The story of Cipherail ― 第一章 風の谷の詩


     3

その日の午後、幼い子どもたちを寝かしつけたセフィアーナが洗濯物を片付けるために一階へ下りると、先輩神官のエイダ・カーシュが回廊の向こうからやって来た。
「もう寝たの?」
 少女の姿に目を見張るエイダ・カーシュに、セフィアーナは肩を竦めて見せた。
「寝物語の途中で子守歌を歌ったの」
 遊び盛りの子どもたちに昼寝をさせるのは容易なことではない。右に布団をかけると左がはねのけ、前をあやすと後ろが喧嘩を始める。初めて担当した頃はなかなか寝てもらえず、彼女の方が先に枕に沈んだものだった。
「さすがダルテーヌの歌姫ね。今朝の歌も素晴らしかったわ」
「ありがとう」
 はにかみながら礼を言うセフィアーナに笑顔で応じながら、エイダ・カーシュは大事なことを思い出した。
「そうそう、院長先生が貴女をお呼びよ」
「先生が?」
 またお使いかしら、と首を傾げつつ、セフィアーナはエイダ・カーシュに礼を言うと、その足で院長室へ向かった。


 スリベイラ孤児院院長シュルエ・ヴォドラスは、代々の院長に愛用された椅子に腰を掛け、物思いに耽っていた。
 半ディルク前まで、彼女の前の長椅子には、村長のヒーリックが座っていた。その彼に、突然とんでもないことを提案されたのだ。いや、彼の内では既に決定したことであり、もはや提案などという次元を超えてしまっていたが。
 朝礼が終わるや否や、ヒーリック老は院長室に駆け込んで来、こう言ったのだ。
『セフィを《太陽神の巫女》に推薦してはどうかのう!?』
《太陽神の巫女》とは、毎年春先に行われるテイルハーサ教唯一の祭典《尊陽祭》の聖儀で、《称陽歌》を歌う乙女のことである。毎年、各地から集まった少女たちの中からただ一人選ばれ、見事に任務を果たした暁には、大変な名誉を授かることになっていた。
 最初は「何を馬鹿なことを」と、まともに取り合おうとしなかった院長も、巫女に選ばれた者が神官を志している場合、引き続き聖都で修業できることを聞かされて、村長の戯言で済ませるわけにはいかなくなった。
 シュルエ・ヴォドラスは、深い溜息を漏らした。
 神官になりたいというセフィアーナにとっても、それを受けていつ彼女を神殿に預けようかと思案していたシュルエ・ヴォドラスにとっても、この話は絶好の機会のはずだ。それでなくとも、セフィアーナは巫女としての資質を充分に持っている。性格は春風のごとく、容姿は愛と美の聖官エリシアの落とし子さながら、《聖典》の知識にもこの三年で精通した。そして何より、その類い希なる音楽的才能である。《太陽神の巫女》に最も必要なそれを、彼女は毎日惜しげもなく披露していた。これを逃す術はない。
 しかし、近年、大陸に散在する神殿の中には、「《太陽神の巫女》を我が神殿から!」と、若い娘にわざわざ修業させているところもあるという。そのことを考えると、こんな山奥の孤児院で育った少女など、好んで間引きされる苗になりに行くようなものだ。
「もしもそのことで、あの娘が傷付くようなことになったら……!」
 おもむろに頭を抱え、次の瞬間、はっとして手を組んだ。
「神よ、お許し下さい。勝手を申しました……」
 震える肩に、ぐっと力を入れる。
 本当は解っていたのだ。セフィアーナをそれでも推薦すれば、きっと合格するということを。そして、そうしたくない醜い己の存在を。
 ……十六年前の今日、礼拝堂の祭壇に、まるで供物のように置かれていたセフィアーナを最初に発見したのは、他でもない、このシュルエ・ヴォドラスだった。
 彼女には以前、二度ほど妊娠し、その両方を流産した経験があった。我が子を二度も失い、哀しみに狂わんばかりのシュルエ・ヴォドラスを、彼女の夫は励まし、優しく包んでくれた。しかし、悲劇はまだ続き、まもなく行われた戦争で、夫は還らぬ人となってしまった。彼女が神官となったのは、それからまもなくのことである。
