The story of Cipherail ― 異国人慕情

異国人慕情


「今宵は新月か……」
 露台から異国の夜空を見上げ、フィトラシスは溜め息をついた。
 祖国ジージェイルより駐在書記官としてサイファエールに派遣され早三年。もはや数え切れぬほど出席した宴に、この夜も身を置いている。
 もともと社交的でなかった性格は、職務上、変わらざるを得なかった。がむしゃらに走り続け、ようやく周囲を見渡す余裕が出てきたこの頃だが、同時に一抹の虚しさも胸を過ぎるようになっていた。
(私は、このままでいいのだろうか。私の進むべき道は、本当にこれで合っているのか――)
 性格のこともあって、志願してサイファエールに来たわけではなく、また遠く離れた家族のことも気になった。
「どうした、浮かない顔をして」
 周囲の華やかな雰囲気にそぐわない心情が面に出ていたのだろう、酒杯を片手に同僚のヴィゼリアスが流暢なサイファエール語で話しかけてきた。
 母国語こそ大陸公用語だと豪語するジージェイル王国だが、招かれたサイファエール貴族の宴のただ中でそれを使用することは要らぬ誤解を生むこともあるため、書記官たちは極力避けていた。
「いえ……仕事とはいえ、宴もいい加減――」
 その時、突然、階下で黄色い悲鳴が上がり、フィトラシスの後ろ向きな発言をかき消した。二人が手すり越しに中庭を見下ろすと、着飾った娘たちがまるで一輪の花のように集まっている。その中心で、ひとりの姫の手の甲に口づけていた人物が顔を上げた。それを見て、フィトラシスは目を丸めた。
(お、女……!?)
 その者が唯一、暗い色の衣装だったので、てっきり何処かの色男だと思ったのだが、篝火に照らされた横顔は女神像のように美しく、その立ち姿は凛として、他の姫たちとは明らかに違う霊気を纏っていた。同年代であろう囂しい姫たちを相手に、柔和な微笑を浮かべて応えてやっている様は、母親のようでもある。しかし、何処か一線を画すような頑なさも感じる、不思議な貴婦人だった。
(……まるで、アナパトリウムだ……)
 帰るところを引き留められたらしい。ひどく惜しまれながらその輪を離れた彼女は、遠巻きに待っていた屈強な男たちと合流した。そして今度は少年のような屈託のない笑顔で隣の男を小突きつつ、楽しげに去っていく。
「はっはぁ、あれがウワサの」
 ヴィゼリアスの愉快げな声に我に返ったフィトラシスは、淡い栗色の髪が頬を打つほど勢い良く振り返った。
「知っているんですか!?」
「なんだ、急にデカい声出して。あれがおそらく、クレスティナ=イザエルだ」
「クレスティナ……?」
「聞いたことないか? 近衛の紅一点」
 そこでフィトラシスは、その噂を耳にしたことを思い出した。
「ああ……確か、女だてらに小隊長に昇格したとか……」
「もともと上官の覚えは良かったようだが、実力もあったということだな」
 フィトラシスは、再び門に続く道を見た。しかし、その姿は既になく、人々の喧噪が闇に響いているだけだった。


「ねぇ、クレスティナ! あれはどこの官署の人!?」
 馬場での鍛錬が終わり、居室に戻る途中のことだった。池を挟んだ回廊を行くひとりの男を指して、ファンマリオが目を輝かせた。双子の兄王子コートミールが武芸を好む一方、学問を好む彼は、最近、得意の絵で各署の官服を描き、その色や意匠の由来を調べることに夢中になっている。
「あれは……ああ、間違いなくジージェイルの書記官ですね、あの白装束は」
 答えながら、クレスティナはくつくつと笑った。
 サイファエール王家が蒼を好むように、ジージェイル王家は白を貴しとする。そのせいか、ジージェイル大使館からの訪問者は、額布から衣服に靴まで白いことが多い。遠目に個人を見分けられるのは外套の色くらいだろうが、件の男はそれまでも白かった。
「あんな白ずくめじゃ、おちおち葡萄酒も呑めませんね」
 すかさず茶々を入れる新米のシダを、先輩風を吹かせるエザヤスが鼻で笑う。
「ジージェイルの書記官殿は、おまえのように小汚く酒を呑むまいよ」
「こっ小汚い!?」
「殿下の御前でやめぬか、二人とも」
 その時、回廊から建物に入ったはずのジージェイル書記官が、すぐにまた姿を現した。王子一行が不審げに見ているとはつゆ知らず、男は回廊を戻り、途中から別の回廊へと曲がっていった――かと思えば踵を返し、元の回廊を更に戻っていく。そして、クレスティナたちのいる回廊へ続く廊下に入ったと思いきや、足を止め、困惑した表情で周囲を見回しているのだった。
「……あれは完全に」
「迷子だな」
 部下たちが様々な笑みを漏らすのを後方で見て取って、クレスティナは右腕のパウルスに王子二人を託した。
「小隊長が行かれずとも、この下っ端どもを行かせれば」
「それで一緒に迷子になられた日には、サイファエールの近衛の名折れだ」
 途端、目くじらを立てるエザヤスとシダを横目で制し、クレスティナは軽く肩を竦めた。
「どのみち一度、官舎に戻らねばならぬのだ。大隊長に呼ばれているのでな。そのついでだ。さぁ、おぬしらはもう行け。次の講義の時間になる」
