The story of Cipherail ― その花の名は

その花の名は


 父の容赦ない平手打ちに、十歳のエルティスの小さな身体は、傍らの椅子もろとも吹き飛ばされ、床に沈んだ。
「エルティス!」
 父の後から部屋に入ってきた母が悲鳴を上げ、彼女に駆け寄って来る。朦朧としながら打たれた頬に手を当てると、そこはまるで鼓動を打っているかのようだった。
「貴方、許してやって下さい! エルティスに悪気はないのです! どうか、貴方……!」
 エルティスをかばうように抱きしめてくれた母が、父に懇願する。自分の長い漆黒の髪と母の腕によって狭められた視界の先に、立ちはだかる父の足が見えた。いつものように磨き上げられた革靴が、露台から入ってくる夕陽に光っていた。
「……二度と入らせるな」
 父は氷のような声を発すと、そのまま部屋を出て行った。ほうっという溜め息とともに、母の身体から力が抜ける。しかし、
「エルティス、エルティス、大丈夫……!?」
 すぐに娘を気遣って、そばの水差しから手布に水を落とし、それを既に腫れ始めていた頬に当ててくれた。
「うん……だいじょ……ぶ……」
 母をこれ以上心配させまいと顔を上げた瞬間、彼女の翠玉の大きな瞳から、熱いものが溢れ出した。近所でも評判の可憐な顔立ちが、無惨に歪む。
 悪気など、あるはずがなかった。長旅から帰ってきた父を出迎えようと、父の部屋で待っていただけなのだ。確かに父の部屋への立ち入りは禁じられていたが、何かに触ったわけでもなく、叩かれるほどのことではなかったはずだ。母が美しい顔を歪めて制さねばならないほどのことでは、なかったはずだ。
「母様……。父様は、エルティスのことがお嫌いなのね……」
 口にするまでもなく、わかっていたことだった。港町ツァーレン屈指の大商人である父は、ほとんど屋敷にいない。束の間の帰宅も、決して娘の部屋に姿を見せることはなく、それどころか訪ねても無下に追い返されるばかりだった。いつか、閉ざされる扉の向こうの父と視線が合ったことがあるが、その瞳に何の表情もなかったことを憶えている。
『旦那様は、お世継ぎとなる男のお子様が欲しかったのに……』
 以前、召使いたちがそう言っているのを聞いたことがあった。
「何を言うの。さあ、これを――」
 取って付けたように明るく言って、母は小さな箱を差し出してきた。周囲に深紅の絹が張られた、上等な箱だった。
「お父様が貴女に、おみやげを買ってきてくださったのよ」
「ほ、ほんとう!?」
 エルティスは、精一杯驚いて見せた。それが嘘だということは、半年も前から知っていた。母が父の右腕の男に頼んでいるのを、偶然聞いてしまったのだ。
 箱を開けると、珊瑚の首飾りが入っていた。
「かわいい……」
 エルティスが顔をほころばせると、母はそれ以上に嬉しそうな顔をして、彼女に首飾りを付けてくれた。
「……エルティス、お父様を許してあげて。長旅で疲れていらっしゃるだけなのよ」
 エルティスが母を見ると、母は今にも泣き出しそうな顔で彼女を見つめていた。エルティスには頷くことしかできなかった。
 ……父の愛妾が男児を産んだことから両親が離縁したのは、それからひと月後のことだった。

