The story of Cipherail ― 第七章 玉座を継ぐ者


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 山道で野営した一行は、翌朝、日の出とともに出発した。濃緑の森はときに陽の光を遮り、彼らの頭上を暗く覆った。迂回の道は山を大きく巻くもので、時折、木々の切れ間から煙が立ち上るのが見えたが、実際にはなかなかそれに近付かない。それでも六ディルクほど歩き続けて、ようやくテフラ村に辿り着いた。
「ここが、テフラ村……」
 切り開いた山肌に、井戸を中心として小さな家が点々と立ち並んでいる。その数、およそ十。途中、通過したトルイ村よりもさらに小さな集落であった。
(なんだか谷を思い出す……)
 鳥のさえずり、子どもたちの遊ぶ声、日に霞む緑の景色――胸に迫るものを感じて、セフィアーナは瑠璃色の瞳を細めた。ダルテーヌの谷を出て三月――それは長いような短いような時間であった。
「……行こう」
 イスフェルの声に、一行は再び歩き始めた。広場の子どもたちが、突然の訪問者たちに遊ぶのをやめた。井戸端でおしゃべりに夢中の母親のもとへ行き、その裾を引っ張る。気付いた女たちは、しかし、彼らに近付いてこようとしなかった。全員騎乗し、村人たちが見たことも触れたこともないような鮮やかな衣装を纏っているのだから、無理もない。彼女たちの中のひとりが一番大きな家に走っていき、ひとりの老人を連れて出てきた。
 イスフェルが馬から降りて歩み寄ると、老人はしわがれた声を発した。
「この村に何か用ですかな?」
 腰が曲がり、髭も真っ白であったが、その瞳にはなお力があった。
「私はイスフェルといいます。レイミアという女性がこの村にいると聞いてきたのですが、御存知ですか?」
 イスフェルが言うと、老人はわずかに目を見張り、急に顔を険しくした。
「……確かにレイミアという者はおるが、あれに何の用ですかな」
「以前、彼女に助けていただいたことがあるのです。そのお礼に」
 すると、老人はイスフェルの美しい藍色の外套をじろりと見遣り、棘も露わに言った。
「お礼。あんたのような人が、こんな山奥の村までわざわざかね?」
 どうやら老人は、貴族に対して激しい嫌悪感を抱いているらしい。しかし、イスフェルはそれに反論することなく、静かに言った。
「……彼女に会いたいのですが、今はどこに?」
 しかし、老人はそれきり口を閉ざしてしまった。傍らに立っていた女性が困ったように口を開こうとした時、突然、背後で悲鳴が響いた。
「ノーラ! ノーラ!」
 振り返ると、女たちが蒼くなって井戸の中を覗き込んでいる。
「どうしたの!?」
 老人の傍らの女性の問いに、子どもたちが一斉に答えた。
「ノーラが井戸に落ちちゃった!!」
「何じゃと!?」
 老人が目を見開くと、その視界いっぱいに藍色が広がった。眼前に立っていた青年が、身を翻して走り出したのだ。
「水桶を降ろすんだ!」
 イスフェルの指示に、井戸に駆け寄ったシダとセディスが従う。覗き込もうとする子どもたちを、セフィアーナは作業の邪魔にならないよう遠ざけた。井戸の底から、泣き声と激しくかき回される水の音が響いてくる。
「ノーラ、水桶に掴まるんだ!」
 水桶がノーラの頭に当たらないよう注意しながら降ろすと、イスフェルは暗い井戸の底に向かって叫んだ。そして、水桶に結ばれた紐を引っ張る。が、手応えがない。
「ノーラ、桶に掴まれ!」
 今度はシダが叫んだ。祈るような気持ちでもう一度紐を引くと、今度は水桶とは別の重みがあった。三人の顔がぱっと輝く。
「いいぞ! 桶を放すなよ!」
 近衛の二人も加わって、五人で紐を引く。しかし、幼い少女の腕力は、自分の重みに耐えられるものではなかった。
 突然、水桶が軽くなり、五人は同時に尻もちをついた。続いて、派手な水音が響く。
「ノーラ!」
 ノーラの母親と思われる女性が井戸の縁に駆け寄った。
「ノーラ! ノーラ!」
 セフィアーナは泣きわめく彼女の背中を撫でながらそこから離れるよう説得すると、女たちに彼女を託した。今は何よりノーラの生命が重要である。
「よし、もう一度だ」
 冷や汗が額をつたう。水桶を降ろした後、再び五人が構えた時、ユーセットの声が響いた。
「一気に引き上げなければ無理だ。イスフェル、その紐の端をくれ」