 そして王子たちを見送ると、クレスティナは外套を翻し、不安そうに歩いてくる迷子の正面に立った。ジージェイル人らしく彫りの深い顔立ちに大きめの黒い瞳で顎髭を蓄えていたが、見たところ齢二十四の彼女と同じくらいのようだった。
「失礼だが、何処への所用か伺ってもよろしいか?」
 途端、息を止めるほどに驚いた様子の異国の書記官に、クレスティナの方が驚いた。
「ア、アナパトリウム……!」
 耳慣れぬ言葉で呼ばれ、ますます困惑する。
「アナ……? 私はジージェイル語は解さぬのだが、ジージェイル語での『近衛』という意味か? ――ああ! 『女』という意味か」
 よくある反応をジージェイル語にも当ててみるとひどくはまったような気がして、クレスティナは面白くなった。しかし、残念ながらそれは外れたようである。
「い、いや、決してそのような意味では……。こちらこそ失礼しました。急にクレスティナ殿がいらっしゃったものですから……」
 初対面の異国人にいきなり名前を呼ばれ、クレスティナは内心で首を傾げた。だが、記憶の頁を繰ってみても、眼前の青年に見覚えはない。
「……またしても失礼ながら、以前お会いしたことが?」
「あっいや……宴でお見かけしただけで……」
「ああ」
 納得すると、クレスティナは頭を切り替えた。
「先程あちらの建物からすぐ出ていらしたな。何か忘れ物でも?」
「えっ、あ、いや……」
「通行証を亡くされたとか?」
「いえ、ちゃんとここに……」
 慌てたように懐に手を入れて、書記官はふと顔を歪めた。
「――もしかして、私は何か疑われているのですか?」
 それへ、クレスティナはにこりともせずに答えた。
「ここはサイファエール王宮だ。いくら身分正しいジージェイルの書記官殿といえど、無駄に長居されるのは好まぬ」
 すると、書記官は観念したように溜め息を吐いた。
「申し訳ありません。こちらへは久しぶりに参って……道に迷っただけなのです。あの、もし差し支えなければ、その、渉外の書記官室の場所を教えて頂きたいのですが……」
 それを聞いて、クレスティナは白装束を見付けた時のおかしさを思い出し、再び喉を鳴らした。彼が外套まで白い理由がわかった気がした。そして、無表情からいきなり笑い出した彼女を戸惑いの表情で見ている書記官に、軽く頭を垂れる。
「いや、こちらこそ意地悪を言って申し訳ない」
「意地悪……?」
「男は迷子になったことを隠したがるゆえな。そちらから言わせないと。――あ、それともこれは、サイファエールに限ったことか」
「……いえ、おそらく万国共通でしょう」
 書記官が居心地悪そうに頬を掻く。
「なら良かった。口を労した甲斐があったというものだ。さて、えー……御名を伺っても?」
「あっはい、あの、フィトラシスといいます」
「では、フィトラシス殿。貴殿を書記官室にお連れしよう」
 歩き出すと、クレスティナの長い黒髪が揺れる背に、フィトラシスの呟きが当たった。
「……確かに、解る気がするな」
「何が?」
 クレスティナが振り返ると、聞こえるとは思っていなかったのだろう、フィトラシスは少し驚いたように目を見張り、それでも足を早めて彼女に並んできた。
「貴女が姫たちにも御同僚にも好かれる理由が」
 近衛の紅一点として、入団以来好奇の目に晒されてきたクレスティナだが、やはり何度味わっても、こちらが知らぬ相手に情報を握られているというのは少し不快だった。
「私は貴殿のことを何ひとつ知らぬのだが、貴殿は私のことをよく御存知のようだな」
「よく、でもないですが……」
 ひと月ほど前の宴でクレスティナを見かけて以来、その姿が頭から離れなくなったフィトラシスは、それとなく彼女のことを調べていた。だが、彼女が双子王子付きになったこともあって、その噂は頻繁に耳に届くようになり、少なくとも狂った羅針盤のような自分には高嶺の花であることは容易に知れた。とはいえ、もう一度ひと目でもクレスティナの姿を見られたらと、普段は内勤を好むものを大使の使いを買って出たのだが、よもや彼女の方から声をかけられるなどと思いも寄らない。必要以上に驚いてしまったのは、そのせいだった。
「サイファエール語を流暢に話されるが、ここにはいつ?」
「えと、来たのは二十歳の時で、もう三年経ちました」
「私よりひとつ年下なのだな」
 そこでまたフィトラシスが目を見開いたので、クレスティナは眉根を寄せた。
「何をそういちいち驚いておるのだ」
「い、いえ……女性が自ら年齢を口にするのを初めて聞いた気がして……」
「隠して何の得があるのだ。私には二十四年生きた自負がある」
「そ、そうですね……」
 彼女の豪快な物言いに、フィトラシスが口元に笑みを滲ませる。それを見て、クレスティナは首を傾げた。
「フィトラシス殿は、書記官の仕事を……」
「え?」
「あ、いや……何でもない」
 クレスティナの知るサイファエールの書記官たちには野心家が多く、普通の会話の中にも情報を取ろうと、そこここに釣り糸を垂らしているのが常だった。おかげで王子付きとなってからは、なかなか緊張する相手となってしまったのだが、それ以上に緊張しなければならない異国のこの書記官は、どこかおっとりとして、彼女には彼の仕事ぶりがふと心配になった。とはいえ、つい今し方出会ったばかりの相手にいきなり人生観のようなものなど訊きづらく、中途半端に言葉を濁すことになってしまった。