     ***

 森からの冷たい風が神殿の回廊で対峙する少女たちの間を吹き抜け、揃いの神官見習いの服を揺らせた。
「――だから、何?」
 エルティスは風に舞い上がった漆黒の髪を左手で押さえると、眼前に立ち並ぶ五人の少女たちを独り、睨み付けた。
「相手の弱点を突いて何が悪いと言うの」
「なっ、何よ、その言い方!」
 相手のひとりが激昂し、エルティスに向かって詰め寄る。
「貴女のせいで、セイラは足の怪我を余計にひどくしたのよ!?」
「……そんなこと、私の知ったことではないわ。怪我をしているのなら、稽古を休めばいいでしょう」
 鬱陶しげに言い放つエルティスを、杖を突いた少女が憎らしげに見遣った。
「休んだら試験に響くわ。貴女もよく知ってるでしょ……!」
「だからって、なぜ私が手加減しなければならないの? それこそ試験に響くわ」
 言い返されて、松葉杖の少女はぶるぶると震えながら唇を噛みしめた。その目には涙が滲んでいる。
「エルティス、貴女! 自分さえ良ければ他がどうなってもいいというの!?」
 今度は後方から上がったこの一言に、エルティスは大仰に翠玉の瞳を見開くと、盛大に溜め息を吐いて見せた。
「当たり前でしょう。《太陽神の巫女》の推薦枠はひとつなのよ。じゃれ合って何になるというの、馬鹿馬鹿しい。これ以上、付き合っていられないわ」
 言うなり身を翻すと、エルティスは足早に歩き始めた。しかし、散々虚仮にされた少女たちがそのまま黙っているはずもない。
「ちょ……ちょっと、待ちなさいよ!」
 追いすがってきた少女がエルティスの細い肩を力一杯掴み、その弾みで、エルティスは持っていた書物を落としてしまった。途端、彼女の瞳が鋭利な刃物のように肩を掴んできた少女を貫く。
「……触らないで、汚らわしい」
「な、何ですって……!?」
 放すどころかいっそう力の込められた少女の手を払いのけると、エルティスは書物を拾い上げた。起き上がりざま、禍々しい笑みを口元に浮かべる。
「私は貴女たちとは違うの。聖都へ行くのはこの私よ」
 そして、呆然と立ち竦む少女たちを残し、何事もなかったかのように神殿へと足を向けた。