 親を失った子どもたちの世話をしながら、シュルエ・ヴォドラスは来る日も来る日も祈り続けた。この世の光を浴びることなく死んでしまった我が子たちに、一刻も早く新しい生命をお授け下さい、と。そして、それから十五年経ったある日、つまり十六年前の今日、美しい赤ん坊が突然、彼女の前に現れたのだ。
 最初、夢ではないかと思った。神が愚かな自分に罰を与えるため、幻影を見せているのではないか、と。しかし、シュルエ・ヴォドラスがおそるおそる抱き上げた時、その赤ん坊は、それらしくない強い意志を秘めた瞳で彼女を見上げたのだ。まるで、貴女を救いに来ました、とでも言うように……。
 赤ん坊を育てることが長年の夢であったシュルエ・ヴォドラスにとって、降って湧いた赤ん坊の世話など、砂漠の砂粒ほどの労苦も感じなかった。当時の院長の許しを得、自ら名付け親になった彼女は、「その心、春風のごとし」と称えられる大地と豊穣の女神テルアーナに因み、セフィアーナとした。その想いを知ってか知らずか、流れる年月の中で、セフィアーナは誰からも愛される、美しい少女に成長したのである。
 もしセフィアーナが《太陽神の巫女》に合格すれば、若干十二歳で神官となることを決めた彼女のことだ。必ず聖都に残ることを希望するだろう。そうなると、シュルエ・ヴォドラスは手塩にかけて育てた我が子同然の少女を、もう傍で見守ってやることができなくなるのだ。その成長を微笑みと共に眺めることは、できなくなる。
 シュルエ・ヴォドラスは苦しかった。神の足下に跪いて早三十一年。院長という大任を任されながら、まだ自己中心的な考え方で、ものに執着する心を払拭することができていなかったことを、改めて思い知った。見失いかけた彼女の理性が、そんな彼女を責め立てる。そして更に、セフィアーナを巫女に推薦することを要求してきた。
 シュルエ・ヴォドラスには、常々考えていることがあった。もしセフィアーナが普通の家庭に育てられていたら、どのように成長していただろう、と。そして、それは、彼女が神官になると言い出した時、具体的な不安となってシュルエ・ヴォドラスの心に突き刺さった。孤児院という、ある意味、特殊な空間に少女を閉じこめていたことで、彼女の未来の可能性を奪ってしまったのではないか、という不安である。
 神官となることに異議を唱えているのではない。そんなことをすれば、己ばかりか神の存在まで否定することになる。つまり、セフィアーナにもっと選択の余地を与えたいのだ。神を敬い、祈りを捧げることくらいなら、専門の道に入らずともできる。しかし、このままいくと、彼女は恋も家庭も知らずに一生を終えることになるかもしれないのだ。
 聖都へ行けば、これまで感じ得なかったもの――宗教の現実と限界と矛盾とを、肌で感じることができるだろう。その結果、それでも少女が神官になることを希望するのならば、その志が真実本物だっただけの話だ。もはや言うことはない。反対に、少女が夢に疑問を抱くようならば、それはそれで仕方がない。あとは一人の女性として平凡な幸福を追い求めることになるだろうが、それに関して、シュルエ・ヴォドラスは養母としてできるかぎりのことをしてやる気でいる。とにかく、今の時点でセフィアーナが神官を志している以上、孤児院ではまともな修行ができない以上、彼女に一度、外界の空気を吸わせる必要があるのだ。
「ああ……」
 強く瞼を閉じながら、決断しなければ、と思った。先程、セフィアーナを呼びに遣ったので、そろそろやって来る頃である。
 決断と言っても、シュルエ・ヴォドラスが選ぶ道は、ただひとつしかない。それ以外にはありえない。ただ、彼女自身、けじめをつけなければならなかったのだ。


