The story of Cipherail ― 第一章 闇に掴むもの


     3

「カイル、これ、誰……?」
 青年がその答えを知るはずないとわかっていても、ラスティンは尋ねずにはいられなかった。
「くそったれ……」
 カイルは掴んだ胸元の衣服で鼻を覆いながら、その黒い遺体に向かって細枝を伸ばした。そして、顔と思われる部分の布を取り払っていく。ラスティンは少し下がったところから、その様子を眺めた。
「神よ……!」
 最後の一枚を、カイルはぎゅっと唇を引き結んで取り払った。
「………!」
 絶句した彼に、少年が半ば逃げ腰で声をかける。
「カ、カイル、どうした!? まさか、知ってる人なのか!?」
 しかし、さすがの青年もすぐには声にならなかった。何度か浅い呼吸を繰り返した後、カイルは立てた膝の上に額を付け、深く息を吐き出した。
(良かった。リエーラ・フォノイじゃない……)
 黒い布の下にあった顔は、二十代くらいの見たこともない男のものだった。想像したよりは随分とましな状態で、まだ輪郭もはっきりしている。土の跡からいって、やはりまだ埋められてから日が経っていないのだろう。
「カイル……?」
 不安げな少年の声に気を取り直すと、カイルは立ち上がって細枝を放った。
「何でもない。知らないヤツだ」
「そ、そっか。なら良かった……。もう、驚かすなよ!」
 カイルは、リエーラ・フォノイの手紙の内容を詳しくはラスティンに説明していなかった。彼は姉に会えることを楽しみにしていたし、話したところで杞憂に終わるかもしれなかったからだ。しかし、セフィアーナがこの地にいないと知れた以上、彼女が危険と隣り合わせで居ることを、彼に伝えておかなければならなかった。
「ラスティン――」
 しかし、言いかけた青年の口は、ふいに凍り付いた。怪訝そうな少年の前で、その手は腰元の短剣に伸びる。何者かの気配を、カイルは戦士の勘で感じ取ったのだ。
「――そこかっ!」
 振り向きざま放たれた短剣は、茂みの奥の木の幹に突き立った。その裏から、神官服をまとった男がふらりと歩み出る。その顔を見て、カイルは冴えた碧玉の瞳を丸めた。
「あんたは……!」
 カイルの驚きように、彼の短剣を幹から抜き取った男は、にこりと微笑んだ。出会って以来、彼を仲間にしようと躍起になっていた、セレイラ警備隊の副長ヒース=ガルドだった。
「意外な人間に意外な場所で会うものだ。てっきり谷へ帰ったと思っていたが……相変わらず良い腕だ。巫女殿に止められてさえいなければな。惜しいものだ」
 差し出された短剣を受け取りながら、カイルは小さく首を振った。
「あんたこそ、こんなところで何をしている。そんな格好で……」
「そんな格好とは何だ。隊の中で最も聖衣の似合う私に向かって」
 ヒースはそう言うと、新しい服を手に入れた女のように、衣装を見せびらかした。確かに優男の風貌は黙っていれば神官に見えなくもないが、カイルは彼の本性を既に知ってしまっている。
「ところで、カイル。ふたつ質問があるんだが」
 しかし、彼の訊かんとするところは疾うに知れていた。
「こいつはセフィの弟候補ラスティンで、この死体はあの狼が偶然見付けた。あの狼はアグラスといって、こいつの連れだ。他に質問は?」
「………」
 ヒースはつまらなそうに首を竦めると、ラスティンに挨拶し、巫女の弟というところに興味を示しながら、死体の横で膝を折った。
「フン、また神官か……」
 その言葉に、二人は驚いて彼を見た。
「なぜ、神官とわかる?」
 すると、ヒースは得意げに死体の額を指さした。
「ここを見ろ。こいつのは随分とわかりにくいが、上半分と下半分の色が違うだろう。これは日焼けの跡だ。神官たちがかぶってる頭衣のな」
「日焼けの跡……!?」
「手首の方がもっとわかりやすいだろうな。年中、長袖で跡が付きやすいから。見てみるか?」
 落ちていた細枝で手首の黒い布を綻ばせようとするヒースに、二人は即座に首を横に振った。
「それより、『また』ってどういうこと? 太陽神はそんなに神官を殺すのが好きなのか?」