 生まれ育った屋敷を離れ、郊外の小さな館に移り住んでから十日もしないうちに、エルティスは再びツァーレンの中心地へ戻ることになった。娘の将来を憂えた母が、彼女を神殿へ預けることにしたためだ。それから早五年。グロヴァース神殿というサイファエール王国でも屈指の大神殿での修行は、健気で純粋だった少女の性格を豹変させていた。それには、彼女の目指すものが大きく関係している。
 彼女は、春暁の日、聖都で行われる《尊陽祭》で、太陽神テイルハーサに《称陽歌》を捧げる《太陽神の巫女》になりたいのだ。神からその恩寵を受け、大陸中から巡礼に訪れる信徒たちから名誉を授かる乙女になりたいのだ。そのためには、まずグロヴァース神殿での推薦試験に合格し、それから聖都で行われる選考試験に合格しなければならない。しかし、同じように巫女を志す少女たちはグロヴァース神殿だけでも溢れており、エルティスがたったひとつの推薦の座を勝ち取るためには、血の滲むような努力をして、誰よりも秀でなければならなかった。その過程で、他人を思いやる心や、物事に対する謙虚な心などの尊いものが捨てられてしまったのだ。
「エルティス、ちょうど良かった。貴女にお手紙が届いていますよ」
 廊下で出くわした顔見知りの女神官から差し出されたそれに、エルティスは一瞬で顔を険しくさせた。
「貴女のお母様は本当に筆まめでいらっしゃるわね。私も見習わなくては」
 しかし、そんな彼女の様子に気付かない女神官は、明るい調子でそう言うと、颯爽と去っていった。
 しばらくその場で手紙を睨み付けていたエルティスは、ふいに踵を返すと、教室とは反対側の方向へ走り出した。神殿を出ると、一般の信者が訪れる礼拝堂の横を抜け、図書館の回廊を突っ切り、裏手の森へと入っていく。そのまま木々の間を行くと、小さな樵小屋が見えてきた。
「はあ、はあ、はあ……」
 その戸口に辿り着いたエルティスは、膝に両手を着くと、大きく息を吸った。それから身を起こし、今度はゆっくりと樵小屋の裏手に回った。そこで彼女を待っていたのは、鉄製の小さな焼却炉だった。
 今は火の入っていないその小さな扉を開くと、エルティスは抱えていた本の間から先ほどの手紙を取り出した。一瞬、それを凝視する。だが、その紙の上に母の申し訳なさそうな笑顔が浮かびかけ、慌ててそれを炉の中へ放り込んだ。
「私は、母様のように惨めにはならないんだから……」
 そう呟いた時、ふいに背後で猫の鳴く声がして、エルティスは驚いて振り返った。しかし、辺りには猫どころか人ひとり見当たらない。
「………?」
 エルティスは焼却炉の扉を閉めると、樵小屋に向かって歩き出した。猫はこの中にいるのだろうか。いったん入口の小さな窓から覗くと、思い切って戸を開けてみる。すると、そこにいたのは猫だけではなかった。
「……何をしているの?」
 まだ四、五歳と思われる男の子が、エルティスや彼自身と同じ漆黒の毛並みの仔猫をぎゅっと抱きかかえ、古い机の陰で蹲っていたのだ。
「み、見付かっちゃった……」
 小さな潜伏者はそう独りごちると、おそるおそるエルティスを見上げてきた。優しげな面立ちをしていたが、着ている服はかなり上等なもので、どこかの貴族の子息と思われた。
「あなた、礼拝に来たの? 迷子になったとか?」
 尋ねると、男の子は首を横に振った。
「前ね、礼拝に来たの。そしたらね、ルルティアが鳴いててね。でも、母上は連れて帰ったらダメだって」
 それで偶然見付けた人気のないこの樵小屋に仔猫を隠し、以降、家人の目を盗んで通っているのだという。健気な男の子に好感を抱き、エルティスはその隣に腰を下ろした。
「名前……なんて言うの?」
「ルルティアだよ。母上に読んでもらった絵本に出てくるんだ。ルルティアは魔法が使えるんだよ」
 大きな藤色の瞳をきらきらさせて話す男の子に、エルティスは小さく笑った。
「違うわ。あなたの名前よ」
「ぼく? ぼくは、パーシャ」
「そう。私はエルティスよ。よろしくね、パーシャ」
 エルティスが自分から進んで名乗ったのは、人生で初めてのことかもしれない。エルティスは自分の名前が嫌いだった。跡継ぎの誕生を待望していたエルティスの父は、幾つも名前を考えていたが、それはすべて男のものだった。そして生まれたのが女だとわかると、名前を付けることすらしなかったのだ。名家に生まれたというのに、エルティスはひと月近くも名前を付けてもらえなかった。最終的には、母親が父が考えていたものの中から一番女の子らしいものを選んで付けたのだという。
「あの、おねえちゃんは、神殿の人なの?」
 ルルティアの背を撫でながら、パーシャは上目遣いで質問してきた。もしそうなら、黙って猫を飼っていたことが後ろめたいのだろう。
「ええ、そうよ」
 エルティスの答えを聞いて、パーシャは困ったように顔を伏せた。そんな彼に、エルティスは優しく尋ねた。
「ねえ、パーシャ。毎日ここへ来るの、大変なんじゃない?」
「う、うん……。いつもね、帰ったら『どこに行ってたんですかっ』って、エドルフに怒られるんだ。でも、ぼくが山羊乳を持ってこないと、ルルティア、死んじゃうし……。母上が飼うのを許してくれたらいいんだけど……」
「いいわ。じゃあ、私がルルティアの面倒を見てあげる」
「えっ、ほんとう!?」
「ええ。だから、もう山羊乳を持ってこなくてもいいわ。その方が家も抜け出しやすいでしょう?」
「うん……!」
 パーシャは顔を輝かせると、「やったね、ルルティア!」と黒い仔猫を掲げた。
 その日から、エルティスの奇妙な行動――周囲から見れば――が始まった。一言に「面倒を見る」と言っても、神官見習いであるうえに《太陽神の巫女》を目指している彼女に、自由になる時間はほとんどない。朝から晩まで講義や修練が詰まっているからだ。そのため、エルティスは食事の時間を切りつめたり、教室の移動時間のわずかな間に、山羊乳を隠し持って神殿内を樵小屋まで走った。妙な使命感に駆られ、なぜ仔猫一匹のために自分がここまでやらないといけないのか――そのような思いは一度も抱かなかった。ひとつには、パーシャとルルティアという小さな友だちが得られて嬉しかったのだ。今や神殿に彼女が友人と呼べる人物はひとりとしていなかったから……。
 パーシャは、エルティスと出会ってからも毎日のように樵小屋に姿を見せていた。同じ時間に居合わせることは稀だったが、やって来た目印に机の上に小石を置いていた。たまに出会えた時は、エルティスは時間の許す限り彼らとともにいて、唯一心安らぐ時間を過ごした。
 再び母親から手紙が届いたのは、そんなある日のことだった。エルティスはその手紙も焼却炉に放り込むと、隣の樵小屋でルルティアが山羊乳を飲むのを眺めた。小さな舌で少しずつ少しずつ美味しそうに……そして、不覚にも彼女はうたた寝をしてしまった。はっとして起きた時、聞こえてきたのは鐘の音ひとつ――講義が始まる時間だった。エルティスは跳ね起きると、慌てて講義のある教室へと向かった。しかし、なぜかそこには誰もいなかった。
「え……どうして……?」
 困惑した彼女が廊下で首を巡らせていると、窓の外、中庭の片隅に同輩たちが集まっているのが見えた。その中心には教授の姿があり、エルティスは踵を返すと、急いで中庭へ向かった。