 紐の長さを考えると、井戸は少なくとも十五ピクトの深さがある。それを振動の多い人間の力で引っ張っていたのでは、とても少女を助けられない。
 イスフェルが言われた通りにすると、ユーセットはそれを持ったまま馬上の人となった。鞍の縁の輪に、手早くそれを結びつける。
「子どもは掴まっているか?」
 セディスが確かめた上で頷く。
「よし、引くぞ」
 ユーセットの馬は最初の一歩だけ強く踏みしめると、あとは何の抵抗もなく前方に進んでいった。井戸の上の滑車が軽快な音を立てる。しばらくして少女の腕が井戸の中から現れた。頭、胴体、足と続く。周囲でわっと歓声が上がり、ユーセットはそれを合図に馬を止めた。
「よく頑張ったね。もう大丈夫だよ」
 イスフェルは、顔を歪め、全身ズブ濡れの少女を抱き取ると、自分の外套にくるみ、駆け寄ってきた母親に渡してやった。
「ああ、よかった……ノーラ、ノーラ……!」
 母親の腕の中でぐったりとしながらもちゃんと呼吸する少女を見て、イスフェルたちは頷き合うと、安堵の吐息をついた。
「……ああいう人間なのです、イスフェルは」
 輪の外で事態を見守っていた老人が顔を上げると、いつの間にか横に黒髪の女騎士が立っていた。
「礼も、詫びも、言うべき時を知っている男です。それは、生まれも育ちも関係なく、人間として尊敬すべきところではありませぬか、ご老人?」
 水桶をもとに戻す青年たちを見て大きく息を吐き出すと、老人は杖を突いて歩き出した。イスフェルたちを取り囲んでいた村人たちが、それに気付いて道を開ける。
「……今、男たちは皆、狩りで出払っておってな」
 クレスティナの視線を背に感じて、老人は眉間に寄せていたしわを解いた。
「……あんた方がいて下さって、助かった。大切な村の子を救ってくださったお礼がしたい。男たちが獲物を捕らえて戻ろうから、今晩、わしのうちにお越し下され。宴を催そう」
「ありがとうございます」
 イスフェルが軽く頭を下げた時、初めに老人を呼びに行った女性が「あら」と声を上げた。
「マリオ、居たの。ちょっと来て」
 彼女の手招きに、輪の外でぽつんと立っていた少年がやって来た。
「ミリー、なあに?」
 梔子色の巻き毛に木の葉をからませ、少年は不思議そうに天色の瞳を瞬かせた。年齢は七、八歳だろうか、黄褐色の衣服をまとい、手には野苺の入った籠を持っている。
「野苺摘みに行ってたの?」
「うん。母さんが果醤を作ってくれるんだ」
「そう。レイミアなら美味しいのを作るわね」
 ミリーという女性は、自分の前に少年を立たせると、イスフェルを見た。
「イスフェル様。この子はレイミアの子で、ファンマリオといいます」
 不意打ちを喰らい、和やかな会話に思わず浮かんでいた微笑みが、色を亡くしてイスフェルの顔に張り付いた。いや、彼だけではない。他の八人も言葉を失い、木偶人形のように立ち尽くしていた。
「この人たちね、あなたのお母さんに会いに来たんだって。何かお話があるみたいだから、家に案内してあげてくれる?」
「えっ、母さんに?」
 突然現れ、ノーラの生命まで救った訪問者たちの目的が自分の母親だったとは思いも寄らなかったのだろう。マリオと呼ばれた少年は、驚いたようにイスフェルたちを見遣った。
(この少年が、陛下の御子――我がサイファエールの、王子……)
 イスフェルは足が震えそうになるのを必死で堪えると、ゆっくりと膝を折った。吸い込まれそうなほど大きな瞳に自分が映り込む。それを見た時、レイミアの子どもはもしかしたら国王の落胤ではないかもしれない――そんな疑念は、いっぺんに吹き飛んだ。彼は、国王と同じ、優しい天色の瞳をしていた。
 近衛の者たちは、イスフェルに倣って跪こうとしたが、クレスティナに遠巻きに制された。そんなことをすれば、村人に要らぬ混乱を招くだけだ。
「……私は、イスフェルといいます。貴方のお母上に以前、助けられた者です。お母上は……お母上は、お元気ですか?」
 戦場で道を失い、負傷した国王を助けてくれた――そのことで、どれだけの人命が救われたことか。
「お母上……? か、母さんなら、とっても元気だよ……」
 自分を真っ直ぐと見つめる鮮やかな藍玉の瞳に、少年は少しおどおどとして答えた。
「ボクのうち、あっちだけど……」
「レイミアの家は、一番奥にあるんです」
 ミリーという女性がファンマリオの頭を撫でながら村の奥を指す。イスフェルの頷きに、他の八人はそれぞれの馬の手綱を取った。