「何ですか、言いかけて途中でやめないで下さい」
「いや、ほら……着いたぞ」
「えっ」
 ここぞとばかりにクレスティナの横顔ばかり見ていたフィトラシスが顔を上げると、見覚えのある扉の装飾が目に映った。
「では、私はここで」
 呆気なく踵を返したクレスティナを、フィトラシスは慌てて呼び止めた。だが、振り返った彼女の紅蓮の瞳に射抜かれて、言葉はひとつしか出てこなかった。
「あの……ありがとうございました」
「次は迷われぬようにな」
 最後にいたずらっぽい笑みを浮かべて、クレスティナは颯爽と彼の前から去っていった。


 それから半月後の夕刻、フィトラシスはヴィゼリアスに連れられて、王都最大の繁華街を訪れていた。最近、浮き沈みの激しいフィトラシスを、面倒見の良い同僚が気にしてくれたのだ。フィトラシスに帰国されると、自分が大使館の中で最年少になってしまうという危機感もあったかもしれない。
 人混みの途切れぬ雑踏を、フィトラシスはぼうっとしながら歩んでいた。数か月前までなら、その理由は挫折や望郷による虚無感だったかもしれないが――横の同僚はそう感じていたが――、今はそうではない。脳裏にちらつくのは、漆黒の長い髪と翻る緋色の外套だった。その者の顔に視線を転じようとして、いつも失敗するのだが、今もまたフィトラシスは激しく失敗した。気付けば、見渡す限り見えるのは人の膝ばかり。彼は後ろ手に尻もちを着き、ヴィゼリアスに起き上がるための手を差し出されていた。
「フィトラシス、大丈夫か?」
「あ、ああ……はい」
 フィトラシスが起き上がった途端、大袈裟な溜め息が上がった。
「エザヤスさん、何やってんすかー」
「何って、お互い正面から来て、オレは半歩避けたんだから、こちらさんも半歩避けるのが筋ってもんだろう。それをそのまま来られたから――」
 フィトラシスとぶつかったらしいエザヤスという青年が、大きな手振りで反論する。それへ、フィトラシスは肩を竦めてみせた。
「いや、申し訳ない……少し考え事をしていて――」
 しかし、その青年の背後に立っていた人物を見て、瞠目する。
「クレスティナ殿……」
「は?」
 驚いたヴィゼリアスが、フィトラシスの視線を追う。その先で、クレスティナが首を傾げ、漆黒の長い髪が揺れた。
「――ああ、思い出した。フィトラシス殿。久しぶりだな。怪我はないか?」
「あ、は、はい」
 頷いた時、外套の裾に土汚れが着いているのが見え、フィトラシスは慌ててそれを払った。
「部下が失礼した」
「えっ、オレだけが悪いんですか!?」
 身を翻して眉根を寄せるエザヤスを、クレスティナは呆れたように見遣った。
「おぬしも近衛を名乗るなら、その程度の身のこなしくらいしたらどうだ」
 言い込められた青年の横合いから、今度は別の青年がクレスティナに声をかける。
「小隊長、お知り合いですか?」
「おぬしらも知っておろう。いつぞやの、ジージェイルの書記官殿だ」
「――ああ……」
 その場に居合わせたサイファエールの者たち全員から微妙な視線を集め、フィトラシスは容易にたじろいだ。その彼の袖を、同僚が引っ張る。
「おい」
「あ……えっと、先日王宮で――」
「なら、話は早い」
 説明しかけたフィトラシスを、ヴィゼリアスは物の見事にぶった切った。彼はクレスティナ一行に身体を向けると、丁寧に頭を垂れた。
「私はこのフィトラシスの同僚で、ヴィゼリアスと申します。クレスティナ殿、近衛の方々、私たちは今から夕食なのですが、もし宜しければ御一緒にいかがですか? 美味しいジージェイル料理を御馳走致します」
「えっ!?」
 釣られて垂涎する若輩の首を抑えつけたのは、パウルスである。
「そういったことは書記官同士でどうぞ。我々から王子殿下の情報を取ろうと思うなら無駄ですよ」
 警戒心剥き出しの青年士官を見て、ヴィゼリアスは軽く首を竦めた。
「これは手厳しい」
 フィトラシスが二人のやり取りをはらはらしながら見守っていると、ふいにクレスティナが笑った。
「まぁいいではないか、パウルス。御馳走ではなく御紹介だけなら有難く受けよう」
「小隊長」
 抗議の眼差しを向けてくるパウルスを、クレスティナは悪戯小僧のような笑みを浮かべて見返した。
「たまには異国の料理も良いではないか。甘味があれば尚良い」
「また……」
 近衛士官ながら貴族の令嬢たちが集まる場にも顔を出している上官の情報収集に付き合わされる羽目になり、パウルスは大仰に溜め息を吐いた。


 ヴィゼリアスがクレスティナ一行を連れて行ったのは、目抜き通りに面したジージェイルの郷土料理店『ブイボン亭』だった。
「『ブイボン』とは、ジージェイルでは『別れても好きな女』という意味です。これには逸話がありまして、その昔、顔貌が良くない――いや、名前も良くない、ブイボンという名の貴族の娘が居たのですが、器量はずば抜けてよかったというのです。そのブイボンに、男同士の賭けに負けた罰として、当代一の色男が声をかけなければならなくなったのですが、遊びで付き合うはずが、色男の方が本気になってしまいました」