「エリーサ。場所が変更になったことを、エルティスには言わなかったのですか?」
 遅れてきたエルティスの言を受けて、教授の女神官がひとりの少女を問い質した。この日、日直だったエリーサは、先日、回廊でエルティスの肩を掴んできた少女だった。
「いいえ、教授。私はちゃんと皆に伝えました。昼食の時に」
 エリーサの言を受けて、その周囲が頷く。
「エルティスは最近、すぐにどこかへ行ってしまうので、聞き漏らしたのではないでしょうか。――あ、いえ、けれど、やはりこれは私の落ち度です。教授は『全員に知らせなさい』とおっしゃったのですから。申し訳ありません」
 教授に向かって大仰に頭を下げた後、エリーサはエルティスに向かってちらと挑戦的な笑みを放った。それでエルティスは、これが彼女の嫌がらせだと確信した。先日のセイラの一件をまだ根に持っているのだ。敵の奇行をさりげなく教授の耳に入れ、そのうえ、自分の好感度を上げようとするところは、忌々しいことこの上ない。
「《太陽神の巫女》の試験を控えたこの時期に、落ち着きがないというのは好ましくありませんね。エルティス、一体どこへ行っているのです?」
 おかげで教授の厳しい視線にさらされることとなり、エルティスは内心で悪態を吐いた。
「あの、図書館に……調べたいことがありまして……」
 瞬間、エリーサが声を上げた。エルティスの気のせいでなければ、それは勝利にうち震えるような声音だった。
「あら。図書館なら私たちもついさっきまでいたのに、貴女を見かけなかったわ」
「私、彼女を礼拝堂の方で見ました。森の方へ行っていました」
 そう答えたのは、アーシャという少女だった。例に漏れず、彼女も先日、エルティスから冷たい言葉を喰らったひとりだった。
「――と、ふたりが言っていますが? エルティス」
 教授と同輩たちの冷たい視線の中、どうやって切り抜けようかと思案していたエルティスの視界に、見覚えのあるものが映った。それは、アーシャの手からエリーサの手へ、そして教授へと手渡される。
「これは……エルティスへの手紙ですね。お母上からの――」
 教授のその言葉を聞いて、エルティスは目を剥いた。あの手紙は、確かに焼却炉の中へ入れたはずである。それがなぜ、今、教授の手の中にあるのか。
「これは、どうしたのです?」
 教授の視線が放たれた先を、エルティスも見た。すると、アーシャがにやにやとしながら答えた。
「さっき、焼却炉へゴミを捨てに行ったら、中にそれが。親からの手紙を捨てるのはいけないことだと思って、持って帰ってきました」
 それを聞いた時の教授の瞠目振りは、顔にある皺という皺がすべて額に集まるほどだった。
「まあ。エルティス、貴女、お母上からの手紙を封も切らずに捨てたのですか!?」
 もはやアーシャがエルティスを尾行していたことは明白だった。最も知られたくなかったことをエリーサたちに知られ、そして告げ口されて、エルティスは爪が手の平に食い込むほど強く握りしめた。
「ち、違います!」
 運の悪いことに、教授は巫女試験の審査員のひとりだった。このままでは教授の心証が悪くなってしまうと思ったエルティスは、否定してみたものの、すぐに問い返されてしまった。
「それではなぜ、焼却炉にこの手紙が? 礼拝堂の森に入るところも見られているのですよ?」
「そ、れは……その、て、手紙をなくしてしまって、――そう、それで探していたんです」
「探すといって、それでは、なぜ礼拝堂の森などに行っていたんです? あのような何もないところ、そもそも行く理由もないでしょう」
「………」
 一瞬、ルルティアの名前が口から出そうになって、エルティスは唇を引き結んだ。あの仔猫を口実にしてもよかったが、もし、それだけで済まなかったら――ルルティアの所在を確かめられ、そのうえで神殿に置いておけないと言われたら、パーシャに申し訳ない。ルルティアの世話は、彼女自身が言い出したことなのだから。
 黙り込んでしまったエルティスに、教授は彼女の手紙を胸の前に掲げて言った。
「手紙を読みたくないというなら、私がここで代わりに読んで差し上げましょうか?」
「や、やめてください!」
 エルティスは大きな翠玉の瞳にうっすらと涙を滲ませて叫んだ。母からの手紙はもうずっと読んでいない。いったい中に何が書かれてあるのか見当も付かなかった。返事を一通も寄越さない娘への恨み言も書いてあるかもしれない。そんなものを同輩たちの前で読まれるなど、冗談ではない。
「では、ちゃんと読みなさい。いいですね」
 教授が差し出してきた手紙を、エルティスは奪うようにもぎ取った。そんな彼女を見て、エリーサたちはくすくすと笑っていた。


