獄絵図もかくやという光景だった。数えられるだけでも十数人の男が血泥に沈み、半ば炎の舌に舐められている。手前の土間には生首がいくつか転がっていた。
「ぐっ……ふ……」
 あまりの凄惨な状況に、セフィアーナは口元を押さえた。そんな彼女に、アルヴァロスが顔の反面を赤く染めながら告げた。
「巫女はしばらく休むがよい。サラクード・エダル、祭殿へ連れて行け」
「御意」
「い、いえ、私は大丈夫です……」
 背中を押され、セフィアーナは女聖騎士を振り仰いだ。しかし、その瞳には有無を言わせない力があり、セフィアーナは従うしかなかった。
(仲良く暮らしているように見えたのに、どうして……)
 消火活動にあたっている聖騎士たちの間をすり抜けながら、ふとセフィアーナは妙なことに気付いた。消火活動をしているのが、聖騎士たちだけだったのだ。
(火を付けられても、扉一枚隔てた外へ出る時間くらいはあるはず。村の人たちはいったいどこへ……?)
 聖騎士たちによって、先に祭殿にでも避難させられたのだろうか。しかし、後刻聞いた報告に、セフィアーナは愕然とした。この火事で、村人の九割にあたる二百名余が焼死したというのだ。
「神さま……!!」
 あまりの惨事に少女は苦渋の表情で祈ったが、そこは陽の光の届かぬ闇の聖官ヴォドクロスの祭殿の一室だった。

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