「あー、よくある話っすね」
「あれなー、顔が悪いのに愛せるもんか?」
「許容範囲だったんだろ」
 近衛の殺伐とした相槌に、ヴィゼリアスは面喰らった。
「……けれど、そのことが色男の親の耳に入ってしまい、特に色男を溺愛していた母親の逆鱗に触れ、別れさせられてしまったというのです。色男はけっこうな家柄の出で、ブイボンの容姿を見かねた母親が、世継ぎのことを考えて嫌がったとか」
「器量良しって、どこの器量っすかね」
「別に別れさせなくても、妾にすればいいんじゃないのか?」
「ジージェイルは一夫一婦制でしたっけ?」
 話の腰を折られまくったヴィゼリアスが無言になったのを見かねて、クレスティナは冷ややかな視線を部下たちに浴びせた。
「おぬしら、ひとの話を黙って聴けんのか。学院からやり直すか?」
 そうしてジージェイルの年長書記官に視線を戻すが、彼は既に戦意喪失した後だった。書記官同士なら戦いもしただろうが、誇り高いと思っていた近衛士官の下世話さに、無駄に気を遣う必要もないと早々に判断したようだ。
「クレスティナ殿」
 最初の酒杯で乾杯した後、フィトラシスは隣の卓のクレスティナのもとへ寄った。
「何だかすみません、強引に……」
 恐縮する彼に、女騎士は肩を軽く竦めて見せた。
「貴殿も書記官なら、先輩を見習った方が良いぞ」
「……おっしゃる通りです」
 その見習うべき先輩は、また意気揚々と並ぶ料理の上に手を広げて見せた。
「どうですか、ジージェイル料理は。お口に合いますか?」
「なかなか美味いですな」
「それは良かった」
 ジージェイル料理といっても、沿岸部のあまり癖のない味付けがなされており、当初はおそるおそるだったサイファエール人の食べる速度は、あっという間に通常に戻った。
「ここへはよく来られるので?」
「あー、まぁ、月の半分くらいは来ているかもしれませんね」
「サイファエールの料理は口に合いませぬか」
 クレスティナが軽い微笑みと共に首を傾げてみせると、ヴィゼリアスは大仰に手を振った。
「いえ、まさか。むしろジージェイル料理より好きなくらいですよ。ここへはジージェイルの商人がよく来ますからね。情報収集に。本国から来る正式文書は死ぬほどつまらなくて」
 それもそのはず、ジージェイルとサイファエールの王都は天馬を駆らねばならぬほど離れており、さらにはわざわざマラホーマを間に挟ませている仲である。平時とはいえ、下手に内情を認めたものを出して紛失しては、目も当てられない。
 ぼやくヴィゼリアスに、クレスティナは軽く首を竦めて見せた。
「妬まれているのでは?」
「妬む?」
「帰国された際の出世の邪魔を」
 途端、ヴィゼリアスは弾かれたように笑い出した。
「残念ながら、私はそんな大物ではありませんよ。いやはや、近衛の方にお世辞を言って頂けるとは――あ、クレスティナ殿、杯が空になっていますよ」
 その言葉に、いつ会話に加わろうかと機会を窺っていたフィトラシスが動いた。彼は同僚と女騎士との間に割り込むと、卓上にあった酒瓶を傾けた。
「皆さんもよく御一緒に食事に出られるので?」
 なみなみと注がれた酒を優雅に呑むと、クレスティナは軽く宙を睨んだ。
「よく……でもないぞ。月に五、六度か?」
 上官の視線を受けたパウルスが小さく首を竦める。
「私としては、三日に一度なような気もしますが」
「そんなに?」
 驚いた声が、クレスティナとフィトラシス両方の口から上がる。
「小隊長から声がけがあるのが五、六度としても、他に騒ぎたがりや大食漢がいますからね。運悪く、我が小隊は妻帯者の方が少ないですし。――ここどうぞ」
 フィトラシスが立ちっぱなしなのを不憫に思ったのか、パウルスはクレスティナの向かいの席を立った。
「あ、でも……」
「お構いなく」
 言いながら移動したパウルスは、クレスティナの横に座していたシダを押しのけてそこへ収まった。弾みで喉にものを詰まらせた新人の前に水を置いてやるクレスティナを見て、フィトラシスは座りながら吐息した。
「こんな方が上官だなんて、羨ましいですね」
 パウルスは軽く首を竦めて見せると、音を立てて炙り肉に叉子を突き立てた。
「貴方の上官は無能で?」
「いえ、そういうわけではありませんが」
 苦笑いのフィトラシスに杯を返してやりながら、クレスティナは小さく笑った。
「誤解するな。私がやっていけるのも、パウルスが裏で色々手を回してくれているからだ」
「裏でって……」
 語弊のある言いように不服そうな部下へ、クレスティナは悪戯孺子のように微笑むと、その杯を打ち鳴らした。
「おかげで、いつも美味い酒が飲める」
 それから二ディルクほど異国料理に舌鼓を打って、一行は夜風のもとに出た。頭上で、店の吊り看板が鼠の鳴くような音を立てて揺れている。
「ブイボン、か……」
 鉄で象られた女の透かし彫りに、クレスティナは独りごちた。前を行きかけたパウルスが、それを耳聡く拾う。
「何ですか?」
「いや……私は女だから、『別れても好きな男』とは何と云うのかと思ってな」
「おや、クレスティナ殿にもそんな御仁がおありで?」
 パウルスの横合いから、ヴィゼリアスが首を突き出す。それへサイファエール人のものも連なり、ブイボン亭の前に奇妙な光景が現れた。