 セフィアーナが院長室の扉を叩くと、中から聞き慣れた声が入るよう指示し、彼女はそれに従った。
「お呼びですか?」
 戸口に立ったままの少女に、彼女の養母である院長は、椅子に座るよう促した。セフィアーナは、彼女の改まった態度に微かな不安を抱きながら、長椅子に腰を下ろした。
 短い世間話の後、セフィアーナが遠慮がちに用件を尋ねると、院長は少女の瑠璃色の瞳をまっすぐ見据え、ゆっくりと口を開いた。
「今日呼んだのは、他でもない、貴女の将来について話し合うためです」
 セフィアーナは、驚いてシュルエ・ヴォドラスを見た。そのことについては、彼女が十三歳になる時、既に話し合っていたからである。
「どういう、ことですか……?」
 セフィアーナの疑問に満ちた声を聞きながら、シュルエ・ヴォドラスは席を立つと、窓辺に向かって歩いた。
 我が子かわいさにずっと谷に囲ってきたが、そろそろ潮時である。
「……貴女、今日で十六歳になったのでしたね」
「は、はい……」
 実際に置き去りにされたのは生後数か月の時であるから、この日が誕生日というわけではないが、少女にも誕生日が必要と、シュルエ・ヴォドラスが決めたのだ。
 院長の穏やかな声に、次は何を言われるのか、とセフィアーナは長椅子の上で身を固くした。
「神官になりたいと言った、あの時の気持ちは、今も変わりませんか?」
「それは、勿論です」
 途端、それまで窓の外を眺めていたシュルエ・ヴォドラスが、長衣の裾を翻してセフィアーナに向き直った。その表情は極めて真剣で、少女が今まで見てきた養母の顔のどれとも違った。
「それでは、貴女を今年の《太陽神の巫女》に推薦することにします」
「え……」
 一瞬、何を言われたのか分からず、セフィアーナは瞬きをしながら院長を見つめた。しかし、シュルエ・ヴォドラスはそれに構わず、言葉を続けた。
「もし合格すれば、《尊陽祭》が終わった後も、聖都の神殿で修業することができます。そうなれば、今までの知識不足や経験不足を少しでも解消することができるでしょう」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
 ようやくのことで、セフィアーナは声を上げた。ただでさえ動揺しているのに、《太陽神の巫女》だの神殿で修業だのと言われても、頭がついていかない。
「いったい、どういうことですか? 私は……今の生活に満足しています。先生に《聖典》のことを習ったり、子どもたちと一緒に過ごしたり……。私なんか、とてもダメです」
 いくらこの谷で暖かく受け入れられているとはいえ、世間全般がそうだとセフィアーナは思っていない。さらに、聖都は聖職者やそれを志す者にとって憧憬の地であるが、その反面、排他的で、長年功徳を積んだ神官でさえ、そこに暮らすことは容易ではない。セフィアーナが怖じ気づくのも無理のないことだった。しかし、その彼女に、院長は容赦なく鋭い視線を向けた。
「なんか……? それは、『孤児の私なんかが』という意味ですか?」
 肯定も否定もせず黙り込んでしまったセフィアーナを見て、シュルエ・ヴォドラスは小さく溜息をついた。
 いつかはどこかの神殿に少女を預けなければならないと解っていた院長である。村長さえ推薦の話を持ち込まなければ、もっと時間をかけて話し合うこともできただろう。しかし、逆に好い機会だと思うからこそ、話をなかったことにすることはできない。
「でもね、セフィアーナ」
 シュルエ・ヴォドラスは少女の隣に座ると、彼女の白い手を取った。
「ここは孤児院で、神殿ではないのです。貴女が神官になりたいと望んでいる以上、いつかはここから出ていかなければなりません。本当なら、三年前にそうしておくべきでしたが、あの時は色々あってバタバタしていたので、機会を逸してしまいました。その後も、貴女があまりに村の人々の支えになっていたので、今日まで居させてしまいましたが……」
「せ、先生……」
 瑠璃色の瞳が潤み、それを見たシュルエ・ヴォドラスは、自分の目頭が熱くなるのを必死で堪えなければならなかった。
「それに、私は聞いたことがありません。歴代の巫女の中に孤児がいたとは。もし貴女が本当に巫女になれたら、どれほどここの子どもたちを……いえ、国中の傷ついた人々に勇気と希望を与えることになるでしょう。貴女の歌にはそれほどの力があると、私は信じています」
「先生……」
 ついに四つの双眸から銀色の雫がこぼれ落ちた。肩を寄せ合い、普通の親子よりも固い絆を確かめ合う。
 この谷に来た日に、この谷を出ることを決意する。これも運命かも知れないと、セフィアーナは思った。扉を開けたのは自分なのだから……。

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