 少年がテイルハーサ信徒らしからぬ物言いをしたので、ヒースは目を瞬かせた。そんな彼に、カイルがラスティンが異教徒であることを告げる。
「ほお、狼を……。いや、待て。誤解してもらっては困る。テイルハーサ神は決して殺戮を好まぬ。好むのは――」
「好むのは?」
「……まあ、これだけ大きな都となれば、色々ある」
「何だよ、それ。はぐらかすのか?」
 ヒースのお粗末な返答にラスティンは口をへの字に曲げると、カイルを振り仰いだ。
「なあ、カイル。姉さんって神官を志してるんだろ? 大丈夫かな……。聖都にいないのって、まさかこれと関係ないよね!?」
 カイルは内心で舌打ちした。案の定、ヒースが少年の言葉に反応する。
「聖都にいない? 巫女殿が? それはどういうことだ」
「オレにはわからないよ。上にいた神官は姉さんは《祈りの塔》にいるって言ったけど、カイルはもうここにはいないって……」
 二人の不審げな視線を受けて、カイルは溜息をついた。いずれにしても、聖都を発つ時は、総督府に寄ろうと思っていた彼である。
 その時、アグラスが小さく吠えた。見ると、死体を掘り返すために開けた穴の側面に、別の黒い布が露出しているのが見えた。
「うげ。死体はふたつだ……」
 身震いしながらアグラスを呼び寄せるラスティンの横で、カイルは前髪を掻き上げると、ヒースを軽く睨んだ。
「……セレイラ警備隊は何を警備しているんだか」
 話すのは死体を元に戻し、総督府へ帰ってからだというカイルに、ヒースは不服そうに顔をしかめたが、口に出しては何も言わなかった。
 ……もしカイルが死体の正体を知っていたら、決してその場所へ埋め戻すようなことはしなかっただろう。彼らは《正陽殿》の地下・・で生きていた神官であり、前の《太陽神の巫女》を無惨に扱ったドノール・エドラとファグニ・モートンの成れの果てだった。


「アイゼス殿がエルミシュワの民に拉致されただと!?」
 総督府の執務室でカイルから事情を聞いていたディオルトは、思わず持っていた茶杯を机に叩きつけてしまった。
「聖都をしばらく空けるという通知はあったが、そのような報告は一切こちらへは届いておらんぞ。どういうことだ」
 総督の視線を受けて、同席していたセレイラ警備隊長のガローヴ=ドレインが小さく首を振った。
「《光道騎士団》の動きにも、特に変わったことはありませぬ。今朝の閲兵式の総人数も、通常通りでした」
 困惑する上官たちを見て、ヒースはカイルに尋ねた。
「カイル。その手紙は真実、リエーラ・フォノイの手蹟によるものか?」
 しかし、青年が彼女からの手紙を受け取ったのは、今回が初めてである。そうだと言い切れる確固たる証拠はない。
「……オレには、セフィが聖都にいないという事実だけで十分だ」
「そのことだが、巫女殿が可愛がっていた人狩鳥が来なかったというだけの話なのだろう? 案外、故郷に彼女の手紙を運んでいる途中かもしれぬではないか」
 セレイラ警備隊は、《光道騎士団》の行動を常に監視している。そのすべての目を欺いて聖都を出立するなど不可能なはずだ。
 ガローヴの言葉に、カイルは薄笑いを浮かべた。
「あんた、案外、楽観主義者なんだな。じゃあ何故、リエーラ・フォノイはオレにこんな手紙を? いや、これが彼女の手紙ではなかったとしても、誰が何のために、なぜ一平民のオレに?」
「………」
「だいたい、あんたたちにだって、このことが何かの間違いだとオレを説得できる材料など何もないはずだ。殺された神官が聖なる山に埋められる町を『守っている』と言って憚らないあんたたちに」
 途端、ガローヴの顔に走った傷が赤く浮き上がり、ヒースは慌てて二人の間に割って入った。彼は内心ではまだカイルのことを諦めたわけではないので、あまり上官の覚えが悪くなっても困るのだ。
「カイル、口が過ぎるぞ」
 しかし、彼の言葉はいっそう青年を不愉快にさせた。
「口が過ぎる? わかった」
 カイルはふいに身を翻すと、扉の方へ向かって歩き出した。不安顔で突っ立っていた少年に、すれ違いざまに声を掛ける。
「ラスティン、行くぞ」
「えっ。で、でもっ」