「……まったく、おぬしらは」
 クレスティナは苦笑いすると、開き直るように顎を反らせた。
「私にもそれぐらいの思い出があってもよかったはずだが」
「……それは、あった、ということですか? なかったということ?」
 ぽかんとした男たちににやりとすると、クレスティナはひとり、歩を進めた。
「さて、私がおぬしらにとって魅力的な上官なら在ったということだし、煙たい存在なら無かったというだけの話だ」


 人生、酒が美味い日もあれば、不味い日も、呑みたくない日さえある。
 官舎の茶棚に向かい、静かに深く吐息したクレスティナだったが、その背中に投げつけられた言葉で、心の皺が眉間に現れた。
「これで花の第三小隊は三連敗だな」
 ひとたび目を強く綴じると、クレスティナはにこやかに振り返った。
「伸び盛りの功逸りが多いもので、苦労しております」
 この日行われた第一大隊の小隊対抗戦で、仲間割れによる見事な負けっぷりを晒した第三小隊だった。わざわざ嫌味を言いに来たのは、彼女より年長の第四小隊長である。
「これが演習でよかったな。でなければ死んでも死にきれん」
「そうですね。まぁ、どんなに上手く立ち回ろうと、死ぬ時は死にますが」
 内心で大きく舌を出すと、クレスティナは茶を煎れるのを諦め、談話室を出た。肩で風を切るように歩いていると、廊下の先からパウルスが姿を見せ、思わず溜め息を吐く。演習後の反省会で言うべき事は言った。今晩はもはや思い出したくもなかった。
「……まだ帰っていなかったのか」
「散会後の報告をと思いまして」
「何かあったのか」
 すると、パウルスは大仰に肩を竦めて見せた。
「さすがに三連敗ともなると、他からも火の手が」
「あー……」
 後方支援組の隊員たちの顔を思い浮かべ、クレスティナは再び溜め息を吐いた。先鋒が無茶をして総崩れになっているので、彼らの鬱憤も溜まりに溜まっていることだろう。
「――あと」
「まだあるのか?」
 あからさまに嫌な顔をする彼女に、苦笑するしかない副長だった。
「……言いたいことを、かなり抑えておられたようなので」
 紅蓮の瞳を瞬かせて、今度はクレスティナが苦笑いする。
「おぬしは本当に大変だな」
「呑みに行きますか?」
 少し考えて、クレスティナは頭を振った。今晩ばかりは愚痴だけになりそうだった。最近、特にパウルスを頼ることが多かったので、これ以上は甘えたくないし、上官としてそうするべきではないと思った。
「もう、早く寝たい」
「……そうですか。まぁ、それが良いかもしれませんね」
 気を悪くした様子もない副長に、クレスティナは心からの謝辞を伝えると、彼と別れて厩舎へ向かった。
「……とは言え、悲しいかな、人間とはかくも腹の虫と縁の切れぬものか」
 王城の坂を下り、市井に足を踏み入れた途端、飲食街から流れてきた匂いがクレスティナの胃を刺激する。通りを進むにつれ、それに耐えきれなくなって、ついに女騎士は馬首を返した。向かったのは、先日、ジージェイル書記官に紹介された食堂だった。夜も更けた今、むやみにサイファエール人と居合わせることもないだろうと思った。


 クレスティナが『ブイボン亭』の前まで来た時、長柄の火消し棒を持った店主が入口の扉から飛び出してきた。店の開閉を表す燈火の硝子被いを割りそうな勢いで外すと、煤だらけとなった火消し棒を炎に押し付ける。
「……主人、もう店じまいか?」
 馬から降りたクレスティナが嫌な予感と共に近付いていくと、弾かれたように振り返った店主は、彼女を見るや、なぜか一遍に表情を明るくした。
「こないだの近衛士官さま! ちょうど良かった!」
 そして、明らかに閉店の片付けが進行している店内に、強引に連れ込まれる。
「お連れ様が潰れちまって、困ってたんですよ」
「連れ?」
 覚えのないクレスティナが目を瞬かせた時、店の一番奥の席に、酔い潰れた客の白い背が見えた。
「フィトラシスさまっ。ウワサをすればほら、近衛士官さまが迎えに来て下さいましたよ」
 そして、目を丸くするクレスティナの前で、店主は寝入った青年の肩を揺すり、起こしにかかる。
「ちょっと待て。私は別に――……噂とは何だ」
 しかし、彼女の声は店主に届いていなかった。
「近衛士官さま、フィトラシスさまの家を御存知で? 店から出て右に三軒行った二階の端ですんで、すみませんが宜しくお願いします。乳飲み子抱えた妻が風邪を引きやがりまして、今夜は早めに帰ってやりたいんですよ」
 そう言われると、こちらは何も言えない。
「……主人、ひとつ貸しだぞ」
 呻くように言う女騎士に、店主は満面の笑みを浮かべた。
「勿論! 次はシャリヤン酒をご馳走しますから!」
 シャリヤン酒とはジージェイルの結婚式で新郎新婦が飲む契り酒だが、そんなことをクレスティナが知る由もない。
「フィトラシス殿、帰るぞ。立てるか?」
 クレスティナがフィトラシスの肩を揺すると、異国の青年は完全に酔った目つきで彼女を見上げてきた。
「あれ……本当にクレスティナ殿……?」
「『あれ』じゃあるか。おかげでこっちは夕食を食いっぱぐれたではないか。どうしたのだ、こんなに呑んで」