 その夜、蝋燭の薄明かりの中で、エルティスは机の上に置いた母からの手紙を凝視していた。封書は焼却炉の炭で薄汚れていた。
 母からの手紙を捨てるようになったのは、いつ頃からだったろう? 神殿に入った当初は、エルティスも母の温もりが懐かしくて、返事もよく書いていたというのに。
(――ああ、そうだった)
 エルティスは思い出した。母の手紙を読まなくなったのは、その文面がいつしか娘の人生を狂わせたことへの詫びばかりになってきたからだ。
 封書を手に取ると、炭が彼女の白い手にも付いた。エルティスはそれを指でこすって薄くした。
「私は、お母様のようにはならないんだから……」
 意を決して開いた手紙には、しかし、文字はひとつも書かれていなかった。
「え……?」
 エルティスは眉根を寄せると、手紙をひっくり返してみた。しかし、裏側にも何も書かれていない。
「なに――どういうこと……?」
 エルティスは困惑した。母は、書いた手紙を入れ忘れたのだろうか? 間違って白紙を入れてしまったのだろうか?
(……あんな嫌な思いをして、せっかく読もうと思ったのに、何て間の抜けたこと!)
 エルティスは手紙を握りつぶすと、封書とともにくず入れに投げ入れた。そして、すぐに手紙のことは忘れた。彼女には、自分を罠に嵌めたエリーサたちにどうやって報復しようか、そのことを考える方が重要だったのだ。
 しかし、それからしばらくして届いた母の手紙は、気まぐれで開いてみたところ、やはり白紙だった。
「母様……?」
 今回も白紙ということは、前回の白紙も何かの間違いというわけではなかったのだ。では、いつから白紙だったのだろう? なぜ、白紙なのだろうか?
 嫌な予感がして、エルティスはその夜、久方ぶりに母へ手紙を書いた。まず最近の近況を書き、そして送ってもらった手紙を読んでいなかったことを正直に謝った。なぜ、読むのをやめたのかも。そして、白紙の理由を問うた。書いては捨て、捨てては書き、そのおかげでくず入れはいっぱいになってしまったが、寮監が見回りに来る時刻までには、どうにか明かりを消すことができた。
 手紙の返事はすぐに来た。今度は文字が書かれてあったが、やたらと大きな文字なうえ、歪み滲んだひどく見苦しい筆跡だった。見覚えのある母のものではなかったが、内容は確かに母が娘に宛てたものだった。
「………」
 読むに連れ、エルティスの大きな翠玉の瞳に涙が滲んだ。先日とはまったく違う理由で。
「母様……」
 母は、二年も前に事故で両手の指をすべて失っていた。趣味だった刺繍や花いじりができなくなるどころか、普通の生活も送れなくなり、半年近く無気力に暮らし、死のうかとも考えたという。しかし、エルティスのことを思い出した。自分しかエルティスに手紙を送る人間はいないだろうに、半年も音沙汰を断ってしまい、どんなに寂しい思いをさせてしまったことだろう。しかし、筆を持てない彼女には手紙を書くことができなかった。そこで、白紙でもと手紙を送ることにした。返事が来ないのは、《太陽神の巫女》の試験のために忙しいからだと気にしていなかったという。