「こんなところで時間を潰している場合じゃない。こうしている間にも、セフィはどんどん遠離っているんだ」
「そんな……!」
 普段なら険悪な雰囲気を取りなそうともしただろうが、母が死に瀕している今、ラスティンにとっては姉セフィアーナに会うことが最優先である。すぐにアグラスを連れ、青年の後に従った。そんな二人を溜息とともに呼び止めたのは、ディオルトだった。
「待て、カイル」
 総督は振り返ったカイルの顔を、真っすぐと見つめた。
「おぬし、その少年と二人で行くつもりか? もしその手紙が真実だったとしたら、いかがする。相手はあの《光道騎士団》だぞ?」
 わざわざ秘密裏に動いた彼らが、真実を知り追いかけてきた二人をどう扱うか、火を見るよりも明らかだった。しかし、青年にとって、それは何の足枷でもなかった。それどころか、それこそ彼を少女のもとへ走らせる理由となる。
「オレは彼女を守ると自分に誓ったし、こいつをセフィに会わせると爺さんに約束もした。誓いも約束も、必ず果たす」
 カイルに新しい生命を吹き込んでくれたのは、セフィアーナである。その彼女を、彼は守ると誓った。その誓いを守れないのなら、彼にとって生きる意味はない。
「カイル……!」
 青年の頼もしい言葉に、少年が感動で目を潤ませているのを見て、ディオルトは再び吐息した。
「……ヒース」
 総督の顎がカイルたちを指すのを見て、ヒースは首を竦めた。
「子守りはあまり好きではないんですが」
 それから一ディルク後、ついに泣き出した空の下、カイルとラスティンは、警備隊から借り受けた馬に乗り、副長ヒース=ガルド以下十名を引き連れて聖都を発った。どさくさに紛れて警備隊の制服を着せようとするヒースを、カイルはひたすら無視した。
 目指すは、暗雲立ちこめる北の高原エルミシュワ。少女の笑顔が今の空のようにくすんでいないことを、カイルは祈った。


 雨が叩く窓辺からカイルたちを見送った後、ディオルトは机の反対側に直立しているガローヴ=ドレインに言った。
「問題はふたつだ」
 すなわち、前年の《太陽神の巫女》の消息と、月光殿管理官アイゼスの消息である。
「あの若造めに言いたい放題にはさせませぬ。ただちに対処いたします」
 ガローヴは警備隊の中でテティヌ出身の者を呼ぶと、彼とその相棒に即日テティヌへ出立させた。前の巫女エル・ティーサを引き取ったはずの神殿がどうしているのか確かめるためだ。その一方で、リエーラ・フォノイの手紙にあった、エル・ティーサの墓の捜索も行う。とはいえ、ルーフェイヤ聖山は完全に神殿の管轄区域であり、迂闊には立ち入れない。そこで、ガローヴは一計を講じた。
「盗賊が盗品をルーフェイヤの山中に隠したと吐いた。その中には国王陛下に献上する品もある。よって、今から捜索させて頂く。異存はあるまいな」
 翌日、向かった《月光殿》で、アイゼスの代理を務める神官にそう告げると、早速、部下たちを山中に散らばらせた。《月光殿》側は案の定、お目付役の神官たちを派遣してきたが、無論、断りはしない。エル・ティーサの聖骸が見付からなければそれに越したことはなく、大仰に「盗品が見付からない!」と嘆いて見せればいいだけのことだ。もし見付かれば、殺人事件として、大手を振って捜査できる。
「ついでだ。副長が言っていた死体ふたつも掘り返せ。案外、他にも埋まっているかもしれぬぞ」
 あまり派手に掘り返しては、信徒たちからも聖域荒らしと反発を喰らうことになるが、暗躍する《光道騎士団》の尻尾を掴む絶好の機会である。これからのことを考えると、絶対に無駄にはできない。
《光の庭》の入口に構えた本部で、ガローヴは定期的に戻ってくる部下たちの報告に耳を傾けた。そんな彼を、《月影殿》の最上階から見下ろす人影がある。
「……宜しいのですか? いったいどこから嗅ぎつけたのか……」
 聖衣を纏った少年は、窓布を閉めると、部屋の中央で椅子に腰を下ろしたデドラスを振り返った。その問いに、扉側の壁際に立っていた若い神官が同じように管理官に視線を向ける。それに答えたのは、デドラスの背後に控えていた、やはり年若の神官だった。