「どうしたもこうしたも……ぜーんぶ貴女のせいですよぉ。ぜーんぶっ……」
「なに、私の?」
 しかし、早くもフィトラシスの返事はない。彼は酒瓶の口に額を着けて舟を漕いでいた。
「まったく、何だってこんなことに……」
 横目で店じまいを続ける主人を軽く睨むと、クレスティナはフィトラシスと肩を組み、なんとか出口まで連れて行った。近衛の者たちとよく酒を呑むので、酔っ払いの介抱は慣れているのだが、さすがに力の抜けた大の男をひとり連れ行くのは骨が折れる。どうしても均衡を崩してしまうので、クレスティナは途中からフィトラシスを背負い直した。だが、足は地面に落としたままなので、白い爪先が引きずられて汚れていく。馬は王宮からの借り物なので、他国の酔っ払いの介抱に使うのは気が引けた。
「……充分小汚かったと、エザヤスに教えてやらねばならんな」
 殆ど人気のない往来で独りごちつつ、何とかフィトラシスの部屋があるという建物に入ると、再び肩を組んでから階段を上る。
「二階の端、だったか……」
 扉は幾つかあったが、廊下の端にあるのはひとつしかなかったのですぐに判った。フィトラシスの懐を探り、鍵を開ける。
「やれやれ、フィトラシス殿、着いたぞ」
 暗がりの奥の窓辺に寝台が見えた。最後の力を振り絞って、そこまで連れて行く。クレスティナがフィトラシスを寝台に寝かせようとした、その時だった。
 一瞬、何が起こったのかわからなかった。気付いた時には寝台に押し倒されて、クレスティナは完全に唇を奪われていた。フィトラシスの頭越しに、暗い天井が見える。ものの見事に両の二の腕を押さえ付けられた挙げ句、片足に乗られたせいで、さすがのクレスティナもなかなか抜け出すことができなかった。
「ンッ、はっ、なん……フィ、フィトラシス殿、やめろっ。おぬし、呑み過ぎにも程があるぞっ」
 すると、殆ど意識がないと思っていたフィトラシスは、熱を帯びて潤んだ瞳でクレスティナを貫いた。
「酔ってでもなきゃ、アナパトリウムにこんな真似……」
 今度は耳元から首筋にかけて、男の唇が舌が這う。クレスティナはぞっとして、手の当たったフィトラシスの左耳を反射的に捻り上げた。
「フィトラシス、止めぬかっ! 卑怯者に成り下がる気か!!」
 殺気を孕ませた低い声音で叫ぶと、一瞬怯んだ黒い瞳に囁きかける。
「頼む。私に私を殺させないでくれ。母たちを遺して逝きたくない」
 すると、見る間にフィトラシスの表情が歪んだ。何かを押し留めるかのようにわななきながらクレスティナの肩口に額を落とすと、弱々しく謝罪の言葉を口にする。
「すみませ……すみません……」
 クレスティナは大きく吐息すると、安堵と共に一度強く目を綴じた。
「……もういい。ありがとう。おぬしなら、わかってくれると思った」
 フィトラシスの腕を軽く叩いて身体を横にどかせると、クレスティナはようやく半身を起こし、乱れた髪や襟元を整えた。室内を見渡して食卓にあった燭台に火を点すと、酔い醒ましに効く果物が目に留まり、手際良く皮を剥いて杯の上で搾る。
「さぁ、少しでも飲んでおけ」
 よろよろと起き上がったフィトラシスは、首を斬られたかのように深く頭を垂れた。
「本当に、すみません……」
「もういいと言った」
 紅一点、身を立たせてきたクレスティナにとって、男に屈服させられそうになった経験は一度や二度ではない。それなのに油断していたのは、完全に彼女の落ち度だった。
 フィトラシスの手に杯を持たせてやると、クレスティナは食卓の椅子を彼の方に向けて腰を下ろした。
「――ところで、確か初めて会った時も言っていたな。さっきの『アナパトリウム』というのはいったい何だ?」
 しかし、後悔の大海原に小舟で繰り出してしまった青年の返事はない。
「フィートーラーシースー」
 唸るように名前を呼ぶと、ようやく顔を上げたフィトラシスは、杯の残りを一気に呷り、溜め息を吐いた。
「花の……名前です」
「花?」
「我がヴィシラウス家の、旗印……」
 寝台からゆらりと立ち上がると、フィトラシスは壁伝いに文机へ向かい、その正面に掛けてあった小さな綴れ織りの壁飾りを持って戻ってきた。差し出されたそれを受け取って、クレスティナは思わず声を上げた。
 見たこともない装飾だった。壁飾りには、一辺が親指ほどの長さの小さくも艶やかな黒い板が四隅を紅い糸で留められており、その中央には虹色の不思議な光を放つ大輪の花が描かれていた。
「これがアナパトリウム……? それにしても、見事な装飾だな」
「貝を使った螺鈿細工という物です。本物のアナパトリウムがこんな色をしているわけじゃありませんが、でも観る角度によって随分色合いが変わるのは本当なんです」
「ふん……」
 クレスティナはひとしきり蝋燭の灯で色合いを変えて楽しむと、フィトラシスに視線を戻した。
「――で、この美しい花と私と、どういう関係が?」
「そっ、れは……」
 あまりにも真っ直ぐと訊かれたので、フィトラシスは酔いの上にさらに頬を赤らめた。
「ク、クレスティナ殿が……クレスティナ殿を初めて見た時、黒い絹服を着ていらっしゃって……すごく、美しかった。でも、それだけじゃなくて、凛とした感じもあれば、優しそうな、どこか淋しそうな……かと思えば、同僚の方と無邪気な少年のように笑ったり……」