『――召使いに代筆を頼めばいいのだろうけど、母と娘の会話に他人を入れたくなかったので、白紙で送っていました。貴女には驚かせてしまってごめんなさいね。今日は、せっかく貴女から手紙をもらったのだからと、勇気を出して、筆を口にくわえて書いています。とても見せられない姿なうえ、ひどく読みにくい文字でごめんなさいね。これを機に、もっとちゃんと練習してみようと思います。また手紙を下さいね。それでは』

 読み終えると同時に、エルティスは袖で頬をぐいと拭った。
「母様は本当に、いつも謝ってばかり……」
 白紙の手紙になってから一年半以上も経っているというのに、その間、無視し続けていた娘をなじることもせず、母は自分の不甲斐なさばかりを詫びていた。そんな母の温もりを、いつしかエルティスは思い出していた。いつも自分を守ってくれていた、大好きだった、あの温もりを。
 エルティスは、その手紙を小さく小さく折りたたむと、いつも持ち歩いている小さな巾着の中に入れ、また筆を取った。


 それから数日後の休日、神殿の庭は礼拝にやって来た人々で溢れ返っていた。
「おねえちゃん!」
 エルティスが礼拝の後片付けをしていると、パーシャがルルティアを抱えてやって来た。
「パーシャ。駄目じゃない、ルルティアをこんな場所へ連れてきたりしちゃ」
 エルティスが慌ててルルティアを人目から隠そうとすると、パーシャは明るい笑顔で首を振った。
「あのね、母上がルルティアを飼ってもいいって!」
「え」
「だから、連れて帰ってもいいでしょ!?」
 あの樵小屋でパーシャやルルティアと過ごすかけがえのない時間を失うのは嫌だったが、パーシャの嬉しそうな顔を前にして、そんなことを言えるわけがなかった。そもそも、いよいよ近付いた試験で忙しくなった彼女には、歓迎すべき事態なのだ。
「そう。それはよかったわね、パーシャ」
「うん! おねえちゃん、今まで本当にありがとう」
 そう言うと、パーシャは車寄せの方へと走っていった。それを見送っていたエルティスは、あることに気付いて表情を強張らせた。パーシャが乗ろうとしているのは、見覚えのある馬車だった。その手を取り、馬車に乗せようとしている御者の顔にも見覚えがあった。どっと、身体の力が抜けた。
「パーシャ……」
 それは、エルティスとエルティスの母の人生を狂わせた名だったのだ。パーシャが乗ったのは、エルティスの父の馬車だった。
 我知らず、エルティスは腰元に結わえていた巾着を握りしめていた。
「母様の、あの温もりを奪ったのは……」
 大きな翠玉の瞳に、ゆらりと憎しみの炎が揺れた。

     ***

「それでは、聖都へ出立する」
 大神官ライネルの言葉に、馬車の外の歓声が大きくなった。しかし、エルティスは座席に座ったまま外の様子を見ようともせず、教典に目を落としていた。
「エルティス、自信がないのか」
 席に着いたライネルに問われ、エルティスはくすりと笑った。
「そのようなことは。ただ、見送って欲しい人はここにはおりませんので」
「だからといって、そのように字の小さなものを読んでいると、酔ってしまいますよ」
 同行の女神官にたしなめられ、エルティスは仕方なく教典を綴じようとして、傍らの栞を手に取った。厚紙作りという粗末なものだったが、母がエルティスに贈ってくれた大切なものだ。その表に描かれた濃い緑の葉に、エルティスはそっと口づけた。
「それは、月桂樹の葉?」
 再び女神官がエルティスに声をかけて来、エルティスは頷いた。
「はい、勝利の花です」
 少女の答えに、ライネルはただ目を細めていた。

【 了 】


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