「捨て置け。死人に口なしだ。死体が見付かったところで、我々に繋がるものなど何もない。新たな事件が発覚したと喜ばせておけばよい」
 三人とも、瞳の色も肌の色も違うわりに、その無表情さはいずれも変わらぬものだった。
「《白影》、《蒼影》、《紅影》」
 物静かなデドラスの声に、三人は彼の前に並び立った。
「はい、デドラス様」
 そんな彼らを、デドラスは少し笑みを浮かべて見遣った。
「そなたたち、ここへ来てからずっと不服そうだが、何か言いたいことがあるのではないのか」
 三人は思わず顔を見合わせた。いつもそうだった。彼らがどんなに仮面を取り繕っても、デドラスには一発で見抜かれてしまう。
「……なぜ、《金炎》の傍に《紫影》を?」
 最初に言葉を発したのは、三人の中では一番年上の《白影》だった。
「そのことか」
「《紫影》は《金炎》を最初に自分のものにしようと考えています。あの性急さは危険です」
 そう言ってわずかに面持ちを硬くした《蒼影》を見て、デドラスは蒼氷色の瞳を伏せた。
「……確かに危険だ。《金炎》を巡って、そなたたちに不和が生じていることは」
 上の二人がはっと息を呑むのに対して、最年少の神官《紅影》は、小さく首を竦めて見せた。
「私は《紫影》のことは何とも思っていません。昔から、私が《金炎》をこの手にするのは、一番最後と思っていますから」
 それを聞いたデドラスは、小さく笑った。
「《白影》、《蒼影》。《紅影》を見習ったらどうだ。《紫影》には、もし《金炎》に手を出したら殺すと言ってある。あやつも、自分の命は惜しいだろう」
 デドラスは椅子から立ち上がると、三人に向かって手を払った。
「闇に溶けよ。セレイラと、サイファエールと、カルマイヤの闇に」
「はっ……」
 彼らは深く頭を垂れると、音もなく退出していった。


 総督府内にある礼拝堂の床に置かれた棺に、ディオルト=ファーズは自ら神旗を掛けると、祭壇に向かって祈りを捧げた。
 ルーフェイヤの山腹から見付かった盗品・・は、同じ場所から発見された《太陽神の巫女》の腕輪によって、エル・ティーサのものと断定された。――無論、同行した神官には気付かせていないが。
「神よ、なぜ貴方の娘をこのように早くお召しになったのです……」
 セフィアーナほど強烈にではないが、ディオルトは無論、エル・ティーサのことも覚えている。あの頃はまだラフィーヌと呼ばれており、大神殿の推薦を受けているわりには大人しい性格で、《月影殿》の回廊を俯き加減で歩いているのをよく見かけた。聖儀は大丈夫なのだろうかと心配したこともあったが、やはり、巫女に選ばれた娘だけのことはあり、本番では見事な《称陽歌》を披露したものだ。
「……さて、これであの手紙が事実を述べていることがはっきりした」
 今度は、アイゼスの消息を突き止めなければならない。そして、なぜデドラスが秘密裏に事を運ぼうとしているのか。
 リエーラ・フォノイの手紙には、邪教に惑わされたエルミシュワの民が暴挙に及んだ可能性があると書かれてあった。確かに、迫害された信徒たちを守るために《光道騎士団》が出撃することは、たとえ有史以来、前例がなく、衝撃的なこととはいえ、まだ理解できる。しかし、それならば、何も闇の中で行うことはない。いや、《光道騎士団》の正義を示すためには、そうするべきではない。
(いったい、何が起ころうとしているのか……)
 ディオルトは吐息すると立ち上がり、ガローヴを振り返った。
「ベスウェルに百騎を率いてヒースの後を追わせろ。おぬしはこの都を徹底的に洗うのだ。《光道騎士団》が二つ存在した・・・・・・など――」
 ぎりっと歯がみして、ディオルトは祭壇の壁にかかる神旗を見上げた。
(――宰相閣下、貴方がいらっしゃらないので、サイファエールには問題が多発していますよ……)
 彼をこの地の総督にと推薦してくれた男の信頼に報いるために、ディオルトは命が尽きるまでこの地に留まることを決心した。

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