「すごい。みんな馬を持ってるの……?」
 ユーセットがイスフェルに手綱を差し出すのを見ながら、ファンマリオは放心したように言った。
「馬に乗られたことはありますか?」
「う、ううん。この村にも、馬はいないもの……」
「乗ってみられますか?」
「えっ? い、いいの……?」
 目を見開くファンマリオの前で、イスフェルは軽やかに鞍上に身を跳ね上げると、少年に向かって手を差し出した。
「さあ」
 ファンマリオはユーセットに抱えてもらうと、イスフェルの前に座った。
「わあ、すごく高い!」
「気持ちが好いでしょう。さあ、歩きますよ」
 途端、ファンマリオがごくっと喉を鳴らした。イスフェルは、自分も昔、父の前に乗せてもらって同じ事をしたことを思い出し、口元に笑みを滲ませた。


「まだ、向こうだよ」
 ファンマリオの案内に従って歩き続けるうちに、一行は集落を随分と外れてしまった。辺りは再び木々に囲まれ、道も丈の高い草で覆われている。
「随分と村から離れるのですね」
「うん。でも、もうすぐだよ」
 少年が言い終わらないうちに、木で造られた小さな家が見えてきた。高床式の造りで、玄関の前には五段ほどの階段がついている。
「ここだよ」
 ファンマリオは馬から降ろしてもらうと、階段を駆け上がった。
「母さん、ただいま!」
 元気なファンマリオの声とは対照的に、馬から降りて建物を見上げたシダの声は深刻だった。
「おい、これって……」
 誰も、何も言えなかった。それが、どう見ても穀物庫の造りをしていたからだ。全員がレイミアの苦労を偲んだその時、開け放たれた戸から、室内の明るい声が聞こえてきた。
「母さん、はい、野苺」
「おかえり、マリオ。まあ、たくさん採れたのね」
「うん! 果醤、たーくさん作ってね」
「ええ、母さんに任せておいて」
「やったあ! ――あ、そうだ。ねえ、母さん。お客さんだよ」
「え?」
「イスフェルっていう人。他にもたくさん」
 急に静かになった室内に、外の九人は息を呑んだ。しばらくして、ひとりの女性がゆっくりと姿を現した。森の風に、青摺色の裾子が揺れる。戸口の壁に手を当てて佇む様は、線こそ細かったが、どこかクレスティナと似た、自立した女性の力強さを感じさせた。小麦色に焼けた肌も、それに一役買っているかもしれない。梔子色の髪をきちんと結い上げ、大きな藤色の瞳、丸みを帯びた頤といった、少し幼げな印象を与える顔立ちを、大人っぽく見せていた。
 イスフェルが一歩踏み出した時、半ば呆然と訪問者たちを眺めていた藤色の瞳が、にわかに見開かれた。その視線は、近衛兵の胸を飾っている紋章に注がれていた。
「レイミア様――」
「こ、来ないで!」
 その悲痛な一言が、すべてを物語っていた。九年前、彼らが彼女にしたこと。そして今日、彼らが彼女にすることを。恐ろしいものでも見るかのようなレイミアの視線に、イスフェルの身体は容易に動きを止めた。
「来ないで下さい。どうか、どうか……」
「母さん……?」
 母親の異常な反応に、ファンマリオが心細げに眉を顰める。
「レイミア様……」
 イスフェルは苦渋に顔を歪めながら、それでも再び一歩を踏み出した。しかし、レイミアの口からは彼らを拒絶する言葉しか出てこなかった。
「来ないで! 帰って……帰って下さい……! 帰って、お願い……」
 ガタガタと身体を震わせて、レイミアは戸口に崩れ落ちた。その横に、ファンマリオが半泣きの表情で寄り添う。
「か、母さん? 母さん? 母さん……」
 その時だった。
「母さんに何するんだ!!」
 激した声が、木々の間に響いた。しかし、それはファンマリオの口から発せられたものではなかった。声のした方へ訪問者たちが不審げに振り返ると、村へと続く道の入口に、ひとりの少年が険しい表情を浮かべて構えていた。
「………?」
 一瞬、何が起こったのかわからなかった。九人が九人とも顔に穴を開け、その少年を見つめた。続いて、再び戸口を見遣り、ファンマリオの存在を確認する。そのファンマリオが立ち上がり、叫んだ。
「ミール!」
 呆然と立ち尽くしている九人の間を走り抜け、ミールと呼ばれた少年は、持っていた棒のようなものを投げ捨て、レイミアのもとへ向かった。
「母さん!」
 そして、母親が顔色を亡くしているのを見て取ると、キッと階段下の大人たちを睨み付けた。
「おまえら、母さんに何をした! 帰れよ! 帰れ!」