 落ち込んでいたはずのフィトラシスは、まるで夢でも見ているかのように微笑み、聞いているこちらが恥ずかしくなるのもかまわず訥々と続けた。
「ヴィシラウス家は、ジージェイルでは王侯に匹敵する程の家柄です。けれど、お恥ずかしい話、我が家は分家も末流で……本来、アナパトリウムの旗などとても掲げられぬのです。でも、その誇りだけは失いたくなくて……。そんな私の想いを知った母が、私がサイファエールへ発つ時に無理をして贈ってくれたのが、この壁飾りなんです」
「そう、なのか……」
 寝台に組み敷かれた時、クレスティナは咄嗟に「母」と口にしたが、フィトラシスがすぐに諦めた背景には、そんな事情もあったのだろう。
「クレスティナ殿、貴女は私が憧れ続けるアナパトリウムに似ている。気高く、けれど様々な表情を鮮烈に魅せてくれる……」
 フィトラシスはクレスティナの前に立つと、その膝を折った。
「本当に卑怯な真似をして手折ろうとしましたが……私は貴女のことが好きです。もはや信じて頂けなくても、仕方ありませんが……」
 その黒い瞳は、先ほどとは打って変わって真摯な光を放ち、クレスティナには彼の気持ちが真実だと容易に知れた。
「……おぬしは生真面目に過ぎる。だから外套の色も白いのだ」
「え、は……? 外套……?」
 何の脈絡もない単語に、フィトラシスは容易に混乱したようだった。
「おぬしが蒼い外套でも着て王宮に来たら、考えないこともなくはないかもしれないがな」
「ないこともなく……」
 一瞬、宙に視線を遣って、眉根を寄せるフィトラシスだった。
「クレスティナ殿……!」
 それへくすくすと笑うと、クレスティナはフィトラシスに優しく微笑んだ。
「ありがとう、フィトラシス殿。だが、私は――」
 しかし、クレスティナはすぐに口を噤むこととなった。フィトラシスがゆっくりと頭を振ったからだ。
「言わないで下さい、それ以上は……。私はこれでも身の程をわきまえているつもりです」
 今や彼の瞳は書記官らしく理知的に落ち着き、クレスティナはただ静かに頷いた。


 もし、サイファエールでの暮らしがずっと続くなら、初めての恋に早々と自ら終止符を打つこともなかったかもしれない。だが、フィトラシスがようやく異国での生活に意義を見出そうとした矢先、その報せは届いたのだった。
 漆黒の髪が翻る背を見送った夜から五日後、夜明け前に起きたフィトラシスは、のろのろと朝支度を済ませると、前日のうちに纏めておいた荷物を抱え、表に出た。澄んだ空気の中を、商人や下働きの者がまばらに行き交っている。その時、向かいの建物の窓が、眩いほどの光を放った。その反対側へ視線を転じると、東の空を、この国で神と崇められる太陽が、静謐な銅鑼を鳴らすように昇っていく。
「……こんな唐突に見納めになるとはな」
 皮肉げな物言いに横を向くと、ヴィゼリアスが同じように太陽を見つめながら近付いてきた。
「まぁ、我がジージェイルのお下がりだが」
「……そのようなこと、宴席ででも漏らそうものなら、戦になりますよ」
「では、いっそのことそうしよう。そうすればおまえは故郷に帰るどころじゃなくなるし、何よりオレが下っ端に戻らずに済む」
「ヴィゼル……」
 サイファエールへ初めてやって来た日から三年。齢四つ離れた彼には、仕事仲間の垣根を越えて、弟のように世話を焼いてもらった。まさか自分が先に帰国することになるなど思いも寄らなかった。
「後任は、きっと私より使える人間だと思います」
「オレはきっと、仕事ができる人間とは気が合わない」
 目を瞬かせてから憮然とする弟分の髪を、ヴィゼリアスは激しく揉んだ。
「それより、せっかく戻れるんだ。間に合うといいがな」
「……はい」
 唯一の肉親であるフィトラシスの母は今、病で死に瀕している。息子が刻を無為に過ごしている間、母は西の空に彼を想いながら、たった独り、苦痛に耐えていたのだ。その情けなさ、そして大した親孝行もできぬまま母を逝かせてしまうかもしれない恐怖。それなのに、この期に及んで募るサイファエール――クレスティナへの恋慕と未練。それが綯い交ぜになって、あの夜はひどく深酒をしてしまった。
「もう死にたいなんて思ってないだろうな?」
 朝から重苦しい言葉を発する同僚に、フィトラシスは苦笑するしかなかった。勤務始めと同時に悲報を受け、思わず物騒なことを呟いてしまったのだ。茫然とする彼からその書状を奪い取ると、彼の早期帰国を上官に談判してくれたのはヴィゼリアスだった。本来、許可が下りることは難しいが、フィトラシスと母親はたった二人きりの家族なので、戻さざるを得なかったのだ。
 フィトラシスは白くなった太陽を見つめながら深呼吸すると、ヴィゼリアスに向き直った。
「今日まで、お世話になりました」
 彼の垂れた後頭部を、ヴィゼリアスが鼻で笑う。
「まったくだ。おまえとの初日は本当に散々だった」