「かあ、さん……?」
 シダの口から、心の中の声が漏れ出る。その横で、ユーセットは自分の見ているものが信じられず、思わず目を擦った。しかし、その後の光景は、それ以前の光景と何ら変化はなかった。
(何という、ことだ……)
 レイミアの左右にしゃがむ少年たちの顔は、鏡に映したように同じだった。顔だけではなく、その姿、その声までも。
 サイファエールに希望の光をもたらすはずの王子は、大陸諸国の歴史上、王家に不和と不幸、国家に混乱と分裂しかもたらしてこなかった双子だった。
「ほら、母さん。家の中に入ろう。マリオも」
「う、うん……」
 八歳の小さな手で必死に母親を庇いながら、少年たちは家の中へ入っていった。戸を閉める時、ファンマリオがちらりとイスフェルを見たが、それはそのまま閉ざさされてしまった。
「……密使は、いったい何を見ていたのです」
 パウルスが振り絞るように声を出したのは、流れる雲が二度ほど陽の光を遮った後だった。
「王子が、双子だなんて……」
 それを聞いて、セフィアーナは心配そうに曇らせていた表情を強張らせた。ひとりだけでいい、ひとりしか要らない――一瞬、そんなふうに聞こえてしまったのだ。無論、そんなつもりがパウルスにないことはわかっている。
(イスフェル……)
 セフィアーナは、仲間に背を向けたまま立ち尽くしているイスフェルを見た。彼は、今もなお、少年たちが消えた戸を見ていた。
「……とにかく、ここは一度引き揚げた方がいい」
 クレスティナの指示で、失意の中、一行は再び馬に身を任せた。
 最後にその場を離れようとしたイスフェルは、森の入口にミール少年が落としていった物に気付いた。拾い上げると、それは小振りの弓だった。ミールも村の狩りに参加していたのだろう。青年はもう一度レイミアたちの家を見上げた。小さな窓がひとつしかないその中で、今、彼女たちはどんな思いを抱えていることだろう。レイミア親子の拒絶は、彼が考えていた以上のものだった。強制的に王都に連れ帰ることは可能だが、勿論、イスフェルにそんな気は毛頭ない。幸福の大輪を咲かせるには、幸福の種を植えるしかないのだから。
「……また、参ります」
 そう呟くと、イスフェルは仲間たちを追った。


 近くで梟の鳴く声がした。ファンマリオが小さな窓から外を覗くと、夜空に少し痩せた月が浮かんでいるのが見えた。
(……昼間の人たち、また来るのかな……)
 三人でひとつの寝台に今はひとりで横になっている母親を、ファンマリオは気遣わしそうに振り返った。いつも優しげに笑っている顔は、あれ以来、凍りついたままだった。
(あの人――イスフェルって言ったっけ……)
 自分を見て、とても嬉しそうに微笑んでいた青年の顔を思い浮かべ、少年は溜息をついた。
(悪い人には見えなかったんだけどな……)
 その時、椅子の上でずっと膝を抱え込んでいたミールこと兄のコートミールが口を開いた。
「……マリオ、今度あいつらが来たら、すぐにオレに知らせろよ」
「え……?」
「母さんを泣かせるヤツは、誰だろうとオレたちで打ちのめすんだ」
「………」
 黙り込んでしまった弟を、コートミールは同じ天色の瞳で睨み付けた。
「なんだよ、おまえ。オレたちで母さんを守るって約束しただろ」
「それは、わかってる、けど……」
 ファンマリオは窓辺から寝台へ向かうと、跪いて母親の手を取った。
「……ねえ、母さん。あの人たち、誰なの……? 母さんの知り合いなんでしょ?」
 蝋燭の炎に細く照らされた息子の顔は困惑の表情を浮かべており、レイミアは言葉を詰まらせた。
「いいえ、違うわ……」
「えっ? でも、あのイスフェルって人が、母さんに話があるって……」
 途端、レイミアは表情を強張らせた。
「そう……。そう言ったの……」
「うん……」
 レイミアは片肘を着いて身を起こすと、ぎゅっと目を綴じた。
(今を逃したら、私たちは――)
 そんな彼女に、息子たちが心配そうに声をかける。
「母さん? どこか痛いの?」
 レイミアは首を振ると、二人を強く抱きしめた。
「……支度をして。逃げるのよ」
 それに少年たちは異なった表情を浮かべたが、母親のただならぬ様子に、反論しようとはしなかった。
 戸を開けると、村の方から人々の酔い騒ぐ声が聞こえていた。

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