 彼が初めて教育係を請け負った相手は、とにかく物覚えが悪かった。慣れれば完璧にこなしたが、それまでがとにかく大変で、初日に重要な書簡を間違え、リオドゥルクの丘を駆け上がる羽目になったのはもはや大使館の語り草だ。その帰りには雷雨に見舞われ、ほうほうの体で帰路に着けば、暴漢騒ぎに巻き込まれ、身元の確認が取れるまで、市中の警備隊の詰め所に一晩留め置かれた。
「道中で同じ目に遭っても、もうオレは助けてやれないからな。這い蹲ってでも都へ戻って、看病の傍ら、オレにおもしろい書状を寄越せ」
「わかりました。ヴィゼルが大物として帰国できるよう、下地を整えておきましょう」
「おまえに整えられた下地になど立てぬわ」
 そこで二人は声を立てて笑った。そんなことが何度もあったかなかったか、それすらも憶えない、気の置けない同胞だった。
「……さて、馬車の時間に遅れるぞ」
 顎で道筋を指すヴィゼリアスに、フィトラシスは首を傾げた。
「え、停車場には?」
「急ぎの仕事があるんでな」
「……そうですか」
 呆気ない別れだが、これ以上辛気くさくなっても仕方がない。フィトラシスは今一度頭を垂れると、街道を賑わすひとりとして歩き始めた。
(――何故いま少し、刻を大切にしなかったのか……)
 見慣れた通りの景色も見納めと思うと、その壁の皹ひとつひとつに纏わる歴史を覗いてみたくなり、後悔が募った。
(ジージェイルまでの道中、私はまたしても後悔で時間を埋めるのか? ――いや、そんなことにはしない)
「……させない」
 やっと己で踏ん切りを着けて顔を上げた時、目の前にクレスティナが立っていた。
「何をさせないのだ?」
 軽く首を傾げる彼女を前に、フィトラシスは豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をして立ち尽くした。
「え……は……え? え?」
 すると、クレスティナは呆れたように小さく笑った。
「その顔、見覚えがあるぞ。なんだ、ここはサイファエールだ。サイファエール人たる私がこの国のどこに居ようと、私の勝手だ」
「そっ……れは、そうです、が……。は? え?」
「ヴィゼリアス殿におぬしが帰国することを聞いてな。お母上のことは、私も同じ悩みを抱える身ゆえ、少しは解るつもりだ。温かい手を再び握れることを祈っている」
「――ありがとう、ございます」
 フィトラシスは、そこでようやくヴィゼリアスが普段は遅刻気味な職場へ早朝から行きたがったのか悟った。彼の敬愛する兄貴分は、すべてお見通しだったのだ。
「荷物は、これだけか?」
 クレスティナが指した先には、フィトラシスが抱えてきた大きめの鞄がふたつ置いてあった。
「三年も滞在したにしては、少なすぎやしないか?」
「着替えと……あとは書物ですかね。私は男ですので、何着も衣装を必要としませんし」
 部屋を片付けて改めて思ったことは、思い出に纏わる物が極端に少ないということだった。
「書物か。なら、ちょうど良かった」
 そう言ってクレスティナが差し出したのは、掌に載る薄い銀細工だった。
「これは……栞……?」
「そうだ。鞘飾りを求めて馴染みの職人のところへ行ったら、これがあってな。おぬしにちょうど良いのではないかと思って」
 先日、無体を働いた自分に対して、クレスティナは屈託のない笑顔を向ける。思わず泣きそうになって、フィトラシスは再び栞を見つめた。
「この、透かし彫りの花は、郁金香ですか?」
 すると、返ってきたクレスティナの声音には、なぜか憂いが滲んでいた。
「いつも、私の心にある花だ」
「……そうですか」
 フィトラシスがアナパトリウムを想うように、クレスティナにもそういうものがあったのだ。彼女にとっての『ブイボン』が、きっと自分には太刀打ちもできぬ存在であることは、容易に知れた。
 その時、東の国境へ向かう馬車の案内が、声高らかに上がった。
「ああ、もう時間か」
「お忙しいところ、わざわざありがとうございました」
「もう少し、出会うのが早ければ――」
 そこでどぎまきとするフィトラシスを見て、クレスティナは声を立てて笑った。
「王宮の見取り図を、書記官室まできっちり描いてやったがな。二度と迷わぬように」
 途端、眉間を寄せたフィトラシスだった。
「ヴィゼルも貴女も、最後まで……」
「ヴィゼリアス殿にも遊ばれたのか? 彼はこれから寂しくなるな」
「……よかったら、時折、近衛の皆さんで声をかけてやって下さい。いつか大物として帰国できれば、サイファエールとの国交も多少は好転しましょうから」
「大きく出たな。ではいつか、おぬしにジージェイルの王宮を案内してもらおう。王子殿下の外遊先としては申し分ない」
「……必ず」
 周囲に倣い、軽く抱き合って別れの挨拶を交わすと、フィトラシスはふたつの鞄と、たったひとつのほろ苦い思い出を胸に携え、馬車に乗り込んだ。
「国境までは、心配ない。だが、ひとたび国境を越えたならば、それからはずっと、心を配られよ」
 どこか暢気な外国生活の気分を馬車の中に捨て置かなければならぬことは、フィトラシスにも解っていた。ゆっくりと走り出した馬車の小さな窓からクレスティナに手を振ると、彼は銀色に輝く郁金香を静かに見つめた。

【 了 】


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